この街の十一月は、最早冬である。
 
霜も降りるし初氷も観測されるし、何よりかにより雪が降る。
 
間違っても晩秋とか初冬とかそんなヌルい言葉で括れる類の気温ではなく、祐一に言わせれば『殺人級』の寒さになる事が常だった。
 
 
そんな雪の街に住む人々の生活は、一年の2/3を暖房器具と共に過ごしている。
 
寒さの程度が低い時期から使用される行火や湯たんぽに続き、厳冬期には床暖房とエアコンを併用する家庭も珍しくはない。
 
エネルギーの浪費だとかどっかの自然保護団体から抗議が来そうだが、何分背に腹は代えられないのだ。
 
丸々と肥え太ったおばさんに『飽食は飢餓状態の人に対する冒涜だ』と言われたってピンと来ない。
 
真に説得力のある発言をしたいのならば、まずは自分が飢餓状態に陥るべき。
 
つまりはこの街で一冬を越してから何か喋れぼけー。
 
誰が何と言おうと、祐一はそう言って譲らなかった。
 
 
それ程までに、この街の冬は厳しい。
 
生まれ育ってきた原地住民ならまだしも、雪の降らない温暖な気候区分帯から越してきた祐一にはそれこそ地獄としか思えないくらいに。
 
事実、間違っても石油ストーブ一つとかファンヒーター一つでこの街の冬を越そうとしてはいけない。
 
比喩表現抜きで、死ぬ。
 
間違って布団を被らずに転寝なんかしたら、次の日には綺麗な凍死体が出来あがるだろう。
 
何しろ暖房が点いていなければ室内ですら氷点下二桁に到達するのだ。
 
例えば風呂あがりに身体が火照って暑いからと言って裸で寝ようものなら、それは警察の方でも自殺として処理されるに違いない。
 
それくらいに、この街の冬は寒いのであった。
 
 
「………まず、この家に来た時点で気付くべきだったんだよな」
 
 
『女の娘の独り暮しの部屋に、男物の着替えが無い』
 
何の不思議も無く、むしろ世間一般的にはそれが普通とされている状況だけに、己の考えの到らなさを噛み締めながら祐一は小さくうぐぅと言った。
 
無論、それで着替えが出てくるとか云う素敵な事態にはならなかったが。
 
今現在のこの街で、人類の開発した『服』の必要性を一番噛み締めているのは、恐らく相沢祐一その人だろう。
 
そしてこの街で凍死に最も近いのも、相沢祐一その人であろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第十幕 『最後にできないRegret』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「着替えが無い」
 
 
改めて口に出してみたが、やっぱり事態は何も変わらなかった。
 
むしろその事を再確認してしまったが為に、絶望感が当社比で2割ほどアップしてしまった。
 
何やらお得な気もしたが、嬉しくも何とも無かった。
 
 
「まいったな.……まさか朝まで裸か?」
 
 
想像してみて、刹那の内に却下した。
 
おぞましいを通り越してただの変態にしか見えない。
 
加えて俺一人ならまだしも、この家には桜も居るのだ。
 
服を着ていても不埒だと言われかねない状況なのに、更に輪をかけるような事をしてどうしろと言うのか。
 
ああ神よ。
 
偉大なる神よ。
 
信じる者しか救わないだけでなく、厄災までをも齎すのか死んでしまえコノヤロウ。
 
 
無駄な思考に時間を費やした所為で、身体が予想外に冷えてきた。
 
このままでは朝を待たずに冷凍肉が完成して、挙句の果てに卸し売られてしまう。
 
モモ、肩、ムネ、モツ。
 
冷凍相沢祐一、何処の部位でもキロ100円。
 
 
「やすっ!」
 
 
自分突っ込みが反響性の良い風呂場に響き、寒さと後悔とバカらしさとで俺は小さくうぐぅと言った。
 
どうやら思考回路までもが寒さによってヤられ始めたらしい。
 
精密機械は寒い方が動作が安定すると言うのに、俺の脳はひょっとして精密じゃないのか?
 
……どうでもいい。
 
しょうがない、ここまできたら最終手段を発動させるしかない。
 
背に腹は代えられぬのだ。
 
立ち上がり、濡れた頭をぶんぶん振って水気を飛ばし、髪を掻き上げる。
 
首の関節をごきごき鳴らし、喉の調子を整え、大きく息を吸いこんで―――――――
 
 
「さーくらー! 助けてくれー!」
 
 
最終手段、『桜に泣きつく』発動。
 
ええいウルサイ、情け無くなんかない。
 
 
「はいはーい。 なに、背中でも流して欲しいの?」
 
「取り敢えず黙れ」
 
「ぶー」
 
 
不満たっぷりの擬音を返された。
 
ドアの向こうの桜はその言葉の通りぶーたれているらしく、腰に手を当てているシルエットが見えたりもする。
 
そんな態度をとられても俺も困るのだが。
 
それともなにか、本気で背中を流すつもりだったのかお前は。
 
 
「困った事に着替えが無いんだ。 誰かさんがびしょ濡れのまま抱き着いてきた所為で」
 
 
元はと言えば俺が怖い話をした所為だと云う説もあるが、この際それは置いておく。
 
俺は悪くない。
 
強いて言えば怖い話が嫌いな桜が悪いのだ。
 
とか何とか自分勝手な事を考えていると、ドアの向こうの桜が俺の予想の範疇とはまったくかけ離れた言葉を返してきた。
 
 
「着替え? いや、あるけど」
 
「は?」
 
 
何でお前の家に俺の着替えが?
 
言おうとして、その一瞬の間を桜に制された。
 
 
「はいはい。 祐ちゃんは着替えも一人で用意できないんですねー。 判りまちたよー。 この桜ちゃんがちゃーんと準備してあげまちゅからねー」
 
「……着替えが済んだら覚えてやがれ」
 
「祐一。 別に私はアンタが裸のまま出てきても困んないんだけど?」
 
「ごめんなさい」
 
「よろしいっ」
 
 
やたらと偉そうに、シルエットの桜が頷く。
 
これは一種のイジメではないだろうか。
 
男としての尊厳とかそんな類の言葉が欠片も見られない遣り取りの後、俺は今日だけで三度目になるだろう呟きを、小さくうぐぅと漏らした。
 
風呂場に響いたその声は、酷く情けなくも聞こえたりした。
 
うぐぅ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「んー、やっぱり少し大きいかな」
 
 
用意された服に着替えてリビングに行くと、ソファーの上に寝っ転がっていた桜がこっちに向き直りながらそんな事を言った。
 
確かに桜の言う通り、この服は俺よりも背も肩幅も大きい人が着るサイズの服だろう。
 
裾も袖もウエストも確実に俺より一回り大きい。
 
まあ私服とか寝巻きってのは大抵ばふっと着るものだし、サイズが大きい分には然したる問題ではない。
 
むしろ、問題になるのは別の方だ。
 
 
「この服、誰のだ?」
 
 
くいっと抓めるくらい余裕のある袖を、びろーんと伸ばしながら訊ねる。
 
まさか間違っても桜のではあるまい。
 
無地の黒Tに、かなり大きなサイズの藍色の作務衣。
 
下も揃いの作務衣で、オマケにトランクスまでご丁寧に置かれていた。
 
男っぽい服装が多い桜の私服かどうかを、最終的にはソコで判断したのだが。
 
 
「私の家に男の人の服がある理由って、一つしかないと思うんだけど」
 
「ああ、親父か……って、何で親父の服が?」
 
 
なるほど、確かに桜の家に親父がお邪魔したとしても何の不思議も無いだろう。
 
だが、例えば引越しの手伝いとかをしたとしてもそれは服を置いていく理由に充分ではない。
 
しかも仕事着とかじゃなく、寝巻きと言うのだから尚更だ。
 
もしかしてあのエロ親父、まさかとは思うが―――
 
 
「そりゃ泊まってったからでしょ」
 
 
事も無げにぽけっと言い放つ桜。
 
何がそんなに不思議なのか、と言わんばかりの表情だった。
 
対する俺は、まんが風に表現すれば頭の上に縦線を置きつつ、心の底から親父に対して呆れていた。
 
勿論その『呆れ』は、エロ親父とかそう云う意味じゃなく。
 
何してんだアンタは。
 
つまんない噂になった場合、社会的立場があるだけに俺よりもヤバイ事になるだろう。
 
それなりの人数を従えるって事は、その人数と同じくらいアンタの失脚を狙ってる奴も居るって事。
 
いくら芸能人じゃないとは言え、身分の在る者に対してゴシップやスキャンダルは御法度だ。
 
判って無い訳じゃないだろ、仮にも今の位置に立ってるくらいだから。
 
 
「次の日の朝には居なくなっちゃってたけどね」
 
「………」
 
「あれ? 妬いた?」
 
「妬くかバカ。 ただ親父の節操の無さに呆れてただけだ」
 
「誠一郎さんは優しい人だよ?」
 
「ああ、頭に『バカ』が付くくらいな」
 
 
そして、多分だけど俺には判ってるんだ。
 
それだけのリスクを伴いながら、それでも親父が桜と寝食を共にした理由が。
 
推測じゃなく、確信。
 
親父は、薄氷のような笑顔を見せる桜を、このだだっ広い『檻』に独りで置いとく事なんか出来なかったんだろう。
 
結果的に何日間か『独り』を感じさせる事になってしまったけど、その所為で桜は泣いてしまったけど。
 
それは親父の本意じゃない。
 
出来る事なら『寸前』まで一緒に居てやりたかったはずだ。
 
『たすき』を俺に託す、その間際まで。
 
 
桜を救う為に親父が使役した力は、それと同時に親父を縛る『枷』でもある。
 
涙を拭う為の力を欲するが故に、守りたいと思う者に涙を流させなくてはならない。
 
そんな二律背反に身を苛まれながらこの部屋を出ていった時。
 
親父はきっと、とんでもない罪悪感を味わったんだろう。
 
己惚れでも過信でもなく、自分の存在が桜に与えていた確かな『安心』を自分の手で拭い去らなければならない事が。
 
やっと『誰か』の横で眠る事が出来た桜を、またしても独りにしてしまう事が。
 
昨日までは確かに一緒に居た存在が、ある朝に忽然と姿を消す事が。
 
今の桜にとってどれだけ辛い事かを判ってしまうから。
 
それを判ってても、自分は行かなきゃならなかったから。
 
 
守る為には、傷付けなくてはならない。
 
しなくてはいけない事と、絶対にしたくない事。
 
欲する力と翻弄される己と流される涙の交錯する狭間で、親父は、恐らくだが痛みを感じていたはずだ。
 
バカだけど、馬鹿じゃないから。
 
ただの馬鹿なら桜の痛みを知らずにいれた。
 
ただの馬鹿なら、自分のしている行為が紡ぐ『その先』を知らずにいられた。
 
なのに、俺の親父はバカが付くくらい優しいから。
 
必要以上に桜の痛みを識って、それ故に自分も必要以上の痛みを負って。
 
傷の痛さが判るから、また他人【ヒト】の痛みを拭いたいと願う。
 
あまりにも拙くて、あまりにもだけどなんて優しい生き方だろう。
 
 
「……なぁ桜。 親父がこの服を置いてった理由、判るか?」
 
「理由?」
 
 
きょとんとした顔で、俺の顔と服を見比べる。
 
ポニーを解いてストレートに降ろしている髪が、肩の上で綺麗にさらさらと流れた。
 
普段とはまったく違う雰囲気に、不覚にもどきっとした。
 
 
「そんなん判る訳ないじゃん。 私はエスパーじゃないもーん」
 
 
微塵も考える事無く言い放ち、仰向けでソファーにぽてっと寝転がる。
 
あまりにも能天気なその姿を微笑ましく思ったが、直ぐに思い留まって俺は自分の口元を引き締めた。
 
のほほんも良いが、知らずにいる事で一つ『枷』が外れている今を捨てさせるのも心苦しいが、それでも桜は知っておくべきだ。
 
親父の。
 
親父が、この服を置いてった理由を。
 
 
「親父はな―――」
 
「ただね、私は勝手にだけど、こう考えてるんだ」
 
 
俺の言葉を遮り、桜が詠う。
 
クッションを抱いたまま、仰向けに寝転がりながら、少しだけ嬉しそうに。
 
その眼が閉じられたままなのは、瞼の裏に件の朝を思い浮かべているからだろうか。
 
それともただ単に真上から降り注ぐ白い照明が眩しいからだろうか。
 
桜色の唇から囁くように詠われる想いに身体を縛られてただ立ち尽くしているだけの俺には、判らなかった。
 
 
「『戻ってくるから』って。 『俺はまた此処に来るから、その時に着るから』って。 
 私にそう言いたくて、そう伝えたくて、だからこの服を置いてったんじゃないかなって。
 そんな風に思ってるんだ。 勝手にだけど、そう思ってるんだよ。
 だから私は、誠一郎さんが居なくなった朝に戸惑わなかった。
 たった数日間だったけど、産まれて初めてかもしれない本当の『独り』に耐える事が出来た。
 いや、祐一を見たら寂しさ爆発して泣いちゃったけどさ………そこまで支えてくれてたのは、やっぱ誠一郎さんじゃないかなって、そう思うんだ」
 
 
俺なんかが気を使う必要なんか、何処にも無かった。
 
最初っから、桜は全てを識っていた。
 
ひょとしたら俺よりも、深く。
 
余計な世話を焼こうとしていた事が少し気恥ずかしくなり、俺は桜の対面のソファーに腰を降ろして天井を仰ぐ。
 
その途中に見た、クッションを抱きながらぼへーっとしてる桜の姿はどう見てもマヌケなものだったが、それでも俺はこう思った。
 
流石だよ、お前は。
 
昔から唯をからかう方向での意思疎通なら何度かやっていたが、まさかここまでとは思わなかった。
 
どうやったらそんなにも深く、他人を判ってやる事が出来るのだろうか。
 
何も判ってない顔をして、何も知らない風なのに、何時だってお前は『誰か』にとって一番欲しい言葉をくれる。
 
一番優しい言葉をくれる。
 
なぁ桜。
 
気付いてるか?
 
そんなお前の傍に居るのは、すごく心地良いんだぜ。
 
 
「そこまで判っていてくれるなら、親父も浮かばれるだろう」
 
「いや死んでないし」
 
 
桜が裏手で放つ突っ込みがずびっと入り、直後に二人でくすくすと笑った。
 
小さなファンヒーターしかないこの部屋が、何だかとても温かく感じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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この家に来た時点で気付くべきだったのだ。
 
『一人暮しの女の娘の家に、二人分の布団がある訳が無い』と云う事に。
 
深く考えずとも判りそうな展開だっただけに、俺は自分の到らなさに辟易して小さく―――
 
 
「……またかっ? またこのパターンなのかっ?」
 
「祐一、うるさい」
 
 
『何が?』とも訊いてくれない桜の冷徹な突っ込みが入り、俺はさっきまでよりも深くソファーに沈みこんだ。
 
 
たった数時間とは云え、睡眠は大事だ。
 
例えばソレが三時間に満たなくても、徹夜するよりは遥かにマシである。
 
確かに眠りから覚める時の苦痛を考えたら起き続けていた方が楽に思えるかもしれないが、それはそれ。
 
次の日も普通の日と同じように過ごしたいのならば、多少なりとも睡眠は取るべきなのだ。
 
 
と、そんな感じで桜に睡眠の大切さを訴えて、さて寝ようとなった段にその問題は勃発したのだった。
 
早い話が、布団が無い。
 
名雪の従姉妹である以上、心地良い眠りを何よりも追及する傾向がある俺にとっては非常に悲しむべき事態だった。
 
床に寝ようがソファーに寝ようが別に死ぬ訳ではないのだが、やっぱり寝るからには布団で寝たい。
 
雪がちらつき始めた時期ならば尚更だ。
 
掛け布団を鼻まで持ち上げて『はふー』っと息をはいた時の安心感と言ったらそれはもう何物にも変えがたい。
 
ビバ、布団。
 
 
そして、『一緒に寝ればいいじゃん』とか平然とした顔でぬかす桜の発言は取り敢えず無視の方向で進む事にした。
 
一緒の布団で寝る。
 
考えただけで、朝まで眠れそうにもない光景だった。
 
背中合わせの体温。
 
耳元で艶かしく生成される吐息。
 
ふとした時に触れるお互いの身体の一部。
 
何が悲しくて一日の内で一番やすらげる時間と場所で神経をすり減らさなくてはならんのだ。
 
 
「親父のロングコート、ちょい借りる」
 
「はぇ?」
 
 
ソファーから立ちあがり、リビングの端の方に掛けてあるソイツを手に取って長さを確かめる。
 
桜の踝まであったコートは俺が合わせると膝を越える辺りまでしかなかったが、これなら充分だろう。
 
 
「俺はソファーで寝るから。 朝になったら起こせよ」
 
 
言うが早いか、俺はさっきまで桜が抱いていたクッションを枕にして横になった。
 
ふわふわのソファー。
 
座っている分には何の問題も無かったのだが、いざ寝る為に活用しようとするとその柔らかさが仇となって感じられた。
 
ぽよぽよする感触を背中全体で感じ続けるのもどうかと思い、今度は背もたれの方に背中を向けて姿勢を横にする。
 
む、これなら寝れない事も―――
 
 
「とうっ!」
 
「ぐはっ!」
 
 
―――ない、と思った瞬間に俺を襲う衝撃。
 
完全に無防備だったわき腹に攻撃を加えられた為、とんでもない痛みが全身を駆け巡った。
 
そのまま数秒間の呼吸停止。
 
呼吸回復と共に何事か―――とは思ってはみたものの、その思考は0.5秒で切り捨てられた。
 
そう、考えられる要因なんて一つしかない。
 
 
「……桜……貴様何を……」
 
 
顔。
 
振りかえった俺の眼前にあるのは、天井でもロングコートでもソファーの背でもなく、桜の顔そのものでしかなかった。
 
少しでも動けば、触れてしまいそうなほどに近く。
 
初めて見る訳でもないのに、まるで今までが何も見えていなかったかの様に。
 
全ての輪郭が現実味【リアル】を帯びて俺の眼に映る。
 
瞳が、唇が、吐息が。
 
呆れるほどに彩深く。
 
 
「祐一がソファーで寝るなら、私もソファーで寝る」
 
「ばっ……無理に決まってんだろ」
 
「うるさい」
 
 
横を向いて視線をずらし、形成を立て直そうとしたが、その瞬間にがしっと顔の両側を捕まれ、また真正面に向き直された。
 
さっきよりも、もっと近くに迫る、眼差し。
 
何処までも真っ直ぐに、俺を射抜く。
 
視線を逸らす事すら許してくれない。
 
逸らしたら、多分だけどすっごい怒られるような気がする。
 
 
「コートを被っただけなんて寒いに決まってるよ。 祐一、風邪ひいちゃう」
 
「バカは風邪ひかないんだ」
 
「じゃあ、祐一は風邪ひいちゃうよ?」
 
「………」
 
 
一転して優しい。
 
声と、瞳。
 
卑怯だ、と瞬間的に思った。
 
自慢じゃないが、女の娘と零距離で会話するなんて事に俺は慣れてない。
 
むしろ苦手な部類に入る。
 
普通に話すくらいなら何の問題も無いが、こうやって『何か』を連想させるような体勢に入られると完全に身動きが取れなくなってしまうのだ。
 
知ってか知らずか、恐らくは本能的になのだろうが俺の弱点を確実に攻めてくる桜のスキルには脱帽する。
 
こんな状況で相手を逆にやり込めたりするのは、俺じゃなくて親父の管轄だ。
 
 
「私も、ソファーなんかで寝たら風邪引いちゃう」
 
「だ、だからお前は布団で寝ろと」
 
「祐一が、ソファーで寝るなら、私も、ソファーで寝る」
 
「………」
 
 
一言一言をしっかりと、噛み締めるかのごとく明確な意思を込めながら叩き込む様に喋る桜。
 
目付きまでもが厳しいものに戻っていた。
 
今まで生きてきた十八年間の人生の中でも数度しか経験した事が無いくらい、問答無用。
 
何よりもこんな超接近戦を制する能力が俺にあるはずも無く、結局は無条件降伏の白旗を振る事にした。
 
三年前は平気だったはずなのに。
 
あの頃も、そりゃ動揺はしたがここまで取り乱したりする訳じゃなかった。
 
それこそ肌を擦り合わせたって平気で居られたはずなのに。
 
今は、こんなにも、火照る、頬。
 
やっぱり、変わっちまうもんなのかな。
 
ずっとずっと、少なくとも俺と桜だけは『あの頃』のままで居られると思ってたのにな。
 
 
「……判った。 一緒に寝よう」
 
「うんっ。 物分りの良い子は嫌いじゃないよ」
 
 
強い眼差しから一転。
 
笑って。
 
おでこをこつっとぶつける。
 
桜にすれば何気ない行為だったのかもしれないが、心臓バクバク状態の俺には厳しい一撃だった。
 
さっきまでだってメチャクチャに互いの顔が接近していたのに、更にそこから距離を縮めるなんて………
 
キス、されるかと思った。
 
冷静に考えればそんな流れじゃないってのは判りそうなものだが、悲しいかな今の俺には冷静な思考回路と云う物が無かった。
 
風呂場の件から連続して、完全に余裕を無くしている。
 
っは、重症だなこりゃ。
 
 
「そんなに深刻な顔しなくてもいいって。 誠一郎さんだって一緒に寝たんだから」
 
「………一緒の布団で?」
 
「うん」
 
「朝まで?」
 
「うん」
 
「桜」
 
「あい?」
 
「ヤツは真琴さんにメイド服を着せて侍従させるような危険極まりない人物だ。 未だに貞操が護られている自分の幸運に感謝しろ」
 
「いや、誠一郎さんはそゆ事しないって」
 
「根拠は?」
 
「一緒にラブホに泊まったけどだいじょぶだった」
 
「ぶっ!」
 
 
前略―――何してんだクソ親父。
 
あまりにも破天荒なその行動に、今だかつて無いほどの頭痛を感じた。
 
別に『そういう事』が目的じゃない事ぐらいは判ってる。
 
判ってはいるんだが、それでもラブホは無いんじゃないかと思うぞ我が親父よ。
 
ま、どうせ桜の取り乱す姿を見て楽しんでいただけなんだろうが。
 
 
「親父が安全な奴かどうかはお前の判断に任せるが、俺を親父と一緒にするなよ」
 
「祐一は、危険なの?」
 
 
判り切った答えを、それでも訊ねる保母さんみたく。
 
からかいの色が強い微笑を浮かべながら桜が俺の顔を覗き込んだ。
 
薄いパジャマの胸元は少しだけ開いていて、そこから僅かに覗く白い肌。
 
風呂場で―――不可抗力的にだが―――見てしまった映像が脳裏に再び妬き付く。
 
抗い様の無い、感情。
 
嘘の隙間も見当たらない、本音。
 
性的な対象としてのみ、言わば『女性』と云う『記号』として見た場合、桜は俺の知る誰と比べても遜色が無いほどに魅力的だった。
 
何をどうしたってそれは否定できない。
 
だが。
 
 
「………お前とはシないよ。 絶対に」
 
 
この世界の誰が許そうとも、それをする事はこの俺が許さない。
 
桜に手を出す事だけは、許されない。
 
何故って桜は親友だから。
 
俺と、桜は、親友だから。
 
『男』でも『女』でもない。
 
俺達はそんなんじゃないんだ。
 
唯が居なくなったから桜。
 
『代わり』を手近な者で済まそうと云う代償行為。
 
俺の考え如何ではなく、『世界』が俺達にソレ以外の『形』を許さないだろう。
 
そしてそれに伴うは、気が狂いそうになるほどの罪悪感。
 
近親相姦にも似た、だけどそれとも全く違う、本能的でありながら理性的な拒絶感。
 
理由の明確な、呪縛。
 
痕が絆を形成する俺達にのみ架せられた、想い出と云う名の重い十字架が、精神【ココロ】と肉体【カラダ】を押し潰す。
 
二度と立ち上がれぬほど。
 
二度と誰をも見れぬほど。
 
 
例えば。
 
例えばいつか本当に桜を『好き』になったとしても、俺はその感情を否定し続けるだろう。
 
全身と全霊を賭して。
 
現実【イマ】と想い出【ムカシ】の全てを掛けて。
 
何故ならその先に待ち受けるのはきっと、未来永劫に渡って終わらぬ贖罪だろうから。
 
赦す者の居ない無意味な懺悔を、赦す者が居ない故に終える事も出来ず。
 
繰り返し繰り返し、『あの頃』に背を向ける痛みを味わい続ける。
 
そんな事出来ないし、したくもない。
 
もう何も壊したくない。
 
もう何も失いたくない。
 
痛いのは、嫌だ。
 
 
だがそれでも。
 
いつの日にか『壁』を乗り越える事が出来たその時には。
 
悲しみや憤りや後ろめたさを乗り越え、桜に身を重ねる事を自らに赦す事が出来る日が来たなら。
 
『今度こそ』なんて言いながら桜を、一人の女として見る事が出来るようになる日が来たならば。
 
 
その時には。
 
俺は。
 
自分自身を。
 
殺してやりたいほど嫌悪する。
 
 
「なーんだ、残念。 ほんじゃ寝よっか」
 
 
変わらぬ声。
 
変わらぬ眼差し。
 
言葉の『意味』に気付かないほどコイツが愚かじゃない等と云う事は既に判っている。
 
ならば気付いたはずだ。
 
未だ俺の深奥に燻り続ける、愛しさと云う名の枷に。
 
 
俺の気持ちに気付いて、なのに気付かぬ振りで。
 
自分の『振り』が俺に見破られる事も承知で、『枷』に気付かぬ振りが親友を蔑ろにするかもしれないと思う心も在るはずなのに。
 
それでもなお、桜は笑顔で居てくれる。
 
お世辞にも無邪気とは言えないけれど、時折その笑みが悪戯っぽさを帯びて小憎たらしく思うこともあるけれど。
 
今だけはその笑顔が、途方もない救いに見えた。
 
 
「実はもうへろへろなんだよね。 布団に入ったら二秒で寝れそうだよー」
 
 
どうして。
 
どうしてお前はそんなにも元気で居られるのだろう。
 
そんなにも人に対して優しく在れるのだろう。
 
今の境遇は、笑っていられるほど楽観視できる物ではないはずなのに。
 
流したくないと思っていた涙を流してしまうほど、辛い思いをしてきたはずなのに。
 
裏切られて、傷付いて、他人に絶望して、俺の事を気遣う余裕なんて無いはずなのに。
 
どうして―――――――
 
 
「ちゃんと、返事してよね」
 
「……ああ」
 
「じゃ、おやすみ、祐一」
 
「ん。 おやすみ、桜」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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本当に二秒で寝た桜を起こさないように布団から抜けだし、その寝顔をそっと覗いてみた。
 
すーすーと可愛い寝息をたてて眠る親友。
 
その寝顔は安らかで、心地良さそうで。
 
やっぱり疲れてたんだなぁ、と思わせるには充分だった。
 
 
「やれやれ」
 
 
俺が抜け出した事によって少し乱れた布団を肩まで掛け直し、ついでに頭を撫でてみた。
 
名雪の髪よりも、少し細い。
 
風呂あがり独特の濡れてるんだけどさらさらした質感の髪が俺の指の隙間を流れ、それがまた俺の心を和ませた。
 
 
電気の消えたリビングのソファーに座り、親父のロングコートを羽織りながら窓の外を眺める。
 
流石に最上階だけあってその眺めは素晴らしいものだった。
 
それは、いつかものみの丘から見た景色にも負けないくらいに。
 
真冬に向かって一段と透明度を上げていく空気が、眼下に広がる星の屑をより鮮やかに見せていた。
 
 
実際の所、俺には完全に桜の気持ちが判る訳じゃない。
 
曲がりなりにも両親は揃っているし、少し微妙ではあるが棄てられた事もない。
 
家に帰って来ない両親を思いながら『自分はこいつ等に必要とされていない』と考えた事はあったが、それも所詮はガキの考え。
 
自分がどうやって生きているのかさえ判っていなかった頃の考えだ。
 
親の庇護に甘えながら、掌の中で捻くれていただけの小僧。
 
そんな俺の痛みと、桜の痛みを同質に考えれる訳がない。
 
 
ただ。
 
ただやっぱり、相当に辛いんじゃないかと思う。
 
辛いだなんて言葉で一括りに出来るような感情じゃないとは思うが、俺にはそれ以外に今の桜を表す言葉を知らなかった。
 
まだ高校生である桜にとって、自己が存在する理由を肯定的に捉えられる要素はあまり多く無いだろう。
 
例えば学校に友達が居るとしても、その友達が人生の全てを持って桜の存在を容認してくれる訳ではない。
 
『友達』じゃ、軽すぎる。
 
『学生』は、弱すぎる。
 
『学校』の中に居る『自分』だけじゃ、存在価値の全てなんて見つけられるはずがない。
 
 
友達と話して楽しかった。
 
部活動が充実していた。
 
模試の結果がAランクだった。
 
どれも喜ばしい事ではあるが、それだけを糧に自分を創っていけるのかと訊かれたら俺の答えは『否』だ。
 
もっと明確に、もっと強く、もっと確固たる存在意義が欲しい。
 
 
僅か一ヶ月強の期間とは言え、俺は親父の元で働いてきた。
 
何事かを成す時に、自分でなくては成らない物がそこには在った。
 
俺の存在が、確かに何かを創っていた。
 
俺は、俺自身を創っていた。
 
そのおかげで、自分と両親とは『家族』ではあるが『他人』であると云う考えも出来るようになった。
 
その考えが悲しいものであるか、強さ故のものであるかは俺には判別できない。
 
それでも少なくとも、親に棄てられた痛み故に涙を流すような事にはならないと思う。
 
 
だが、桜は未だ親元を離れ得ぬ学生であり、なにより両親に対して子供でありすぎた。
 
自立心が無いとか親離れ出来ていないとか、そう云った悪い意味じゃなく。
 
親が居て、娘が居て、当たり前に家族として生きてきただけの事。
 
たったそれだけの、当たり前の事だったはずだ。
 
両親にとって娘が『子供』で居てくれると云うのは、俺が親の立場ならばこれ以上なく嬉しい事だ。
 
誰かに、自分の子供に必要とされる事。
 
それは確かに親としては最大の喜びなのだから。
 
 
なのに。
 
桜の両親は、桜を否定した。
 
親の庇護を受けなくては生きていけない状況での、親からの存在否定。
 
自分の生きていく世界を完全に確立できていない状況下での親からの否定は、放たれた言葉そのままの意味で桜に伝わっただろう。
 
あるいはそれ以上の意味で。
 
『要らない』、と。
 
 
「……俺がもう少し……あと少しだけでも強かったら……」
 
 
俺には『力』が無い。
 
もっと単純に言えば、金が無い。
 
俗物の考えだと卑下されるかもしれないが、確かにこの世界で最も大きな『力』は金だ。
 
使い方次第では、一人の人間を生かす神にも、そして一人の人間を殺す悪魔にもなる。
 
その『力』が、俺には無かった。
 
一般的な高校生に比べれば割の良いバイトをしているから、小遣いとして不自由しないくらいの金はある。
 
いつだって880円(税込)を奢ってやれるだけの金は持っている。
 
だが、それは桜を救えるレベルの『力』じゃなかった。
 
ほんのままごと程度の、ガキの自己満足に充分な程度の微弱な『力』
 
そしてその脆弱な『力』では誰一人として救ってやれはしない事が、今回の件で露呈された。
 
今更ながらに気付かされる、圧倒的な事実。
 
突き付けられた己のあまりの無力さに、吐き気がする。
 
何処までいっても、何時まで経っても、俺は『あの頃』のガキのまま。
 
強くなったのは他人を打ち据える『力』でしかなかった。
 
桜の涙を拭ってやれる、誰かを護ってやれる『力』なんか、俺は何一つ持ってはいなかった。
 
 
『力』が欲しい。
 
『力』が欲しい。
 
『力』が、欲しい。
 
何度そう思ってきただろうか。
 
何度そう願ってきただろうか。
 
思っても得られず、願っても叶わず、幾度後悔を繰り返しただろうか。
 
 
傍に居る誰かが涙を流すその度に、俺は繰り返し自分の『力』の無さに歯噛みする。
 
認識の甘さ。
 
知識の拙さ。
 
自分の愚かさ。
 
弱さ、弱さ、弱さ。
 
幾度も悔やみ、幾度も嘆き、それでもまだ得られずに、こうやって立ち尽くしている。
 
小さすぎる自分の手には抱え切れない悲しみを前にして、またしても成す術無く。
 
 
あとどれだけ後悔の海でもがけば、俺は本当に強くなれるのだろうか。
 
あとどれだけの涙を見れば、俺は悲しみの追走曲【カノン】から逃れる事が出来るのだろうか。
 
どうすれば、もう誰も泣かないで済むような日々が送れるのだろうか。
 
 
応えの無い問い掛けは月に虚しく、言葉【コエ】と俺の意識は静かに闇の中へと引き摺り込まれて、刹那の余韻すら残さずに消えた。
 
 
 
 
 
Last Regretは、未だ迎えられそうにも無い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued……