一夜明けた翌日の早朝。
まだ用務員の内藤さんすら出勤していない、濃密な朝靄の中。
今日も会長室には久瀬と沙紀の姿があったが、そこには会話と呼べる会話はほとんど存在していなかった。
重苦しい空気。
場を支配する沈黙。
その理由は無論、昨夜の第二音楽室での一件であった。

久瀬は、自らが『万能』の人間ではない事を識っている。
たとえ他人がどの様な美辞麗句で彼を賞賛しようとも、久瀬自身は常に自らを『持たざる者』として捉えている節がある。
そしてそれは美徳として語られるような謙遜の類ではなく、言ってしまえば悪癖とすら呼べる程のものであった。
何故なら久瀬は、自らが『有能』な人間である事も同時に識っているから。
哲人政治の理念を例に挙げるまでもなく、他者の上に立つ者は、全てにおいて秀でていなければいけないと強く信じ込んでいるから。
だから、久瀬は常に渇望している。
そして、自らに失望し続けている。
それが自ら高く掲げすぎた理想の所為だとも気付かないままに、今日も彼は強い無力感に苛まれていた。

――何もかもが、足りなかった

思い返す、昨夜の失態。
標的を間近に捉えておきながら、打つべき次の一手がないと言う最悪の状況。
その屈辱は、一晩が経っても容易に忘れられるようなものではなかった。
相手を詰ませるのに足りない『何か』があった訳ではない。
順当に追い込んでいるように見せかけてその実、あの場には事態を収束させるために必要な『全て』が足りていなかった。
見通しも甘く。
覚悟も足りず。
知識も無く、力も及ばず、全ての策を捨てて無謀に突き進む事すら、あらゆる方面から封殺されてしまっていた。

――これは懸命な判断です
――決して敗走なんかじゃないです

無言で第二音楽準備室を後にしようとする久瀬の背中に、沙紀は幾度も幾度も語りかけた。
それは慰めでも偽りでもなく、沙紀の心からの言葉だった。
だから、「わかっている」と優しく答える久瀬の言葉は、彼女にとっては逆にとても痛々しく聞こえた。
本当はもっと辛辣な言葉と態度で、『犯人』に対する復讐を誓って欲しかった。
物分り良さそうな顔でその場を取り繕うだけの横顔なんて、会長にあるまじき姿であるとさえ思った。
そして、一夜明け――

「……なんだ?」
「いえ、別に」

ふと、横顔を見られていた事に気付いた久瀬が振り返る。
沙紀はその視線を真正面から見るや否や、まるで逃げるかの様にいそいそとお茶の準備を始めた。

――なんだ、やる気ありまくりじゃん

ついうっかりすると、口元のにやにやが頬にまで伝染しそうになる。
頬までにやけてしまったら、満面の笑みになってしまうのは時間の問題である。
普段よりもゆっくりじっくり茶葉が開くのを待ちながら、沙紀は自らの心を落ち着かせるのにえらく苦労した。
結果、とても渋いお茶が出来上がった。
久瀬は、文句一つ言わずにそれを飲み干した。
もっとも、彼は昨夜からずっと苦々しい顔をし続けているため、表情に変化があったのかどうかは誰も把握できていないのだが、それはさておき。

「沙紀」
「はい?」
「今回の一件、生徒会独力での解決は断念する」
「……はい」

有無を言わさぬ、『会長』としての一言。
『決定事項』を冷たく突きつける、まるで感情の篭もらない声。
しかしそれは沙紀に向けられた物ではなく、どちらかと言えば久瀬が自分自身に言い聞かせるための物であった。
たとえ不本意であろうとも。
どれだけ納得がいかなくても。
事態解決を最優先とする『会長』としての決定には、『久瀬』本人ですら抗う事はできない。
彼が口にした一言には、そんな決意が込められていたのだった。

そして、『会長』としての言葉を発するまでに、彼がどれだけの葛藤を必要としたのかを感じ取った時。
沙紀にはもう、黙って小さく頷いてあげる以外の所作が思い浮かばなかった。
諸手を挙げての全肯定も。
頭(かぶり)を振っての命令拒否も。
久瀬自身が『自分』を殺しながら発言しているこの場では、どちらを受け入れても彼が傷付く事に変わりはなかった。

恐らくもう、彼の中でこの事案は『生徒会』の仕事ではなくなっている。
それどころか、『私達』の仕事ですらなくなってしまっているのだろう。
『生徒会独力での解決を断念する』と言う言葉とは裏腹に、久瀬はあくまでも『事態を収拾させる最後の一手』を自らの手で執り行おうとしている。
そしてその時、彼の隣に居る事を許されている人間は、既に自分一人ではなくなっている。
彼にとって自分だけが『協力者』であった短い時間を思い返し、沙紀はほんの僅かな寂寥を胸の奥に仕舞いこんだ。
存外に、苦い味だった。

「まずは学園に存在している全てのオカルト系課外活動団体の代表者に対し、非常召集令状を発布する」
「全て……ですか?」
「ああ、全てだ。 もしも召集に応じない様であれば、今後の学園内での活動には著しい障害が発生するとでも言ってやれ」

絶対権力の王座から、一般生徒を見下すかのように発せられる『生徒会長』としての命令。
常ならぬ強硬かつ横暴なその態度に、沙紀は久瀬が自ら退路を断とうとしているのだと云う事を感じ取った。

そう。
この分水嶺を越えた後は、彼はもう戻れないのだ。

「それと、今日付けで無期限での『午後六時以降の学内在留禁止』を公式に発令する。
 建前は私の方で勝手にでっち上げておくし、教師への取り付けも私が直々に出向く。
 お前には一般生徒への周知の部分を徹底してもらいたいのが、構わないか?」
「はい、問題ありません」

生徒会が独力での解決を断念し、第三者の助力を仰ぐ。
おまけにその内容ときたら、『幽霊騒動を鎮静化させるためにオカルト系団体の代表を呼び集める』と言う突拍子も無いもの。
背後事情を知らない一般生徒がそれを耳にした時の事を考えると、普段は生徒会役員として表舞台に立たない沙紀の心にすら、何か痛烈に傷むモノが存在していた。

だからもう、失敗は許されない。
一般生徒までもが生徒会の動向を知る機会を得た以上、その結果は是が非でも『成功』でなければならないのだ。
仮に全てがうまくいったとしても、反生徒会の連中はこの非科学的な騒動の顛末に関して、何らかのバッシングをしてくるだろう。
生徒会その物も一時的にイロモノ扱いされ、本来の職務とはかけ離れた陳情や、下らない冷やかしの投書がしばらくの間は舞い込み続けるだろう。
だが――

「それから……今回は諜報部にも手を貸してもらうつもりだ」
「諜報部って、まさか会長――」
「一応、お前にだけは言っておこうと思ってな」

後には退けない。
手段も選ばない。

「”奴”に借りを作る事だけはしたくなかったんだが、どうも今回ばかりはそうも言っていられない様だ」

標的を目の前にして手も足も出せなかったあの屈辱に比べれば、そんな事すら些細に過ぎる。
頭の先から爪先まで、徹頭徹尾個人的な復讐心に燃える久瀬の眼光を目の当たりにして、沙紀は小さく溜息を吐いた。
いや、まあ。
そりゃ「やる気あるじゃん」って喜んでたのは、確かにそうなんですけれどもね。
もう少しこう、建前だけでもいいから「学園の平和を守るために!」ぐらいの言葉で私を騙してくれてもいいんじゃないでしょうか、このバ会長。
沙紀の脳裏に浮かんだ様々な罵倒の言葉は、ついに最後まで声に出して表される事はなかった。

「私、あの人苦手なんだけどなあ……」

ただ一言の、小さなわがままを除いては。