人の名前を覚えるのが苦手だ。
顔を覚えるのも苦手だ。
それが女の娘と来た日には、まだピグミーチンパンジーの方が覚えが良いんじゃないかと思うくらいだ。

(回想)

今だから言える事だが、実は私は文化祭準備の段階で親しくなるまで沙紀(仮)の名前を知らなかった。
親しくなってからも、しばらくは知らなかった。
そんな日の事。

3−Bの模擬店は二つのグループに分かれていた。
一つは、私率いる(つもりは無かったのだが何時の間にか責任者となっていた)喫茶店グループ。
通称『中の奴等』
もう一つは、クラスの女子2/3以上が集まって主催する屋台グループ。
通称『外の奴等』
この対立構図からも判る様に、私のクラスは男女の仲があまり良くなかった。
女子の過半数が『外』に参加し、男子の圧倒的多数が『中』に参加していた。
そして、『中』に参加した数少ない女子の中の一人が、沙紀(仮)だったのだ。

その日。
模擬店の最終的なメニュー決定などを早々に終えた喫茶グループの野郎共は、やはり早々と帰路についていた。
店に出す値段やら食器代やら仕入れの量やらの詳細かつ山積みになっている問題には放置プレイをかまして。
全ての行動理念が『まぁ本番までにはなんとかなるっしょい』で動いている彼等は、自称『極東のナマケモノ』である私の目から見てすら非常にダメっぽかった。

それとは対称的に、『外』の話し合いはLHRを越えて放課後にまで縺れ込んでいた。
『中』で放置プレイを受けている問題も、キッチリ成しをつけている。
さすがは、大半が女子で構成されているだけのことはあると思った。
高校生の場合に限っての事だが、基本的には女子が計理などを担当する方が物事は巧く運ぶのだ。

「………」
「な、なに?」
「ダメ女子」
「な、なにがぁー?」

さりとて沙紀(仮)に計理を担当させようとするほど、私は老いてはいない。
それならまだ私がやった方がマシだ。
教卓に座る私の横で先生用のパイプ椅子に座っていた沙紀(仮)を見ながら、私はそう思った。

『外』の一生懸命な話し合いを見ながら、他愛の無い雑談に興じる二人。
そこでふと、気付いた。
そう云えば私はまだ彼女の名前を知らなかったのだと云う事に。
今だからこそ沙紀(仮)と呼んでいるが、この時までは実はまったくもって知らなかった訳で。
早速、と云う訳でもないが、良い機会だと思ったので聞いてみる事にした。

「なあ」
「ん?」
「お前、何て名前だ?」
「ひ、ひっどーい」
「おおっ?」

怒られた。
私は何か悪い事でもしたのだろうか。
考えればいくらでも出て来そうな気がしたので、途中で考えるのを止めたが。

「今まで……知らなかったの?」
「人の名前を覚えるのは苦手なんだ」
「でもさ……」
「ん?」
「二年生の時から同じクラスなんだよ?」
「……………嘘つけ」
「嘘じゃないよー。 修学旅行だって一緒だったじゃんかー。 クラス写真も一緒に映ってるよー?」
「はっはっは、ナイスギャグ」
「ギャグじゃないよぉ」
「いや、ほら、お前も知らなかっただろ? 修学旅行の時。 俺の事」
「んーん、知ってたよ」
「はい?」
「奈良公園から東大寺まで、シカ煎餅でシカを釣りながら行こうとしてガイドさんに怒られてた」
「なっ!」
「『手を触れないでください』って書いてある柱に、『手じゃなきゃ良いんだな』って言ってヒジ打ちしてた」
「貴様っ、何故それを!」
「だから知ってるって言ったじゃんか。 フルネームだって判るもん」
「そ、そうだ、思い出した。 いやー、俺も実はお前の名前、知ってたんだわ」
「うそつき」
「インディアン、ウソ、ツカナイ」
「じゃー言ってみて? 私の名前」
「…………」 (目を逸らす
「やっぱり判んないんだー」
「えーと、ゆ、由紀ちゃん」
「じー」
「………」
「じー」
「……ゴメンナサイ」
「もー、非道いなぁ」
「すまんな」
「はぁ、『由綺』で微妙に合ってるんだけどね」
「なに? どれどれ」 (教卓においてある名簿を見る
「ここ、これ」 (自分の席を指差す
「なるほど、沙紀(仮)か。 よし、覚えたぞ」
「よろしくね」
「おう」
「じゃあさ、あの娘の名前は? あの娘も二年生の時から一緒だよ?」

そう言って沙紀(仮)が指差したのは、『外』の女子の中の一人。
当然、名前も知らなきゃ今まで見た事も無かった。
誰だアイツ。

「えーと……由紀ちゃん」
「さっき言ったのと同じ名前じゃんかー」
「でぇい! 女の名前なんざ知るか!」
「ひらきなおりー ひらきなおりー」
「ああもう右から順番に亜紀ちゃん美紀ちゃん由紀ちゃん沙紀ちゃんっ!」
「さ、沙紀は私の名前だってばー」

知る予定の無かった名前を、知った。
交じり合う事の無いと思っていた道と、交じり合った。
なんだか、そんなのも良いなとか思った。

「えーと……俺の名前はkeijiだ」
「知ってるって言ったじゃん」
「よろしく、な」
「あ、はいっ。 こちらこそっ」