「……来たか」

万全の状態で『それ』を待ち構えてから、どれほどの時間が経った頃だろう。
目を閉じて殆ど眠るように無言を貫いていた久瀬が、小さな呟きと共に、もたれかかっていた壁から背を離した。
猛禽を髣髴させる鋭い眼光が、燈火の立ち並んだ廊下の向こう側を強く睨みつける。
しかし、久瀬に倣って同じ方向へと視線を向けた沙紀の目には、人影はおろか幽霊や人魂の類すらも見えてきたりはしなかった。
それは、『そこに何かが居る』ことよりも、沙紀にとっては余程おっかない展開であった。

「な、何もいないんですけど」
「見える範囲にはな」

事も無げに言う。
では何ですか、あなたは見えないモノが診えるタイプのお人ですか。
脊髄反射で突っ込もうとして、沙紀は寸での所で言葉をオブラートに包む事に成功した。

「……会長、いつから超能力にお目覚めに?」

ように見えたが、ちっとも包めていなかった。

「これは霊感とかそんな類の物ではない。 単純に、知覚範囲の差だ」
「と、言いますと?」
「目を閉じろ。 息を殺せ。
 校舎の壁に身体を密着させ、意識を建物と一体化させろ。
 この校舎自体を自分の身体の一部だと思えば、普段は感じられない些細な違和も感じ取れるようになる」

うん、それは充分に超能力の類でございますわ。
口にも表情にも出さない辺り、沙紀は非常に空気の読めるお嬢さんであった。

「むしろ超能力であれば、どれだけ良かった事か」
「え?」
「……ええい、忌々しい! 何故にこうも――」

――想定した『最悪』を、踏襲せねばならんのだ!!

昨日携えられていたのとはまた違う、白木作りの木刀の柄が、ギリギリと音の鳴るくらい強く握り締められている。
感情を表に出す事が珍しいとされている久瀬の、極めて純粋な『怒り』の発露。
しかしそれは非常に残念な事に、根本の想定から現状の認識に至るまでが、彼の内部でのみ完結されている代物であった。
そのため隣に居る沙紀には、今現在『何が起こっているのか』も、彼が『何で怒っているのか』も、皆目見当が付かなかった。
互いの吐息すら感じ合える距離で起こっている、感情の乖離。
状況把握における、情報の相互性の絶無。
「仮にも非常時において一からの説明を求めるほど、自分は無能ではないし足手まといにもなりたくない」。
そう思い込みでもしなければ座り込んで膝を抱えてしまいそうになるくらい、今日も世界は沙紀にとって優しく出来ていなかった。
こんな仕事、早く終わればいいのに。

「私の後ろに下がれ、沙紀」
「……はい」
「それから、相手が武器を持っていた場合は問答無用で校舎外まで逃げろ。 いいな」
「え? ちょ、ちょっと待ってくださいよ。 相手が武器って……え?」

なに? その思いっきり現実味のある設定。
いきなり押し付けられた『もしもの場合の撤退命令』について、沙紀は大いに動揺した。
これだけオカルティックな儀式を展開させておきながら、何故に今になってそんな事を言い出すのか。
昨日の一件で完全に『犯人=幽霊』となっている沙紀の思考回路では、そこの所がどうしても納得できなかった。
別に、古今東西全ての幽霊が武器を所持できないスペックだとまでは言わない。
今夜の結末が『久瀬の血に秘められた天使の様な悪魔の何かが覚醒して敵を銀河の果てまで吹っ飛ばす』なんて所に着陸するとも思っていない。
だけど、それにしたって『幽霊が武器を持っていたら逃げろ』なんて命令は、あまりにも現実的すぎるんじゃないかと沙紀は思った。

「仮の話だ。 私の予想では、恐らく武器は所持していない」
「幽霊って、武器、持ってるんですか?」
「は?」
「へ?」

え、何この「お前は何を言っているんだ」的な視線。
いくら私と会長の間柄とは言え、それはちょっと失礼なんじゃないですか。
って言うかそろそろ私、怒るか泣くかしても許されるくらいの頃合なんじゃないかなあ!

「すまん、言葉が足りなかった」
「……礼儀も配慮も優しさも足りません」
「……それは、その内に何とかするとしてだな――」

言ったな。
心の中の『生徒会長言質.txt』を開き、沙紀は今の発言をそっと上書き更新した。
と、それはさておき。

「今、階段をゆっくり上って来ている。 一人だな。 ゴム底が擦れる音が殆どしない……土足で闖入か、痴れ者め」
「……え?」
「人間だ、沙紀。 先程から私が想定し、挙動を感じ取っている相手は、実体を持った一人の人間でしかない」
「え、え? ……ちょ、だ、だって――」

昨日の放課後。
宵闇の第二音楽準備室。
終わりの見えない恐怖と理不尽の連弾が悪夢の様に響き渡る、埃っぽいあの小さな教室の片隅で。
私たちは、打ちのめされた。
完膚なきまでに、叩き潰された。
もう二度と思い出したくもない敗北の記憶と引き換えに、だけど私たちはたった一つの真実を手に入れたはずだった。

今回の一件は、紛れも無く『本物』の幽霊の仕業である

存在その物が想定外である『本物』の仕業だからこそ、私たちは撤退を余儀なくされた。
そしてある意味では、『相手が幽霊である』と言う真実は、私に『敗北の言い訳』を与えてくれる免罪符にもなりつつあった。
相手が幽霊ならしょうがない。
心のどこかでそんな風に逃げ場所を求めていた。
それなのに今、他ならぬ敗北を共有したはずの久瀬君の口から、信じられない言葉が飛び出している。
それも、前々から知っていた事であるかの様に、『想定していた相手』なんて事を喋っている。
疎外感。
敗北感。
恐怖心。
猜疑心。
もう、何もかもが、納得できなかった。
物分りのいい書記長なんてやめてしまおうかとも思った。
我侭で物知らずで空気読めなくて、自分の感情の制御もできないウザい女の子になって。
ボロボロと涙を流しながら彼の胸倉を掴んで真実を問い質す事ができたのなら、どれだけ気分が晴れやかになるかと思ってみたりもした。
なのに――

「全て片が付いたのなら、ささやかな打ち上げをしようか」

キミが、あまりにも普通の声で、そんな珍しい事を言うものだから。

「そこで、笑い話にしよう。 高校生活最後の夏に、こんな奇妙な案件があったのだと云う事を」

背中越しに聞こえてくるその言葉は、まるで遠い星に願いをするかの様な響きを持っていた。
そこまで至ってようやく私は、彼もまたギリギリの所で平静を保っているのだと云う事に気が付かされた。

久瀬君の言う通りだ。
こんなふざけた案件は、最後には笑い話にしなくてはならないのだ。
『だったらいいな』で終わらせたりはしない。
どんな手段を用いてでも、私たちは『そこ』に辿り着いてみせる。
そして、最後に笑って終わる事さえできたのなら――
その暁には、この夜はきっと、何年経っても語り継ぐ事のできるくらい最高にぶっ飛んだ『真夏の夜の夢』となる。
全世界で私と久瀬君のみが共有できる、素敵に無敵な『あの夏の日の想い出』へと生まれ変わる。
卒業後。
進学後。
就職後。
結婚後。
何かの折にふと顔を合わせた未来の私たちが、とても穏やかな笑顔で、今日の日の事を語り合う。
そんな情景を、心ならずも思い浮かべてしまった次の瞬間。
私は、純粋に。
そして唐突に。
しかも呆れるほど貪欲に、どうしても『ソレ』が欲しくなった。
だから、もう少しだけ『物分りのいい書記長』を続ける事にした。
年頃乙女はいつだって、見えない所で打算的なのである。

「……期待しててもいいんですか?」
「む?」
「うちあげ」
「何を人事の様に。 幹事はお前に丸投げするつもりだぞ」
「では、駅前に新しくファンシーでメルヘンでリリカルなスイーツを出すお店がオープンした様なので、そこでゆっくりゴシックな時間を――」
「場所の手配は私がしよう。 うむ、その方がお前の負担も少なくなるだろうしな」
「……楽しみに、してますからね」

じゃれるような会話。
ひたすらに廊下の向こうを睨み付けている久瀬の口元にすら、微かな笑みが浮かびつつある。
しかし、次の瞬間。
その場に構築されつつあった温かな日向の雰囲気は、非情なまでに木端微塵にぶち壊された。

――ギ  チッ

今度こそ。
今度こそ沙紀は、自らの耳で聞き取る事に成功した。
もう随分と前から、久瀬が感じ取っていたらしきその音。
歪に削れた靴底と、磨き上げられたリノリウムの床が、出遭って擦れて呻く声。
質量と実体のある『人間』が廊下を歩く事で初めて発生する、隠し切れない生き物の音。
恐らくは今ようやく、二人と同じフロアに辿り着いたのだろう。
特に気配察知に優れていると言う訳ではない沙紀ですら、存在する空間の軸が合う事で、『それ』の気配をはっきりと感じ取る事ができた。

無数の灯火に揺れる廊下の向こうから、『それ』がゆっくりと歩みを寄せてくる。
遠目でおぼろげながら視界の中にも、その骨格から男性である事が読み取れた。
シルエットの中に、武器は見えない。
少なくとも長物の類は持ち合わせていない。
やや痩身である。
歩き方に恐怖心や警戒心が感じられない。
余程豪胆な気性の持ち主なのか、それとも単純に『夜の旧校舎』に慣れているだけなのか。
状況的に考えてほぼ後者で間違いないのだろう、沙紀の胸に緊張が走った。

近付いてくる。
恐らくは、この事件の真の黒幕。
どんな悪党面をしているのだろう。
そしてまた、どれだけの不可解な『理由』を口にするのだろう。
恐怖心や緊張感と同じくらいだけ、沙紀の心中からは連なる疑問符が絶える事は無かった。
何が目的で幽霊騒動を起こしたのか。
どんな手段を用いれば昨夜の様な芸当が可能になるのか。
そもそも、これだけの異様な対幽霊用の布陣が敷かれた旧校舎に、どうしてのこのこと姿を現したのか。
自分が黒幕だと私たちに知らしめる事で、何かしらの利を得る算段があるのだろうか。
それともまさか、口封じの手段を既に幾重にも張り巡らせているのだろうか。

だとしても、それは一体、何のために?

疑問符は結局、巡り巡ってそこに辿り着く。
しかしいくら考えてみた所で、答えには絶対に辿り着けない。
何故なら沙紀にとって『彼』と云う存在は、そこまで徹底しての『異端者』だったからである。
思考をトレースする事などもってのほか。
過去の行動を系統立てて分析し、最終目標を浮き彫りにする事すら適わない。
理不尽、無軌道、不可解、異端。
事が此処までに至ってしまえばもう、『彼』とは言語による意思疎通が可能かどうかすら疑わしく思えてしまう有様であった。
ヒトガタでありながら、人の言葉を理解し得ない。
行動が人の規範に則らない。
だとしたら、それは既に『ヒト』とは呼べないのではないだろうか。

怖気がした。
鳥肌が立った。
幽霊を相手取った時のモノとはまた違う、生理的な気味の悪さが沙紀の脊髄を駆け巡った。

また一歩、近付いてくる。
ヒトの形をした人では理解し得ない『何か』が、ぬらぬらと距離を詰めてくる。
不規則な燈火の揺らめきが、一瞬だけ『彼』の顔を照らし出す。
しかし次の瞬間には、再び闇が『彼』の表情を侵蝕していく。
足元に設置された燈火が照らす世界においては、身体の上部に行くほど視認性は低くなっていく。
逆に足元だけは沙紀の位置からでも鮮明に見て取る事ができ、そこで彼女はある一つの真実と相対する事となった。

――あれは、制服の、ズボンだ

「――そこで止まれ」

抜き身の刃よりもなお鋭い、裂帛の気勢を纏った久瀬の一言が、場の空気を一瞬で凍りつかせる。
命令に従わなければ一瞬で五体のいずれかを破壊されてしまうだろう事が、理屈ではなく本能で察知できる。
直接にその悋気をぶつけられた訳ではない沙紀ですら、涙目になりながらじりじりと後退してしまうレベルであった。

「こんな時間に、こんな場所で、貴様は一体何のつもりだ」

その問いの意味を、沙紀は理解していた。
問答無用で打ち伏せてからでも構わないその問いを、相対した状況で口にしてしまっている久瀬の気持ちが、痛いほどよく理解できていた。
彼は今、とても平静とは言いがたい精神状況に追い込まれている。
何度も何度も「そうでなければ良い」と心の中で否定してきた現実が、無情にも突き付けられている。
それは、彼が生徒会の会長である限り、最も訪れてほしくない結末のはずだった。

キミが『何か』を感じたあの根拠が、本当に超能力によるモノだったら良かった。
本当はキミが「相手は人間だ」って言った瞬間に、私は『それ』を判ってあげなきゃいけなかったんだ。
ごめんね、久瀬君。
あの時の私は、そこまで判ってあげられなかった。
キミがあんなにまでも憤っていた理由が、今になってようやく理解できた。

――『犯人』は、ウチの学校の生徒の中にいたんだ

両手を広げて守ろうとした人々の群れに、後ろから脊髄を抉り抜かれたかの様な。
信じられない、信じたくない、自分が今までしてきた事の意味が全て粉々に打ち砕かれる、圧倒的なまでの無力感と虚脱感。
幾許かの混乱を乗り越えた沙紀は、目にした『犯人』の服装と久瀬の態度から、一つ目の真実に辿り着いた。
だが、まるでそのタイミングを待ち望んでいたかの様に。
右往左往しながらもようやく僅かな真実を握り締めた沙紀を、その全てが無駄な努力だったのだと嘲笑うかの様に。
立ち並ぶ燈火の炎が、風もないのに一際大きく揺らめき立った。
そこで彼女は、手探りで辿り着いたモノとは純度の違う、揺らぐ炎の中においても決して揺るがない確たる真実を目の当たりにした。
橙色の世界の中。
背後に広がる闇を自らの眷属として立つ、制服姿の男の全貌。

――最悪だ

沙紀は、知っていた。
その男の顔を、知っていた。
顔だけではない。
名前も。
クラスも。
大雑把ではあるが友好関係も、主観的ではあるが彼がこの学園に『転入』してきてからの経歴も。
彼に関して羅列できるだけのありとあらゆる情報を再確認し、それから沙紀は、もう一度だけ心の中で強く吐き捨てた。

――最っ悪だ!

全校生徒、八百余名。
その中の例え誰が此処に立っていたとしたって、『彼』ほど最悪だとは思わなかっただろう。
あの傲岸不遜な情報屋。
胡散臭いばかりのオカルト系活動団体員。
ウサギを惨殺したマジキチ団体の誰かでさえ、『この場に居るのがもっともらしい』と云う意味でもって。
『彼』が此処にいる事に比べれば、何倍もマシに思えるくらいだった。

どうしてキミは、こんな所に居るの。
どうしてキミは、またしても、『私たち』の邪魔をしようとするの。
ねえ、答えてよ。
どうしてキミは――

「返答次第では、ただでは済まないと思え――――相沢!」

燈芯が、ジジッと小さな音を立て、黒い炭を中空に吐いた。