時は、早朝に遡る。

何だかんだと情報をこねくり回した挙句、結局は一周しちゃって『犯人は人間だー』とか断言されてしまった会長室のど真ん中。
それじゃあ放課後に向けて色々準備しなくちゃいけないなーとか考えていた沙紀に対し、久瀬は実に冷ややかな視線と共にこう告げた。

「ああ、それから。 今日から少なくとも三日間は幽霊騒動は放置するつもりでいるから、お前もあまり騒ぎ立てないように」
「……え?」
「教室や廊下で何か尋ねられたら、全ては会長の判断に一任してあると言え。 間違っても、調査中とか云う言葉は使うなよ」
「ちょ、まっ、何ですかそれっ」

出鼻を挫かれるどころの話ではない。
鋼鉄製のパイルバンカーで、鼻っ面が陥没するほど思い切り殴り飛ばされた気分だ。
全身全霊で「納得いきません」的なオーラを発しながら、沙紀は思わず来客用のソファから腰を浮かしかけた。
だが、

「落ち着け」
「うぎゅっ」

久瀬はその瞬間を見計らっていたかの様な完璧なタイミングで、沙紀のおでこに華麗な『でこつん』を喰らわせた。
指先一つであっけなくダウン(しりもち)を奪われた沙紀は、何だか判らないけど凄く負けた様な気分になったので、ギッとした目付きで久瀬の事を睨み付けた。
当然、スルーされた。

「初日で捕縛できなかったのは、確かに私の失態だ。 そこを責めたければ、幾らでも罵倒するといい」
「べ、別に会長を罵倒したい訳ではありません。 ただ、いたずらに時を経過させようとなさっている事に納得がいかないだけです」
「事を自らの身に置き換えてみろ。 昨夜あれだけ犯行現場に肉薄された犯人が、昨日の今日で同じ場所に舞い戻ってくると思うか?」
「……それは…そうですけども」
「無論、時を置かずに騒動が再燃する様であれば、今度は生徒会として本腰を入れる。
 だが、万が一このまま事態が沈静化すると云うのであれば、それに越した事など他にないのだ。 この理屈、判らぬお前ではないだろう」

学園を巨木に喩えるとするならば、生徒会とはその幹でなくてはならない。
それは、いつかの放課後に久瀬がぽつりと零した事のある、彼にしてはとても抽象的な一枚の言の葉だった。
如何なる暴風に耐え得る巌(いわお)の様な頑健さは、時に不測の事態に対する柔軟性のなさを露呈する事もあるけれど。
それでも、幹が揺れれば枝は震える。
枝が震えれば、木の葉は千々に乱れ飛ぶ。
例えそれがほんの僅かな身動(みじろ)ぎであったとしても、『生徒会』が揺れると云う事は、つまりは”そう”云う事なのだ。

「判りました……軽率な行動は慎みます」

元気なく呟いて、しょんぼりと俯いてしまう沙紀。
何もそんな顔をさせたかった訳ではないのにと、久瀬は内心とても苦悩していた。

別にお前が悪い訳ではない。
生徒会書記長としての枳殻沙紀に、不満を感じた事など一度も無い。
仕事は速いし正確だ。
ネゴシエーション能力にも非常に長けている。
そこに居るだけで場の雰囲気を和ませてくれるし、細かな気配りも一級品だ。
本当にこの書記長ときたら、何処に出しても恥ずかしくないくらいの良くできた女の娘で――

――そう、たとえどんなに有能だったとしても、それ以前にお前はやはり、一人のか弱い『女の娘』なのだ

昨日の夜。
廊下で倒れている沙紀を目にした時の、あの全身から一気に血の気が引いていく感覚を、久瀬はきっと生涯忘れないだろう。

呼び慣れているはずの少女の名を、まるでそれが生まれて初めてであるかのように必死に叫び。
僅か数十メートルの距離を駆け寄るだけの間に、三度も脚を縺れさせて転びかけると云う失態を演じ。
沙紀の呼吸を確かめる事ができた瞬間などは、彼女の身体を強く優しく抱きしめると言う所業までやらかした。

――昨夜のアレは、私の人生史に大きく傷跡を残す失態だった

夜で良かった、と思う。
他に誰もいなくて良かった、と思う。
今となっては沙紀の意識がなくて良かったとさえ思ってしまうくらい、久瀬は自分の我を忘れた行動を恥じていた。
だが、そこで布団に頭を突っ込んで足をジタバタさせたりしない辺りが、流石の生徒執行部会会長様である。
彼は布団に(中略)ジタバタさせない代わりに、徹夜で資料漁りをする責務を自らに科す事で、心身の均衡を保つ事にしたのであった。

そして、一晩を掛けて久瀬は決意した。
そもそもが最初から自分は”そう”しようとしていた事を思い出し、今度はそこに絶対の意志を付加させた。
恐らく真相を知れば、沙紀は自分の事を散々に罵倒するだろう。
あるいは信頼を裏切った身勝手な会長の事を、もう二度と『会長』とは呼んでくれなくなるかもしれない。
軽く想像してみるだけで、それは思いもかけず峻烈な痛みを齎す未来だった。
だが、自らの痛みを恐れて『誰か』を危険に晒すだなんて決断をしたら、それこそ自分は二度と彼女に笑いかけてもらえないだろうと久瀬は確信していた。

だから、自分は彼女を騙す。
夜の校舎に残る必要はないと、真摯な瞳で嘘を吐く。
「除け者扱いされるのは不愉快だ」と笑いながら言ってくれたお前を、今度は本当に怒らせてしまう結果になるかも知れないけれど。

――恐怖のあまりに失神させるなど、この私が、二度と許したりするものか

久瀬の眉間に、深い皺が刻まれた。