私はドジな女の娘が大好きである。
何もない所で蹴躓いて転んだりする娘とか、何故だか判らないけど手に持っていたガラスの板を落っことして割っちゃう娘とか。
そのくせ「私はドジなんじゃないです!ちょっと運が悪いだけです!」とか主張されたりした日には、私はもうその娘に向かって「お前は可愛い奴だな」とか言ってしまいかねない。
私は、ドジな女の娘が大好きなのである。

(回想)

文化祭が終わってから数日後の平日。
その日、私は書道室にいた。
別に沙紀(仮)に用事があった訳でもないし、書道部に用があった訳でもない。
ただ、暇をもてあまして校内を徘徊していた私の前に沙紀(仮)がひょこっと現れ、話の流れからついて行く事になっただけだった。
どんな話の流れだかは、今となっては不明である。

書道室は、私の興味をそそる物で溢れかえっていた。
その中でも特に私は、ある石に興味を惹かれた。
石と言ってもその辺に転がっているような石ではなく、彫刻刀で易々と削れるような材質の石である。
思い起こせば中学生の頃、授業の一環として私は、その白い石からハンコを削り出せと云うミッションを与えられた事があった。
しかし悲しいかな、中学生と云うのはまさに反抗期の真っ只中である。
社会の歯車にだけはなりたくねぇと息巻いていた私が教師の命令に従ってハンコなどを作るはずがなく、後に残ったのはドリルで石に穴を穿つ快感と、その犠牲になった穴だらけの石のみであった。

やりなおしたい。
あの時に出来なかった事を、もう一度。
切なる思いを胸に宿し、私は沙紀(仮)に対して物凄い真剣な顔で向き合った。

「沙紀(仮)」
「は、はいっ?」
「お願いがある」
「な、なにですか?」
「そこの石、俺にくれ」

なんか変な顔をされた。

「……石が、欲しいの?」
「ものすごく」
「…はいはいどうぞ、お好きなように」

石をもらった。
彫刻刀まで貸してもらった。
沙紀(仮)はいい娘だな、と思った。

「ね、その石どうするの?」
「お前は今からこの俺が磨製石器でも作るように見えるのか、この弥生時代が」
「……見えます」
「はい?」
「石器、作るように見えます。 その石器で狩りをするように見えます。 けーじ君は弥生人にしか見えませんのでっ」

ムキになって怒りはじめたので、厄介な事になる前に真実を教えてやる事にした。

「ハンコを作る」
「……普通だね」
「悪いか?」
「んーん、普通が一番だよ」

納得したらしく、てこてこと自分の荷物が置いてある机へと向かう沙紀(仮)
書道の道具を広げ始めているところを見ると、どうやら沙紀(仮)も何かしらの作業に取り掛かるらしかった。
私の「このままここに居てもいいのか?」との問いに対して、返ってきたのは「なんで?」とのお言葉。
「疑問系に対して疑問系で答えるなこのマヌケ」とか、「いや俺は書道部員じゃないから問題があったら困るだろう」とか。
色々と言いたい事はあったのが、沙紀(仮)のそのあまりにも間の抜けた返答と声の調子に、ついに私はそれらの言葉を最後まで口にする事はなかった。

――カリカリカリ

静寂の中に唯一つの音として存在する、きめ細やかな石が削られていく音。
風流とか風情とかの言葉とはどこか一線を画した無機質な音は、それでも私と沙紀(仮)の二人で聞くのなら、まぁ妥当な物ではないかと思われた。
色気も飾り気も気の利いた言葉すらも必要のない空間と云うものは、存外と心地が良い。
それを共有する相手が居るのであれば、尚更である。

「ちょーしはどう?」
「話しかけるな、気が散る」
「ひ、ひどいよっ?」
「冗談だ、怒るな」

知らず、張り詰めていた気を緩ませ、顔を上げる。
作業に入ってから何分が経過したのだろうと時計をみやり、その途中で私は部屋の中に生じたある差異に気付き、そちらの方に目をやった。

「あ、こんにちわーっ」
「お疲れさまでーす」
「……コニチワ、オツカレ」

書道部の部員らしき女の娘がいた。
まるで先輩の部員にするかのように、笑顔で挨拶までされた。
驚きのあまり、挙動不審になってしまう私がいた。

「沙紀(仮)」
「はい?」
「なんか居るぞ」
「…失礼な人だね。 あの娘たちはうちの部員です」
「なんか先輩にするみたいな感じで挨拶までされたぞ」
「先輩じゃん」
「……そりゃ学年の上では先輩だが」
「じゃあいいじゃん」
「……納得いかねえ」

暖かい歓迎と云うものにとんと縁の無かった私が首を傾げていると、沙紀(仮)が何やらソーサーの上に乗ったカップを持ってきた。
甘く良い香りのする、アップルティーだった。

「はい、どうぞ」
「……毒」
「はいってません」
「法外な値段」
「請求しませんっ!」
「……いいのか?」

見ると、先ほど私に笑顔を向けてくれた部員ちゃんたちが集まって、ティーバッグをお湯に泳がせている。
部費で買ったのか個人の持ち寄りで買ったのかは判らないが、どちらにせよそれは、書道部のみんなで楽しむための物には違いなかった。
少なくとも、部室の片隅で黙々と石を削っている変質者一歩手前の男に差し出されるべき物ではない。
自虐ではなく純粋な遠慮と云う感情から吐き出された私の問いに対して、しかし沙紀(仮)が返した答えはまたしても

「なんで?」

だった。
だから私も、何か色々と考えるのが凄くどうでも良くなった。

白いソーサーに白いカップ。
琥珀色の液体。
立ち上る果実の甘い香りと、何だか判らないけど横に居る沙紀(仮)
九成宮醴泉銘で書かれた『乾坤一擲』なんて文字が飾られている室内で飲むアップルティーは、その特異な状況故にか、今まで飲んだ中でも格別に味わい深かった。
ような、気がした。

* * *

それからさらに一時間以上が経過した頃。
授業中では絶対に発揮できないであろう集中力をこれでもかとばかりに叩き込んだ私は、ついにハンコを完成させることに成功した。
苦労の甲斐あって、見事なまでの完成度だった。

「できたー?」
「うむ。 朱肉を貸してくれ」
「はーい、ちょっと待ってねー」

てけてけと教卓に走り、がさごそと朱肉を探し、ついでに半紙まで持ってきてくれる沙紀(仮)
なんて気の利く奴だと思ったが、口には出さなかった。

朱のインクをたっぷりとつけて。
弾力のある下敷きの上に半紙を置いて。
文字の上下をしっかりと確認して。

ぺたっ
ぐりぐりぐり

「ふっふっふ、あまりの出来のよさに驚いて腰を抜かすがいい」
「どんなに驚いたってハンコで腰を抜かしたりはしないです」
「ふっ、そう言っていられるのも今の内だぜ」

押さえつけていた手の力を抜き、ゆっくりとハンコを半紙から遠ざける。
そこに現れたのは、輪郭の鮮明さも文字のバランスも見事なまでの印字だった。
ただ一つ。
そう、たった一つ。

「……ねぇ」
「………」
「ねぇ」
「……なんだ」
「ハンコに文字を彫る時ってさ」
「………」
「たしか左右逆に彫らなきゃいけな――」
「やかましいやかましいやかましい! んな事は彫り始める前に言いやがれこのスットコドッコイ!」
「わ、わたし悪くないしーっ」
「あーもう! 沙紀(仮)のバカっ! ドジ! アップルティー!」
「アップルティー関係ないもんっ。 それにドジなのはそっちっ。 やーいドジどじーっ」

文字が左右反転されていると云う、超ド級のマヌケな事態を除いては。

他の部員がくすくす笑っている中、この言い合いはしばらくの間に渡って続いたと云う。
この事件以降、私が沙紀(仮)に向かって「ドジ」とののしる事は、極端に減ったと云う。
今回は、そんなお話。