七月某日、午後九時三十五分。
旧校舎二階、南側廊下部分にて。

「考え直せや、久瀬。 他に方法なんて幾らでもあんだろ」
「………」
「おい、久瀬! 聞いて――」

無言。
後、一歩前進。
掌の中で音も無く刃をくるりと返し――
瞬きの暇も与えぬ、一閃。
まるで手加減と言うモノを知らない久瀬の本気の横薙ぎが、祐一の頭部を掠める様に振り抜かれた。

「うおおっ!?」

久瀬が間合を一歩詰めるのとほぼ同時に感じた、『あの夜』以来の命の危機。
祐一がその直感に身を委ねて姿勢を低くする事が出来たのは、まさに天佑としか言い様が無かった。
ほんの数瞬前まで自分の頭があった場所を、銀色の殺意が風切り音を鳴らして通過する。
空振りに終わった斬撃の尾を引く様に、名状し難い殺意の余波が白くたなびいて見える。
まるで避けられた事が心外であったみたいな顔をしながら、久瀬は小さく舌打ちをした。

「……避けるな」
「アホか! 避けなきゃ死ぬわ!」
「峰打ちだ。 余程の事がなければ死にはしない」
「思いっきり頭狙っといて……お前ひょっとして馬鹿なのか?」
「馬鹿はキミの方だろう。 今の会話のどこに、キミへの殺意を否定した部分がある?」

なるほど。
確かに久瀬君は『余程じゃなきゃ死なない』とは言ったけど、『余程の事をしたつもりはない』とは言っていない。
ちょっぴり判り難いけど、よく文章を咀嚼すれば久瀬君が殺意を否定していない事が判ってくる。
つまり、簡単に言えば『余程の事が無ければ峰打ちでは死なない』から、『余程の事が起こる様に頭部を狙った』のだ。
うん、納得だね。
納得だけど、やっぱり日本語って難解だなあ。
なんて――

「ちょ、な、何やってんですかバ会長ぉー!!」
「……と、そこの女子生徒が質問されてますが?」
「……沙紀、ちょっと静かに――」
「いいからその手にした物騒なモノを下ろしなさい!」
「別に私は――」
「早く! ハリー! ジャストナウ!!」

怒れる書記長最終奥義【ファイナルアーツ】、『人の言う事を聞かない』の炸裂である。
文字通り『人の言う事を聞かない』ことに特化する奥義なので、この状態に入った沙紀には何を言っても全てが無駄である。
長年の経験からその事を嫌と言うほど良く判っていたので、久瀬は渋々ながら刀を下ろす事にした。

「……これでいいのか?」
「ダメ。 まだ危ない。 こっちに貸しなさい。 はりー」
「………」
「っは、怒られてやんの。 だっせ」

ブチ――

「貴ッ様がぁあ――!」
「んだオラやんのか固羅ァ!」
「あー、もう、いいっ加減にしなっさぁーいっ!!」

どっかーん!
びりびりびりー!

果てしなくどうしようもない不良生徒と同じくどうしようもないマジギレ生徒会長に対し、沙紀の超特大のカミナリが落っことされた。
その怒りの余波は、それはもう尋常な物ではなく。
窓ガラスは「なにごとぞ!」と言わんばかりにビリビリ震え、灯火に至っては「おたすけ!」と言わんばかりに酷く揺らめいていたそうな。

「特に久瀬君! そろそろ私も本気で怒るよ!」
「な、何故私だ! 元はと言えばコイツが――」
「怒るよ!!」
「い、幾らなんでもそこまで理不尽な――」
「ふしゃーっ!!」
「くっ……」

太陽が西から昇ろうがインド人を右にしようが、目の前で起こっている事は『とにかく久瀬が悪い』ことにしてしまう。
そんな非常に極悪かつ不条理極まりない、怒れる書記長究極奥義【アルテマアーツ】、『とにかく久瀬君が悪い』の発動。
他人に甘く身内に厳しいのが日本人の習性であるとは言え、さすがにコレはあんまりなんじゃないかと、久瀬は大いに自らの境遇を嘆いた。
当然、事態は好転しなかった。

「はー、はー、はー」
「………」
「………」
「……二人とも、少しは落ち着きましたか?」
「私は最初から冷静だ」
「俺も、いきなり日本刀振り回すどこぞの馬鹿よりは遙かに冷静なつもりですけど?」

ギッ!
バチッ――!
がるるるるる――!!

「はいはいはい、睨み合わないでください、面倒臭いです。 って言うか会長はスルースキルが低すぎですよもう……」
「……また私なのか」
「当然です。 執行部会の長たるお人が、一般生徒より沸点の低い有様でどうするんですか」
「……そう言われると返す言葉もないが」
「なら、少し黙っててくださいね」
「………」

あくまで反論を許さないよう、意図的に突き放すような言い方をする沙紀。
ちょっと冷たすぎたカナと、少しだけ臆病になってみたりもする。
ましてそれに対する久瀬の反応が、意外にも『指示された通りの沈黙を貫く』と云うものであったりしたものだから。
表面上は『それでよし』みたいな態度を取りながらも、沙紀は横目で久瀬の様子をチラ見する自分を止める事ができなかった。
納得、した様には見えない。
とは言え、不貞腐れている様にも見えない。
恐らくは既に今この時を『冷静な思考回路を取り戻すための必要経費』と割り切ってしまい、不要な情報の授受を遮断しようとしているのだろう。
まるでスイッチのオン/オフを切り替える様に感情をコントロールしようとするその姿は、まさしく誰もが想像する所の『久瀬』そのものであり――

だからこそ祐一には、『それ』が余計に気に喰わなかった。

「えーと、相沢君?」
「……ん、ああ、何か用?」
「何か用、って。 それを訊きたいのは私達の方なんですけど」
「じゃあ、どうぞ。 遠慮なく」

おちょくってんのかなこの人は。
軽くイラッとしながらも表面上は勤めて冷静に、沙紀は言葉を進める事にした。

「私達は今現在、旧校舎に巣食う幽霊を退治するために此処に居ます。
 これは、この校舎を活動の拠点とする各種文化部からの正式な要請を受けての、公的な執行です。
 もし、『誰か』や『何か』がこれを邪魔するような事があれば。
 私達にはそれを排除もしくは処罰の対象とする権限が、生徒総会による賛成多数の承認の上で与えられています。
 それを踏まえた上で――」
「あー、はいはい、言いたい事は大体判ったわ」
「なっ! ま、まだ話は――!」
「要するにアレだろ? 体のいい脅し。 『邪魔をするなら容赦はしませんけど、今ならまだ間に合います』的な」

整然と並べられる言葉を遮り。
根拠を明確にされた『正義』すらも拒絶し。
相沢祐一が見せたのは、取り付く島が無いほど圧倒的な『敵意』の眼差しだった。

「悪いけど、邪魔しに来たんだよ。 俺は。 此処に」

凍て付いた態度。
燃え盛る眼光。
揺るがぬ意志、いささかも目減りしない敵意、何を根拠とするのかも判らない彼独自の『正義』の御旗。
あまりに強すぎる重圧感の前に、だからこそ沙紀は殆ど反射的に、『それら』が自分に向けられたモノではない事を察知した。