闇と同化した粘性の空気を切り裂いて、硬質なピアノの音が響き渡った。
それは、余りにも不変的で。
余りにも日常生活において耳慣れていて。
余りにも『当たり前』のピアノの音だったので、久瀬は逆に空恐ろしさを感じる事となった。
居るはずの無いモノが居る。
在るはずのないモノが在る。
既成概念の喪失こそが人の感じる恐怖の原風景ならば、その構成要因は実生活に馴染みが深ければ深いほど効果を発揮する事となる。
見慣れているはずの景色の一部が違うとか。
ヒトの形をしている物体がヒトではない動きをして見せるとか。
例えばそう、『耳を塞いでいても容易に想像できるほど不変的なピアノの音が、奏者の居るはずのない状況で響き渡っている』とかである。

「馬、鹿な……」

覚悟はしていた。
『ピアノの音が鳴る』と言う状況までは、確かに久瀬の予想の範疇だった。
だが、それを覚悟していた久瀬にとってもまだ、その音はあくまで『人の手によって奏でられるはずの物』なのであった。

ピアノの音が鳴っている。
鳴るはずのない音が鳴っている。
そしてそれは、薄い壁一枚を隔てた向こうの空間から聞こえてきている。
『気狂いピアノ』からの音ではない。
その音は確かに、隣の第二音楽室から聞こえてきている。
思いもよらぬ恐怖の連続に、沙紀は既に言葉を発する事すら出来ない状況に陥っていた。

想像の恐怖は、現実のソレを遙かに凌駕する。
実際に『何か』を目撃してしまった瞬間よりも、『何かが後ろに居る』と感じてしまった瞬間の方が、人は恐怖に心を縛られる。
『犯人』の姿が見えるのならまだよかった。
仮に『犯人』など存在せず、目の前で【気狂いピアノ】が勝手に鳴り始めたのだとしても、それならそれでまだ良い方だった。

想像する事しか出来ない真っ暗な隣の空間で。
想像する事も出来ない『何か』が、狂ったようにピアノを叩き続けている。
叩き続けている。
叩き続けている。
でも、もし不意にその音が、ぴたりと止んでしまったら――?
こっちを見ているのかもしれない。
音もなく近付いて来ているのかもしれない。
見ている。
近付いてきている。
でも、何が?
『ナニ』が、こっちを向いているの?
それすらも、もう、判らない。
こわい、こわい、こわい――。

小さな身体を更に内側に折りこむ様に丸め、蒼白な面持ちでカタカタと震えている沙紀。
想像する事しかできない恐怖とは、想像しうる恐怖の限界を一歩踏み越えた場所に這い蹲り、おぞましい顔でこちらを見詰めているモノである。
それが齎す絶望的なほどの圧迫感は、いくら生徒会の役職付きとは言え、一介の女子生徒の精神では到底耐え切れる物ではない。
彼女をこんな目に遭わせている存在に名状し難い憤りを覚えて、久瀬は奥歯をぎちりと噛み締めた。

許さない
赦すものか

猛禽を髣髴させる目付き。
指先が白くなるほど握り締めた木刀。
激しい戦闘を予測したのか、久瀬は半ばトレードマークともなっている下弦の眼鏡をも、胸ポケットに仕舞い込んだ。
遠方を見るには、ぼやけて不便な視界。
だが、こと近接戦闘の間合を測る段においては、逆にレンズの存在が邪魔になる。
二、三度の瞬きを通して焦点距離を調節し、久瀬は眼鏡を外した視界に問題の無い事を再確認した。

深く、深く、息を吐く。
後、肺腑の奥まで酸素を取り入れる。
久瀬が把握している自己の無呼吸活動限界は、90秒弱。
幾許かの緊張を考慮したとしても、音を立てないよう慎重に動き、扉の前まで移動するには十分な時間だった。

木刀を脇差に構え、膝立ちの姿勢から上体を起こす。
視認し得る限りでの最短ルートを一瞥し、足元にも障害物が無い事を確認する。
そして、自身にも環境にも何の問題もない事を確認して踏み出そうとした第一歩は――
しかしながら、予想外の方向からの妨害によって、易とも簡単に阻止された。

「……沙紀」
「――だめ」

制服の裾をはしと掴み、俯いたまま首を横に振る沙紀。
まるで迷子の幼児が縋り付くかのようなその仕草に、久瀬は一瞬だけ罪悪感を覚えた。
自分が『ソレ』を討伐しに行く事は、沙紀をこの場所に置き去りにする事と等式で結ばれる。
こんなにも脅え切ってしまっている彼女を、暗闇の空間にただ一人で捨て置く事となる。
勿論、久瀬が沙紀の存在を忘れていた訳ではない。
むしろ彼女が脅えているからこそ、久瀬は諸悪の根源を討ち倒すために立ち上がったのだった。

置き去りにされる恐怖は一過性である。
隣の教室に存在している大本を断ち切れば、後には平穏しか残りはしない。
そんな言葉を口に出そうとした所で、久瀬は何と無意味で傲慢な説得かと思い止まった。
彼女は『今』、脅えている。
彼女にとっての恐怖の対象とは、『今この瞬間に一人きりにされること』でしかない。
沙紀に恐怖を与える存在が何時の間にか件の『犯人』から自分自身に摩り替わっている事に気付き、久瀬は改めて強烈なジレンマに襲われた。
だが。

「――行っちゃ、ダメだ」

沙紀の言葉は、違っていた。
彼女が口にした『それ』は、決して『置き去られること』に脅えた末の情けない懇願などではなかった。
「イヤだ」ではない。
「独りにしないで」でもない。
久瀬の予想を遙かに超えて強靭な意志の宿ったその言霊は、他のどの様な状況よりも『久瀬を失うこと』に対する恐怖で彩られていた。

「離せ沙紀! ヤツはすぐ其処に居るのだ!」
「ダメ……絶対に行っちゃダメだよ…」
「沙紀! お前は何を――」
「――なら久瀬君にはっ、『アレ』が部屋に入ってくる足音が聞こえたのっ!?」

伏せていた顔を勢いよく上げ、真正面から久瀬の顔を睨みつける沙紀。
銀色の涙が、瞳から零れ落ちた。

「聞こえたのなら、行ってもいい。
 隣の教室に居る『アレ』が、ちゃんと鍵を開けて、ドアを開いて、足音を鳴らしながら歩いてきたのなら、久瀬君は行ってもいいけどっ――」

でも、違うでしょう。
キミは。
私は。
『私達』は、そんな音をこれっぽっちも認識できなかったでしょう。
だから、キミは行っちゃダメだ。
だってキミは今までずっと――

「――会長は、犯人を『人間だ』と主張していたはずです」

鍵を開ける音はしなかった。
ドアを横に滑らせる音すらしなかった。
足音だって微塵も感じられなかったし、そもそも『何か』が廊下を歩いてくる気配すら感じられなかった。
『最初から第二音楽室の中に隠れていた』――それは絶対にありえない。
何故ならその可能性は、久瀬と教職員とが二重に封殺している。
しかしながら『何か』は現に隣の部屋に居て、今この時も白と黒との鍵盤を叩き続けている。
ありとあらゆる不条理を無視しつつ、この不可解な現状にあえての説明をつけなくてはならないのだすれば、その筋道はたったの二つしか残されていない。

一つ、『”ソレ”は鍵を開けることもドアを開けることも足音を鳴らすことも無く、部屋に侵入できる存在である』
一つ、『”ソレ”は最初から部屋の中に存在していながらも、人間の目で捉える事のできない存在である』

そしてそれは、もはや『人間』に為し得る所業ではなかった。

「くっ――!」

正論だ。
沙紀の言う言葉のどれもこれもが、正論過ぎて抗う術を見出せない。
踏み出そうとした右足も、握り締めた木刀も、心胆に据えていた覚悟までもが、今では何の役にも立ちそうになかった。
言葉は通じるのか。
力は届くのか。
見えるのか、聞き取れるのか、感じ取る事ができるのか。
現に今こうして何の兆候も見せずに隣の部屋に現れてみせた不可思議な輩に対し、意気揚々と踏み込んだところで自分はそもそも『何か』できたのか?

「……判った…お前の言うとおりだ…」

苦渋の選択である。
ここまで『犯人』に肉薄しておきながら、何もできずに息を殺すだけと言うのは、事実上の敗北と同義である。
だが、それでも現状は『最悪』ではない。
限りなく最悪に近いモノではあるけれども、今まで得られなかった情報も手にする事ができた。
誰が傷付いた訳でもない。
何かを失った訳でもない。
必死で自分にそう言い聞かせながらも、久瀬は自らのプライドが傷付き、失われ、酷く痛んでいる事を否定しきれなかった。

「……すまない……沙紀」

そして、ついに。
久瀬はその瞳から、臨戦の焔を消し去った。

「……ごめんね、会長」

沙紀は、今まで強く握り締めていた制服の裾をそっと手放し、代わりに久瀬の掌を両の手で優しく包み込んだ。

ピアノの音は、訪れた時と全く同じ唐突さでもって、何時の間にか掻き消えていた。