「とある特定状況下において固有の行動を取るウサギを、仮に”バニ山バニ夫”と呼ぶとしよう。
 コイツは古典的条件付け、俗に言う”パブロフのアレ”で、メンソールの臭いを嗅ぐと軽いパニックに陥る様に反応を強化されている。
 どうやってそんな条件付けを施したのかは……まあ言うまでもねえだろうな。
 そんでもってコッチには、メンソールの臭いを嗅いでも特別な反応を示さないウサギ、”ラビット鈴木”を用意して―――おい、そこの。
 久瀬の陰に隠れて青い顔しながらちっちゃくなってる、そこの女。
 そんなに聞きたくないならさっさと出て行けや。 何か俺が怖い話を無理矢理聞かせてる悪者みたいな感じになっちまってるじゃねえか」

決まりの悪そうな顔で、『あっちに行け』の仕草を見せる綿貫。
それが優しさなのか単に疎ましいと感じただけなのかは判らなかったが、沙紀はとりあえずその提案を華麗にお断りする事にした。
いいんです。
私はこのままここに居ます。
お、追い出そうとしたってそうはいかないんですからねっ。
言葉にこそ出さなかったものの、沙紀の意志は強い視線だけで充分に綿貫に伝わったらしい。
斜めに視線を外しながら大きな溜息を吐き捨てるだけにして、綿貫はそれ以上沙紀の存在の有無に関して突っ込もうとはしなかった。

「……で、だ。
 まずはラビット鈴木を仮死状態にする。
 どうもMMRの考えでは『魂=脳』みたいでな。
 
ラビット鈴木を手っ取り早く意識不明の昏睡状態に追いやるため、奴等はお手軽な一酸化炭素を用いた。
 結果、見事にラビット鈴木は一酸化炭素中毒と成り果て、実験台の上に横たえられた。
 そしていよいよ、バニ山バニ夫の悲劇だ。
 『魂』ってのは宗教形態によって解釈が異なる面倒臭い概念だが、さっきも言ったようにMMRの考えでは『魂=脳』だ。
 『脳』が生み出すのは、『意識』。
 奴等がやりたがってるのは『魂の置換実験』であり、そこでは『死の確認』が必要となってくる。
 何故なら、『自分が死んだ事が判らない』と云う魂の状況では、バニ山バニ夫は既に亡骸となった自分の身体に固執するかもしれないからな。
 早い話、即死じゃダメなんだ。
 ただし、自我が崩壊するほど延々と苦痛を与えるのもアウトだ。
 適度に残虐に、適度に緩慢に、その先に確実な死が待っている事を理解させ、しかる後、殺す。
 論理の要旨としては、解離性同一性障害の形成過程に近い物があるな。
 虐待を受け続けた子供が自分の中に異なる人格を形成し、そいつに苦痛を全て押し付ける様に。
 『バニ山バニ夫としての身体が受ける苦痛』から逃れるために精神が『死』を選び取り、目の前に抜け殻として存在している『ラビット鈴木の身体』に魂を移動させるかどうか。
 いや、移動させるべく数多の手段を尽くした上で、奇跡が成就する事を興奮した面持ちで見遣る。
 その結果、昏睡状態から回復したラビット鈴木がバニ山バニ夫の”クセ”を受け継いでいれば、実験は晴れて成功となる。
 これが所謂、魂の置換実験の全貌だな」

淡々と。
本当に何の抑揚も見せずに淡々と語られていくキチガイ共の残虐な所業に、沙紀はいつの間にかはらはらと涙を零していた。
嘘に決まっている。
そんな事がある訳がない。
いくらこの学園が生徒自治による多種多様な課外活動を容認しているとは言え、綿貫が口にした様な『実験』はあまりにも非現実的すぎるではないか。
沙紀は、必死で自分にそう言い聞かせた。
嘘だと思い込まなければ、これから先、この学園で笑って生活していける自信がなかった。
だが。

「それで、実験の結果は?」
「ああ。 失敗も失敗、大失敗だ。 何しろラビット鈴木が昏睡状態から目を覚まさなかったって言うんだから、笑っちまうわな」
「六匹殺したと言っていたが、残りの四匹も同様か?」
「似た様な感じだな。 魂の置換どころか蘇生すらマトモにできず、植物状態のまま祭壇行きさ」
「ふむ……ちなみに、黒ミサ会は何を呼び出そうとしてたと?」
「んー。 確か、にゃる娘さんだったはずだな」
「……なに?」
「ニャルラトホテプ、通称にゃる娘さん。 クトゥルフ神話に出てくる何だかよく判らない邪神の名前だな」
「そんな物を呼び出して何をするつもりだったんだ……あの馬鹿どもは」

普通だった。
久瀬も、綿貫も、まったくもって『平素の日常』と云う感じで言葉を交わしていた。
そこには『ウサギが可哀想』と云う感情も見えなければ、『そんな事をする人間が校内に居る』と云う事への憤りも見受けられない。
これじゃあ涙を流すくらいショックを受けた自分の方がおかしい人みたいじゃないですかと、沙紀は思わず久瀬の肩の辺りを拳でぐりぐりしてしまっていた。
それがまるで『泣きながら駄々をこねる小さい娘』みたいな感じになってしまっている事に、沙紀はついに最後まで気が付かなかった。
ぐりぐり。

「痛いぞ、沙紀」
「……なんで平気な顔してるんですか」
「ん? いや、だから痛いと言って――」
「――何であんな話を聞いた後なのに、会長は平気な顔してられるんですかあっ


ぐりぐり。
ぐりぐりぐり。
感情を言葉に表してみたら何だかまた涙が溢れてきてしまったので、沙紀は今度は額でもって久瀬の肩の辺りをぐりぐりする事にした。
ぐりぐりされた久瀬は、沙紀が何に憤っているのかがイマイチ把握し切れなかったので、困惑した表情で綿貫の方を見やった。
しかし綿貫は「勝手にやってくれアホらしい」と窓の外に視線を投げ捨てて、二人の世界に介入する事をこれ以上無いくらい完璧に拒んで見せた。
おでこが痛くなるくらい、沙紀はぐりぐりをし続けた。
背中の方から肩口に額を押し付けられているため、久瀬は沙紀の表情を見ることも、頭を撫でてやる事も適わなかった。
そしてまた彼は、こんな時に気の利いた言葉をかけてやれるほど器用な人間でもなかった。
そうしてそのまま、しばらく沈黙が続いた。
ぐりぐり。
ぐりぐりぐり。

「……別に、ウサギを悼む気持ちが無い訳ではない」
「……嘘です」
「嘘なんかではないさ。 ただ、私がこんな時に感情を表に出さない人間だと云う事は、お前が一番よく判っているだろう?」
「そりゃ……そうですけれども…」

いまだ納得がいかなさそうな沙紀の姿を斜めに見ながら、綿貫は心の中で「そりゃそうだろう」と呟いていた。
沙紀が求めているのは結局、『ウサギの死に心を痛める久瀬』ではなく、『自分と感情を共有してくれる久瀬』なのだ。
泣いてほしい訳じゃない。
怒ってほしい訳じゃない。
一つ一つの感情そのものが問題なのではなく、単に生徒会長と確かな共時性で繋がっていたいだけの話なのだ。
それだから、久瀬の反応に対して『理解』はできるけど『納得』がいっていない。
久瀬がそう云う人間だと頭では判っているものの、衝撃的な話しを聞かされて心細く乱れきってしまった感情が、ソレを許容したがっていない。

――優秀な書記長とは聞いていたが、やはり年齢相応の脆い感情を持った小娘か

流れる雲にぶつけたその嘆息は、綿貫自身が自分でも驚くほどに残念そうな響きに彩られていた。