「なあ、沙紀」
「何ですか」
「……何を不機嫌になってるんだ?」
「別に、不機嫌になんかなってません」

ぷいす。
明後日の方向を向きながら、つっけんどんな態度しか見せようとしない沙紀。
『なんて説得力の無い台詞だろう』と久瀬は思ったが、今はそれよりも口にしなくてはならない事があったので、そちらを優先する事にした。

「幽霊に、ピアノは必要か?」

腕組みをし、呆れたような表情で言葉を吐き捨てる久瀬。
あまりに唐突に彼の口から「幽霊」なんて単語が飛び出してきたせいで、流石の沙紀も即座に返答する事ができなかった。
そして、久瀬が言わんとしている事についてもまた、正確な所がイマイチ把握しきれなかった。

「……はい?」
「お前の頭の中に存在している幽霊は、『ピアノの音』を出すのに実際のピアノを弾く必要があるのかどうかと訊いているんだ」

あ、頭の中って何ですか!
不用意な久瀬の言葉にガブッと噛み付こうとした沙紀は、しかしそれを強靭な精神力で押し止める事に成功した。
落ち着け、私。
途中経過がどうであれ、ミスリードをしたのは私の方だ。
会長の論旨は恐らく、私の思考とは別の所で焦点を結んでいる。
そしてその一点に対しては間違いなく、一切の矛盾を孕んでいないに違いない。
だけど、矛盾なく構築されているのが彼の論理の筋道ならば、私が今からそれを辿るのも決して不可能ではないはずなのだ。

「……全国に数多散らばっている怪談の類に登場する幽霊の話であれば、答えは『はい』です」
「この学園に限定しての話なら?」

『彼女』が毟り取ったと言う白鍵盤。
唐突に音が出なくなったと言う一つの弦。
夜の学園で偏執的に叩かれる、『魔王』のイントロに用いられている
”それ”。
全てが同じ部分を指しているのだとしたら、その答えは――

「『いいえ』、です。
 少なくとも例の【気狂いピアノ】が関連しているのであれば、『鳴らない筈の音が鳴る』と言う意味でもって幽霊騒動と位置付けるべきかと」
「ああ、そうだ。 実にまったくその通りだ」

手放しの肯定。
物凄い胡散臭さを感じる。
「馬鹿にしているのか」と沙紀が可愛い八重歯を剥き出しにして威嚇しようとした、まさにその時。

「幽霊が犯人であれば、其処にピアノの有無など関係ない。 やはり正確に理解できているのではないか、お前は」

気が付けば、沙紀は知らぬ間に『正解』の位置に立っていた。
『自分は既に其処に辿り着いていたのだ』と云う事を、久瀬の言葉によって気付かされていた。

犯人は人間だ。
人間だからこそ、音を出すのにピアノを必要とした。
だが、第二音楽室に存在していたピアノの傍には誰も居なかった。
それはつまり、『誰かが傍に居て音を鳴らしていたピアノが他に存在している』と云う事に他ならない。
そう、あくまで久瀬の中における昨晩の問題点は、『人が居なかった』のではなく『ピアノが存在しなかった』なのであった

だからこそ久瀬は夜半の学園に舞い戻り、徹夜で資料を漁りまくった。
実に単純な三段論法の果てに導き出された『ピアノはもう一台ある』と言う結論を、彼は微塵も疑ったりはしなかった。
結果、『存在しなかった』ピアノは発見された。
副産物として過去の様々な情報まで発掘されたが、それもまた『五台目のピアノがある』と云う憶測を脇から固める補強材としかならなかった。
ようやくコレで、何の問題もなくなった。
在るべき物が確かに在ると確認できた今、後は為すべき事を粛々と執り行うだけである。

「私は幽霊など信じていない。 それは、昨日の夜にも言っておいたはずだ」

久瀬の信念に、揺るぎはなかった。
例えどんな理不尽な現状に見舞われようと、彼は徹頭徹尾『犯人は人間だ』と云うスタンスを崩してはいなかった。
それを頑固と取るか強固な意志と取るかは、観察する者の自由であるのだが。

「……頑固者」
「何か言ったか?」
「何でもございません」

とりあえず。
呆れたような言葉とは裏腹に、沙紀の表情は久瀬に対する確かな信頼で彩られていた。