諜報部。
正式名称、情報技術操作部。
情報技術のめまぐるしい発展に伴い設立された、歴史の浅い活動団体。
設立当初は主にパソコンを使った表計算技術や、プログラミング言語の習得を目的とした活動を行っていた。
当時の学園側も、『世相を反映した生きた教育』を対外的な売りとしたかったらしい。
潤沢な資金援助を背景とした高水準の設備は、学園内外の誰もが羨む素晴らしい物であった。
だが、僅か数年で状況は激変する。
極限られた範囲でのみ可能であった『パソコン通信』が、世界とダイレクトに繋がる『インターネット』に取って代わられた頃。
画像や音声情報のデジタル化がますます容易になり。
物理的な拘束から解き放たれた『データ』は電子の海を形成し。
学園側が生徒の個人情報や備品の搬入などをイントラネットで管理するか否かを話し合っている頃には、既にこの部活動は本来の名前で呼ばれる事はなくなっていた。
情報技術を操作するのではなく、情報その物を操作する技術を磨く部活。
収集、隠蔽、流布、詐称、そして利益供与を媒介とした第三者への譲渡、あるいはそれを背景とした脅し。
情報化社会に付随するありとあらゆるアンダーグラウンドなイメージを纏いつつ、いつしか彼等は『諜報部』と呼ばれる様になっていた。

そして、現在【イマ】。
学園史上最強とまで謳われている生徒執行部会とその会長が統治する、明るく平和な学園の中。
日の当たらない道を歩み続ける諜報部にもまた、学園史には決して残る事のない一人の化物じみた鬼才が在籍していた。

三年B組所属、諜報部現部長、綿貫雅蔭(わたぬき まさかげ)。

役職と年齢の枠を遙かに超えた、尋常ではない質と量の情報網を持ち。
学園の内外、事の大小を問わず、この町における『事件』と名の付く情報に関して彼の耳に入らない物は無いとまで言われ。
ある意味では”あの”久瀬よりも逆らってはいけない人物として一般生徒に恐れられている、清く正しい学園を裏で操る真の黒幕【フィクサー】。
尊敬と畏怖と軽蔑を綯い交ぜにした二つ名、【神の耳】とまで呼ばれているその男こそ、久瀬の口にした”奴”の正体であった。

「……苦手だと思っていても口に出す物ではない。 どこで聞き耳を立てているか判らない男が相手だぞ」
「彼が本当に風評通りの人物であるのなら、それこそ手遅れでしょう。 あるいはこの会話さえ、リアルタイムで盗聴されているやも――」
「悪いけど、俺はそこまで暇じゃあねーんだわな」
「――っ!?」

不意にあらぬ方向から会話に参入され、驚いた沙紀が胸元に手を当てながら勢いよく振り返る。
その視界に映ったのは、会長室のドアにもたれかかりながら薄笑いを浮かべている一人の男だった。
ただの一度のノックもせず、室内に居る人間の了承も得ず。
気配すらも感じさせずに『何時の間にか』其処に存在している、長身長髪の優男。
「せめて普通に登場できないものか」と訝しがる沙紀の表情を見て見ぬ振りをしながら、綿貫は久瀬に向けてのみ気だるそうな挨拶の言葉を口にした。

「よう、久瀬」
「ああ、こんな朝からわざわざ済まないな。 今、コーヒーでも淹れよう」
「まったくだ。 用事があるならてめーが出向けっつーの。 コーヒーはアリアリで」
「判っている」

まるで小間使いの様にカップを用意する久瀬と、まるで部屋の主であるかの様に尊大な態度でソファに腰を下ろす綿貫。
登場からたったの数秒で自分の神聖な領域を汚されたかのような憤りを覚えた沙紀は、久瀬の手から急いでコーヒーカップを奪い取った。
自分の見ている前で『会長』がそんな事をするのだけは、何でだか判らないけど絶対にやめてほしかった。

「わ、私が淹れますからっ」
「……だ、そうだが?」
「別に? 毒物さえ混入されなきゃ、誰が淹れようが構わねーけど」

心の底から興味無さそうに吐き捨てられた言葉が、沙紀の心を鋭く抉った。
何故ならそれは、『枳殻沙紀が綿貫雅蔭に好印象を抱いていない』と云う事を知っていなくては口にされるはずのない言葉だったからである。
今さっきの会話を聞かれていたからなのか。
それとも、ずっとずっと前から自分の感情を『情報』として握られていたのか。
『自分がよく知らない相手が、自分の事をよく知っている』
そんな、生理的嫌悪感にも似た気味の悪さだけが、いつまでも沙紀の首筋から離れていこうとしなかった。

「なあ」
「ん?」
「灰皿ある?」
「机の上に無ければ、食器棚だろうな」
「な、ちょ、会長っ!?」

沙紀は、驚いた。
綿貫の不祥事街道まっしぐらな発言もさる事ながら、それに平然と受け答えをした久瀬の態度にも大いに驚いた。
体育館裏やトイレの個室で隠れて喫煙するならまだしも、ここは学園の秩序の中枢たる生徒会長室である。
そりゃ、来客用の灰皿なら鈍器に使えそうなくらいの立派な物が備えられてはいるものの、それは決して在校生に喫煙を許可するための物ではない。
いくら綿貫が今回の事案を解決に導く最重要人物であったとしても、沙紀は自分の目の前でそんな不良行動を見過ごす訳にはいかなかった。

「私の目の前で煙草なんか取り出したら、今日中に荒川先生に密告しますからね」
「沙紀、やめておけ」
「そ、そんなあっ! 何で会長が止めるんですかっ! 会長は悪に屈するんですかあっ!?」

情報を武器とする喫煙魔人ワタヌキング。
ここで機嫌を損ねられてしまっては、有益な情報は得られなくなってしまうかもしれない。
久瀬長官は当面の危機である幽霊騒動の解決を第一と考え、ワタヌキングの喫煙行為に目を瞑るつもりでいるのか!
より大きな悪を滅するためであれば、小さな不正には目を瞑ってしまうのか!!
どうする生徒会、どうなる生徒会!!
沙紀の脳裏では、そんなナレーションが大塚明夫の声で再生されはじめていた。
綿貫が「……悪て」と呟いた声は、彼女の耳には届かなかった。

「こいつを喫煙なんかで停学処分にした日には、同じ罪で50人は摘発されると考えた方がいい。 そんな事になったら、学園は大パニックだ」
「ま、まさかそんな事……」
「50人で済むと思ってるんなら、見通し甘いぜ、生徒会長」

綿貫の勝ち誇ったかのような声が、沙紀の精神を逆撫でする。
しかし、『できるものならやってみろ』と啖呵を切ってしまえるほど、状況は沙紀にとって優しくはなかった。
恐らく、久瀬の言っている事は真実なのだろう。
現にこうして綿貫が堂々と喫煙を宣言している事こそが、その何よりの裏付けとなっていた。
健全な学校生活が立ち行かなくなるほど学内をガタガタにさせる、『情報』と言う名の猛毒を塗りたくった仕込刀。
一度炸裂させれば自分ですら無事では済まないが、周囲への牽制や抑止力としては最大の効力を発揮できる核弾頭の様な切り札。
何よりも『学園の秩序』を重んじる生徒会役員としては、いたずらに彼を刺激しない事こそが『平和』を守る手段なのだと、悔しいながらも沙紀は直感してしまっていた。
この神聖な会長室で。
真実正道を誰にも憚る事ないと思っていた会長の前で。
今まさに『高校生にあるまじき行為』が行われようとしていても、それでも私には――

「ま、それはともかくとしてだな」

ヒュ――ガッ!

沙紀が敗北感に目を瞑り、綿貫が煙草を口に咥え、今まさに火をつけようとしたその瞬間。
素手が発したとは思えないほどの風切り音を纏いながら、久瀬の右手が綿貫の眼前を一筋の流線となって駆け抜けた。
その指先には、掠め取られた一本の煙草が握られていた。

「生憎、私は喘息持ちでな。 煙草の煙を吸うと酷い発作が起こってしまうかもしれんので、悪いが控えてはくれないか?」
「……っは。 初耳だぜ、おい」

無論、【神の耳】である綿貫がそんな重大な情報を知らないはずが無い。
しかし、彼は小さな苦笑を漏らしただけでおとなしくライターを制服のポケットに仕舞いこみ、久瀬の嘘に対してそれ以上の追求をする事はしなかった。
久瀬もその計らいを当然であるかのように受け止め、奪い取った煙草をリーチ棒の様にしてマホガニーの机の上に置く。
何だかんだ言いながらも、そう悪くない雰囲気を共有している二人の関係が、ほんの少しだけ垣間見えた瞬間だった。
一方、視界の角度的に『久瀬が綿貫をぶん殴った』風に見えてしまった沙紀は、許容量を遙かに越えた緊張感のせいで思考のブレーカーが吹っ飛んでしまう寸前であった。