「これ……当時の新聞ですか?」
「コピーだがな」
「華北(かほく)新報に……北窓(ほくそう)日報。 それに不来方(こずかた)新聞ですか」

見事なまでに地方紙ばっかりだなあ、と沙紀は思った。

「事件が起こったのが『昭和58年のとある夏の暑い日』だと学園妖異譚に明記されているから、絞り込みは意外と簡単だったな」
「意外と楽で……この分量ですか」

最初に渡された数枚の藁半紙で終わりかと思いきや、次から次に机の上に積まれていく追加プリント。
そろそろ鈍器として人を殴り殺せるレベルにまで達するかもしれない。
仕事柄、大量の書類に囲まれる事は慣れっこである沙紀だったが、流石にその分量には辟易せざるを得なかった。
そりゃ、朝までかかる訳ですよ。

「会長はこれ、全部読んだんですか?」
「欲しているのが情報である以上、読まなければ仕方があるまい」
「うえー……」
「別にお前にも全てを読めとは言っている訳ではない。
 ただ、学園妖異譚だけでは信憑性に欠けると言うから、一次資料も用意してあると提示して見せただけだ」

でも、「信憑性に欠ける」と言ったのは私だから、やっぱり読まなきゃ悪い気がするじゃないですか。
律儀なのか融通が利かないのか、それとも単純に両方なのか。
読まなくても良いと言われた華北新報の見出しだけを無言で斜め読みしつつ、七月から九月分までを一気に読み終えた後で、沙紀はとある異変に気が付いた。
まさか見逃したのかと思い、逆から読んでみる。
それでも見つからなかったので、今度はまた頭から読んでみる。
しかし、上から読んでも下から読んでもちょっと角度を付けて斜め四十五度から読んでみても、そこには『あるべきはずの記事』が存在していなかった。

「会長?」
「ほら、今度はこっちを探してみろ」

沙紀の疑問符には答えず、新たな紙の束を視線だけで指し示してみせる久瀬。
その行為自体が既に一種の返答になっていた事に気付きながらも、沙紀は黙って久瀬の指示に従う事にした。
会長のなさる事に、意味が無かった例(ためし)は一度も無い。
迷いのない瞳でコピー紙を捲り始めた沙紀を見て、久瀬は苦笑しながら二人分のコーヒーを用意し始めた。
この調子だと、言われずとも残りの一紙にも隈(くま)なく目を通すだろう。
そしてそれだけの時間があれば、グアテマラ種を豆から挽いて淹れられるだろう。
会長室秘蔵のコーヒー豆、グァテマラ・ジェニュイン・アンティグアのハイロースト。
酸味や苦味だけが突出する事無く見事なバランスを保っているこの豆は、コーヒー嫌いの沙紀が唯一「おいしい」と認めてくれた逸品である。
勿論、彼女が口にするのはミルクも砂糖もアリアリの物なのだが、それを指摘するのは如何なコーヒー党とて野暮に過ぎると言うものだった。
美味しいと言ってくれるのあれば、飲み方なんかは好きにするがいい。
そんな風に思いながら戸棚を漁る久瀬の表情は、一般生徒が目にしたら色んな意味で卒倒してしまいそうなくらい、実に柔らかで優しげな雰囲気を醸していた。
沙紀がそれを目にする事ができなかったのは、恐らく不幸な出来事であった。

「うー……目が痛いです…」
「ん、読み終わったか。 ご苦労だったな。 結果はどうだった?」
「全滅です。 ピアノのピの字もありませんでした」
「流石にピの字くらいはあっただろう」
「うっさいです」
「悪かった。 ほら、コーヒーだ」

眼底疲労と精神疲労がダブルインパクトで気の立っている沙紀の前に、コト――と湯気の立つカップが置かれる。
艶かしい白を携えるマイセンと、優しく淹れられたコーヒーの黒の対比が、とても美しかった。
そのどちらもが平時に使用される物ではない事を知っていた沙紀は、おまけにミルクと砂糖まで丁寧に用意されていた事に気付き、酷くうろたえた。
うわ、これ確かすっごい高いヤツだったはずなんですけど。

「あ、うあ……い、いいんですか?」
「秘密だぞ」

何しろこの超高級豆、予算会計上の名目は『接待費』に分類される。
つまり、他校の生徒会との『文化的交流』等が行われる際に振舞うべくして購入されている訳で、決して自分達で楽しむために購入している訳ではない。
そんなこんなで、大っぴらに楽しむ訳にもいかなければ、コソコソしたって好き放題にできる訳でもないこの逸品。
まさか自分が。
まさかこんなにも私的な状況で。
まさか会長手ずから淹れて貰えるとは露とも思ってもいなかった沙紀だったから、多少の混乱ぐらいは詮無き事態なのかもしれなかった。
あと。
本人は何の気なしに口にしただけなのだろうけど、久瀬の囁く様な「秘密だぞ」って一言は、確実に沙紀の心の平静をぶち壊していた。

「さて……そろそろ落ち着いたか?」
「ふえ? え、あ、いや、まあ…」
「……大丈夫か?」
「だっ、大丈夫ですともさ」

何か変な日本語だった。
が、久瀬は華麗にスルーを決め込んだ。
生徒会長必殺奥義、『軽く流すこと川の如し』である。

「この地区に根差した記事を売りとしている三つの地方紙が、揃って『彼女』の事を書いていない。 お前ならこれをどう読み解く?」
「……そんな事件は、そもそも存在していなかった」
「正論だな。 だが面白くはない」
「面白い回答が欲しいなら、どうぞ落研(落語研究会)にでも足を運んでください」
「たかが高校生の部活如きとは言え、当時の文芸部はその冊子の中でハッキリと『昭和58年の夏』と書いている。 それについてはどう考える?」
「……作り話にリアリティを持たせるため、実際の場所や時期を明言する手法は、古今の文筆家の間では常套手段です。 恐らくはその類かと」
「では、この学校に実際に存在している『使われない五台目のピアノ』に関しては?」
「………順序が、逆だった。
 怪談の証拠としてピアノが存在しているのではなく、使われていないピアノが存在している所から怪談が捏造されたと考えれば、辻褄が合います」
「完璧だ」

久瀬はそう言って、笑顔を見せた。
とてもとても浅薄な、悲痛に喘ぐような笑顔を見せた。

「あの日の夏も、きっと同じ様に過ぎて行ったのだろう――」

それは、沙紀の目には泣いている様にも見えた。