その日の放課後。
生徒間では『芸術棟』と呼ばれてる旧校舎の廊下を、一人の男子生徒が歩いていた。
片手には木刀。
もう片方の手には、暇潰しと雑務処理を兼ねるために用意された多数の書類。
暴力的なのか理知的なのかよく判らない装備だが、そこに突っ込みを入れられるような勇気ある生徒は存在しなかった。
少なくとも、この旧校舎には、ただの一人もである。
彼は今、間違いなくこの学園で最も近寄りがたい存在と成り果てている。
事実、彼と擦れ違う生徒はそのことごとくが、壁に背中を張り付ける様にして道を空けている。
これが部外者や不良と呼ばれる類の生徒の所業であったならば、ほぼ確実に職員室か生徒会室に通報が入っているレベルだった。
だが、今回に限ってそれは有り得なかった。
何故なら木刀を片手に旧校舎を歩いている目付きの悪い彼こそが、本来ならば通報を受けて立ち上がるべきサイドの人間だからである。

学園の秩序を守るため。
真面目な生徒を護るため。
皆の平和な日常を脅かす、頭のネジの吹っ飛んだピアノ好きのド変態を駆逐するために。
華音学園第十三代生徒執行部会、会長。
重すぎる責任感と唐紅の斜陽を背負い、雪辱の出陣である。

「生徒会だ。 悪いが、今日の活動はここまでにしてくれないか」
「どっ…あわっ……な、何か私達が失礼な事でもいたしましたでありますか…?」

だが、その信念や理想がいくら高潔な物だったからとは言え、やはり見た目が怖い事だけは如何ともし難かったようである。
木刀。
悋気。
笑顔の欠片も見えない”あの”生徒会長。
怖がるなと言う方に最早無理が生じる具合である。
事実、久瀬が第二音楽室の扉を開け、有無を言わさぬためにやや高圧的に言葉を紡いだ時。
中に残っていた吹奏楽部員の女子数名は、驚くべき勢いでベランダ側の壁際まで後ずさったくらいであった。

まるでお役人の前に引き立てられた無辜の村人みたいな反応だ。
感情のこもらない瞳で現状を分析した久瀬は、それが単なる喩えでは済まない事に気付き、自らの配慮の無さに酷く落胆した。
いくら『これから』に向けて気が張り詰めていたとは言え、あの言い方はなかっただろう。
これだから自分の周りには他者との軋轢が耐えないのだと、彼は疲れた脳内で五回ほど自分の事を罵倒しておいた。
無論、何も変わらなかった。
ちなみに。
彼女達の脅えた視線は主に木刀の存在に向けられていたのだが、その事に彼は最後まで気が付かなかった。

「いや、すまない。 別に君達に落度があっての事ではないんだ」
「あ、いえ、そんな……」

思いもかけず腰の低い態度を取られてしまった事で、逆にうろたえてしまう吹奏楽部員の女子数名。
どうやら彼女達もまたイメージの中の久瀬しか知らなかったらしく、実際の彼とのギャップに対応し切れていないようだった。
冷徹、冷酷、倣岸、不遜。
久瀬を『会長』としてしか認識していない生徒が彼に抱いているイメージとは、おそよ大体がそんな物である。
もしもここに吹奏楽部部長兼、久瀬と旧知の仲である依桷(いすみ)さんでも居てくれたのなら、話はまた違う方向に転がっていったのだが。
生憎この世界は久瀬にとっても、そんなに優しくはできていないようだった。

「そ、それじゃあ私達はこれで失礼しますっ」
「………」

言うが早いか、一陣の風となって音楽室を飛び出していく吹奏楽部員。
文字通り『逃げ出していく』その後姿を眺めながら、久瀬は誰にも聞こえない音量で小さな溜息を吐いた。
吐く。
吐き出す。
懸念も、反省も、人としての『温度』も、一切合財を肺腑の奥から叩き出す。
そうしてたっぷり十数秒の後に出来上がったのは、全ての未来に対して『覚悟』を完了させた、一人の執行人の姿であった。

口角を真一文字に結び、第二音楽室の隅を見遣る。
グランドピアノとは対角線の場所。
古めかしいLDプレーヤーの脇。
そこには、二人と並んで通れないほど間口の狭い、古びた一つの扉があった。

普段から鍵をかけて硬く閉ざされており、吹奏楽部員ですら滅多に足を踏み入れる事のない、校舎内でありながらも不来方(こずかた)の一角。

「失念……と言うよりも、存在すら把握していなかったな」

外に繋がる扉が存在していないため、廊下側からそのスペースを認識する事はできない。
旧校舎にはテラスと云う物が存在していないため、外側から侵入する事もほぼ不可能。
ここまで来ると何の為に作ったのかも疑問に思えてくる様な怪しい閉鎖空間こそ、久瀬の目の前に在る『第二音楽準備室』であった。