気忙しい蝉が早くも木々に挙りては、鳴き散らし、否が応にも夏の情感の高まりつつある七月の夜。
昼間の喧騒が嘘の様に掻き消えた学園の中では、ある種異常な光景が繰り広げられていた。

月明かりの差し込む廊下にて不規則に揺らめく、橙色の小さな炎。
その数、実に八十八。
左右等間隔に設置されたその炎によって、旧校舎二階の南側廊下が薄ぼんやりと照らし出される。
蛍光灯の発色とはまるで違う怪しげな炎の揺らめきは、それだけで『幽霊』を呼び出してしまいそうな雰囲気を醸し出していた。

「……こ、これって逆効果じゃないんですか?」
「何を持って『逆』と言っているのかよく判らんが――意訳した上で返答するとしよう。
 これは『奴』の姿を我々が視界に収める為にわざわざ設置した物なのだから、むしろ姿を現してくれなくては困るだろうが」

朱塗りの盃/逆月(サカズ/ヅキ)。
満たすは太白の胡麻/護摩油。
藤の花を陰干しにして縒り合わせた物を燈芯とし、一つ一つに稲藁から分け火をする。
こうして得られる炎は、太陽の光を重陽(陽の中にありて陽の気を持つ光)とする所による『陰中の陽火』とされ、彼岸のモノをよく映し出すと言われている。
それは、臨時生徒議会の中で修験会の代表が語った、『妖(あやかし )を診る方法』の一つであった。

「さて。 沙紀、少し目を潰れ」
「ふぇっ? な、ちょ、いきなり何を――」
「いいから、ほら」
「あ、あう、あうわ……」

そう言って、久瀬がやや強引に沙紀の肩を両手で掴みにかかる。
普段から余計な事を口にするタイプの人間ではないが、流石に今回ばかりは有無を言わせなさ過ぎる。
いくら暗がりに二人きりとは言え、そんな唐突に押し迫ってくるんじゃムードもへったくれもないじゃないですかと、いささか混乱気味の思考で沙紀はそう思った。
だが、今はれっきとした公務中である。
今の自分は、生徒執行部会の書記長としてここに立っている。
むしろそうでなくてはこの場に滞在させてもらえない現状に軽く凹んだりもしているのだけれども、兎にも角にも今の自分は『枳殻沙紀』ではなく『生徒会書記長』なのである。
そして、目の前に居る彼の眼差しは、紛う事無く『会長』としてのソレだった。
ならば書記長としての自分に、拒否権なんかが有るはずも無かった。

「――っ」

意を決し、両の瞼を強く閉ざす。
視覚から得られる外界の情報が全て消え去り、その分だけ肩に置かれた久瀬の掌の感触が鮮明に伝わってくる。
自分の身体がガッチガチに硬直している事を情けなく思いながら、沙紀は半ば意図的に思考の焦点をずらす事にした。

「少し上を向いてくれないか。 そのままだとやり難い」
「……はい」

これは生徒会長の命令なのだ。
だから書記長である私が逆らえるはずがないのだ。
別に「彼なら構わないカナ」なんて思っているから抵抗しない訳じゃない。
そうだ、これは公務だからしょうがなく、瞳を閉じて、僅かに上を向いて、身体を緊張させ、ついでに息まで止めてしまっているだけなのだ。

「そのまま、動くなよ」
「……は、い…」

肩に置かれた両手が離れる。
彼の呼吸が、少しだけ遠くなる。
……って、あれ?
それってオカシクナイ?
何で手を離すですか?
吐息が遠くなるですか?
って云うかそもそも『公務中』に『会長の顔』した久瀬君が、どうしてナゼして私にキスを――

ぴちゃっ

「――っぅわひゃっ!」
「ん、冷たかったか。 悪いな」
「……な、何ですか、今の」
「吉方で一晩清めた水に桃の実の汁を混ぜた物だ。
 これを瞼に塗る事で邪気を祓い、歪みや淀みを退けてアヤカシを診る助けとなってくれるらしい」
「………」
「何しろ古事記に習う所に因れば、桃は黄泉の国において伊邪那岐命を助けたとされる神聖な果実だからな。
 古代中国でもこの世ならざる楽園、つまりは異界を桃源郷と――」

したり顔で。
また、何の動揺も含まない涼しい顔で、大して信じてもいない神道知識を語ってみせる久瀬。
その超然とした態度があまりに先程までの自分を嘲笑っているような気がしたので、沙紀はとりあえず久瀬の足を思いっきり踵で踏ん付けてやる事にした。
が、流石に思いっきりは可哀想な気がしたので、軽く踏んだ後に踵でグリグリしてやる程度に留めてあげる事にした。
純真無垢な書記長ゴコロを惑わすダメ会長なんて、この位されて然るべきなのだと沙紀は思った。
むぎゅっ。
げしげし。
ぐりぐりぐり。

「――何をするか」
「……会長が悪いんです」

今度こそ本当に久瀬君が悪いのだと、沙紀は後々になってからもそう主張するのであった。