寒いなあ。
あー、今日は本当に寒いなあ。
肩口から首筋にかけて妙にゾワゾワする不快な感覚を、沙紀は意地でも『寒いから』の一点張りで押し通そうとしていた。
間違ったって、『昨日自分が耳にしたのはひょっとして件の”気狂いピアノ”の音だったんじゃないか』なんて思ったりしている訳ではない。
脅えたりなんか、断じてしている訳ではない。
無論、彼女の言を信じればの話だが。

「さて、ここで話は昨日の夜に遡(さかのぼ)る」
「……はあ」
「あの時確かに、我々は夜の校舎に響き渡るピアノの音を耳にした。
 だが、駆け付けた第二音楽室には誰もいなかった。
 外側から鍵をかけるにはマスターキーの束が必要であり、それを我々が保有していたにも関わらず、だ」

鍵と扉と『誰か』とピアノ。
昨日の晩に沙紀の脊髄を恐るべき速度で駆け抜けていった『違和感』の正体とは、まさにその四者が複雑に絡み合って形成されたモノであった。
起こるはずのない事が起っている。
もしそれを可能にするべく事実を湾曲するならば、それは自分の握り締めている何某(なにがし)かの存在にかかっている。
それは、一種の拷問に近い精神的圧迫感であった。
現状は”おかしい”。
だが、”おかしい”事が実際に”起こっている”。
ならば、それは紛れもない現実である。
現実が”そう”であるならば、是正されるべきは思い込みの産物である『自分自身』の方なのではないか?
本当にその鍵は、君が持っていたの?
キミが鍵を渡したその人は、本当にヒトだったの?
今は何時?
ここは何処?
キミの耳に聞こえてきたアの音ハ?
ほんトうにキミは自分が狂ッていナイと言い切レるの?

「――ありえない」
「そうだ。 そんな事は絶対に有り得ない」

半ば朦朧とした状態から紡がれた沙紀の呟きに、力強く相槌を打つ久瀬の声。
一瞬にして我に返った沙紀の視界に飛び込んできたのは、珍しく感情を表に滲ませている久瀬の横顔だった。
固く結ばれた口角。
淀みのない眼光。
確たる物としてそこに存在している彼の立ち姿は、ただそれだけで傍にいる自分の事すらも肯定してくれるような気がする。
色恋沙汰に発展する意味合いなど欠片もないが、沙紀は心の中の『いい顔』フォルダの深層に、彼の横顔を名前をつけて保存した。

「そう、目にした現実が有り得ないと言うのであれば――それは現実の方が間違っているのだ」

や、おまえはなにをいっているんだ。
沙紀は慌てて心の中の『いい顔』フォルダからさっきの横顔を切り取って、『変な人』フォルダの中にそれを貼り付けた。

「沙紀。 お前はこの学校に何台のピアノがあるか、把握しているか?」
「な、なんですかいきなり」
「いいから答えろ。 生徒執行部会書記長、枳殻沙紀」

ぐっ。
いきなり口に出された自分の役職名に、沙紀は思わず舌の根を喉に詰まらせそうになった。
これは単なるクイズなんかじゃない。
戯れに口に出された言葉でもない。
仮にもこの学園に三年間通い、一般生徒よりかは遙かに学園の事に精通していなくてはならない身分として、自分は今問われているのだ。
沙紀の表情から、気後れや脅えと云った雑音【ノイズ】が全て消え失せた。
残ったのは、どこまでも透明で清冽な『彼女』と言う人間の本質部分だけだった。

「第一音楽室に一台。 第二音楽室に一台。 講堂に一台。 体育館――普段は用具室に下げられている一台の、計四台です」
「……そうか。 やはり”お前ですら”知らなかったか」

恐らくは意図的だろう、つい数分前に耳にした物と全く同じ台詞。
既視感などと言う次元を遙かに超越した、まるで目の前の人間がリプレイマシーンになってしまったかの様な感覚。
”それ”をただ一言で表すのならば、その時確かに沙紀を身震いさせたのは、『怖気』と言う言葉以外の何物でもなかった。
だが、二言三言と言の葉を紡ぐ事が許されるのならば。
”それ”は単一色の恐怖ではなく、あらゆる『予測』や『合致』が組み合わさった、非常に複雑なる代物であった。
ほら、また一つ。
もう一つ。
人知を超えて精密に、歪なパーツが音を立てて組み合わされていく。

――かちり

「……まさか」
「お前は実に察しがいい。 だから私も、ついつい饒舌になってしまう」

気狂いピアノ。
夜の校舎に響いた音。
死んだ『彼女』。
旧校舎。
唐突に尋ねられた学園に存在するピアノの数。
毟り取られた白鍵盤。
誰も居なかった第二音楽室。
魔王。
そのイントロで狂った様に叩かれるのは――

「存在(ある)らしいぞ……この学園にはまだ、件の【気狂いピアノ】がな」

沙紀は、割と本気で転校を考えた。