高校三年時、盛夏。
枳殻沙紀と相沢祐一の接点は、驚くほどに少ない。
仮にも生徒執行部会の上級職と、学園随一の問題児。
公的な部分を除いたとしても、そこに残るのは久瀬を頂点とした好意と敵意の奇妙な三角関係の突端同士。
普通なら単なる顔見知り以上になっていてもおかしくない二人なのだが、そこはやはり、両方共に『普通』の範疇に収まらないと云う事なのだろう。
事実、本日この時点に至るまで二人の間には、親しげに言葉を交わす機会どころか、直接的な面識の機会すらほぼ存在していなかった。

勿論、枳殻沙紀は『相沢祐一』の事をよく識っている。
『問題児』としての彼の情報を。
『生徒会の役員』と言う視点から。
必要に迫られたと言う背景も手伝って、沙紀は祐一に関する情報を、非常に細かく把握していた。

例えば、執行部会の管轄と思しき『事件』が発生した場合。
規模の大小。
学園の内外。
事の善悪、犯人の有無、犯行の動機の一切に関わらず。
それに関する情報と膨大な量の資料の束は、生徒会室に容赦無く送りつけられてくる事となっている。
特に、学園史上に類を見ない大事件となった学園舞踏会における川澄舞の乱心、別名【鹿鳴殿の変】。
そしてそれに前後して頻発した事件の総称である【睦月事件】の際には、殺人的な量の書類で生徒会室が埋め尽くされた。
報告書、陳情書、時には上申書、あるいは調査書、もしくは嘆願書、さもなくば始末書。
挙句の果てにはその中に恋文やら怪文書やらが紛れ込んだりし始めて、しかもそれが日常茶飯事になりかけた時期まであって。

だから、彼女は『それ』に気付くのが致命的に遅くなってしまった。
そして気が付いた時にはもう、上がってくる厄介事の中心人物欄に、『相沢祐一』の名前を見ない日はなくなっていた。

特別な家庭環境のせいになんてしたくはない。
祐一に関する資料を読み返すたび、沙紀はそう自分に言い聞かせる。
両親不在。
不自然な時期の転入。
従姉妹とは言え、同年代の女子生徒が居る家への居候。
確かに特殊な環境だし、それに起因する気苦労の種も他の生徒に比べて遙かに多いだろう。
でも、だからと言って『それ』を『これ』に結び付けてしまうのは、あまりに短絡過ぎはしないだろうかと沙紀は思っていた。
そして何よりも、それをする事は彼を本気で侮辱する行為になるのではないかと、この思慮深い書記長はほぼ確信すらしていた。
相沢祐一の『素行不良』は、その半分こそ明確な『不良行為』として成立しているが、もう半分は正直判断に困る類の物である。
中には小学生レベルの悪ふざけとしか思えないような物まで含まれていたりするため、更に判断に困ったりする。
要するに枳殻沙紀は、相沢祐一が『不良』なのか『馬鹿』なのかの区別が付かないのであった。
あるいは両方なのかもしれないし、久瀬なんかは両方であると断じて譲らなかったりもするのだが。
結局、本人の事は本人にしか判らないものなのだなぁと、沙紀は会長室で溜息交じりの呟きを漏らしてみたりもしたものだった。

無論、教師陣は祐一の素行不良を『家庭に問題あり』と結論付けて、分析終了した気になって一安心している。
それと同時に、ある種の免罪符をも自他共に得た気になっている。
例えば、他の一般生徒に比べて圧倒的な回数を誇っている遅刻の一件がそうである。
本来であれば遅刻回数が多いと言うだけで充分に生徒指導室呼び出しの対象となるのだが、教師陣はそれを執り行わない。
何故ならそこには、『立ち入るべきではない複雑な家庭の事情がある』と言う免罪符がぶら下がっているからだ。
仮に呼び出して何らかの指導をしたとしても、それで彼の生活環境が改善される訳ではない。
彼にも考慮されるべき事情があるのだから、あまり強硬な指導を行う訳にもいかない。
そんな、双方にとって都合の良い不干渉の免罪符。
もちろん『改善』と括ってしまうのは教師側の一方的な認識だし、恐らく祐一がそれを知ったら烈火の如く怒り狂うだろうけど。
総じて彼は、教師側にとって『扱いにくい生徒』であるに違いなかった。

「言葉を、訂正しろ」

久瀬の、黒く淀んだ声が響いた。
それは、怒りよりもむしろ憎しみに程近く、憎しみよりかは嫌悪に近い感情の色を持っていた。
沙紀の把握している限り、久瀬は自分の心情をあまり表に出さない人間である。
なのに今は、それが嘘みたいに直情的な姿を見せている。
ついさっきまで声を荒げていた事でさえも、本来ならば充分に驚愕すべき事態だと言うのに。
今度はそれをも上回る、圧倒的な感情の奔流を叩き付けている。
まるでそれが、彼の昔から在るべき姿であったかの様に。
まるで『彼』にだけは、それが許されているかの様に。
繰り返し訪れる『予測不能』の連続。
幾度も塗り替えられていく自分の中の既成概念。
沙紀は改めてこの夜が異常な刻である事を認識し。
同時に、『相沢祐一』がそれら全ての根幹を成している破格なまでの異常な存在である事を、強く再確認した。

「聞こえなかったか相沢。 貴様の、その、短絡的で穿った言葉を訂正しろと言っているんだ」
「……どの言葉だよ。 言っとくけど邪魔しに来たってのを訂正するつもりは――」
「黙れ、低脳」
「あぁん!?」
「よく考えてモノを喋れ。 私が今その発言を言葉面だけ撤回させて、一体何の意味があると言うのだ」
「……」
「何を言おうと貴様が私の邪魔をする事に変わりはないのだろう? なら、余計な事は喋るな」

虫唾が走る。
久瀬が小さく付け加えた一言を聞き取れたのが沙紀だけであった事は、事態の進行上とても幸運な事だった。

「口にするのは、ただ一つの謝罪だけでいい」
「謝罪……だと?」
「ああ、謝罪だ。
 こいつの言葉を遮り、したり顔で愚昧な憶測をし、優しさに端を発する状況の説明を、『体のいい脅し』などと侮辱した。
 そのふざけた言葉を訂正し、腐った認識を改め、己の間違いを恥じた上で、誠心誠意の謝罪をしろ」

どこまでも高圧的に、珍しいほど感情的に。
久瀬の求めた謝罪の言葉と前言の撤回は、しかしそのどちらもが自分に関するものではなかった。

「正式な依頼を受けたとか、公的な執行だとか言って、権力を大上段に振りかざす。 脅しじゃなければ何なんだ」
「言っただろう。 状況の、説明だ」
「馬鹿にしてんのか。 今更そんな事を――」
「言われなくても判っている、か? そうか、貴様は本当に“そう”で間違いないんだな?」

ぐっ――と、祐一が返答に詰まる。
不自然なまでの質問の反復が、自然と彼の気勢を殺(そ)いだ。
これが久瀬自身に関する事柄であれば、あるいは怒りや敵愾心から、問い掛けを一蹴する事も出来ただろう。
しかし今、彼がしつこいくらいに繰り返し問われているのは、他でもない『相沢祐一の在りかた』だった。
無視したり、投げ出したり、「お前には関係ない」と背を向けてしまうには、『それ』はあまりにも重過ぎる。
何故なら彼は、自分自身にすら『それ』を偽れないからこそ、今この場所で久瀬と対立している。
そして、だからこそ。

「俺が、何だってんだ」

口先三寸で揺らぐような物ではない。
どんな暴力にすら折れず曲がらずの自信もある。
だが、勝手な思い込みで『自分』の値踏みをされる事だけは、祐一にはどうしても我慢がならなかった。
だから、あえて祐一は手招きされている『そこ』へ、手ぶらのままに踏み込んだ。

「回りくどい喋り方してんじゃねえ。 言いたい事があるならさっさと言え」
「今日の放課後。 サッカー部の連中と生徒会役員との間で、少々厄介な小競り合いがあったそうだ」
「……はあ?」
「どうにも部活熱心な連中でな。 日の長いこの季節、六時で強制下校させられるのが余程気に喰わなかったと見える」
「テメエ人のハナシ聞いてなかったのか。 それが今、何の関係が――」
「涙を、流していたそうだ」

午後五時五十五分。
生徒会役員による『追い出し』が始まり、学園敷地内から生徒の姿がほとんど見えなくなってきた頃。
運動場の端に設置してあるクラブハウスの並びの前で、それは起こった。

「あくまで『追い出し』に応じようとしない数名のサッカー部員が、逆に生徒会役員に食って掛かったらしい。
 私も一報を聞いてすぐに駆け付けたのだが、その時には既に双方ともかなりの興奮状態でな。
 すぐに役員の女子生徒にはその場を離れさせ……その娘もすでに泣いてしまっていたんだが、そのフォローは他の役員に任せて――」

そう言えば、ちゃんと彼女は泣きやんで家路に付く事ができただろうか。
逼迫した事態に追われて人任せになってしまった事を今更ながらに気に病みながら、久瀬は先を続けた。

「その後、だ。 まあ……散々に罵倒されたな。
 人でなし扱いもされたし、まるで私たちが意図的に彼等の夢を摘み取ったような言い方までされてしまった。
 この時期の一分一秒がどれだけ大切な物か、机に座って書類と向き合ってばかりの私達にはこれっぽっちも理解できていないそうだ」

先ほどまでとは一転、淡々と言葉を紡ぐ久瀬。
しかし同じ生徒会役員である沙紀にだけは、その心情が痛いくらいに伝わってしまっていた。

オカルト系活動団体の代表者を招いて開かれていた、臨時生徒議会の最中。
運動場の片隅で諍いが起こっていると言う一報を耳にした久瀬は、物も言わずに会議室を飛び出していった。
会長が抜け、この上書記長まで居なくなっては話にならないと、沙紀は久瀬の後を追う事を自重した。
そして――
会議室に戻ってきた時の久瀬は、傍目にも判るほど酷く憔悴していた。
「なんでもない」と強がるその言葉が、何よりも沙紀の心を強く抉った。
議事進行に囚われて久瀬を追う事を自重した自分の決断を、沙紀はこの後、幾度も幾度も悔やみ続ける事となった。

「だが、私達には撤回は許されなかった。 何故なら、旧校舎にて奪われた『時間』もまた、彼等の『それ』と等価値であるべきだからだ」

優劣は付けられない。
『声の大きさ』は何の秤にもならない。
どちらも真面目な生徒からの訴えである以上、生徒会執行部には『どちらか一つ』を選ぶ事など許されないのである。
「身の程知らず」と罵られて。
「八方美人」と揶揄されて。
どんなに苦労して『それ』を見つけ出したって、そこに自分達の事なんてコレっぽっちも含まれていないのに。
それでも探す、シアワセの最大公約数。
それだけが、『正義』を託された彼等の存在証明だから。

「判るか、相沢。 私達が立っているのは、“そう云う”場所だ」

日々の辛い練習。
休みの日の束の間の開放感。
試合に勝利した時の喜び。
負けた時の悔しさ。
苦楽や勝敗の格差が激しい分だけ、体育会系の部は文化部に比べて、その内部における結束が異状にまでに強くなる傾向にある。
普段から対戦相手を仮想的として団結しているだけに、一度外部の者を『敵』と認識してしまえば、その感情はどこまでも暴走する。

「私達が過ごしているのは、そんな奴等から奪い取った時間だ」

久瀬が叩き付けられた、余りにも心無い罵詈雑言の嵐。
誹謗中傷の数々。
会議が終わってからの僅かな時間を利用して、沙紀はそれらをその場に居合わせた役員の数名から、半ば強制的に聞き出した。
そして、暫くの間絶句した。
『仲間』を守るために、自分達を『正義』と信じて疑わず、久瀬を断ずるべき『悪』として、倒すべきである『敵』として。
彼等の口から吐き捨てられたと云う言葉の数々は、まるでその向こうに『人間』を想定していない残酷なモノばかりだった。
人伝(ひとづて)に聞いた言葉ですら、怒りと哀しみで吐き気を催した。
こんなモノを直接叩きつけられたら、自分ではとてもその場に留まり続けられなかっただろうと思った。
そして、だからこそ沙紀は、その言葉を人伝にしか聞けなかったことを酷く後悔した。

「判っているのか相沢! 貴様が踏み躙ろうとしているのは『私』ではない! 生徒会の権限でもない!
 奪われた時間を返してほしいと希(こいねが)う生徒の声だ! 奪われたくないと泣いた奴等の、千秋にも等しい時間だ!」
 
依頼を受けた。
助けてほしいと、幾重にも束ねた声で、請い願われた。
だから、彼等は動いた。
だから、誰に疎まれようとも構いはしない。
何故なら彼等の『正義』は彼等の物ではなく、それ故に彼等自身の意志で揺らがせる事もできないからである。
執行部とは文字通り、大衆から与えられた『正義』と云う刃を振り下ろす執行人の集まりに過ぎない。
泰山の如き不動の『正義』がそこに在るのではない。
無数の人の寄り合いの中で必要とされた秩序や欲望の権化こそが、事後承認の形で『正義』と名乗るのを許されるだけの事である。
そう、だから――

「そして――貴様が既に踏み躙ったのは、『それ』に気付かせてくれようとした、コイツの思いやりだ」

執行部に逆らう事は、そのままの意味で全校生徒に歯向かう事になる。
全校生徒を、敵に回す事になる。
『執行部』と云う組織に対してぶつけられる誹謗中傷ですら、時にはその中にいる沙紀の心を酷く傷付ける。
ましてそれが一個人に対して浴びせかけられたりしたら、その後の事は言わずもがなである。
権利が生徒総会で承認されていると云うことは。
彼等に託された要望の執行を妨害すると云うことは、つまりは『そう云う事』になる。
それを、沙紀は説明しようとして。
伝えようとして。
実際に声に出して。
そして、とても純度の高い敵意に斬殺されたのだった。

「………」

久瀬の口から明かされた、放課後の一幕と沙紀の言葉の真意。
それは、終業のチャイムと同時に学校を飛び出す事が常になってしまった祐一にとって、あまりにも遠い世界の話だった。
どうにかこうにか中学時代の事を思い起こしてみても、部活動なんて何か理由をつけては適当にサボる物だと記憶されている。
いわんや、たった数時間を奪われた程度で涙を流すような類の物なんかでは、覚えている限りでは絶対にないはずなのに――

――世の中、俺やお前みたいな奴ばっかじゃないって事さ

軽い自嘲と共に北川が口に出した、『こっち』と『あっち』の間に境界線を引く言葉。
あの時は特に思う事もなくスルーしていたはずなのに、今、こんなにも頭蓋の中で暴れまわる。
それは、後悔なんて無いはずだったこれまでの日々を、何故だか感傷的にさせる響きを持っていた。

だって、身体が覚えている。
もうずっと昔の事だけれども、それでも忘れられずにいる。

太陽の温度調節機能がぶっ壊れたんじゃないかと思うような、酷く暑い夏の日の午後。
脱ぎ捨てられた汗だくの柔道着と、遠くから聞こえてくる吹奏楽部の下手くそな演奏。
清涼感もへったくれも無いコンクリート製の水飲み場。
二つ並んでくすんだ銀色を見せていた蛇口。
真白い陽射し。
入道雲。
浴びるようにして飲んだ生ぬるい水道水と、降り注ぐ大量の蝉時雨。
永遠が陽炎に揺れていたあの日の事を、今も俺は、思い出そうとすればハッキリと思い出せてしまうから。

決して『戻りたい日々』だとは言わない。
何遍だって重ねて言うが、たかだか数時間を奪われて涙を流す類の物なんかではない。
だから、共感はできない。
だけど、理解はできる。
例えそれが物であれ時間であれ、自分が大切に思っている『何か』を突然に奪われる感覚は、きっと万人に共通した物だと思うから。
『それ』を奪い去られてしまう事は、とてもとても辛い事だから――

「……そこの彼女の真意を誤解していた事は、謝る。 勝手に勘違いして、ごめんなさい」
「はぇ? あ、えと……はい」

茶化す訳ではなく、本当に申し訳無さそうな声での謝罪。
ご丁寧に頭まで深々と下げる。
余りにも意外な素直さに、逆に沙紀の方がうろたえてしまっていた。
だが、それもほんの数瞬のこと。
もともと根が素直な沙紀にとって、現状をありのままに受け入れる事はそれほど難しい事ではなかった。

判ってくれた。
話し合いで解決する事ができた。

彼女がそう思った瞬間、確かに場の空気は穏やかに弛緩した。
それは、沙紀の安堵が齎した変化と言っても過言ではなかった。
何時の間に隠れていたのだろう、不意に雲間から顔を出した月の明かりが、リノリウムの廊下を青白く照らす。
それすらも前途を祝福されているかの様に感じられて、ますます沙紀の心は無防備になった。
そして。

「あと――せっかくの忠告を無にしてしまう分も、本当にごめん」

ガードを解いていた分だけその言葉は、沙紀の内奥を酷く揺さぶる事となった。