この学園の生徒会は、他校に類を見ないほど強力な権限を持っている。
しかしそれはあくまで『生徒として』の範疇で語られる類の物であり、それが『教師として』の領域を侵したりする事は非常に稀であった。
何故なら、学園を統治するに相応しい『優秀な生徒』は、その性情が優秀であるからこそ、三年きっかりで学園を去っていくからである。
しかもその三年間の中で、実質的に生徒会役員として学園自治に関わっていられる期間など、ほんの僅かな物でしかない。
例えどれだけ綿密な引継ぎ作業に時間を費やそうとも。
どれだけ一枚岩と化した生徒会であろうとも。
世代交代に伴う情報伝達の齟齬、認識の差異、情勢の変化等は免れうる性質の物ではない。
結果として『生徒会』とは、恒久的な学園体制の維持存続には適していないと言う結論に達するより他に無かった。
対して、私立であるこの学園では、教師陣の在籍期間は驚くほど長い。
生き字引と呼ばれるまでの存在まではさすがに表れていないが、それでも大抵の教師が学園について生徒よりも遙かに詳しい。
これはもう能力の多寡がどうと言う問題ではなく、一種の住み分けに近い物であった。
生徒会は『先』を見据えて『今』を改善する事に集中すればいい。
教師陣は肥沃なる『過去』の先例に学びながら、『今』を堅持すればいい。
刹那的な欲求と恒久的な管理とを上手に扱い分けているこの学園は、そうやって今日も多方面から高い評価を得ているのであった。

「自分の目で確かめてみるか?」
「……これは?」
「最新の学園備品録だ。 付箋の付いている場所を見てみろ」

久瀬が来客用のテーブルに投げて遣したのは、藍色の装丁が成された分厚い冊子だった。
とりあえず頭からパラパラと捲って見ると、そこには細かな字で『S.61 6号椅子 3 KS6 現』などと言った目録がずらーっと書き連ねられていた。
なるほど、これは記号からしてよく判らない。
瞬時に『読んでいて面白い類の本ではない』と云う事を理解した沙紀は、言われた通りに付箋の付けられているページを開いた。
そして、彼女はそこで深く息を飲んだ。

「グランドピアノ……五台ある…」
「知らないのも無理はない。
 そもそも備品管理は私達の管轄ではない上に、現状使用されていない物に関しては問い合わせすら来る事がないからな」

それに加えて。
誰かが生徒会に『ピアノの使用許可を頂きたい』と申し込んでくる場合は、大抵が『何日の何時から何所のピアノを何時間に渡って使いたい』と言う明確な要求を持参してくる。
間違ったって『この学園に余っているピアノはありませんか』なんて、曖昧な形では申し込んでこない。
何故なら、後者の様な形で話を持ってきた場合。
我らが久瀬会長様は驚くほど冷やかな視線で、『知った事か。 我々はそこまで暇ではない』と言う究極呪文を炸裂させてしまうからである。
ちなみにこの呪文は相手を瞬時に凍り付かせてしまう対人最終交渉決裂呪文であり、使用に関しては沙紀から厳しい制限が設けられている。
と、それはさておき。

「私も迂闊だった……前情報と深夜の雰囲気に飲まれ、『ピアノの音がしたのだから犯人はピアノと同じ場所にいる』と思い込んでしまっていた。
 そして、位置関係上から『あの場にはピアノは一台しか存在していない』と勝手に決め付けて、捜査の手をそこで止めてしまった」

昨晩の失態を思い返し、苦々しく眉間に皺を寄せる久瀬。
そこに至ってようやく沙紀は、久瀬の言っていた言葉の意味を正しく理解した。
『目にした現実が有り得ないと言うのであれば――それは現実の方が間違っている』
事実、彼らが認識していた『現実』は間違っていた。
ピアノは、もう一台あった。
そりゃ結果的に言えば彼の論法が正しい事が証明された訳だけれど、沙紀は何だかとても理不尽な現実に見舞われた気分になっていた。

信じられない事態に遭遇した時。
沙紀は、『自分』を疑った。
しかし久瀬は、『事実』を否定した。
根本的な部分では両者共が『自らの認識』に対して疑問符を抱いた訳なのに、何故か久瀬だけが前を向いて突き進んでいるように見えてしまう。
沙紀は、それが悔しくてしょうがなかった。
同じ様に昨夜の失態を悔いる様一つをとってみても、彼の”それ”はとても力強く高潔で、事態の解決に向けて歩みを止めない意志の表れに見えてしまう。
自分の中に誕生した『後悔魔人ジコケンオー』を退治するのに、沙紀はとてもとても苦労した。

「ああ、それと」
「はい?」
「こっちも読んでおくか?」
「……何ですか、この妙におどろおどろしい小冊子は」
「十年以上前に当時のオカ研と文芸部が結託して作った、学園妖異譚だ。 良い出来だぞ。 今の文芸部員にも見習わせたいくらいだ」
「ひょっとして、【気狂いピアノ】の話って」
「ああ、これの受け売りだ。 どちらかと言えば怪談よりもルポルタージュに近い構成だったのでな、参考にさせてもらった」
「……会長、正気ですか?」
「ん?」
「こんなの、今流れてる噂話よりも格段に胡散臭いじゃないですか」
「信憑性の問題か……まあ、お前なら突っ込んでくるんじゃないかとは思っていたが…」

久瀬の口振りが、微妙に変化した。
それは、沙紀の知る限りではかなり深刻な問題を話す時の雰囲気だった。
もう何度目になるかも判らないけれど、沙紀は嫌な予感に心を鷲掴みにされた。

「これを、見てもらおうか」

差し出されたのは、印刷の荒い複数枚の藁半紙だった。