楽しかった。
あの日々の感想を一言で表せと言われたら、私はこう応えるだろう。
じゃあ二言で表せと言われたら。
すっごく楽しかった、と言うだろう。

(回想)

沙紀(仮)は書道部だった。
その日、私はいつも通り教室の展示をサボってフラフラと校内をうろついていた。
と、その時。
誰かに呼ばれた気がした。
振り返ると、制服のスカートに上はジャージな姿の沙紀(仮)がいた。
変なカッコだと思った。

「おう」
「ね、ちょっといいかな」
「構わんが?」

呼ばれて書道室に入ると、そこには3−Bが主催する模擬店のメニューが書かれたデカい紙があった。
どうやら沙紀(仮)が書いてくれたらしい。
文化部である沙紀(仮)は、自分の展示品等で手一杯なはずなのに。
一生懸命、書いてくれた。

「どうかな」
「……下手な字だ」
「ひ、ひっどー」

感謝の気持ちを素直に表す術など、私は持っていない。
昨日今日にやっと話すようになった相手なら、尚更だ。
紆余曲折を経てちゃんと礼を言ったのは、その三倍くらいからかった後になる。
些細な事だ、と私は思った。

「いや、でも、うん……まぁ、ありがとうな」
「どういたし…まっ!!?」

私の捻くれたお礼に対し、にっこり笑いかけた表情が、固まった。
2秒後。
沙紀(仮)は叫んだ。

「きぃやぁぁぁぁっ!」

沙紀(仮)の声が書道部室に響く。
他の部員が、一斉に私と沙紀(仮)の方を見る。
ポケットに手を突っ込んでいる私。
悲鳴をあげる沙紀(仮)
どう見ても、私が沙紀(仮)に『何か』をして叫ばせたようにしか見えなかった。

「ご、誤解を招くようなマネは止せアホ!」
「虫がぁぁ!」
「むし? ……おぉっ!?」

その日も暑かった。
暑い中で部活をする書道部員は、まぁ当然と言えば当然の流れで窓を開け放っていた。
恐らく、4時ごろから。
そして時は流れ、太陽は沈み、時刻は6時30分過ぎ。
これもまた当然と言えば当然の流れで、そこら中の虫が蛍光灯の光を求めて部室の中に飛び込みまくっていたのだ。
蚊柱のような雲霞の数、およそ数千。
蛍光灯の光が霞んで見えるほどの大部隊だった。

「た、た、たす、たすけ……」
「お、俺を盾にするな!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」

謝るくらいなら制服を掴むその手を離してほしかった。
何故なら私も虫が嫌いなのだから。
具体的に言うと、シイタケくらい。

30秒後。
部屋から脱出した私と沙紀(仮)は廊下で荒ぐ息を整えていた。
って言うかコノヤロウ。

「人を盾にするとはとんでもない野郎だ」
「こ、怖かったからつい……」

どうやら沙紀(仮)の虫嫌い度数は私と同じかそれ以上に高いようだった。
それならまぁ、しょうがないか。
などと思っている矢先。
沙紀(仮)の服の襟元に、一匹の虫が張りついていた。
平気な人は平気だろうが、何しろ『あの』沙紀(仮)だ。
存在に気付いたら最後、私が生徒指導室送りになるような勢いで叫び出しかねない。
それ以前に、無駄に恐怖を与える必要も無い。
そう思った私は、後々思い返すだけで少し赤面するような行動を採った。

「沙紀(仮)、動くな」
「あ、ぇ?」
「動くな」
「は、はい……」

予想以上に従順な沙紀(仮)
むしろ脅えていた。
私の『恐い人疑惑』はひょっとしたら今だに健在なのだろうか。

「………」 (襟元に手を伸ばす
「っ―――」 (びくっ
「………」
「な、なぁに?」 (びくびく
「……虫が居た」
「ひぃやぁっ?」
「大丈夫。 もう居ねーよ」
「あ……ありがとぅ」
「ん、どってことない」

その後、書道部員VS虫の戦いは夜遅くまで繰り広げられた。
何故か、私はそれを最後まで見届けた。