予兆は在った。
 
だから予想していなかったと言ったら嘘になる。
 
だけど、『それ』が現実のものとして自分の身に降りかかってくると、やっぱり驚いてしまうには充分過ぎる事だった。
 
同時に、自暴自棄になるにも充分過ぎた。
 
 
その日、私は両親『だった』人達の静止の声を振り切って外に飛び出した。
 
行くあてがあって、何か考えがあって飛び出したんじゃない。
 
心がその場に居たくないと感じて、身体がそれに素直に従っただけだった。
 
裸足のまま。
 
パジャマのまま。
 
とにかくもう、『あの人達』の居る家には居たくなかった。
 
『あの人達』の前で涙なんか流したくなかった。
 
悔しくて、悔しくて、どうしようもなく悔しくて。
 
そして、悲しかった。
 
 
それなりに都会と呼べるこの街で。
 
夜でも明るいこの街の中で、私の居場所は何所にも無かった。
 
友達と呼べる人は何人か居るけれど、こんな私を見せたくは無い。
 
それ以前に、こんな相談を持ち掛けられたって困らせるだけだろう。
 
私も含めて高校生である友達に、『親に棄てられた』と相談して、一体どんな回答が得られると言うのか。
 
長くて二日三日、誰かの家に泊めてもらったって何の解決にもなりゃしない。
 
認めたくないけど、認めざるを得ない。
 
私は、高校生と言う存在は、驚くほど無力な存在だ。
 
自分自身に降り掛かってきている問題のどれをも拭い切れないほど、私の手は小さくて弱い。
 
きっと誰の手も同じく小さくて弱いのだろう。
 
自分自身すら守れないのに、『友達』と言う不確かな繋がりだけで他人の荷を背負えるはずがない。
 
友情とか信頼とかそんな大仰なものじゃなく、もっと単純に考えれば判る問題だ。
 
背負いきれない荷物を背負えば、その娘も一緒に潰れてしまう。
 
出来る訳ないじゃん。
 
こんな時期の高校生に、私の分の荷物まで背負わせるなんて。
 
 
それともう一つ。
 
泣いてる顔なんか………誰にも見せたくない。
 
 
街を歩く人が、みんな奇異の目で私を見ていた。
 
パジャマで、裸足で、おまけに涙をぼろぼろ流しながら走る私の事を。
 
ぐるぐる回る街の明かり。
 
ぐるぐる回る頭の中。
 
何所にも行く場所なんか無い。
 
何所にも帰る場所なんか無い。
 
きっと私はこのまま野垂れ死ぬんだ。
 
誰にも悲しまれないで、ひっそりと死んじゃうんだ。
 
とんでもなくネガティブな考えが頭を埋め尽くしていた。
 
 
もう一歩も走れなくなって、その場にへたり込む。
 
今更になって、足の裏が痛くなってきた。
 
同時に、アスファルトにぴったり面しているおしりも冷たかった。
 
だけど、それもこれもどうでも良くなるくらい私は悲しかった。
 
 
どうしてこんな事になったんだろう。
 
私は何も悪い事してないのに。
 
私は……『良い子』だったはずだよ。
 
お母さんの手伝いだってしてきたし、お父さんが仕事から帰って来た時は笑って『おかえりなさい』って言ってた。
 
あんまり困らせた事……ないはずだったのに。
 
それとも……生まれてきた事が既に罪だったのかな。
 
私は、産まれて来ない方が、よかったの、かなぁ。
 
 
そんな事を考えたら、また、涙が溢れてきた。
 
止める気力も無くて、ひたすらにしゃくりあげる。
 
ひょっとしたら涙で溺死するんじゃないかってくらい、泣き続けた。
 
もしくは、泣き過ぎて脱水症状を起こすんじゃないかってくらい。
 
泣きながら、泣きながら、頭の中にひょこっと一人の男の人の顔が浮かんだ。
 
冷めた表情で他を威圧する狼のような人。
 
私と違って、独りでも強く生きていけそうな人。
 
祐一。
 
死ぬ前にもう一回会いたいなぁ。
 
多分、会ったらもう死ぬなんて言えなくなるんだろうなぁ。
 
バカって怒られて、アホって怒られて、それで、それで………
 
 
思ったら、会いたくなった。
 
本当に、会いたくなった。
 
また話がしたい。
 
話なんかしなくてもいい、顔を見るだけでいい。
 
今も元気に、私と同じ空の下で生きてるって、それだけでいいから。
 
 
「会いたい……よぉ」
 
 
ふと自分が拠りかかっている何かを見た。
 
電話ボックス。
 
最近は携帯電話の普及で影を潜めているその物体。
 
えっちぃチラシがぺたぺた貼られているその中にふらふらと入り、受話器を取った。
 
ツーって言う無機質な電子音が耳に疎ましかった。
 
暫くそのままの姿勢で固まり、そして、受話器を置いた。
 
考えてみたら祐一の住んでいる家の電話番号なんか知らない。
 
その前に、お金が無い。
 
それなのに自分は何故この中に入ったのだろうか。
 
全然判んなかった。
 
支離滅裂な行動に、我ながら呆然とする。
 
自分は何がしたかったのだろうか。
 
判んない。
 
もう何も判んないよ。
 
 
ずるずると壁に寄りかかりながら、もう一度へたり込む。
 
今度こそ立ち上がれないと思った。
 
こんな時、祐一ならどうするんだろう。
 
誠一郎さんと祐夏さんが離婚しちゃって……
 
誠一郎さん……
 
 
「……覚えてる……誠一郎さんの…」
 
 
前に教えてもらった。
 
祐一が自殺しそうになった時、誠一郎さんから家に電話があって、その時に。
 
どんなに俺が忙しくても、どんな僻地に居ても、必ず繋がるから。
 
『何時でも呼びな。 文字通り飛んで行くから』って、そう言って私に教えてくれた。
 
全世界で数人しか知らない、『あの』相沢誠一郎直通のプライベートコール【超私的な携帯の番号】。
 
きっと、きっと誠一郎さんならっ。
 
即座に立ちあがり、急いで受話器を取って、番号をプッシュして――――――
 
 
「……お金が無きゃ意味無いじゃんかぁ」
 
 
ヘコんだ。
 
これ以上無く、ヘコんだ。
 
つい二分くらい前に同じ理由で電話と言う手段を断念したばかりだと言うのに、どうしてこうも失念しやすいのか、自分は。
 
三度、地面にへたり込む。
 
回を成す毎にどんどん深く沈んでいく気がした。
 
幽霊だったら地面の中に沈んでしまうんじゃないかと思うほどに。
 
 
コンコン
 
 
ウルサイなぁ。
 
こんな街中でキツネが鳴く訳無いじゃん。
 
もう放っておいてよ。
 
 
コンコン
 
 
ウルサイなぁ。
 
こんな嘘っぽいセキの仕方なんてある訳無いじゃん。
 
もう放っておいてよぉ。
 
 
「キミ? どうしたの?」
 
 
本当にどうしたんだろうか。
 
自分の思考回路を一度分解してみたいほどだ。
 
街中にキツネが居る訳無いし、あんなウソ臭い咳をする人が居る訳が無い。
 
それ以前に、コンコンと言う音から連想する事態がそれだけしかない時点で自分の脳を疑う。
 
普通に聴いたら今の音は電話ボックスを叩く音じゃないか。
 
急いで涙をぐしぐしと拭き、顔を上げ、面倒事にならないように切り抜け様として。
 
 
「いえ、あの、なんでも……」
 
 
ある。
 
発作的に、今度こそ最後の力を振り絞って立ちあがり、しゃがみ込んで電話ボックスをノックしていた人が呆然としているのを上から見ながら。
 
そんでもって青い色の制服(後でよく見たら警察官だった)を着たその人が我を取り戻すよりも先に。
 
私は思いっきり叫んだ。
 
 
「テレホンカード、貸してくださいっ!」
 
「あ、あぁ」
 
 
差し出されたテレカを神速で受け取り、電話ボックスに突き刺す。
 
もどかしく思うほどゆっくりとした動作でそれが飲み込まれるのを確認し、今一度電話番号をプッシュする。
 
一つ一つ、絶対に間違えないように慎重に。
 
だけど、最後の一つを押しきって、初めて戸惑いを感じた。
 
こんな事いきなり言われたって困るんじゃないだろうか。
 
爆裂的に忙しい誠一郎さんに、私の個人的な事で時間を取らせちゃって良いんだろうか。
 
さっきまで確かに感じていた希望の柱が、ぐにゃりと折れ曲がるような気がした。
 
うぅ……やっぱり止めた方が……良いのかな……
 
一回……二回……三回目のコール音の途中で回線が繋がった。
 
もう逃げられない。
 
 
『はいな。 こちらは不死身の第四小隊、俺の名は相沢誠一郎。 階級は少将だ』
 
 
一瞬、本気で切ろうと思った。
 
 
「あ、あの……」
 
『ん? 桜くんか。 どした?』
 
 
そして、私は泣き出した。
 
何で……何で。
 
公衆電話からだから、番号通知で判った訳じゃないのに。
 
電話から聞こえてくる声なんて、本人だって言われなきゃ判らない事の方が多いのに。
 
ずいぶん長い間、話どころかお互いに顔を合わせる事すらもしてなかったのに。
 
あんなにどもりながらの小さい声だったのに。
 
それなのに。
 
誠一郎さんは判ってくれた。
 
私を、私の声を、私だって事を。
 
嬉しい。
 
何もかも否定されたと思っていたのに。
 
世界にたった二人しか居ない両親にすら裏切られたのに。
 
私と言う存在がこの世に在る事すら否定されたと思っていたのに。
 
遠く遠くに離れた誠一郎さんが、一瞬で自分を判ってくれた事が、凄く嬉しい。
 
 
「ひぅっ……っひぐぅっ…」
 
『お、おぉ!? 何だ? 俺って奴は何かやっちまったのか?』
 
「ちがっ、がいまふっ……あのっ、せいいち、さんが、うれしっ、て」
 
 
嗚咽の所為で言葉にならない。
 
何度も何度も試みたが、やっぱり巧く言葉が出て来ない。
 
そんな私の事を気遣ってくれたのだろう、誠一郎さんは電話の向こうで優しくこう言った。
 
 
『あー、アレだ。 桜くんさえ良ければ会って話そう。 俺も久し振りに桜くんの顔が見たい』
 
「はいっ…はいっ」
 
『三十分くらいしたら君の街に行けると思うから。 どっか判りやすい場所で待っててくれないか?』
 
「じゃあ、あの、かみ、枝二丁、目、のこうば、んで……」
 
『交番? なんだ、警察に捕まって困ってたのか』
 
「ちがっ、違いますっ」
 
『冗談だよ。 うむ、判った。 上枝二丁目だな』
 
「はい……」
 
『何があったか知らんが、もう大丈夫だ。 安心しな。 君にはこの俺が居る』
 
「っ……は、い」
 
 
恥かしさと嬉しさと安心感と。
 
もう、こんなに泣いたのは産声以来じゃないかなって、そんな事を思うくらい私は泣いた。
 
さっきまでとは違って、その涙は何だか暖かかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
幕間 「その日私が泣いた訳」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上枝二丁目。
 
一丁目から五丁目まである上枝地区の中でも、特に繁華街に面している区域がそれだった。
 
厳密に言えば『神明大通り』自体は二丁目と三丁目の境目にある。
 
通りを挟んで北側が二丁目、南側が三丁目と言った感じで。
 
ならば何故に『神明大通り』が二丁目に分類されているかと言うと、それは話せば長くなる。
 
割愛して言うと、その昔二丁目の地区長と三丁目の地区長が商店街の覇権を巡って争ったんだそうだ。
 
囲碁だか将棋だか限定ジャンケンだかEカードだか知らないが、戦いの結果として『神明大通り』は二丁目の管轄として納まっていると言う事だ。
 
住んでいる人間にとっては、いたってどうだって良い話なのだが。
 
 
治安は、ぶっちゃけ悪い。
 
平均値を何処に置いての査定かは知らないが、それでも悪いものは悪いのだからしょうがない。
 
理由としては、ヒマを持て余したガキ共が集まる場所が此処しかないからだと言う説もある。
 
一方で、ガキが集まる事が問題なのではなく、そのガキ共を暗黙のうちに黙らせていた組織が崩壊した所為だと言う説もある。
 
今まではこの『神明大通り』の中で目立った悪行などをしようモノなら、そいつの姿は一週間以内に見えなくなっていたはずだった。
 
少なくとも、数年前までは。
 
大人の造った『法』には収まらないガキの社会にも、それなりの『法』と『執行人』はあった。
 
むしろ、そっちの方がおっかなかった。
 
えてして人間と言うものは恐怖心が先に立つ。
 
自らの心身の安全を賭してまで無法を行いたいものはそう多くはない。
 
とは言うものの、別にその『法』と『執行人』が不条理な事をしていた訳ではない。
 
ガキ同士の喧嘩や縄張り争いなら黙認するのが常。
 
一般人に被害が及んだ時に初めて、『法』が動く事になっていた。
 
だから、概ね平和だったはずなのである。
 
『法』を司るどっかの誰かが、後見人も決めずに身を潜めるまでは。
 
 
そんな上枝二丁目交番に勤務している彼の名は、所沢 和孝(ところざわ かずたか)
 
階級は巡査、年齢は26。
 
平凡な高校を平凡な成績で卒業し、これまた平凡な成績で警察学校を卒業した平凡な一市民だった。
 
だった。
 
今の今に至るまで、恋愛は自分と同じ歳かせいぜい年齢差は二つまでの範囲でしかした事がなかった。
 
ちょっと年下の女の娘と付き合っている友人を、冗談交じりに『ロリコン』とか馬鹿にした事だってあった。
 
それなのに。
 
 
「……お茶、飲む?」
 
「あ、ありがとうございます」
 
「………」
 
「ぅ? 何ですか?」
 
「いやっ、何でもないないない」
 
「???」
 
 
馬鹿な。
 
さっき聞いた話に拠れば、この女の娘はまだ18歳(しかも11/3に誕生日を迎えたばかり)だと言うではないか。
 
自分との年の差は八つもある。
 
落ち着け、落ち着くんだ和孝。
 
こんな女の娘に食指を動かすなんてどうかしてるぞ。
 
俺はロリコンなんかじゃないはずだろ。
 
借りるAVだって女子校生(高ではなく校と表記する辺り、気を使っている)モノは除外していたはずだろ。
 
それどころかどっちかと言えば人妻に走る傾向が
 
 
「あの……」
 
「んなっ!? な、なんデスカ?」
 
「ごめんなさい……やっぱり迷惑でしたか?」
 
 
俯く。
 
頬に掛かる細い髪。
 
白い鎖骨、透ける肌。
 
普通ならば決して見る事叶わぬ可愛いパジャマ。
 
服越しにでも判る、年相応とは言えないどちらかと言えばスレンダーな身体。
 
大きな目。
 
泣いていた所為で、少し、赤く。
 
 
「自分でもヘンな奴だなって思います。 こんな夜にパジャマで、裸足で、泣いてて、しかも理由は話せないなんて」
 
 
シャープに透る声。
 
湯呑を大事そうに抱える、細い指。
 
不安そうに下がる、形の良い眉。
 
柔らかそうな耳たぶ。
 
うなじ。
 
 
「へ、平気平気。 警察は市民の平和と安全を守るのが務めだから。 うん、俺は警察なんだ。 警察なんだぞー」
 
 
ヤバイ。
 
めちゃくちゃ可愛い。
 
ちゃんとした服を着せてお化粧させて(素の時点で驚くほど綺麗なのだが)アイドルだって言ったら、きっと疑う者は誰も居ないくらい可愛い。
 
頑張れ理性。
 
落ち着け野性。
 
いくら可愛くたって、この女の娘と付き合うのは法律で禁止されているんだ。
 
インコーって言うんだぞ、そのくらい知ってるぞ。
 
ダメだダメだダメだダメだ!
 
 
「良かったっ。 迷惑だったらどうしようかって思ってたんです」
 
 
にぱっと。
 
笑顔。
 
完っっっっ全に撃ち抜かれた。
 
理性と言う最後の砦が、波動砲クラスの射撃によって木っ端微塵に砕かれた。
 
きっと自分とこの娘が出会ったのは運命に違いない。
 
そう、出会うべくして出会ったのだ。
 
俺があの時間にパトロールに出た事も、あの時間にあの場所を通った事も。
 
携帯を持っているにも関わらず、もしもの事を考えて財布の中にテレカを常備していた事も。
 
全てが運命に違いない。
 
この娘とならば、俺は何所までも行ける。
 
例えそれが宇宙の彼方イスカンダルでも。
 
君とならば何所までも!!
 
 
「な、なぁ」
 
「はい?」
 
「お、お、俺とイスカンダルへ―――――」
 
 
ギャギャギャギャ―――――!!!!!
 
 
思わずタイヤに同情してしまいそうなほどのブレーキ音が、上枝二丁目の交番付近に鳴り響いた。
 
暴力的なまでの摩擦音に、その場に居た命あるもの全てが銘々の反応を示す。
 
野良猫はダッシュで逃げだし、カラスはそんな馬鹿なと言わんばかりに飛び立ち、タムロってるガキ共の時間は完全に停止していた。
 
もちろん、和孝巡査と桜の時も。
 
数秒の時間的断裂が過ぎ、呆けていた人々の意識が戻る。
 
一体全体、この非常識なブレーキ音を響かせたこの車は何なのだ。
 
凡そ九割以上の人がそんな眼で見詰める中、漆黒のロングコートを羽織った一人の男が颯爽と車の中から降り立った。
 
 
「姫、お待たせ致しました」
 
「あ……せ、誠一郎さんっ」
 
 
よもや自分がプロポーズを受けている真っ最中だとは思いもよらない桜は、和孝の気持ちなんか何所吹く風で誠一郎に抱き着いた。
 
抱き着かれた誠一郎も、なんら戸惑う事無く胸の中に居る桜を抱きしめ返す。
 
バックに花のトーンが飾られそうなくらい、絶対不可侵の雰囲気が生まれていた。
 
 
「日本人のくせにやたらアメリカ式な挨拶だな、桜くん」
 
「誠一郎さんっ、せ、いいちろっ、さぁん!」
 
 
安心感から泣き崩れる桜。
 
誠一郎は、そのまま胸の内の桜の頭をぽむぽむと叩いた。
 
そして痛くないようにと気を付けながら、少しだけきつく抱きしめる。
 
少しでも、その気持ちが和らぐようにと。
 
と、その顔を桜に向ける『祐一の親父』の顔から『相沢誠一郎』の顔に変え、和孝巡査を見やる。
 
その目に宿る光は、まさしく世界に名立たる『相沢』の名に恥じないものだった。
 
 
「ありがとう。 君のような警察が全てならば、きっと日本はまだ行ける」
 
 
どこにだ、と言うツッコミは何所からも入らなかった。
 
礼を言われた和孝はと言うと、どんな返事をしたら良いものか困り果てていた。
 
自分はそんなに立派な警察官ではない。
 
保護した女の娘に欲情した挙句に求婚するようなダメ警察官なのだ。
 
加えて、その運命の女の娘を横から掻っ攫っていくような奴から礼なんて言われたくない。
 
そう思ってみたが、よくよく見てみれば目の前の男はどう贔屓目に見ても自分が勝てるような相手ではない。
 
見た目も、人生経験も、恐らく経済力も人としての器も。
 
見た目以外に根拠など無いが、根拠が無いからこそ明確に自分との差を感じた。
 
何しろ、状況的には敵対しているはずの目の前の男を自分が認め始めているではないか。
 
この男ならしょうがないと思える。
 
自分が惚れたこの娘を任せられると思う。
 
悔しいが、認めざるを得ない。
 
 
「………その娘が二度と泣かないよう、よろしくお願いします」
 
 
気が付いたらそんな事を口走っていた。
 
同時に、陸軍式の敬礼まで。
 
 
「……良い眼だ。 名は?」
 
「所沢 和孝」
 
「覚えておこう。 もしも懲戒免職にでもなったら俺を尋ねて来いよ。 飯くらいは食わせてやれる」
 
「あなたは?」
 
「相沢誠一郎、それが俺の名だ。 覚えておいて損は無い」
 
 
そう言って、誠一郎は桜を抱いたまま交番を後にした。
 
呆れるほどに格好良く。
 
後日、何かと情報通な先輩にこの話をしたら腰を抜かされた。
 
なるほど、道理で。
 
あの娘にはそのくらいじゃないと釣り合わないだろう。
 
御幸せにな、名前も知らない俺の女神サマ。
 
 
「って!? 『あれ』で世界有数の会社の会長!?」
 
 
その言葉の真意を知る者は、取り敢えず上枝二丁目交番所の中には居なかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
____________________________________________________________
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
不覚にも、ドキッとした。
 
さっきの誠一郎さんの仕草に。
 
そりゃパジャマ姿で街をウロウロする訳にはいかないけどさ、だからって言って、だからって言って。
 
ふわっと自分に掛けられた温もり。
 
その正体が誠一郎さんの着ていたコートだって気付くまでに、たっぷり五秒間を要した。
 
 
『あ、あの?』
 
『ロングコートは嫌いか?』
 
 
背が高い誠一郎さんのロングコートは、私が羽織るとくるぶしまで簡単に隠れるくらい大きかった。
 
そして、暖かかった。
 
ストーブでもエアコンでもない、誠一郎さんそのものの温もりが体を包む。
 
不思議なくらい落ち着く薫り。
 
袖を鼻まで持っていき、思いっきり吸いこんだ。
 
祐一っぽいんだけど、まったく同じ訳じゃない。
 
香水でも整髪料でも煙草でもなく、誠一郎さん自身のあったかい雰囲気をそのまま薫りにしたような感じ。
 
 
『……あったかい』
 
 
思わず出た本音だった。
 
そしたら、誠一郎さんが私の顔を覗いて、そんでもって子供みたいな笑顔で。
 
 
『うむ。 やはり桜くんは笑っていた方が良いな。 憂いのある顔も魅力的だが、今のが断然カワイイ』
 
 
ぼっ、て音がするかと思うくらい真っ赤になった。
 
ズルイ、あそこであの笑顔は卑怯だ。
 
何が卑怯なのかも判らなかったけど、取り敢えずドキドキしっぱなしなのも癪なのでそう思ってみる事にした。
 
大して何も変わらなかった。
 
 
その後、事もあろうか自分の靴を私に履かせてくれようとした。
 
勿論、ちゃんと断った。
 
 
『だ、ダメですよ!』
 
『何が?』
 
『だ、だって誠一郎さんの足が素足で靴下が……』
 
『気にするな』
 
『でもでもっ』
 
『裸足の女の娘を置いて、自分だけ靴を履いて居ろと言うのか? 自称ジェントルマンの俺にとってそれは一種の拷問だ』
 
『拷問って……』
 
『履いてくれるね?』
 
『………ハイ』
 
 
カポカポの靴と、ぶかぶかのコート。
 
何だか奇妙な格好だけど、やっぱり不思議とイヤではなかった。
 
両方とも、おっきなおっきな誠一郎さんの優しさそのものだから。
 
 
そして今、私達は………
 
えーと、えーと。
 
 
「あのー」
 
「ん?」
 
「これって何所に向かって歩いてるんですか?」
 
「ラブホ」
 
「ら、ラブっ!?」
 
「酒もある。 シャワーもある。 ゲームもある。 ベッドもある。 完璧だ」
 
「だ、だってその、ラブ……ほ、ホテルって言ったらえとそのあのっ」
 
「ヤる場所?」
 
「――――――――――っ!!」
 
 
多分、今なら普段の三倍の速度で動けるってくらい真っ赤になった。
 
何か言おうとしたけど、口がぱくぱくするだけで言葉が声にならない。
 
そんな私を見て楽しそうな笑顔を受かべてる誠一郎さんは、絶対に私の反応を見越して喋ったに違いない。
 
純情な処女の私をからかって楽しむ大人の人なんて、ちょっと非道いんじゃないかと思う。
 
ちょっぴり涙目になりながら非難がましく誠一郎さんを睨むと、それすらも予想の範疇だと言いたげな誠一郎さんが軽く笑った。
 
 
「大丈夫だ。 俺が桜くんを襲うような奴に見えるか?」
 
「み、見えません。 見えませんともっ」
 
「あー、もっとも桜くんがシたいって言うなら話は別だけど」
 
 
今なら三倍どころか六倍で動けるんじゃないかってくらい真っ赤になった。
 
残念ながら動けなかったけど。
 
とにかく、そんな感じでわたわたしている私を、斜め上から見詰める眼差し。
 
驚くほど透明で、祐一よりも更に鋭くて、なのに何所か優しい。
 
その口元は、私をからかう事を純粋に楽しんでいるかのように緩く微笑んでいる。
 
居酒屋の看板から発せられる強い光と夜の闇とが織り成すコントラストが、ただでさえ何所か影のある誠一郎さんの顔を彩っていた。
 
絶対ぜったい反則だ。
 
誠一郎さんの容姿は、どう考えたって祐一の『お父さん』のものじゃない。
 
いや、そりゃ祐一と比べたら誠一郎さんの方が大人って言うか渋いって言うかなんだけど。
 
それにしたって若すぎるし……格好良すぎる。
 
身長は……判んないけど、とにかく見上げるような位置に顔がある事だけは確かだ。
 
髪も、普通の社長さんみたいな(例えばゲイツかな?)髪型じゃない。
 
最後に見た祐一よりも、長い。
 
こんな人が世界有数の会社の会長?
 
初対面じゃ絶対に誰も信じないよ。
 
現に私が信じてないもん。
 
 
「ハイちょっと待ってねーそこのお二人さん」
 
 
いきなり、周りを五人くらいの人に囲まれた。
 
すっごいダフダフの服を着てたり、真っ赤なジャージだったり、真っ白なジャージだったり。
 
一目見て判った、不良だ。
 
 
「恵まれない子供達に、お金と女の娘を恵んでって頂戴な」
 
 
恵まれていないのはその頭の中身だと思う。
 
状況とは相反した冷静な思考回路がそんな事を思っていた。
 
だけど身体は正直で、恐怖を感じた私は知らず知らずのうちに誠一郎さんの手を強く握っていた。
 
 
忘れてた訳じゃないんだけど、あの時の私はそんな事を考えていられるような状況じゃなかった。
 
何がって勿論、この『神明大通り』の危険度の高さの事。
 
全国的に有名な危険地帯と比較してももしかしたら勝ってるんじゃないかと思うほど、此処は危険な区域だった。
 
ランクで言うとS級に。
 
午後七時以降に女の娘が一人で歩くような場所じゃないし、午後九時以降は男連れだって女の娘が歩くような場所じゃない。
 
治安が悪化し始めたのは三年くらい前からだけど、今ではこの街の人たちの中で暗黙の了解と化している事柄だった。
 
『神明大通りはNYのスラム街に匹敵する治安の悪さだ』って。
 
ただ、これを言い始めた人が本当にNYのスラム街を体験したかどうかまでは知らないけど。
 
 
「アンタみたいなリーマンには勿体無いでしょう、この女の娘は」
 
「おおっ!? この娘、コートの下はパジャマだぜ?」
 
「マジ? どんなプレイだよそりゃ!」
 
 
思わず襟元をぎゅっと押さえた。
 
そんな目で見られたくて、私はパジャマなんじゃない。
 
パジャマで居たくってパジャマなんじゃないよっ。
 
恥ずかしくて、悔しくて、泣きたくなって、更に強く誠一郎さんの手を握った。
 
少し、震えていたかもしれない。
 
斜め上を見ると、誠一郎さんは何だか苦しそうな顔をしていた。
 
まるで頭痛を押さえるような感じで、眉間にしわが凄い寄っていた。
 
 
「なーなー、さっきから何黙ってんの? ひょっとして脅えちゃって――――――」
 
 
次の瞬間。
 
誠一郎さんの顔を覗き込んだ人が、飛んだ。
 
多分、蹴ったんだと思う。
 
多分って言うのは、私がその状況を把握したのが不良の一人が吹っ飛んだ後の事だったから。
 
最初に顎が撥ね上がって、次に身体を『く』の字に折り曲げて。
 
放置自転車を撒き込みながら車道まで転がって、やっとその身体の勢いが止まった。
 
誠一郎さんの右手はポケットに突っ込んだままで、左手は私が握っていたから、うん、やっぱり蹴ったんだと思う。
 
人って、飛ぶんだね。
 
 
「………」
 
 
違う。
 
人が飛んだんじゃなくて誠一郎さんが蹴飛ばしたんだ。
 
何の助走も無しに、腕の振りすら無しに。
 
知ってるよ、サッカーボールとか蹴る時って腕の振りも重要なんだよね。
 
いやいやそうでもなくて。
 
何だか錯乱気味の思考を全力で押さえ、そーっと誠一郎さんの顔を覗き見る。
 
 
「………ぁ」
 
「桜くん。 ちょっと手、離しててくれるかな?」
 
「は、はいっ」
 
 
完全にキレてた。
 
振り向いた時に見せた、私にだけ向けられた笑顔がとんでもなく怖い。
 
即座にぱっと手を離し、三歩下がって距離を置いた。
 
そうだった思い出した。
 
昔、祐一が言ってた。
 
その時は『アンタより上の人なんて世界中探したって居ないよ』って笑い飛ばしたんだった。
 
でも、今は身を持って確認しちゃった。
 
あの時の祐一の言葉を、今なら全身全霊を持って信じる事が出来る。
 
そう。
 
『誠一郎さんは祐一よりも数段キレ易い』って。
 
 
「小僧共……誰を相手にモノ喋ってんだ固羅」
 
 
生まれて初めて、『殺気』って言うものを感じた。
 
できれば感じたくなかった。
 
完全に気絶しちゃってる不良その一(名前が判んないからこう呼ぶ事にする)と誠一郎さんの顔を交互に見て、驚きを隠せない様子の不良さん達。
 
あーあ、学校で教わらなかったのかな?
 
触らぬ神に祟りナシって言うんだよ。
 
いやいやいやそうでもなくって!
 
 
「あ、あのですねー」
 
 
さっきの表情を見て、瞬時に止めるのは無理だと判断した。
 
あんな顔した誠一郎さんを止めるなんて、祐一でも不可能だ。
 
でも、これだけは言わせてもらう。
 
 
「お、おなかはダメですよー」
 
 
内臓破裂で死んじゃうから。
 
 
「それと、顔もダメだと思いますよー」
 
 
眼窩とか歯って言うのは意外に折れやすいんですからね。
 
 
「あとー、関節も狙っちゃダメなような気がそこはかとなくするんですけどー」
 
 
コレもホント、意外なほど折れたり外れたりしやすいから。
 
 
「……俺にどうしろって言うんだね、桜くん」
 
 
盛大なため息をつかれた。
 
そんな事言われたってこっちも困る。
 
むしろ、目の前で乱闘が起ころうとしているのを平然と見ているだけでも驚愕に値すると思ってくれなくちゃ困る。
 
ユアサンの所為で馴れちゃったんですからね、誠一郎さん。
 
 
「腹も顔も関節もダメとなると……」
 
 
刹那。
 
誠一郎さんの身体が爆発的な速度で移動し、対峙していた不良そのニが横薙ぎに吹っ飛んだ。
 
既に閉めている店のシャッターに激しく突っ込み、薄い金属が連続してぶつかり合うとんでもない音が辺りに響く。
 
だけどそんな事に頓着しているヒマも無いくらい、私の意識は誠一郎さんの挙動に向けられていた。
 
速過ぎてよく見えなかったけど、残心の姿勢から察するにやっぱり蹴りだと思う。
 
でもミドル……じゃないよね。
 
中段回し蹴りなら真っ直ぐに飛んでく(普通は飛ばないけど)はずだし。
 
真正面から対峙している状態での足刀だったら真後ろに飛んでく(やっぱり普通は飛ばないけど)はずだし。
 
何より、ちゃんと私が『おなかはダメ』って言っておいたはずだ。
 
さっきの飛び方は何て言うかこう……足元を掬われた感じカナ?
 
 
「ろー?」
 
「脾骨が折れると困るから太腿部に叩きこんだ。 つま先を」
 
 
感情と言うものを一切排除したような鋭い声で誠一郎さんが答えた。
 
私が言った事は一応守ってくれているようだが、めちゃくちゃ恐いし、そっちの方が非道いと思う。
 
ふと、小学校の時にやっていた遊びを思い出した。
 
太腿の外側、筋肉と筋肉の間っぽい部分。
 
そこに綺麗に膝蹴りが入ると、激痛が走って立てなくなる事を。
 
うん、アレは痛かった。
 
何故そんな事を思い出したかは、最早言うまでも無かった。
 
 
「あのーですねー。 も、もうちょっとソフトな方が良いカナーとか思うんですけどー」
 
「………あのね桜くん。 俺は今『ハイパーぶち切れモード』なんだけど」
 
「うわ、ださっ」
 
「…………」
 
 
私の言葉で硬直する誠一郎さん。
 
その背景に、『がびーん』って言う文字が浮かんだ様な気がした。
 
 
「あ、えと、ウソウソ。 うん、カッコイイ」
 
「ふぅ……やる気抜けた。 あー、お前等、俺が和やかな気持ちになっている内にとっとと消えろよ」
 
 
乱れた髪を掻き上げ、ため息をつきながら言い捨てる誠一郎さん。
 
それを見て、言うまでもなくって位の速度で不良さん達が逃げていった。
 
足はやっ。
 
てか、どうでも良いけど気絶してる仲間を捨てていくのは非道いと思うよ。
 
ふと誠一郎さんの方を見ると、誠一郎さんの方もなんだか釈然としない様子で私の方を見ていた。
 
 
「まったく。 怒れるこの俺を諌めるなんて、普通できんぞ」
 
「へ? 諌めたんですか? 私が?」
 
「……自覚ないのな」
 
 
ある訳がない。
 
怒れる誠一郎さんを止めれると思うほど自信家じゃないし、何より命が惜しい。
 
そんな私の思いを知ってか知らずか、誠一郎さんは元の顔付きに戻ってにっこり笑った。
 
 
「まぁ良いや。 ほんじゃ行こうか」
 
 
さっきの泣きそうな顔を見たからかな、当然の様に私の手を取って、そのままぎゅっと握り締めて。
 
気付かれていないつもりだろうけど、私に合わせてくれている少し遅めの歩調で。
 
誠一郎さんは再び歩き出した。
 
随所に見えるさりげない優しさが、とんでもなく嬉しかった。
 
 
「えと、行くって何所へ?」
 
「ラブホ」
 
「………」
 
 
睨む。
 
自分でも判るほど責めの意味合いを持った視線は、恐らく誠一郎さんにも届いただろう。
 
少しだけばつの悪そうな顔をして、誠一郎さんは曖昧に笑った。
 
その表情に、少しだけ優位に立った気になる。
 
基本的に、誠一郎さんは祐一と同じだ(逆かもしれないけど)
 
普段どんなに悪ぶっても、女の娘が本気の目をし始めたら逆らえなくなっちゃうトコとか特に。
 
 
「睨むなよ。 双方にヤる意志が無ければ、宿泊施設としてラブホは重宝するべき存在なんだぞ?」
 
「………」
 
「えーとだな、今から普通のホテルにチェックインしようとしてもできないし、ファミレスに朝までなんか居たくないし」
 
 
一生懸命話す誠一郎さんを、私は何時の間にかこう思い始めていた。
 
カッコイイし、頼り甲斐があるし、強いし、私なんかよりも断然大人の人なんだけども。
 
『かわいい』って、そう思ってしまった。
 
 
「………いいですよ」
 
「へ?」
 
「ラブホ、行きましょう。 …………でもえっちはしませんからねっ」
 
「っは。 信用ゼロなのな、俺」
 
「ゼロならそもそも一緒にラブホになんか行きません」
 
「……俺も、ゼロなら桜くんをラブホになんか誘わんよ」
 
「はぇ? ゼロって何が?」
 
「下心」
 
 
不覚。
 
三度自分の顔が熱を持っていくのを感じながら、私は誠一郎さんを少しでも『かわいい』だなんて思った事を後悔した。
 
この人は、私が手玉に取れるような人じゃない。
 
『何を今更』と深層の自分が顔を赤くしている自身を嘲笑い、事実なだけに怒る事も反論する事も出来ず。
 
 
 
結局、私は人生初めてのラブホテルを誠一郎さんと体験する事になったのであった。
 
 
 
えっちはしなかったとだけ、明記しておく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幕間 了
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