「……これは酷いな」

呟くように発した声ですら、周囲に堆積しているホコリを舞い上げてしまいかねない。
なるたけ深い呼吸をしないように心掛けながら、久瀬はぐるりと第二音楽準備室の中を見回した。
脚のひしゃげた机、色褪せた楽譜、詰まれたダンボールの脇から顔を覗かせている万国旗。
それから、大量のホコリ、ほこり、埃。
ついカッとなって環境整備委の査問会を開きかけた久瀬だったが、よくよく考えればこの部屋の存在を把握していなかったのは、自分たち生徒会も同じ事であった。
特に隠蔽されていた訳でもない。
事実、興味を持って調べれば易とも簡単にこの教室の存在に辿り着く事ができた。
だが、それは逆に『興味を持たなければ卒業まで知らずに居続けられる』と言う状況を何者かが配備していたのではないかと、久瀬はまたそこで暗鬼に心を捕らわれた。

幽霊騒動が起こるのはいい。
別に推奨する訳ではないが、何しろ此処は年頃の男女が数百人単位で日々集っているような場所なのだ。
根も葉もない噂話に羽が生えようが角が生えようが、それはむしろ健全な精神活動の現れとも云えるだろう。
それに、いくら騒がれたとしても、どうせ七十五日もすれば息絶えてしまう程度の、脆弱な作り話【ストーリー】の類だ。
およそ生徒の日常生活に実害をもたらしてくる様な、例を挙げるとすれば『口裂け女』の様な、強烈無比な都市伝説【フォークロア】とは格が違う。
そう、だから『ただの幽霊騒動』で事が片付いてくれるのであれば、それが一番良い結末だったはずなのに――

久瀬は今、ある問題を抱えていた。
それは幽霊騒動に端を発しているにも関わらず、本質的な部分で幽霊の存在とは全く逆ベクトルの問題であった。
ピアノの音とか、魔王とか、そんな事はどうでもいい。

今回のケースで問題とされるべきなのは、『何故それが過去に起こった事故と異常なまでの統合性を誇っているのか』である。

荒唐無稽な噂話ならいい。
根も葉もなければ養分も得られないのだ、生まれた噂には緩慢に朽ちていくだけしか選択肢は残されていない。
だが、今この学園に蔓延っている幽霊騒動は違った。
『過去に起こった事実』としての太すぎる根と、『現実に怪異が起こっている』と云う広すぎる葉が同時に備わっていた。
放っておけば際限無く増殖して学園を取り込み、何でもない些細な事件や事故までもが【気狂いピアノ】の仕業にされかねない。
そうなってしまったら幽霊騒ぎは完全な都市伝説【フォークロア】となってしまい、今後数年間は全く手の付けられない厄介な代物となってしまう。

そして何より不思議な事は、それだけの危険度の根拠となっている『昭和58年の夏』が、一般生徒の間でまるで話題にされていない事だった。

沙紀ですら事件の存在を知らなかった。
それどころか、オカルトじみた名前を付けられたピアノが存在している事すら知らなかった。
沙紀の反応を全ての根拠とするには多少頼りないが、それでもおおよその所で間違いはないだろう。
彼等(もしくは彼女達)は、過去の事件とは全く無関係の代物として、今回の幽霊騒動を新たな怪異として受け取っている。
つまりこの怪異譚の最も奇妙な所は、『人々の知り得る情報が現象から原因へと遡ろうとしている』と言う、その一点に尽きるのであった。

興味を持って調べれば、誰もが簡単に過去の事件に辿り着けるだろう。
だが実際には、何も知らずに三年間を過ごして卒業する人間がほとんどである。
事実、久瀬もその中の一人だった。
今回のような騒動でもなければ、彼もまた一般生徒と同じ様な顔をして、何も知らずに卒業していったのだろう。
文芸部の遺物を穿り返す事も、新聞社のデータベースにアクセスする事もなく。
『昭和58年の夏』にあった出来事の、何一つすらも知らないままに。

今回のような、騒動でもなければ――?

「……誰の目論見かは知らんが、”それ”が狙いか」

幽霊騒動を起爆剤として、過去の事件に目を向けさせる。
通常とは逆のルートで真実を知る事となった生徒の動揺は、一概には計り知れないものがあるだろう。
なるほど、確かに学園を混乱させるには良い計画だ。
混乱するのが学園や生徒だけで済むのなら、むしろ僥倖とすら呼べるくらいである。
今の世相を鑑みれば、事故の起こったピアノを未だ保有している学園に対し、保護者側の一つや二つが開催されても決しておかしくはない。
まして我々は、二代三代に渡る伝統など望むべくもない私立(わたくしりつ)の新参校。
巷間に悪しき風評が流れる事は、学園の存亡に直結する。
それが判っていたからこそ自分の祖父は、『昭和58年の夏』を『なかったこと』にした。
そして、『それ』が判っていたからこそ今回の一件の犯人は――
だとすれば、それによって利を得る人間を洗い出す事で、真犯人の足元に近付く事が――

「――下らん、な」

下手の考え休むに似たり。
下衆の勘繰りに至っては、愚劣な先入観で心身を縛る悪癖でしかない。
憶測に憶測を重ねた不安定な思考を嫌い、久瀬は小さく言葉を吐き捨てた。
彼の吐息は凍りついた準備室の空気を溶かし、僅かな風となって堆積していた埃を揺り動かした。

どうせあと数時間後には、何もかもが判然とする。
”そう”するためにこそ、自分は此処にいる。
久瀬は自身が携えている木刀の柄を、今一度きつく握り締めた。
生徒会長である自分のするべき事は、ただ一つ。
『学園の平和を乱すモノを討ち取る』と云う、たったそれだけのシンプルな物でしかないのだから。
訪れてもいない未来を危惧したり、定かでもない策謀に心を乱したりするほど、私はこう見えて暇ではない。
誰にとっても優しくない『真実』を知る事で、皆が不安を覚えると言うのであれば。
例え偽りであったとしても、それを『最初からなかった事』にしてやるのが、上に立つ者としての責務なのではないだろうか。

――それとも、この学園の皆に知ってもらう事こそが、闇から闇に葬り去られた貴女の願いなのですか?

いつになく、柔らかく細められた久瀬の視線の先。
たった一つしかない窓から射し込む西日によって、黄金色に切り取られた平行四辺形の中。
もう何年も人の手に晒されていないのだろう、酷く古めかしいグランドピアノが、まるで少女の様にちんまりと佇んでいた。