午後七時四十五分。
見回り担当の教員の物であろう足音が、第二音楽準備室に隠れている二人の耳に聞こえてきた。
それまで小声でヒソヒソ話をしていた二人は、互いの顔を見詰めたまま、緊張した面持ちで息を潜めた。
何しろここで教員に見つかってしまったら、変質者を捕まえるどころか自分達が不純異性交友の疑いでしょっぴかれてしまう可能性まで出てくる。
単なる下校時刻超過で説教を喰らうならまだしも、そこに変なニュアンスを介在させられては堪(たま)った物ではない。
最悪の場合は『特別活動許可証』をタテに居直るしかないが、今現在の状況が許可証の認める範囲の枠外に相当していると言う事は、他でもない久瀬が一番よく理解していた。

足音が止まる。
音楽室のドアが、横滑りに開く音がする。
沙紀が、久瀬の制服の裾をきゅっと握った。

「……異常なし、と」

数秒の沈黙の後に聞こえてくる、若い男性教諭の声。
どうやら入り口から室内をざっと見回しただけで、点検を終えた気になっているらしかった。
あまりにぞんざいな見回りの仕方に、思わず久瀬の眉間に皺が寄る。
しかしその次の瞬間には、沙紀の「ダメだよ」と主張する瞳に射抜かれてしまう。
一言も発しない内からその先を制されてしまっては、苦笑しながら「わかっている」と言外に返す事だけが久瀬にできる精一杯であった。
安心しろ。
いかな私とて、自分の置かれている状況を忘れてまで激昂したりはしない。
ちゃんと伝わったかどうかは定かではないが、沙紀の表情が僅かに緩んだ変化を見て、久瀬はおおむねの所をそれで良い事にした。
扉が、静かに閉められる音がした。

「……行ったか」
「……ですね」

それから更に、数十秒後。
廊下側からも完全に人の気配が消えたところで、ようやく二人はほっと一息をついた。

「まったく……杜撰(ずさん)な見回りにも程がある」
「まあまあ、そのおかげで私達もこうして居残れているんですから」

確かに、教師陣による見回りが徹底されていたならば、今頃は二人とも職員室に連行されていただろう。
その限りでは杜撰な見回りはむしろ喜ぶべき事柄であり、その恩恵を受けている自分達がとやかく言える問題ではない。
だが、それでもやはり生徒会長の久瀬としては、学園側の防犯意識の低さを看過する事ができないのであった。

――そう言えば、あの冬の日に起こった窓ガラス全損事件も、この旧校舎での出来事だったな

久瀬の脳裏に、苦い思い出が蘇る。
それは輝かしい足跡ばかりを残してきた第十三代生徒執行部会における、最初にして最後の、そして最大の汚点。
後に【鹿鳴殿の変】を経て【睦月事件】とまで呼ばれるようになる一連の騒動の発端こそ、旧校舎一階部分窓ガラス全損事件だった。
事件翌日の朝は酷い有様だった。
一階部分の廊下は、割れたガラスで足の踏み場もなかった。
だが、最も注目すべきなのは、”ガラスの破片が廊下側よりもむしろ外側の方に多く散乱していた”と云う事実の方だった。

――そして調査の結果、窓ガラスは全て『内側』から破壊されていたと云う事が判明した

無論、全ての責任を学園側に押し付けるつもりは無い。
校舎内に進入可能な経路は軽く数百箇所を数えるし、それら全ての施錠を毎日確認して歩けとは、いくらなんでも要求できない。
そもそも学園の防犯に関して警備保障会社の介入を強硬に拒否しているのは、他でもない生徒執行部会の方なのであった。
警備保障会社に払う金があるのなら、部活動や学内行事の予算編成に回したいと云う理由が一つ。
有事の際に気軽に学園に泊り込んだり、放課後から明け方にかけて自由に出入りしたりできるメリットを失いたくないと云う理由が一つ。
ともすれば『生徒会の我侭』で片付けられてしまいそうな理由であるだけに、流石の久瀬もこの件に関しては強い姿勢を取る事ができずにいた。
思い返すだけで、奥歯がぎちりと鳴る。
当時まだ生徒指導部の副部長だった桐塚教諭の見せた、あの爬虫類の様な人を見下した冷血な眼差し。
こんな事案でもなければ思い出す事も無かったのにと、久瀬が誰に言うでもない愚痴を自らの中に押し込めた、その瞬間。
その思考は、突如として飛来した。

「……まさか…」

内側から壊された窓ガラス。
施錠された室内から響くピアノの音。
そのどちらもが、旧校舎で起こっていると言う奇妙な符合。

「……いや、そんなはずは…」

窓ガラスは新校舎にもある。
ピアノは講堂にも体育館にもある。
では何故、旧校舎だ。
壊されるのは、奏でられるのは、何ゆえに旧校舎のモノでなくてはならない。
改装工事の際に残されたのは、何ゆえに西校舎でなくてはならなかったのか。

――そこには、何か確固たる理由が存在しているのではないだろうか

「必然だ」と本能が囁く。
「偶然だ」と理性が叫ぶ。
”まさかそんなはずはないのだ”と、いつしか久瀬は必死になって、とある一つの可能性を否定しにかかっていた。
と、その時。

「……あの…会長?」
「ん、どうした?」
「えっと……その、凄い今更なんですけど、いいですか?」

常らしからぬ弱々しい口調で、沙紀がおずおずと口を開いた。

「別に会議の場ではないのだ。 発言に許可を求める必要も無いだろう」
「いや、そう云う事じゃなくてですね……」

妙に歯切れの悪いその様子に、流石の久瀬も異変を察知する。
恐らくは何か言い出しにくい事があるのだろうと云う部分までを把握した所で、久瀬はあえて沙紀の顔から視線を逸らした。
言葉でも、態度でも、露骨に先を促す事はしない。
今の様な特殊な状況下においてだけは、むしろそちらの方が口火を切り出しやすいに違いない。
四角く切り取られた闇夜を遠くに眺めながら、久瀬は黙って深い息をするのみであった。

「……昨日の夜、会長が第二音楽室の前に辿り着いた時、鍵は確かに閉まっていたんですよね」

ぽつり。

「……そして、開錠して踏み込んだ先には、誰も居なかった。 そうですね」

ぽつり。

「ああ、間違いない。 その認識で合っている」

まるで鍾乳洞に滴り落ちる透明な雫の様に、沙紀の口から温度の感じられない声が零れ出す。
判り切っている事実確認を、今この状況で再度行おうとしている意図が掴めずに、久瀬は思わず怪訝な表情を浮かべた。

「会長は犯人を人間だと断定した。 その証明の為に、隠れる場所である第二音楽準備室と、音を鳴らす装置である忘れられたピアノを発見した」
「………」
「つまり、会長の推理する『昨晩の犯人』と云うのは、この第二音楽準備室に隠れてピアノを弾いていたんだって……そう云う事ですよね」
「そうだな。 状況的に、それ以外考えられん」

自分にとっては『当然の事』を繰り返すだけの問答に、久瀬の感情がやや退屈に傾きかけた、その瞬間。
壁を背にして床に座り込み、拳一つ分だけ開いていた二人の間の距離が、主に沙紀の移動によって瞬時にゼロへと追いやられた。
左半身全体に感じる、同年代の女子生徒の体温。
薄い夏服越しの身体の感触。
吐息、重み、存在感。
あまりの事態に驚いて、思わず逸らしていた視線を沙紀の方に向け直した久瀬は、そこで沙紀の縋るような視線と鉢合わせになった。

「……沙紀?」
「ねえ会長。 鍵は閉まってたんですよね。 音楽室の鍵は、確かに閉まってたんですよね……」
「あ、ああ……それがどうし――」

そこまでを口にして、久瀬は絶句した。
沙紀の言わんとしている事に気付いてしまったがために、言葉を完全に失ってしまっていた。

「なら、”最初から居た”って事ですよね……私達が駆け付けるよりも、先生が見回りして鍵をかけるよりも前から……この教室のどこかにずっと隠れて…」

――それはもしかして、今、この時も、この部屋のどこかで”ソレ”は息を潜めて――

久瀬の全身に、脊髄を氷柱で刺し貫かれたかのような悪寒が走った。
暗く、閉鎖された教室の中、久瀬の制服を掴む沙紀の手が、小さくかたかたと震えていた。



そして、ピアノの音がした