ここが『音楽準備室』として使われていたのは、一体どれくらい前の時代までなのだろう。
あまりに乱雑な部屋の中を見渡した久瀬の脳内で、そんな疑問が走ったり転んだりその勢いで回転レシーブを放ったりしていた。
ふと、手に届く範囲にある色褪せた紙製バインダーを手に取ってみる。
埃を吸わない様に息を止めながら表紙を捲ってみれば、一番新しく閉じられたらしきプリントでさえ、平成の元号が使われてはいなかった。
更に続けて二枚目、三枚目と目を通してみる。
どうやらこのバインダーの持ち主はかなり几帳面な性格だったらしい。
そこには閉じておくに値しない落書きの様な紙切れまでもが、丁寧に角を合わせて保存してあった。
まだルーズリーフが一般的ではなかった時代。
切り取られたノートの一枚一枚に、パンチを穴を開けていたあの頃。
ほんの僅かな期間だが自分にもそんな経験がある事を思い出し、久瀬はようやく準備室の中の空気を『今』と繋げる事ができた気がしていた。

何しろこの空間は、外の世界と隔絶されすぎている。
カーテンすらかかっていない窓から見える景色は、どこか出来の悪い作り物の様で、何故だか酷くうそ寒い。
ついうっかりすれば時間の感覚すら失くしてしまいそうな静寂の中。
拠り所無しに心身の均衡を保ち続けるのは、口で言うほど平易な事ではない。
特に閉所恐怖症の嫌いがある訳ではない久瀬だったが、流石にここの閉塞感には息の詰まる思いを感ぜずにはいられなかった。

つかつかと窓に近付き、鍵を開けて一気に右へとスライドさせる。
まだ夕暮れにも満たない夏の午後が、乾いた土の香りと共に室内へと流れ込む。
教室自体が風の吹き抜けるべき出口を持たない造りである故に、その大気の流れは非常に緩慢なものであったが。
それでも。
年月と共に堆積してきた鈍重な気配が徐々に薄らいでいくのを肌で感じるのは、久瀬にとってそんなに悪くない一瞬として捉えられていた。

――あとは、持久戦だな

長ければ五時間程度。
短くても今から三時間くらいの間は、自分はこの教室から身動き一つ取れなくなる。
今が冬でなくて良かったと、久瀬は心の底からそう思っていた。

『今日から少なくとも三日間は幽霊騒動は放置するつもり』
『昨夜あれだけ犯行現場に肉薄された犯人が、昨日の今日で同じ場所に舞い戻ってくると思うか』
『万が一このまま事態が沈静化すると云うのであれば、それに越した事など他にない』

何もかも、久瀬の真っ赤な嘘だった。
全ては沙紀の身の安全を守るための、一世一代の大嘘だった。
静観するつもりも、放置するつもりも全く無い。
現に今こうして彼は第二音楽準備室に足を運び、少なくとも夜半過ぎまではここで時を過ごそうと心に決めている。
だが、それでもやはり根本的に、今回の一件は気乗りのしない任務なのだろう。
分別ある生徒会長が携えるには余りに暴力的な木刀と云う凶器の存在が、彼の『事態の早期解決を望む心情』を如実に顕(あら)わしていた。

古めかしい、グランドピアノ。
もう何年も使われていないのだろう、埃を被って所在無さげに立ち尽くしている。
まるで『彼女』その物に触れるかの様に優しく鍵盤蓋を開けた久瀬は、整然と並んだ艶かしい白にそっと指を這わせた。
和音に装飾されない、簡素なメロディラインのみで奏でられる、CarpentersのYesterday once more.
幼い頃に家庭教師に叩き込まれた音楽教本【バイエル】なんかこれっぽっちも覚えてはいないのに、この曲なら楽譜を見ずともそらで弾ける。
どんなに狂った調律が展開されるのと思いきや、鼓膜を揺らす硬質な『音』の連続は、意外にもちゃんとした『音楽』の体を成していた。
その事に気を良くしたのか、久瀬の表情が少しだけ穏やかになる。
単音の連続でしかなかった弾き方が、少しだけ滑らかに各個を繋ぎ合わせる様になる。
しかし、それが本格的な演奏になる直前。
たった一度の単純なミスによって音の流れは一気に断絶され、辺りにはまた静寂が舞い戻った。

「……やはり、私には向いていない様だな」
「そんな事ないですよ。 お上手だったではありませんか、会長」
「うおおおおおおっ!?」

バビローン!
ズガッターン!
バサバサバサー!

――スコーン

上から順に。
驚いた久瀬が鍵盤に思い切り手を付いた事による、調子っ外れなピアノの音。
ついでに足に引っかかったピアノの椅子が、豪快にすっ転がって響いた音。
飛び退いた勢いそのままに棚に背中を強打した久瀬が、上から降ってきたファイルや冊子やバインダーの総攻撃を喰らった音。
そして、一拍の間を置いてから転がってきた油性マーカーが、見事なまでに彼の脳天を打ち抜いた音である。
突如訪れた一連の騒動をあえて言葉で表すなら、「静寂ってどこの国の言葉かね」ってなくらいの勢いだった。

「え、そんなに驚くとこ?」

まるで化け物にでも遭遇したかの様な反応を示す久瀬に対し、若干引き気味で訊ねてみたりするお茶目な生徒会書記長、枳殻沙紀。
笑顔で迎えてくれるとは思っていなかったが、流石にそこまで酷い飛び退き方をされるとも思ってはいなかった様だった。
ねえ、その反応ってちょっと非道くないですか?
国際乙女裁判なら懲役刑モノですよ、会長。

「……な、何をしているんだ、こんな所で」
「それ、私が問いかけられるべき質問ですか」

違いますよねえ、ええ、もちろん。
後にそう続く事が判り切っている言葉であるだけに、久瀬は否定も肯定もする事ができなかった。

幽霊騒動があった。
様々な情報を統括した結果、犯人は第二音楽準備室に放置されている【気狂いピアノ】を弾いているらしいと推測するに至った。
ならば、それを捕まえるために準備室に隠れて夜を待つのは、事態の解決を願う生徒会の役員として当然の行動のはずである。
だから、沙紀がここに居るのは問題ではない。
存在を問われるべきなのも、沙紀ではない。
ここで問題とされるべきなのは、『この事件は少なくとも三日は放置する』と言った本人がのこのこと準備室に姿を現した、その愚かしい行動全般についてなのであった。

「……いつ、気付いた?」

私がお前を謀り、一人で準備室に残ろうと決めた事に。

「朝の時点で、既に」

会長が私の身を案ずるあまり、独りきりで夜を過ごそうとしているのだなと云う事は。

「……悪いが、力尽くでも下校してもらうぞ」

どうせ嘘吐きと軽蔑された果ての事だろう、今更体面を取り繕おうとは思わない。

「無理だよ。 会長にはそんな事、できっこない」

どうせ『自分は既に嫌われてる』だなんて思って、『捨てる物なんか何もない』って自分に言い聞かせて、空元気振り回してるだけでしょう?

「私は本気だぞ」

昨日の夜みたいな目になんて、二度と遭わせないと誓ったのだ。

「悪いけど多分、私の方が本気です」

幽霊とか、犯人とか、そんな事どうだっていいやって思ってしまうくらい真剣に、私はキミを独りにしたくないと思ってる。

「危ないんだ……本当に」

犯人が幽霊ならまだそっちの方がいい、少なくとも刃物を持ち出したりする危険性はないだろうから。

「危ないからこそ、二人でいましょう?」

昨日はキミが背負ってくれた、だから今日は私が抱っこする番だ。

「………沙紀」
「そんな顔しないでください、会長。 嫌われてるのかと勘違いして、傷付いてシクシク泣いちゃいますよ?」

そう、貴方に嫌われていると勘違いしたら、私は傷付いて泣いちゃうんです。
私は貴方を嫌ってなんかいないから、そんな風に思っちゃうんです。
気付くかな?
気付くよね。
だって久瀬君は、頭の回転の速い人だから。

「……怒って、いないのか?」
「私、笑ってますけど。 それだけじゃ答えになりません?」

怒ってくれればよかったのに。
口汚く罵って、愛想を尽かしてくれればよかったのに。
「騙すなんて最低だ」とか、「そんな事をする人だとは思わなかった」とか、いくらでも私を責める言葉はあるだろうに。

「会長のお考えはまるっとお見通しです。 なーんてね」

まるっと見通されていたのでは、勝ち目が無いのも仕方がないのかもしれない。
自嘲気味の溜息を吐きながら、久瀬は諦めた様に呟いた。

「一つだけ約束しろ。 この部屋の中にいる限りは、絶対に私の指示に従うことを」
「いつも従ってるじゃありませんか、ヤだなあもう」
「……沙紀」
「約束しますよ。 遵守します。 会長の命令以外では絶対に、怪我をしたり怖い思いをしたりしませんから」

狭い室内だと云う事を考慮してか、わざとらしく海軍式の敬礼なんかをしてみせる沙紀。
不器用なりに取り繕った言葉の裏を、また、完璧に読み通された。
本当に心の中を覗かれているのかと思ってしまえば後はもう、埃にまみれた苦笑を浮かべる事しか、するべき事が見つからなかった。

午後六時二十分。
第二音楽準備室内。
残存戦力、僅か二名。

「ね、会長」
「ん?」
「何だかワクワクしません? ほら、サマーキャンプとかでやった肝試しのオバケ役みたいな感じで」
「いや、全然」

久瀬はまた一つ、小さな嘘をついた。