「祐一君、おはよう、おはよう」
「二回言うな」
あゆが目覚し時計を肩にぶら下げながら空を飛んでいた。
羽リュックの羽をぱたぱたと動かしながら。
あまりに気持ち良さそうに飛ぶもんだから、見ている俺も空を飛びたくなった。
「空を飛ぶにはね、この赤まむしスッポンドリンクが必要なんだよ、なんだよ」
「二回言うな」
言うが早いか、何処からか取り出した赤まむしスッポンドリンクの蓋を親指だけで弾き飛ばして一気飲みを始めるあゆ。
ごくごくと喉を鳴らして美味しそうに飲む。
見ている俺も飲みたくなった。
ふと横を見ると、自動販売機があった。
奇遇にも赤まむしスッポンドリンクが売っていたので迷わず購入した。
五万円もした。
財布の中に五万円札があったので、そいつを突っ込んだ。
ゴトン!
重厚な音と共に取り出し口から転がり出てきたのは、2リットルサイズの赤まむしスッポンドリンクだった。
でか。
「いっき、いっき」
「二回言うな」
空からあゆが無責任に一気コールをする。
よくよくペットボトルの中を見てみると、まむしがスッポンにコブラツイストを掛けられていた。
でもコブラじゃなくてまむしだから平気そうな顔をしていた。
この飲み物は絶対に飲めないと思った。
「年貢を下げろー。 コメをよこせー」
どうやらあゆが言っていたのは『一気』じゃなくて『一揆』だったらしい。
空を飛びながら右手にクワ、左手にカマを持っているあゆの姿はとてもマヌケだった。
何時の間にか水玉模様の手拭いでほっかむりまでしている。
「庄屋サマ、お願いですから年貢を下げてください」
何故か俺に向かって懇願するあゆ。
どうやら俺が庄屋らしい。
手に持っている武器が何時の間にか『ふ菓子』になっていた。
叩かれても痛くなさそうなので助かった。
「今年の夏はジョルジーニョ現象の所為でタイヤキが河を遡って来なかったんです」
多分、言いたいのはエルニーニョ現象の事だと思う。
ジョルジーニョはサッカー選手だ。
パスが巧いんだ。
「私はー 幸せをー スルーパスする女ー いつだってー 他の誰かがゴールするのー♪」
ふ菓子をちぎりながらいきなりネガティブな歌を唄い始める。
地面に落ちたふ菓子が次々に天使の羽根になり、光り始めた。
周囲が真っ白に染まる。
眩しくて目を閉じる。
眩しい。
眩しい。
「……眩しい」
夢の中で喋っていた言葉とは全く違う、確実に空気を揺らす存在感のある声。
そんな自分の呟きで目を覚ますと、俺の顔に直射日光がモロ当たっていた。
吸血鬼なら消滅するくらいの、真っ白な光。
ふむ、道理で眩しい訳だ。
吸血鬼じゃなくて良かったな、俺。
「てか、ここはどこだ」
五秒間ぐらい見知らぬ天井を見詰め、それから周囲を眺める。
テレビ、ソファー、カーテン、レンジ。
一見すると普通の家庭のようにも見えるが、置いてある家具の全てに『生活』が殆ど見られなかった。
とても冷たくて、とても寂しい。
だが皮肉な事にその寂しさが、俺に今の自分が置かれた状況を自覚させる要因となった。
「そっか……桜んトコに泊まったんだっけな」
考えてみれば、リビングを照らす窓を南側に造るのは設計の基本だからな。
部屋の中に日が射し込む事については文句のつけようが無い。
そうなると、問題なのは最上階だからと云ってカーテンを閉めて寝なかった俺の方だろう。
自業自得か。
「……今、何時だ?」
半分ぐらい寝ぼけた頭でテレビのスイッチを入れる。
壁掛け時計も腕時計も無い為、時間を確認する術がテレビしかないのだ。
桜自身は『独りで見ても寂しくなるから』って言っているようだが、それでもこの家にテレビがあるのは恐らく親父の都合だろう。
出来るだけの事はしてやりたかったって事か。
その考えは賛同できるが、それならまず壁掛け時計くらい買っとけな。
俺が知る限り、一番時間に追われて生きてるのはアンタだろ。
『はぅどぅーゆどぅー ごっきげーんいかーが♪』
あ、いいともだ。
珍しいな、最近のタモさんがちゃんと唄うなんて。
これは久し振りに『タモさんターン』(OPのラストに小ジャンプしながら足をクロスさせて、それを元に戻しながら一回転する技)が見られるのか?
俺も昔はあの技を極める為に血の滲むような特訓をしたもんだ――――
「―――っていいともっ!?」
ソファーから跳ね起き、画面に穴が開くほど凝視する。
だが、いくら見詰めても目を擦っても瞬きをしても、いいともはいいともでタモさんはタモさんだった。
黒猫がにゃーと鳴いて椅子の上に飛び乗っておどろおどろしい音楽と共に世にも奇妙な物語が始まったり、はしなかった。
そう言えば昔、奇妙な物語で『ズンドコベロンチョ』って呪文があったっけな。
……いや、そうじゃなくて。
激しく錯乱気味の思考をどうにか抑え、俺がやっとの事で現状を把握したのは、取り敢えず画面に向かって『いいともー』って叫んだ後だった。
Stay by My Side
第十一幕 『グリコのおまけが付いてない』
そりゃそうだ。
『雪見大福』が水瀬家よりも学校に近いとは言え、学校の始業時刻に間に合うには最低でも八時に起きる必要がある。
だのに、目覚ましもなしに午前五時ごろに寝に入ってしまったのだ。
そうじゃなくても眠りに落ちてから三時間辺りと云うのは生理学的にも深い睡眠に落ちている時間帯とされていると云うのに。
自然に目が覚める事に任せていたらこんな時間になるだろう事は、例え俺が名雪じゃなくても少し考えれば判りそうなものだった。
ならば何故、昨日の俺は何の対処もせずに寝てしまったのか。
その理由は、三つほど考えられる。
まず第一に、この家には目覚まし時計なるモノが無い。
実際には在るのかもしれないが、昨日の時点では使われていなかった。
この家の主でもない俺が目覚まし時計の有無を知る訳がない。
よって、目覚ましに頼ると云う手段は思いもつかなかったのだ。
第二に、昨日は色々ありすぎた。
桜が転入して来たり、桜が泣いたり、桜が不良にケンカ売ったり、桜が風呂場で抱き付いてきたり。
肉体的な疲れに加え、どちらかと言えば精神的にも昨日は疲れ過ぎていた。
寝た場所がソファーだった分を差し引いても、熟睡するのには充分すぎる条件だっただろう。
最後に、寝た時間が明け方だった。
救いようが無い。
北国の十一月、午前五時の世界は闇の只中に在る。
様相だけを見れば真夜中と呼んでも差し支えないほどに。
だからだろうか、明け方に近いはずなのに俺も桜も眠りに落ちる事に何の違和感も抱かなかった。
もっとも第二の理由に挙げたように、疲れていた事が最たる理由になるだろうが。
手っ取り早く言えば、明日の事を考えるのも億劫なほどに眠かったのだ。
文句あるか。
教師陣からすればいっぱいあるんだろうなぁとか思いながら、俺はテレビの電源を消した。
マズイな。
昨日も遅刻寸前、それも石橋の恩赦が無ければ確定だった程のギリギリぶりだったと言うのに。
さらに言ってしまえば生徒指導担当の荒川と廊下で衝突したばっかりだと言うのに。
加えてこの史上稀に見るほどの大遅刻。
教師から見た場合、俺はきっと不良の類にカテゴリされるんだろう。
ま、そりゃもともと『優等生』ではないのだが。
「とにかく、桜を起こさないとな」
こうしている間にも時間は刻一刻と進んでいく。
時を削り取る秒針の音がしないだけ、それは余計に重く感じられた。
平等であるが故に、非情に流れる。
悲しいけど、これって世界の摂理なのよねっ。
日差しのおかげで幾分か暖かいフローリングの床を往く。
足の裏で仄かな温度を感じつつ、桜が寝室として使っている部屋のドアをノックした。
勿論、ただの通過儀礼としてだが。
ノック如きで起きるなら、誰も毎朝苦労はしないのだ。
「入るぞー」
がちゃっとドアを開け、部屋に入る。
既に真上に位置している太陽の所為だろうか、それとも構造的な問題だろうか、この部屋には日差しが一切入り込んでいなかった。
リビングとは正反対の、未だ暗く淀む『独り』の温度。
その中で、桜は眠っていた。
まるで死んでいるかのように、ひたすらに音無く。
すー、と云う微かな吐息が無ければ本当に見分けがつかない。
まったく見当違いの有り得ぬ想像だが、それでも枕元まで歩く俺の足は自然と速くなった。
基本的に寝相が良い方ではないのだろう、少し寝乱れた感のある布団とパジャマ。
ネコの様に小さく丸まって寝ている姿が妙に可愛いかった。
一刻の猶予も許されぬ状況だと云うのに、なんだか起こすのが躊躇われる。
それほどまでに、小さな吐息、静かな、止まった空間、安らかな寝顔。
感情を読み取る事など出来そうにない、なのに俺を安心させる柔らかさを見せる。
起こしたく、ない。
夢を見ているのか、いないのか。
見ていたとして、それはどんな夢なのか。
知ってどうなると云うものでもないが、それでもただの好奇心以上に気になる事も確かだった。
悪夢じゃない事は寝顔で判る。
だが笑みが零れるほどに楽しい夢じゃないって事も、判る。
ただ穏やかに。
当たり前に時が流れていく。
ひょっとしたら桜が夢に見ているのは、『あの頃』じゃないだろうか。
何時の間にか花が咲き、知らない内にアスファルトが焼け、気付かぬ内に葉が染まり、気付けばコートを羽織っている。
移ろう季節の中で、俺達だけが変わらなくて。
多分、そんな日々が夢。
夢のような日々を。
俺達は『あの街』で、確かに過ごしてきた。
今想えば夢であり、生きていた瞬間には現でもあった、そんな日常を。
そして俺は、俺だけは、『今』も。
「手に、してる」
お前等が居なきゃ二度と手に入らないんだって思ってた日々を、俺は再び手に入れている。
どうしようもなく心地良いぬるま湯の中で、笑っている。
罪悪感を伴っていた季節は既に過ぎ去ったが、それでもこうして間近に桜を見ると。
揺らぐ。
咎人の俺が手にしている幸せが、何も悪い事をしていない桜の手元には無い。
その事が、罪となって俺を苛む。
だって。
いつだって誰かの為に笑っていてくれる桜の元にだけ、日溜まりが無いだなんて。
そんなのはおかしいだろ。
どこまでこの世の中は理不尽に出来てれば気が済むんだ。
可愛くて、優しくて、こんなにもイイ奴が泣かなきゃいけないなんて、そんなのあんまりだろう。
「……俺の所為かな」
あの街に桜を置いてきたこと。
俺の居場所であり、俺を居場所だと言ってくれた桜を置いてきたこと。
それが罪だと言うのならば、確かに罪なのだろう。
過去に犯した後悔の清算を求めてこの街に来たのは、言わば俺の勝手だ。
言い訳にはならない。
そして、別れたくないと思っていても、それでも何も出来なかった俺の『弱さ』も、罪。
笑顔で涙を流していた桜に対し、何も残せなかった俺の罪。
だがしかし、俺が罪を犯したと言うのならばそれを購うのもまた俺の役目のはずだろう。
なんで、こんな――――
「祐一の所為じゃないって言ってんでしょーが、バカ」
「んなっ?」
目を閉じたままで、桜が俺の呟きに応える。
寝ているとばかり思っていただけに、俺の驚きはそれはもう甚大なものだった。
具体的に言うと、灼熱の鉄板に触った時のような感じで。
びくっと。
そのリアクションも全く意に介さず、まるで病人の様に布団の中から手だけ伸ばして。
さっきまでとは逆に、今度は桜が俺の髪を撫で始めた。
もの凄く気だるそうに、だが。
「何でも背負い込む。 祐一の悪いクセだ」
「……直せないからクセって言うんだ」
「ん。 そ、かもね」
ぼへーっとした口調。
寝起きの瞳。
ふわふわした寝癖のついた髪。
心地良い手の動き。
この空間だけ、まるで時が止まっているかのようだった。
「って! 時間っ!」
「祐一も二度寝、しようか?」
「大変ありがたい申し出だが却下だ。 むしろ頼むから一秒でも速く覚醒してくれ」
「じゃあ、私は……寝よう」
ぽてっ。
すー、すー。
ちょっとだけ起こしていた首を再び枕に預け、二秒後にはまたやすらかな寝顔を見せる。
だがしかし、その可愛げな寝顔ですら俺を二度目の感傷の世界に引きずり込むことは出来なかった。
「おーきーろー!」
「あだだだっ、ほっぺいたっ?」
ぎりぎりぎり。
多少手加減をしながら、ふにふにした頬をつねってやった。
めちゃくちゃ柔らかかった。
奇声を発しながら、頬をつねられる痛みによって(多分だけど)覚醒し、辺りをぼんやりと見まわす桜。
その目が俺を捕らえたところで静止した。
「おはよう桜。 そしてこんにちわ」
「そしておやすみなさい」
「ちーがーうー!」
ぎりぎりぎり。
「いたたたたっ、お、起きた起きたっ! バッチリお目覚めぐもにー! 今日も爽やかな朝ですわっ!」
「ったく」
名雪より幾分かマシとは言え、こいつの寝起きも相当悪い。
ボケをかましてくる辺りなんかはある意味で名雪よりも厄介だと言えるだろう。
ひょっとしてアレか。
女ってのは朝に弱い基本仕様になってるのか?
今度図書館で調べてみよう。
多分、めんどくさくて行かないだろうけど。
「んもー、もっと優しい起こしかたは出来ないわけ? 花の乙女に対してあの仕打ちは極刑モノだよ」
「パジャマのボタンを掛け違えて胸元が覗ける上に寝癖のついた花の乙女。 さっさと顔でも洗ってきやがれ」
「ぶーぶー」
「桜。 NBAもびっくりなブーイングをしているヒマが、今の俺達にあるとでも思ってるのか?」
「……無いの?」
「現在時刻。 えーと、お前の目覚ましによれば十二時十五分十三秒、あ、十五秒、十六……」
枕元に置いてあった目覚し時計を引っ掴み、それを見ながら冷徹に告げてやった。
やたらファンシーな目覚ましで、文字盤には『KUMA KUMA GAO GAO』って書かれてる。
まさか親父の趣味じゃないだろうな、これ。
…………あれ、目覚し時計?
目覚ましがあるのに今の今まで寝ていただと?
まさかコノヤロウ。
「オイ桜」
「ぎくっ」
「お前、目覚ましがあるのに何で起きなかったんだ?」
「……だ、だって」
「だって?」
「だって……メチャクチャ眠いのに朝っぱらから頭の上でピーとかルーとか煩いんだもん。 そりゃチョップもしたくなるよ」
「………お前それ目覚ましの意味が無いだろ」
「多分だけど、私にとってその時の目覚ましは『うるさい機械』でしかなかったんだと思うな、うん」
少しだけ申し訳無さそうな顔をしながら、やっぱり少しだけ不貞腐れた顔をする桜。
まぁ俺も定時に起きれなかったんだから同罪だとは思うのだが、それでも目覚ましがあるのなら有効に活用して欲しかった。
間違っても桜チョップによって撃沈させる為に目覚ましだって朝もはよから一生懸命に叫んでた訳じゃないのだから。
「判った。 寝坊については俺も同罪だから不問にしような」
「やたっ」
「その代わり、普段の三倍の速度で支度をしろ。 おーけー?」
「いえっさ」
びしっと敬礼をして、とたとたと洗面所へ走る桜。
と、その途中で何かを思い立ったように急に立ち止まった。
そして振り返り、またとたとたと戻って来る。
忘れ物でもしたのだろうか。
桜はぼんやりとそんな事を考える俺のすぐ目の前まで走りより、膝立ちの姿勢になって目線の高さを合わせた。
結われていない髪が、さらりと頬を掠める。
動揺した。
「な、なんだ?」
「不覚。 ちゃんと言ってなかった」
「は?」
呆ける俺に対し、桜が笑った。
とても楽しそうに。
まるで『今』が幸せだと俺に告げるかのように。
『こうする事』で自分は幸せになれるんだと、独りなんかじゃないんだと。
一生懸命自分に言い聞かせるように。
それはとても悲しい、だけど何よりも大切な儀式のように思えた。
「おはようっ、祐一」
「……おはよう、桜」
取り敢えず今は、そんな桜に返事を返してやれる場所に居る自分を誇らしく思う事にした。
____________________________________________________________
時が止まればいい。
本気でそう思った。
「だー! よく考えたら俺って私服じゃねーか!」
三倍の速度で顔を洗い、三倍の速度で髪を梳り、三倍の速度で制服に着替えようとした桜の背中を見てその事に気付いた。
取り敢えずその頭を叩きながら。
何で叩いたかって?
そりゃ俺の目の前でパジャマを脱ぎ始めようとしたら叩くだろう。
本人曰く、「急いでたから祐一の存在を忘れてた」らしいが。
それよりもまずは制服だ。
一昔前は不良だと呼ばれていた俺だって、私服で学校に行った事など一度も無い。
無駄な逸脱行為などで『自分』を主張しようとするほど愚かでもなければ腑抜けでもない。
制服を着るのが嫌ならば学校に行かなければ良いし、学校を辞める勇気が無いならおとなしく従ってれば良いだけの話だ。
完全に流れから外れる事が恐いくせに、流れの中心にすら居付こうとしない馬鹿。
まったくもって気が知れない。
知る気も無いが。
「………しょうがない。 かなりのタイムロスになるが一旦水瀬家に戻るしかないな」
「私服? 何が? 祐一のフェチ?」
「ぅおらっ!」
ばふっ!
着替えの途中と思われる妙に乱れた衣服で扉を開け、更に話の本筋から500マイルほど吹っ飛んだ発言をする桜にクッションを投げつけた。
だが、俺の投げたクッションは桜にぶつかる寸前で閉じられた扉に阻まれ、さも哀しげにぽてっと床に落ちる事となった。
ちっ、さすがに反射神経は唯の比じゃないな。
アイツならほぼ確実に、しかも顔面に俺の熱い一撃を受けとめてくれるのに。
まぁアイツには受けとめる気なんて毛頭無いんだろうが。
って言うか。
「言動に少しは恥じらいを持て! このアホ桜!」
「下着も水着も露出度では大して変わんないじゃんか!」
そう云う問題じゃねえ。
扉の向こうから投げ返される、とても女子高生の台詞とは思えない言い草に辟易した。
確かにそりゃ変わらないんだろうが、それにしたってもう少し他の言い方があるんじゃないだろうか。
なぁ、北川よ。
「ところで制服だけど。 私のスペアで良かったら貸したげよっか?」
「マジかっ?」
「うん、まじ」
言ってから十秒ほどして、寝室のドアがすっと開く。
そしてその隙間から真新しい制服がリビングへと投げこまれた。
ぽいっと。
やたらぞんざいな扱いを受ける制服を哀れに思っていると、扉の向こうの桜がちょっと偉そうな声で。
「恥らってみた」
「……多分だけど、それは何か違うと思う」
「ほんっと、祐一はワガママだ」
不満そうな桜。
悪いのは俺なのだろうか。
真新しい布の香りしかしない制服に袖を通しながら、俺はやりきれない思いを反芻した。
どうせ桜に訊いたって「うん」ってしか返さないだろうし。
かと言って他の誰にもこんな事は訊けないし。
はぁ、まったくもってうぐぅだ。
「ってコレ女子の制服じゃねーか!」
着ている途中から薄々気付いてはいたが、スカートのひらひらに手が触った時点で確信した。
瞬時に脱ぎ捨て、フローリングの床にべしっと投げ捨てる。
と、ちょうど着替えを終えて部屋から出てきたばかりの桜がその動作を見て、ぷーっと頬を膨らませた。
「ちょっと祐一! あたしの制服に何てことすんのさっ」
「お前は俺に女子の制服を渡してどうするつもりだ!」
「あんたが受け取ったんでしょーが!」
「お前が渡したんだろが!」
「うー!」
「ふー!」
「ふかーっ!」
「きしゃーっ!」
叫ぶ、バカふたり。
平日の昼間に、陽射しの眩しいリビングで、午後の授業に間に合わなくなるかもしれないと云った瀬戸際の時間に。
だけど妙に楽しい、バカふたり。
気が付けば二人して笑ってた。
クッションをぶつけ合って、どっちが一回多くぶつけたとか言って、ソファの周りをぐるぐる追いかけ合って。
一回で良いから女子用の制服着てみろって言われて、死んでも嫌だって断って、それでも無理矢理着せようとする桜ともみくちゃになって。
疲れて横になって、気がついたら五時間目が始まってる時間を過ぎてて、そしたらもう学校なんてどーでも良くなってた。
「学校、サボっか」
「さんせー」
ソファーに二人、寝っ転がりながら。
言葉少なく意思疎通。
一切の躊躇いも無くサボりを決定する俺達は、やっぱり不良だと思った。
遥か階下から響く、ゴミ収集車の音楽。
小学生の、明日を約束する声。
カラス。
かー。
平日の昼下がりに流れる風やら声やら雰囲気やらは、休日の『それ』を何処までも凌駕する。
世界が動いているからこその休息感。
そして少しの背徳感。
背反した二つが混在する時、俺達はこれ以上無いくらいの甘美な時を味わう事が出来るのだった。
中毒性の強い、麻薬のような快楽を。
「おなか、すいたねー」
「俺も、腹減った」
「何か買いに行こっか」
「賛成」
元々私服だった俺はそのままに。
既に制服に着替えてた桜はもう一度私服に着替え、二人で食材を求めて旅に出る事にした。
目的地は財宝(食料)の眠る場所、商店街。
「いってきまーす」
「いってきます」
無人の部屋に向かって投げかけられる二つの声。
二人で一緒に家を出るから、返事が返ってこなくても寂しくなんかなかった。
二人、一緒だったから。
寂しさなんか微塵も感じなかった。
____________________________________________________________
昨日にも増して、3−Bの教室は騒がしかった。
通常時であれば大抵の騒ぎの渦中に居るのは祐一だったが、今回に限って祐一は学校に登校していない。
したがってこの騒がしさと祐一は全くの無関係、では勿論なかった。
むしろ九割九分九厘が祐一の話題。
残りの一厘は、まぁ世界情勢とかマクドの株価推移とかαがβしたらεした、何故だろうとかそんな感じだった。
昼休みの教室。
平常時ですら喧しいこの教室が、今日は更に『はらたいらさんに全部』な感じでパワーアップしている。
書き文字で表すと、『ざわ…ざわ…ざわ』なくらい。
多分に陰湿かつ不穏な空気を帯びている喧騒は、只中で興じている者以外には確かな不快感を齎す。
こんな中でセンター用の小冊子を集中して読むなど、多少神経質気味な久瀬には到底無理な事だった。
「………っち」
ぱたん、と。
無言で本を閉じる所作が、異様なほどに恐い。
ここまで不機嫌になっている久瀬の姿など、旧執行部会のメンバー以外は噂ですら聞いた事も無いであろう。
人呼んで『冷徹な策士』の道をフォルクス・ワーゲンに乗って時速180kmですっ飛ばしているような久瀬が、心情を表情に表す事は極めて稀。
ましてやそれが自他共に認めるほどの『不快』の類であれば、それを目撃する事はもう近所のスーパーでネッシーを見かけるくらい類稀な事だった。
「うわ。 相沢君と一緒のクラスになった事が発覚した時のような不愉快面だ」
「………」
「睨まないでよ。 事実を明瞭かつ簡潔に述べただけじゃん」
「……何だと言うのだ。 奴が休むのがそんなにも珍しい事か」
疑問系でありながらも疑問詞が付かない。
相手が沙紀だからであろうか、苛立ちを隠そうともしない久瀬に、沙紀は大きく溜息をついた。
呆れたような諦めたような、そんな溜息にはこれ以上なく明確に『なんにも判ってないねこのヒトは、あーあニブチン』と云う意味が付随されていた。
しかし久瀬とて、馬鹿ではない。
むしろ他人の心情を常に探り、その裏をかきつつ生きてきた男である。
権謀術数も深慮思考もお手のもの。
沙紀が思っているのと全く同じ精度で溜息に添付された意味を読み取り、その上で先程よりも一層不機嫌そうな表情を見せた。
「何を、私は見落としている」
「一緒に休んだ人の存在」
「ただの転入生だろう?」
「女の娘、です。 会長」
「………下世話な」
つまりは、そう云う事だった。
祐一が学校に来ないだけなら体調不良とかサボりとかの可能性も考慮されるし、その可能性を考えれば然程騒ぐべき事でもない。
ムードメーカー兼トラブルメーカーが居ないのは多少気になるが、彼抜きでは学校生活が成り立たないほどその存在に依存している訳でもない。
まぁ、精々が『どうしたんだろうねー』くらいで済む話だった。
だが。
今日の今この時に限ってはその展開は通用しなかった。
何故ならば。
そう何故ならば、祐一と共に学校を休んでいる人員がもう一人居るから。
昨日付けで転入したての、3−Bでは今もっともタイムリーな彼女。
草薙桜。
昨日の雰囲気を見る限りでは、祐一と転入生はかなりヨロシクな雰囲気である事は疑い様が無い。
加えて、その転入生と云うのは何て言うかまぁそのつまりは可愛い女の娘だった訳で。
そんな二人が一緒に学校を休んでいる訳で。
文部省(現在文化省)が全身全霊をかけて未成年に見せるのを拒んでいるような情景を、想像するなと言うのが最早難しい状況だった。
まず、順を追って話を進めると次の様になる。
既に毎朝の恒例行事となっていた『水瀬・相沢の遅刻寸前夫婦漫才』が、今日は無かった。
それどころか、どちらも定時までに学校に現れなかった。
世間一般的に言うところの、遅刻。
別段大騒ぎする程の出来事でもなく、むしろ毎日遅刻寸前で走り込んでいる彼等ならいつかはこうなるだろうな程度の認識しか皆には無かった。
北川と香里も、「あーあ、ついに二桁突入だな」「そうね」程度にしか捉えていなかった。
まだ、教室は平和だった。
転入生が居ない事についても、『道に迷ってんじゃないか』の勢いで笑い飛ばされていた。
一時間目が始まってしばらくして、名雪が申し訳無さそうに教室のドアを開けた。
『申し訳無さそうに』とは一般生徒の認識で、親友二人の目には『元気無くしょんぼりして』と映っていたのだがそれはそれ。
一般生徒にはそこまで深く名雪の心情を読み取るのは不可能だった。
故に、事は大事を得ずに収束へと向かおうとしていた。
そりゃ遅刻した上に授業中に教室に入ってくるのだから、気まずそうにするのも頷ける。
この状況でむしろ偉そうに入場してくる生徒など、祐一くらいだろう。
そう思ったクラスメイトは、昨日と同じように『なんだいつもの事か』と言わんばかりに前を向こうとして。
次の瞬間、教室が一気にざわついた。
祐一が、居ない。
水瀬が登校してきたのに、その横に祐一が居ない。
たったそれだけで、しかしそれだけで3−Bの教室全体は極地的な地震によって震度3.5くらいにまで揺れた。
それはもう、『グリコのおまけが付いてない』とか『コンビニで弁当を買ったのに箸が付いてない』ぐらいの大騒ぎ。
ここに到って、皆は自分の認識が謝っていた事を悟ったのである。
『水瀬と相沢』が遅刻して、『転入生』が居ないのではない。
『水瀬』が遅刻して、『転入生と相沢』が居ないのだ。
って事は。
って事は、相沢が水瀬を起こさなかったって事で、水瀬を起こさなかったって事は相沢は水瀬の家に居なかったって事で。
むぅ、どーゆーこっちゃ。
あらヤダ奥様おニブイわね、つまりは○○で××が@@になってピ――(放送禁止)――なのよ!
飛び交う、根も葉もない下劣な噂。
放送禁止な部分意外は大体が事実なのだが、それでも無責任に囃し立てる彼等の姿は傍目には幾分か醜悪だった。
だが、彼等を責めると云うのは少々酷な事だろう。
いくら一日の2/3を勉学に費やしている受験生とは言え、その実態は青い春を謳歌する若さ爆裂な高校生なのである。
それどころか、一日の2/3を勉学に費やしているからかもしれないのだが。
元々が所謂『そーいった』話は大好きだし、ひょっとしたら明日は我が身だし、それ故にやはり興味も尽きない。
加えてその話の中心に居るのが『あの』相沢祐一と来れば、ヒートアップする生徒達に歯止めをかけようとするのは最早無駄な努力も良い所。
先生がキレない程度に授業を真面目に受けていただけでも、賞賛に値するべき忍耐力だった。
それから一時間。
二時間。
三時間。
ついには四時間目が終了してお昼休みに突入しても、彼らが現れる気配は一向に無かった。
そろそろ皆も、臨界点。
噂には背びれが付き尾びれが付き、更にはスラスターやバーニアまでもが付随されて大気圏内を縦横無尽に飛び回り始めていた。
久瀬が忍耐の限界を越え、図書館に非難しようとしていたのはちょうどその時。
それを見た沙紀が久瀬を諌めようとして寄って来たのもちょうどその時。
そして、教室に備え付けられたスピーカーから全校生徒指導部長の荒川の声が響いたのもちょうどその時だった。
『3−B組、水瀬名雪 3−B組、水瀬名雪 大至急職員室まで来なさい 繰り返します 3−B組――――――』
「『大』まで付いたぜオイ」
「ほんと、珍しいわね」
さすがに二日続けての重箱にはご遠慮を願ったのだろう、教室で昼食を取っていた美坂チームの面々がそれぞれに呟いた。
四時間目の授業が若干長引いた為、学食戦線に向かうには手遅れな時間になってしまった昼休み。
栞の弁当も無い為に、しょうがなく無難な線を購買で調達して現在に到っているのだが。
「ごめん、ちょっと行ってくるね」
曇った笑顔で手を『ごめん』の形にし、名雪は机から力無く立った。
北川も香里もその表情に小さな懸念を抱いたが、何しろ『大至急』には勝てない。
結局は教室から出ていく名雪の背中を、おとなしく見送る事しか出来なかった。
「スピード違反に気を付けろよ、水瀬」
「ぶつかられた相手が可哀想よ」
「うー、北川君はともかく香里ってば優しくない」
表面的には優しさの見えない会話でも、名雪の顔に少しは戻る『いつもの』笑顔。
今となっては『旧』が冠詞に付く美坂チームだが、その絶妙な友達コンビネーションは未だ健在だった。
そしてその事が、今の名雪にはどうしようもなく嬉しかった。
自分は、一人じゃないから。
そう思えるから。
全然寂しくなんかなかった。
「いってきます」
「「いってらっしゃい」」
声も、手を振る仕草も、近年稀に見る精度でハモった。
その事がおかしくて、教室に残った二人もまた、笑った。