生徒会長の肩に後ろから額を押し付けてぐりぐりする仕事を為し終えた沙紀が、少しだけ腫れぼったくなった瞼を冷やす為に一時退席した会長室の中。
残された男子生徒二名の間には、共有された妙な緊張感が漂っていた。
紅一点が居なくなったための息苦しい閉塞感、とはまた少しだけ様相が違う。
それはむしろこのタイミングで彼女が席を外した事によって、図らずも『場』が整えられてしまったと云う状況を読み取った上での緊張感であった。

「……本題に入ろうか」

重々しく、久瀬が口を開く。
窓の外に逸らしていた視線を久瀬の眉間に合わせる事で、綿貫はその申し出を無言の内に了承した。
互いの視線が交錯してから、暫しの沈黙が場を支配する。
小さく口を開いては閉じ、何度も瞬きを繰り返す久瀬の姿からは、幾重にも言葉を選んでいる様子がありありと伺える。
久瀬が囚われている問題の内容を九割九分の所まで正確に把握していながらも、綿貫はそこに言葉を挟もうとはしなかった。
生徒執行部会会長と、【神の耳】を持つ男。
それぞれがそれぞれに、軽々しく口を開く訳にはいかない立場と影響力を保有している人物である。
無論、この場でのやり取りを他言するような相手ではない事は、互いに十分理解してはいるものの。
それでも性根に染み付いた思考の悪癖と云うものは、そう簡単に拭いきれる物ではなかった。
結局、迷いに迷った挙句に久瀬が選んだ質問の言葉は、自分も相手もいい顔をしないであろう、『自分よりも相手に多く語らせよう』とする『頭のいい質問』の定型文みたいな物であった。

「……”アレ”は、一体何なんだ?」

鍵を使わず鍵のかかった室内に侵入し。
気配を伴わず隣の部屋に確かに存在し。
目的も無く――少なくとも理解可能な範囲での目的など見当たらないままに――思うがままに鍵盤を叩く。
未だもって明確な呼称すら存在していない”アレ”の正体を知ろうとする、それは一見すると至極当然の質問の様に思われた。

だが、実際はそうではない。
何故なら綿貫は件の現場には立ち会っていなかったのだし、それに関する情報も久瀬から与えられてはいなかったからだ。
今回の幽霊騒動に関する全体像を100として、仮に綿貫が元から50の知識を持っていた場合。
久瀬が体験した30の情報を彼に明け渡す事で全体の八割を明らかにし、残りの20を推理で補完しつつ真実に到達する事が、解決への一番の近道であるはずである。
しかし久瀬は、この場においてはただの一つも情報を提供しない事を選択した。
相手が『情報』を自在に操り、ソレを切り札に据えている相手だからこそ、自分もソレを切り札として持つ事を選んだのだった。

そして、そんな小賢しい思考とは裏腹に。
『相手が綿貫である』と言うただそれだけで発生するもう一つの絶対的な確信が、久瀬に言葉足らずの質問を選ばせていた。

――綿貫雅蔭であれば、全てを識っているはずである

信頼とは程遠い、ある種の悪寒さえ伴う未来予測。
むしろ何も知らずにいてくれた方が、どれだけ精神的に楽であるかも判らない。
鍵を使わず鍵のかかった室内の様子を知り。
気配を伴わずして現状に立ち会うかの如く存在し。
どちらも本質的な部分で「ありえない」と呟いてしまいたくなる様な相手である事を改めて認識した久瀬は、熱を孕んだ視線のままに綿貫の眉間を凝視し続けた。
だが。

「悪いが、その質問には答えられない」

綿貫が表情一つ変えないままに吐き捨てたその言葉は、久瀬の予想をあらゆる意味で裏切った。

「馬鹿なっ、お前ほどの男が――!」
「まあ、落ち着けや久瀬。 俺は何も”識らない”って言ってる訳じゃあねーんだ」

その方が、尚更に性質が悪い!
激昂して腰を浮かしかけた久瀬だったが、綿貫の眼が身震いするほど冷徹に自分を見据えている事に気付いて、寸での所で踏み止まる事に成功した。


「諜報部【オレタチ】は、中立だ。 いいか久瀬、中立なんだ。
 俺やお前がいくら平和な学園を愛しているとは言ったって、”ソレ”と”コレ”とは話が別なんだよ」

『識らない』のではない。
全てを識っていて尚、明かす事のできない情報である。
自分が得ようとしているのが『そう云う類のモノ』だと突き付けられた久瀬は、流石に驚愕の表情を隠し切る事ができなかった。
そもそも『明かす事ができない』と言う事ですら、綿貫としては最大限の譲歩で教えてくれているのだろう。
何故ならそれは『誰かにとって明確に不利益である』と云う事を示唆する事と同義であり、場合によってはそこから推理を始める事も可能だからである。
『誰』が困るか。
『何故』困るのか。
その辺りを足掛かりとすれば、少なくとも五里霧中であった現状よりかは格段に『真実』に近付ける。
しかしそれは同時に、『今回の事件に裏で関与している人間がいる』と云う事を証明する事でもあった。
それも、この学園内にである。
驚愕、落胆、後に困惑。
一瞬の内に久瀬の胸中をそれらの感情が掻き毟り、吐き気にも似た強い不快感が込み上げてきた。

昨晩。
もう二度と立ち上がりたくないほどの敗北感と引き換えにして、自分達は『相手が人外である』と云う確かな情報を得たはずだった。
だが、一夜明けて学園随一の情報通と言葉を交わしてみれば、そこで得られたのは『誰かしらが強く関わっている』と云う情報だった。

やはり『犯人』は人間なのか。
否、人間ではアレだけの所業を為し得るはずがない。
ならば、人間がアレを使役して深夜の狂奏曲を演じさせているとでも?
……どこまでだ。
どこまで私は、この馬鹿げた不条理を受け入れなければならない!

認め難い『事実』の連続に、久瀬が強く歯噛みをする。
眉間に刻み込まれた深い皺は、とても高校生男子のソレとは思えないほどである。
放っておけばそう遅くない内に、彼の感情は再び『不条理』を産み出す相手への敵愾心へと変わり果てるだろう。
煙草の吸えない口寂しさを誤魔化すようにコーヒーカップの端を噛みながら、綿貫はらしからぬ仏心でこう付け加えた。

「これは、諜報部部長としてじゃない。 【神の耳】とか言う大仰な名で呼ばれる奴でもない。
 お前の事を割かし気に入ってる、ただの一個人としての発言だがな――」

本当はコレを言っちまうのも、かなり反則ギリギリなんだけど――

「――”アレ”は、本物だ」
「……なん…だと…?」
「悪い事は言わない、今回の件からは大人しく手を引け。 生徒会長とか書記長とか、オカ研集めてどうのこうのってレベルとは次元が違うんだよ」

突き付けられる、非情なまでの真実。
そして、戦力外通知。
執行部会会長という役職に就いている男が、学園内の事象において『解決には力不足である』と烙印を押されると言う、この呆れるほどの異常事態。
自らの存在証明の消失を目の当たりにして、普通の人間であれば膝から崩れ落ちてしまいそうな絶望感の中。

「――ククク……そうか……”本物”か…」

だが、それでもなおこの久瀬と云う男は、現状に対して『哂う』と言う選択肢を選び取った。

「ク、クク……本物であるのなら、何の問題もない。 いや、お前のおかげでようやく核心に至る事ができた。 礼を言うぞ、綿貫」
「……あ?」
「しかし”本物”相手となると少々厄介だな……オカ系の奴等から情報を仕入れたとしてもどこまで役に立つか……やはりここは…」
「おい、おいコラ久瀬、テメエもしかして――って、ヘイ! 話を聞け! ヘイ! 手前の鼓膜はベガスで休暇中かこのアホンダラ!!」

勝手に一人で結論に達してブツブツ言い始めた久瀬の態度に業を煮やし、綿貫が目の前のテーブルをガシガシと蹴り付けた。

「……何だ、やかましい」
「随分なご挨拶してくれるじゃねえかこのクソバカヤロウ。 手前まさか、俺の心からの忠告をガン無視するつもりじゃねえだろうな」
「ああ、忠告はありがたく受け取っておくさ。 お前の心遣いも、決して忘れはしない。 だが、”ソレ”と”コレ”は話が別なのでな」

つい数分前に叩き付けられた言葉を、そっくりそのまま送り返す。
傲岸不遜な『執行者』としての歪んだ笑みも、しっかり添付する事を忘れない。
冷酷で。
傲慢で。
何かと言うと常に上から目線で。
それはまさに、この学園に通う者であれば誰もがイメージとして容易に思い浮かべる事のできる、完璧なまでの『会長』としての久瀬の顕現だった。

「平和な学園の秩序を乱す者は、大上段から叩いて潰す。
 例えそれが危険極まる変質者だろうが、物理法則に敵わぬ妖怪変化の類だろうが、だ」
「別に放置しろって言ってるんじゃあねえんだ。
 ただ、生徒会長様が自ら日本刀片手に夜の校舎で暴れまくる意味が何処にあるんだって言ってんだよ」
「判っている。 だが、事態の解決に然るべき機関や第三者の介入を認めるのは、私が為す術無く敗北してからでも遅くはあるまい」
「『俺様の学園を騒がせた相手は俺様が成敗する』って? そりゃエゴだろ、お前の、ただの」
「それが、何か問題でも?」

自信と実績とに裏打ちされた尊大さでもって、非難や皮肉を丸ごと飲み込んでは「それが何か?」と吐き捨てる。
一度このモードに突入してしまった久瀬は、生半可な正論や梃子(テコ)の原理どころか、88mm砲【アハトアハト】の直撃ですらも微動だにしない。
これ以上の会話が気力体力の無駄使いである事を悟った綿貫は、僅かに残っていたコーヒーを勢いよく飲み干してから、無言のままに席を立った。
そして久瀬は、ソファに深く腰をかけたままそれを黙って見送っていた。
勿論、それは憤慨による決別などではない。
互いに必要以上の馴れ合いを求めていないだけであり、今この場においては『話すべき事は全て話し尽くした』と云う見解が一致したので、言下に解散を了承しただけの事であった。

「綿貫」

だが。
振り向きもせずに会長室を後にしようとする綿貫の背に、珍しく久瀬の呼び止める声がかかった。
それは普段ならまずありえない事だったが、不思議と綿貫も呼び止められるような気がしていたので、足を止めて振り返ることに躊躇いは無かった。

「……感謝するぞ」
「……貸し、だからな」

無愛想に受け答え、退出と同時に後ろ手で扉を閉める。
せっかくの忠告に耳を貸さない頑固者がどの口で感謝なものかねと、綿貫は誰も居ない廊下で小さく一人ごちた。
窓の外を見る。
ぼちぼちと朝の早い生徒達が登校してくるのが見える。
一度も会話した事の無い生徒ばかりだったが、【神の耳】を持つ綿貫にとっては、『顔も名前も知らない一般生徒』など一人も存在しなかった。

例えばアレは、陸上部二年の神埼 篠(しの)。
ウチのクラスの水瀬から女子部部長のバトンを引き継いだ、長距離専門の女の子だ。
おや、校門前から息せき切って走ってくるのは、報道部一年の柊 奈々佳(ななか)お嬢じゃないか。
そう言えば今週の朝の放送は彼女が当番だったな……って、あー、あー、見事にすっ転んでやがる。
痛そうだなアレは。
って言うか、座り込んだまま動かないな。
まあ見てた限りでは受身すら取れてなかったみたいだし、膝か脇腹でも強打したのかも知れないが……
お、北川だ。
相変わらず無駄に朝が早い奴だな。
さあ、この状況でお前はどうする?
お……お、おーおーおー。
ちゃんと声かけてー、起き上がるのに手も貸してー、おう、鞄まで代わりに持ってあげてるじゃねーか。
いいねえ、紳士的だねえ、オッサンちょっと感動したぜ?
まあ、後でひやかすけどな。

まるで絵に描いたような、穏やかで平和な学園。
この学び舎に通う生徒達は、極一部の突出した例外を除けば、殆どが年齢相応に真面目で素直な高校生達である。
部活動とか、勉強とか、友情だとか恋愛とか、はたまたそれ以外の形容し難い『何か』とか。
誰一人として同じ境遇を持ち合わせている訳ではないが、誰もがみな何かしらの想いを胸に抱きながら日々を頑張って生きている。

そして綿貫は、それら全ての在校生に対して『擬似的な当事者』の視線を持つ事のできる、この学園ただ一人の存在であった。

綿貫は、『彼等』の事を知っている。
顔も、名前も、部活も成績も友人関係も悩み事も、綿貫は全てを把握している。
故に、群集に埋没した『一般生徒』なんて括りはそこには存在せず、その気になれば一人一人の心情に寄り添う事すら可能である。
だが逆に言えばそれは常に『相手の事情が判ってしまう』と云う事であり、背後関係や心情を深く知っているが故に相手を慮ってしまっては、自らを殺す事も日常茶飯事となる。
どうにか我を通してみても『知りすぎた情報』が罪悪感に拍車をかけ、踏み躙った相手の事情が胸に鋭く突き刺さる。

人の中で生きながら【神の耳】を持つと言う事は、つまりはそう言う事だった。

だから、綿貫はいつでも『傍観者』で居る事を選んできた。
分水嶺よりも更に一歩手前に線を引いては、『此処から先には立ち入らない』と強く自分を戒めてきた。
生徒会と反生徒会の対立にも。
教師陣と生徒会の確執にも。
時には事情を全て把握しているからこそ、傍観者で在り続ける事が辛く感じられた日もあったけれど。
諜報部は絶対に中立。
綿貫雅蔭は動かない。
今も、昔も、これからも。
そうと心に決めてから、今までに過ごしたのは膨大な月日。
様々な人の様々な事情を識っていながらも、彼はそれを黙殺し続けてきたはずなのに――

「……やれやれ。 この俺様も、ついに焼きが回ったか」

窓の外を眺める姿勢のまま、吐き捨てる様に小さく呟く。
失望と諦観をこれでもかと言うくらい叩き込んだはずなのに、それでも何故だかその言葉は、ほんの僅かな笑いの気配に彩られていた。