「な……なに、か…理由があるんですか?」

沙紀が思っているよりも、その声は小さく擦れていた。
思っていたよりもずっと、子供の様な問い掛けになってしまっていた。
『裏切られた』だなんて思うのは、自分勝手な傲慢に過ぎる。
『理解しあえた』と思ったのは、ただの希望的観測に過ぎない。
それだけ判っていてもまだ、沙紀の喉に詰まってしまった『何か』は消えてくれそうになかった。

「もし何か理由があるのなら……わ、私がっ――」

それでも、声を振り絞る。
ついでに勇気も振り絞る。
ええい、なけなしの根性も持ってけてんだちくしょーこのやろー。
だって書記長は偉いんだ。
使えるものは何だって、最後まできっちり使い切るのが良い補佐役と云う物なんだ。
急須から注がれるお茶は、最後の一滴が一番おいしいってお祖母ちゃんが言っていた。
魚も獣も肉なら全て、骨をこそぎながら食べるような部分が一番上等なんだってお祖父ちゃんが言っていた。
だから。
どんな状況に置かれても、ぎりぎりになるまで頑張って。
泣きたくなるような時だって、どうにかこうにか踏ん張って。
最後の最後に残ってる、たった一滴の”それ”やたった一粒の”それ”こそが、自分の一番信頼できる『何か』だと思うから――

「――いえ、“執行部”がっ! 絶対どうにかしますからっ!!」 

勢いに任せて、泣く様に。
叫ぶ様に。
と云うかむしろ実際に叫びながら、沙紀はその言葉をぶちまけた。
『自分』を限界まで削ぎ落としていって、それでも最後に残るモノ。
最初っから傍にいて、最高に頼りになって、最後になるまで縋ってしまうモノ。
沙紀にとって『それ』とはやはり、久瀬が率い、自らもその中枢に存在している事を前提とした、生徒執行部会であった。
『彼なら何とかしてくれる』、なんて甘えた考えではない。
『私たちなら何とかできる』と云う、強く潔くに編まれた意志。
これまでに積み重ねてきた輝かしい軌跡の数々が、彼女の心に小さな火を燈した。

だが。

「………」

祐一は、そんな彼女にすら視線を合わせようとはしなかった。
真一文字に結ばれた口元からは、何の音声も発せられる事は無かった。
是でもなく。
否でもなく。
阿―、とも吽―、とも言わないままに。
彼は、直接的な拒絶よりも尚更に強く激しく、沙紀の全てを否定した。

「相沢く――」
「無駄だ、沙紀」

これ以上言葉を重ねても、判り合えない真実に傷付くだけである。
ただそれだけを危惧した久瀬は、祐一と沙紀の間に割って入るようにして、言葉の行く末を遮った。

「こいつは何も語りはしない。 過去、『睦月事件』における全てにおいて川澄共々”そう”であった様にな」

脳裏に浮かぶ、忌々しい記憶。
思い出したくも無い、懊悩の日々。
どんなに根気強く問い質しても、あるいはなだめすかしても。
あの時、第一級の被疑者である川澄舞は、何も喋ってはくれなかった。
沈黙は貴女の状況を不利にすると。
どんなに小さな証言でも、容疑を否定するものであれば構わないと。
何度も、何度も、久瀬はそう言ったはずなのに――

「――理由が有ろうと無かろうと、やって良い事と悪い事がある。 私は前にもそう言ったはずだな、相沢」
「……ああ、覚えてる」
「なら、今お前がしている事は何だ。 それは『許されること』なのか?」
「………」

それから、また長い沈黙があった。
月が再び群雲の陰に隠れ、校舎内が再び灯火の紅に染まるだけの時間が過ぎた。
その間、祐一は一言も口にしなかった。

「語らず、か。 やはり貴様は、何も変わらない」

深い、諦観の念。
心の底から呆れたが、かろうじてまだ言葉は紡げるらしい。
更なる罵りと決別の文句を叩き付けようとした久瀬は、しかしそこで自分の口元がほんの僅かに緩んでいる事に気が付いた。

そう、相沢祐一は変わらない。

季節が変わり。
学年が変わり。
クラス替えも、衣替えも、とっくの昔に終わってしまったと云うのに。
それでも、祐一は何一つ変わらない。
見据える『先』にブレが無い。
ことそれが『シアワセ』の取捨選択における限り、相沢祐一には逡巡と云うものが微塵も存在していなかった。

『自分のシアワセ』を棄て。
『他人のシアワセ』すら切り捨てて。
四面楚歌の中にようやく作り出す、小さく閉ざされた幸せの箱庭。
その中では、誰もが笑顔でいられる。
誰もが幸せでいられる。
”相沢祐一に選ばれた者だけ”が入る事を許される――

――そんな物は、吐き気がするほど偽善的なただの『檻』だ。

いったい何度同じ事を繰り返す。
どうしてそうも簡単に『人』に優劣を付けられる。
誰かのシアワセと誰かのフシアワセは、必ずしも等価交換ではないはずだろう。

口には出さない。
どうせ応えが返ってこない問いだから。
どうせ、答えが判り切っている問いだから。
そうだ、お前は変わらない。
変わらないお前を相手にするからこそ、私とて『私』を貫ける。
貴様の『芯』を、私の『真』で貫ける。

――ォン

なあ。
もう、充分だろう、相沢。

――ダ、ダ、ダだだだダダだダダダだ

「――頃合いだ。 幕開けから乱調の連弾とは、流石の私も初めて耳にする趣向だがな」

呟くような久瀬の声が掻き消されるほどの、激しく、激しく、激しいピアノの叫び声。
まるで楽曲の体を成さないメチャクチャな音の連続は、まさに『気狂いピアノ』の名を冠するに相応しかった。
何をモチーフに作られた曲なのか。
何を伝えるために弾いているのか。
そんな形式じみた問い掛けの一切合財がどうでも良くなるくらい、『ソイツ』は鍵盤を叩き続けていた。
調子っ外れに。
無軌道に。
五線譜なんか下らないとでも言わんばかりに自由闊達に――とても、楽しそうに。

「沙紀! 刀を寄越せ!」
「あ、あいっ!」

怒号にも似た裂帛の気勢と共に発せられた命令が、沙紀の脳漿から『思考』と云うシークエンスを蹴り飛ばす。
ほぼ脊髄反射の域で放り投げられた白木造りの祓刀が、まるで吸い寄せられるように久瀬の手中へと辿り着く。
沙紀が我に返って『しまった』と思った時にはもう、全てがどうしようもない勢いで動き出していた。

「っ――ぃいい行かせねえっつってんだろがあああ!!」

『標的』に向けて一直線に走り始めた久瀬に対し、祐一は叫んだ。
そしてそれとほぼ同時に、真正面から全力全開での中段足刀をぶっ放した。
言葉が意味を為していた時点は、既に遠く過ぎ去ってしまって久しい。
だがそれでも、祐一はあらん限りの声量をもて、血を吐く様に叫んだ。
それは意思疎通のためではなく、自身に自分の存在理由を刻み込むための叫びだった。

人に殺意の有無で文句を付けておきながら、自分はこの領域の蹴りを放つのか。
正中線上の急所全てに生命維持レベルの危機を感じながら、久瀬は心中のみで祐一の行動を強く非難した。
疾走の出端で姿勢が低くなった所に対し、まったく容赦無しの中段足刀。
それも、一般男子生徒が繰り出せる域を遙かに越えた。
それどころか、格闘技経験者でも余程でなくては到達し得ないであろう。
――否、それは既に『人』として放ってはいけない類の、命を奪う事に欠片の躊躇も覚えない残虐な蹴りだった。

この蹴りは、『人』を想定したモノではない
『人よりももっと強靭で凶悪な何か』に向けられたモノである

生死が錯綜する交戦の最中にそれだけの事を察知できただけでも、久瀬は人並み外れた情報処理能力を持っていたと言える。
だが、それ以上の部分に踏み込んで思考を巡らせるだけの余裕は、流石の彼ですら持ち合わせてはいなかった。
それが幸か不幸かは、今の段階では誰にも判らなかった。

大気すら歪ませるほどの速度で迫り来る足刀。
しかし久瀬は、決して前進を止めはしなかった。
それどころか、より速く。
そして、より低く。
ついには中段に放たれた足刀に対し、顔面をその軌道上に置く程に。
速く、低く、速く、疾く――!

「――っ!!」

”それ”は、直撃していれば首から上を丸ごと『喰われ』ていたであろう、暴風の様な蹴りの余波。
頬の皮一枚を掠めただけで色濃い『死』を振りまいた凶悪な”それ”は、しかし、擦れ違う久瀬のどの部分をも喰い千切る事は出来なかった。

相対速度の増加に伴う、三次元空間における着弾点のずれ。
危険性の上昇値。
それらが齎す『恐れ』は判断力を大いに鈍らせ、更に危険性が増していく。
だが。
刹那の見切り。
自身の肉体への信頼が齎す、紙一重での回避行動。
もとより、『自分が動けば相手は攻撃に移るだろう』と予測していた久瀬にとって、それはどこまで行っても計算通りの現実でしかなかった。

久瀬の右肩の上。
首の横。
伸び切った祐一の右足を見逃す理由など、この場においてはどこにも存在しない。

全力疾走の勢いを決して殺さず、蹴りをかわした状態からさらに左足を大きく踏み込む。
後ろに引いていた右腕を全力で振りかぶり、上腕部分にて祐一の大腿部をがっちりとロックする。
前進を止めない。
祐一の重心が一気に後方へと傾く。
前進を止めない。
ついには軸足が完全に宙に浮く。
前進を、止めない!

「ぉ、おおおおおおお!!」

そして、渾身の力で。
自分の身体が前方に一回転するほどの、形振り構わない全力で。
久瀬は、祐一の後頭部をリノリウムの床に叩き付けた。
殆ど殺す勢いだったと、沙紀は後にそう語った。

――ッバァン!!

一際激しく鍵盤が叩かれた音と、祐一の頭部が床と衝突した音が見事に重複する。
少し離れた位置に居た沙紀の中履き越しにすら、その凄まじいまでの振動が伝わってくる。
まばたきすら許されない一瞬の交差。
立っていたのは、やはり久瀬の方だった。

――眼前に立ちはだかる邪魔者を始末したい

その思いは、祐一と久瀬の両者に通じる物だった。
互いに互いを邪魔だと思い、排除する機会をうかがっていた。
言葉などでは、覆らない。
この厄介者を黙らせるには、純然たる『力』に拠る排除以外に手立てはない。
信念や立ち位置を真っ向から反目させあいながらも、世にも物騒な部分で一致する彼等なりの見解。
それは要するに、言葉による説得は無理そうだから力尽くで黙らせてしまおうと言う、何とも単純で素敵に野蛮な結論でしかなかった。

だが。
そこから半歩だけ踏み込んだ『其処』こそがまさに、二人を分かつ境界線だった。

祐一が放った蹴りは、確かに一般人の枠を遙かに超越していた。
しかし、それはあくまで『覚悟』の範疇においてであり、そこに技術的な裏打ちなどは一切存在していなかった。
特殊な始動も特別な軌跡もない、自分の思いを貫き通すためだけに放たれた、愚直なまでに真っ直ぐな全身全霊の一撃。
歪まない、曲がらない、揺るがない、だからこそ、その蹴りは意味を持つ。
そして、”だからこそ”その蹴りは完璧までに見切られ、虚しく空を切ったのであった。

一方、久瀬が見せた交差法は明らかに『技』と呼ばれる類の物だった。
本来なら投げをうつ腕に逆手で刃を持ち、相手の頭部を地面に叩き付けると同時に喉元を押し斬るこの技。
後頭部をかばえば喉元への刃は致命的な物になり、咄嗟に刃を防ごうとすれば頭蓋は激しく叩きつけられる事となる。
それはまさに、ある一点へと目的を集約して磨き上げられてきた『武』の骨頂だった。
だが、今ここで評価に値するのはその威力や確実性の多寡ではない。
真に重要視されるべきなのは、この技の本質がカウンターであると云う部分。
そして久瀬が、今のこの状況で『それ』を選んだと云う部分だった。

お前なら、そう来ると思っていた。

今だ手に残る感触を生々しく感じながら、久瀬は静かに一瞬の交差を反芻した。
互いの攻撃のみならず、矜持までもが血を滲ませながら錯綜したその『時』は、思っていたよりも遙かに濃密な残響を伴って腑に落ちた。
感情を偽らないだろうと思っていた。
小細工を弄さないだろうと思っていた。
『守るために傷つける』と云う業の深い取捨選択に、相沢祐一ならば一秒たりとて囚われる事は無いだろうと確信していた。
だから、久瀬はあえて『それ』を偽った。
真正面から祐一を思い切り殴り飛ばし、音楽室へと続く廊下を正々堂々踏破したいと云う『感情』を、120度くらい強引に捻じ曲げた。
後手に回ってもいい。
正道でなくても構わない。
全てが自分自身の力でなくても良いし、えづく様な後味の悪さも難なく許容してみせる。
そうだ、その程度で済むのであれば――

「――貫くためなら、私は曲げる」

どうせ聞こえてはいないだろう。
口を半開きにしたまま忘我の体で横たわっている祐一の姿を横目で見ながら、久瀬は小さく呟いた。
それは先ほどの祐一の叫び同様、誰かに伝えるための物ではなく、ただひたすらに自身に言い聞かせるための物であった。
自分が何のために此処にいて、何をするために何を犠牲にするのか。
自らに覚悟を問い、その答えを金科玉条の存在理由とし、再び前を睨みつける。
それは、驚くほどに強く編まれた強固な意志だった。
だが逆に言えば、今の久瀬はほぼ無意識に『それ』を再確認しなければならないほど、心身に酷い揺らぎが生まれていると云う事でもあった。

『人』に優劣を付けているのは、自分も同じなのではないか

何も語らない男を、何も語らないからと打ち倒した。
論理を戦わせる事をせず、力で強引に捻じ伏せた。
罪悪感と云う訳ではないが、一抹の気持ち悪さは心に残る。
もっと何か別のやり方が。
もっと他に最善の道が。
考え始めれば切りが無い。
どこかで線を引かなければならない。
勿論それは彼としても重々承知の上だったし、何も語る意志を見せなかった祐一が一番悪いのは明確なのだが。
それでもやはり、それでも、彼は――

黄泉還る記憶。
疼き出す古傷。
何も語らない『あの女性(ヒト)』を、何も語らないからと切り捨てた過去が。
じくじくと痛む。
あの日々を、悼む。

――”それ”は、この夜に久瀬が見せた最初で最後の隙だった

懸想と後悔に費やした余白は、実存時間にすれば数秒すら満たさなかっただろう。
だが、幾重にも非日常の重なった今宵の旧校舎において。
また、幾重にも非常識を身にまとう男を尻目において。
その時間はあまりにも長すぎて、あまりにも無防備に過ぎていた。

「……なんて顔してやがんだ、情けねえ」
「なっ――!」

一瞬。
しかし、言葉を失うほどの驚愕。
久瀬が見せたその驚きの大きさは、遠く離れた沙紀にまで同様の衝撃を与えていた。
主に『え、本気で殺したつもりだったの?』と云う部分で、彼女は驚きを禁じ得ずにいた。
なんだろう、キミたち二人が揃って何かをし始めると、まるで自分だけが別次元で息をしているような気になってくる。
多大な諦観と若干の嫉妬が綯い交ぜになったその感想は、呟かれる事すらなく彼女の胸の内で消えていった。

「貴様……」
「何故って? そりゃお前、間一髪で防御に成功したからに決まってんだろ。
 もっとも、おかげさまで中指骨は何本かイっちまってるみたいだし、おまけに眩暈と吐き気で立ち上がれそうにも無いんだがな」

諦めたような嘆息を吐きながら、言葉通り身動き一つも取らない祐一。
思いも拠らない覚醒から反撃を警戒していた久瀬も、これには少しだけ緊張の糸を解かされた様だった。
呑んでいた息を小さく吐く。
拳から少しずつ力を抜く。
すると自然に唇が言葉を紡ぎだし、言葉は連なり声となった。
それは、本人ですら全く意図していなかった、一度は途切れた『会話』の突端だった。

「……で?」
「……あ?」
「無様に床に寝転がり、起き上がることもままならない状態から、貴様は私に何が言いたいのかと問うている」
「なんだ、ハナシ聞いてくれんのか? どんな気まぐれだそりゃ」
「………」

過去の負い目を勝手に背負わせて、しかも相手を違えた償いでそれを清算しようとしている。
祐一の軽口によって自らの行おうとしている事を冷静に鑑みた久瀬は、その品性の下劣さに酷く愕然とした。
例えその本質が『同じ轍を踏まない』と云う自戒を込めた、とても賢明な判断だったとしても。
一度心中で”そう”と思ってしまった以上、それは彼にとって『過去の焼き回し』以外の何物でもなかった。

「すまん。 今のは失言だ、忘れてくれ」
「……ま、お前にも色々と葛藤だの事情だのがあるんだろうけどな」

それは、盛夏の高原に流れる水の様に。
もしくは晩秋の薄(すすき)を揺らす宵風の様に。
仰向けの姿勢のまま祐一がぽつりと漏らしたその『声』は、驚くほどさらりと久瀬の感情の表皮をすり抜けて行った。
否定もせず、肯定もせず。
同情もせず、憐憫の感情も持たず。
下手をすると『理解』すらしていないのかもしれないと思わせるに足る、それほどまでに全くの無為な音声(おんじょう)。
呆れるほどに心地良いその薄絹の様な響きが、しかしだからこそ今の久瀬にとっては、筆舌に尽くしがたいほど最高に忌々しかった。

今ではない何時か
此処ではないどこかで、貴様が同じ様に同じ言葉を吐いたのなら
私とて『それ』を素直に受け入れることも、笑い話にする事もできたであろうと云うのに――

「口先だけで、人の意志を尊重するような言葉を吐くな。 どうせ貴様は私が何を抱えていようとも、関係無しに我を通すのだろう?」
「人の事を狂犬みたいに言うんじゃねえよ、クソッタレ」
「………」
「誰彼構わずって訳じゃない。 性質悪い菌にアタマ侵されてトチ狂ってる訳でもねえ。 いつも言ってんだろ、テメエと俺は――」
「――『相性が悪い』。 そう、確かそんな内容だったな」

朝ぼらけの校門で。
昼下がりの教室で。
夕暮れの廊下で、放課後の体育館で、そして夜更けの旧校舎でまでも。
何時の頃からだろう、気が付けば祐一は久瀬と反目する度に、その言葉を残すようになっていた。
ある時は忌々しげに。
またある時は、『そう』としか生きられない互いの身を相憐れむかの様に。

――お前と俺とは、相性が悪いな

同じモノを同じ時に必要としてしまう間の悪さ。
同じコトを同じ様に受け取る事のできない感性の違い。
違うモノを、違う様に大切に思い。
だけど等しくソレを守りたいと思ってしまい。
そしてそれ故に、対立し合わなくてはならない現実。

「俺にとって譲れないモノが、たまたまお前にとって退けないコトだった。 俺とお前がぶつかりあってる事情なんて、大体いつもそんな感じだ」
「……私は、貴様ほど割り切って生きてはいない」
「なら、今回のケースも割り切らずに最後まで付き合ってくれ。 『声』の大きい方しか向いてくれないんじゃあ、さすがに『あいつ』が可哀想だ」
「……アイツ…だと?」

その言葉を聞いた瞬間。
久瀬の眼差しに、俄かに悋気が舞い戻った。
半ば以上が予想していた通りの展開だし、『思いもしなかった』だなんて言葉は物笑いの種にしかならないだろう。
祐一が此処にこうして居る以上。
そして、明確な意志を持って自分と対立した以上。
全ては此処に帰結して然るべき。
そうでなくては全てに辻褄が合わない。
何度も何度も自分にそう言い聞かせながら。
だが、それでも久瀬はどうしても、醜く逸る言葉と感情を押し殺す事ができずにいた。

「やはり貴様……全てを識っていたのか」
「知らねえよ。 お前の言う『全て』が何の事だかも、お前が抱えてる七面倒臭い事情も、俺は知らないし知った事じゃない」
「ならば何を――!」
「ただ……少なくとも、”問答無用”を貫く事に幾らばかりかの呵責を覚えてる。 そんな今のお前なら、『悪かねえ』と思っただけだ」
「――なに?」
「正義だ悪だってテンパってた峠は越えただろ? なら、もういいって言ってんだよ」

そこまで言って、祐一がゆっくりと上体を起こす。
多分に緩慢な動きではあったが、しかしその動作は確実に久瀬を驚かせる事に成功していた。
どうやら会話に費やしていた僅かな時間ですら、この男の体力を回復させるのには充分だった様だ。
刹那の危機回避能力も然る事ながら、回復能力までもが実に驚嘆に値する物である。
いや、あるいは最初から体力回復までの足止め目的であんな軽口を――?
と、そんな疑念に久瀬が囚われようとしていた、まさにその時。
自分がどう思われているのかを見透かしたかの様な溜息を吐きながら、祐一がその手を久瀬に向けてすっと伸ばした。

「……何の真似だ?」
「お前にしこたま叩き付けられた所為だ。 未だ足元が覚束無い」
「立ち上がる手助けをしろ、と?」
「お前の助けが無きゃ立つ事もままならない。 そう言ってんだよ、判らねえか?」

争う意志も、その余力も無い。
そして”それ”を隠すつもりも更々無い。
態度だけはむやみやたらと大きいが、要するに祐一が言っているのはそう云う事だった。
”あの”相沢祐一が、宿敵とも言える久瀬に対して。
事実上の敗北宣言をしている。
更にその上で、立ち上がる事に手を貸してほしいとまで乞い縋っている。
眼前で繰り広げられている『まさか』の光景に、またしても沙紀は開いた口が塞がらなくなっていた。

信じられない。
ありえない。
今までこの二人がどれだけの敵意を持って対立しあってきた事か。
そして、自分がどれだけそれに振り回されてきた事か。
いつも二人は対立していた。
だけどいつも決着はつかなかった。
まるで双方が明確な勝敗の上に立たされる事を拒んでいるかの様に、最後は必ず痛み分けで終わってきた。
だから、自分もそれでいいと思っていた。
呆れたように「死ぬまでやってればいいじゃないですか」と言いつつ、本心でもこっそり「死ぬまでやってればいいな」と思っていた。
『生徒会長と不良生徒』と云う肩書きがなくなっても。
たとえこの学校を卒業してしまっても。
何かの拍子に偶然ばったり顔を合わせたら、また『いつも』の様に小さな事でいがみ合う。
そんな風にして、ずっとずっと変わらないものが何か一つくらいはあっても良いんじゃないかなと、割と本気でそう思っていたのに。
なのに。
今。
あの体育祭、百華繚乱、『合戦』ですら決しなかった二人の優劣が、こんな所で決しようとしている。
こんな所で『終わろう』としている。
自分の敬愛する久瀬が勝者側として立っているにもかかわらず、それは沙紀にとって酷く寂寥を伴った光景として捉えられていた。

だが――

「断る」
「んなっ!」
「んにゃっ?」

久瀬のあまりにも空気読まない断りっぷりに、遠く離れた沙紀ですら思わず変な声を出してしまっていた。

「………」
「………」
「こほん。 失礼、続けてください」

おまけに、祐一と久瀬の二人に揃って「何事だ」みたいな目で見られる羽目にまで陥っていた。
咄嗟に平静を装って先を促してはみたものの、気が付けばそれは何よりも明確な『傍観者宣言』であったりする訳で。
自分の口からハッキリと、『私の事は蚊帳の外に置いといてください』と言ってしまったも同じな訳で。
こうなったらもう徹底的に第三者の視点を持つしかないのかなあと、ほんの少しだけ痛む胸を押さえながら一人ごちる。
それでも、それ以上は決して落ち込んだりしない辺り、沙紀はやはり久瀬の傍らに居る事を許されるだけの強さを持った女の娘なのであった。

「……私は、キミを助けたりはしない」
「ああ、そうだな……そうだった。 お前はそう云う奴だった」

突き放すような言葉。
なのにどこか優しく聞こえる声。
落胆して失望しているかのような言葉。
なのに不思議と安心したかのような声。
沙紀の目の前で繰り広げられているのは、矛盾と背反が月光の下でワルツを踊っているかの様な、そんなおかしな空間だった。

「じゃあ……手助けなんかしなくて良いから、あと30秒だけ無駄話に付き合えよ」
「断る」
「っは。 つれねえな、オイ」

まだ整いきらない吐息の中に、かすかに見えた口元の笑み。
間違いなく、相沢祐一はこの『会話』を楽しんでいる。
『会話』と呼べるものかも怪しいような、とても歪な遣り取りを。
それでも彼は、そこに反応が在る事だけを喜んでいるかのように。
久瀬、と、相沢。
一体どれだけの想いを共有すれば、今みたいな遣り取りですら微笑みの対象になると云うのだろう。
この世界にある『何』を共有する事が出来たのなら、彼等みたいな関係を構築できるのだろう。

「――先に、行っているぞ」
「ああ……すぐに追いつく」

久瀬の言葉は――本来であれば沙紀に向けられてこそ正しい意味を持つはずの言葉は――既に祐一に対してしか向けられていなかった。
それが、沙紀にとってはとてもとても寂しかった。

遠ざかっていく久瀬の背中。
追い縋る事すらできず、ただその場に立ち尽くす沙紀。
暫しの静寂が、燈火に揺れる廊下を支配した。

「……行かないのか?」

まだ完全回復には程遠いのだろう、喋ると云うよりも零すと表現する方が的確な音量で、祐一がその言葉を口にした。
「あなたにだけは言われたくない」と牙を剥こうとした沙紀は、しかしながら『それ』が問いに対する答えではない事に気が付いた。
祐一がしているのは『行かないのか』と云う問い掛けなのだから、それには『はい』か『いいえ』で答えなければならない。
しかも『いいえ』と答える以上は、その理由にまで言及しなければならない。
なんとも律儀な生徒会書記長の思考回路は、こんな時にまで無駄に丁寧で理路整然としていた。

彼の背中をすぐに追えなかった時点で、この問答に答えは出てしまっている。
いや、答えが既に出ていたからこそ、私は彼の後ろに付いて行く事ができなかったのだ。
行かないんじゃない。
行けないんだ。

「……わ、たしが行ってもっ、や……く、に立ちそうにないもな…の、で」

泣くものか。
絶対に、この人の前でだけは絶対に、泣いたりするものか。
口を開いた瞬間から喉元を握り潰しにかかる濃密な嗚咽の気配を、それでも強引に捻じ伏せながら何事も無かったかの様に言葉を紡ぐ。
うっかりすれば涙がぼろぼろ零れ、言葉も千々に乱れてしまいそうになるところを、どうにかこうにか繋ぎ止める。
あまり上手に隠す事はできなかったけれども、この意志を捨てることだけは決して
しまいと沙紀は思った。

「……そうか。 アンタも色々大変なんだな」

それは。
それ“
も”また、久瀬に向けられた言葉同様に、何の意味も含まない透明な言葉だった。
同情の意思は無い。
さりとて完全に無関心な訳でもない。
自身の背景を匂わせる訳でもなく、皮肉めいた彩も一切無い。
何だろう。
この人は一体、何なんだろう。
決して不快な意味ではなく、沙紀は強くそう思った。

「ただ、その認識だけは改めてもらおうか。 じゃないと俺が身動きとれなくなっちまう」
「……はい?」
「久瀬がアンタを残していったのは、役に立たないからじゃない。 むしろその逆だ。 アンタに頼り切ってるから、この場を任せたんだよ」
「この……場?」

投げ捨てられた白木の鞘が遠くの方に転がっている。
会話によって微かに揺れる燈火が長い廊下に連綿と連なっている。
そして、強烈な一撃を見舞われた男子生徒が大の字になって転がっている。
想定外どころか既に天外魔境のレベルに達している『この場』を冷静に分析し、沙紀はゆっくりと諦めの溜息を吐いた。
うん、何を言ってるのか全っ然わっかんない。
そもそもこんな状況で役に立てるくらいフレキシブルな能力を持っているくらいなら、最初から置いて往かれたりしない。
そんな事が出来るのならば、常に前進を続ける我等が会長の傍らに侍る事を許されているはずなのだ。
だけど、私はこうして此処に居る。
だから、私には何もできない。
私にできる事なんて、何一つとして残っていないはずなのに――

「――手、貸してくれ」
「……はぇ?」
「一人じゃどうにも起きられねえ。 でも、アイツは死んでも戻ってこねえ。 なら、アンタに頼るしか無いだろう?」

差し出される、相沢君の右手。
握り返してもらえると云う事に微塵も疑いを抱いていない、驚くほど無垢に柔く広げられた掌。
反射的に自分の右手を見てしまった私は、そこに何も持たれていない事実に直面し、酷くわざとらしい溜息を吐くはめになった。

「……『これ』が、私にしかできない事ですか?」
「ああ。 そんでもって、アイツには絶対にできない事だ」

相沢君がニヤリと笑う。
私は、ますます大きな溜息を吐く。
だけどそこで意思疎通が完了してしまった以上、私の右手は空でいる事を許してもらえそうになかった。

そっと握った相沢君の手は、想像していたよりもずっと華奢だった。
触れた瞬間に感じた体温【ネツ】は、想像していたよりもずっとずっと熱かった。
強く握られていた拳と、そこに篭められていた信念の残滓に触れた気がして、私は思わず声を詰まらせた。

「ありがとう」
「………いえ、別に…」

私は。
『私たち』は。
どんな言葉で言い繕おうとも、結局、『彼』を踏み躙っている。
理解しあう事も、譲り合う事もできず、ただいたずらに傷付けあい、暴力で口を塞いでそれを『よし』としているのだ。
嫌だな。
こんな解決の仕方は、すごくイヤだ。
たとえそれが『久瀬の勝利』で終わる案件だったとしても、そんなのちっとも嬉しくないと沙紀は思った。

今なら答えてくれるだろうか。
一応の決着がついた今ならば、私にそっと教えてくれるだろうか。
君が守ろうとした、どうしても譲れなかった、その大切な『何か』の存在を。

自分の肩に寄りかかる心地良い重みに。
一歩を踏み出すごとに頬をくすぐる長い髪の感触に。
ほんの少しの親近感を覚えた沙紀は、その問いを口に出そうとして。
想いを言葉に編みなおそうとして。
そこで、自分がいかに残酷な事をしようとしているのかに気が付いて、寸での所で思い止まった。
死体に鞭打つどころの話ではない、それは真新しい傷口をさらに抉り引き裂く事なのだと、強く自分を非難した。

どの口が言えるのか。
どの面を下げて訊けるのか。
奪う側の私たちが、奪われた人に向かって、『何を必死で守ろうとしていたのか』なんて質問を。
馬鹿じゃないのか、自分。
何を勘違いしていたんだ、枳殻沙紀。
ほんの一瞬手を繋いで、ほんの一時肩を貸しているくらいで、どうやればそこまで彼に近しい位置で話せると思ったのか。

「……俺の顔に、何かついてるか?」
「……いえ、別に…」

彼は、『敵』なんだ。
生徒会の執行を邪魔しに来た、これまで幾度となくそうであったように、今回もまた久瀬君に反目する不倶戴天の『敵』なんだ。
何度も何度も自分にそう言い聞かせながら、沙紀は重い足取りのまま音楽室への道を進んだ。

とても、長い道のりだった。