職員室には一種異様な空気が満ちていた。

手札にロイヤルストレートが入っておきながら、自信無さげに細かくチップをレイズしているような。

浮気の決定的な現場証拠を見つけておきながら、何も証拠を持っていない振りをしてカンだけで亭主を問い詰めているような。

『切り札』を隠し持っている者が持っていない者を品定めしているような、そんな空気。

此処に居たのが久瀬や香里や美汐、そして祐一ならば教師陣の態度から滲み出ているキナ臭さに気付いたであろう。

だが、呼び出された当の本人の名雪にはその漂っている空気がどんな類のものか全く判らなかった。

人の悪意にとことん鈍い、長所とも短所ともとれる気質の所為か。

それとも、名雪の周りを包んでいる人間関係が近年稀に見るほどの素晴らしいものである故か。

恐らくはどちらともが当て嵌まるだろうが、残念な事に今の名雪にとってその特性は短所としてしか機能しなかった。


「あー、水瀬。 すまないな、昼休みに呼び出したりして」

「いえ、別に……」


何かに強制されるように、石橋が並み居る教師の中から一歩先んじて口を開く。

その表情はお世辞にも楽しそうな顔では無かった。

酷く疲れに満ちていて、どちらかと言えば自分の周りに居る人種を何処か軽蔑するかのような眼。

悪意には鈍いがその他の事には意外に鋭い名雪は、その表情から自分が呼び出された理由を大体の所で推理してみた。

そして出てきた答えは、たった一つ。

何をどう考えても、今朝をもってめでたく遅刻回数が二桁に突入してしまった件しか思い浮かばなかった。

申し訳も無いくらいに自分の落ち度。

二回で就職が、三回で大学推薦がダメになると言われている昨今の受験体制下であろう事か二桁突入とはどう言う事か。

怒られる。

何は無くとも怒られる。

これから始まる大レース、もといお説教の時間を思い、名雪はとても深い溜息をついた。


「そんなに憂鬱そうな溜息をつくな。 こっちも面白い仕事じゃないんだから」

「あ、す、すいません」


確かに。

面白い仕事なんかじゃないんだろうと、名雪は思った。

だけどこっちだって何も面白がって遅刻している訳じゃないのだ。

要は一日が二十四時間しかない事が悪い訳であって。

加えて言えば生きる為に必要な欲求を満たす事の何処が悪いのかむしろ訊きたいくらいであって。

これ以上考えると虚しさに押しつぶされてしまいそうになるので、そこで名雪は考えるのを止めた。


「……呼び出した用件はな、相沢の欠席についてだ」

「祐一の事……ですか?」

「うむ」


昨夜の事。

思い返すだけで、少し気分が重くなった。

何処に居るかも判らない祐一を心配する気持ちと、その横に居るかも判らない『あの娘』に対する醜い嫉妬。

何よりもそんな感情を抱いている自分。

全てから逃げ出したくて、昨日はいつもよりも早くに床に入ってそのまま眠りに落ちてしまった。

眠りに落ちれば、その間だけは嫌な自分を消せるから。

その間だけは何も考えなくて済むから。

だけど眠りから覚めた時、世界はいつも当たり前に私を置いて先へと進んでいるのだった。

事象も、時間も、滞り無く。


最近ではもうずいぶんと久し振りになるお母さんの声で起こされた私は、まずその時間帯に驚いた。

当の昔に『いつもの』起きる時間は過ぎているばかりか、下手したら家を出て二秒後に一時間目開始のベルが鳴りかねないような時間。

どうしてこんな時間になるまで起こしてもらえなかったのだろうと思う前に、どうして起こしに来たのがお母さんなんだろうと思った。

階下に降りて判ったのは、どうやら寝坊したのが自分だけではなさそうだと云う事。

ひいては水瀬家の時間を司るお母さんが寝坊したのだと云う事だった。

全くもって稀な事態に、私は当惑した。

病気や怪我の類ではないと言う事なので取り敢えずは安心したが、それでも何かしらの不協和音を感じずにはいられなかった。

そして、お母さんの口から知らされる知りたくない事実。

起こされた瞬間に抱いたささやかな疑問に対する回答。

一つは、祐一が昨日の夜に一度帰ってきてまたすぐに外出してからついに今まで帰って来ていない事。

もう一つは、その一度帰ってきた時に祐一の横には『あの娘』が居たと云う事だった。

明らかに寝起きの所為じゃなく、世界がぐらりと揺れた気がした。

その世界とは勿論そのまんまの意味での『世界』じゃなくて、私が今まで生きてきた小さな小さな領域としての『世界』

朝は祐一に起こされて、一緒にご飯を食べて、一緒に登校して。

そんな不変だと思っていた『当たり前の日常』が、音を立てて崩れていくのを私は感じた。


『ひょっとしたら祐一さんは学校に行ってないかもしれないから。 その時は風邪で欠席している事にしておいてちょうだい』


急いでいる所為だけじゃなくて恐らくは意図的にだろうけど、やたらと業務連絡っぽい言い方をするお母さんを少しだけ恨めしく思った。

そうする事が私の心情を一番逆撫でしない方法だってのは判ってる。

だけど、だからこそ計算された優しさに気付かない振りをする事は酷く難しくて酷く辛かった。

でも、私はお母さんの娘だから、きっと祐一なんかの何倍もポーカーフェイスを造るのが巧いから。

笑顔で『うんっ』って言った私は、多分だけどいつも通りだったと思う。


職員室で祐一の欠席の理由を言う時も、私は普段通りだったと自信を持って言える。

内包した感情を欠片も滲ませずにもっともらしい嘘を吐ける事は、はたして誰かに誉めてもらえる長所なのだろうか。

考えるまでもなくその答えは否だった。

生きていく上では必要なのかもしれないけど、少なくとも私はそんなスキルが必要な人生は送りたくない。

なんて、誰もが自分が思った通りの人生を設計できるのならきっと世の中には文豪も音楽家もなんて存在しなかったんじゃないかと思うんだけど。

とにかく、私は完璧な『嘘』を吐いた。

なのに。


「何て言ったら良いのか……あー、つまりだなー」

「………」


石橋先生はとても困っている様に見えた。

恐らくは、始めの一言が言い出せなくて。

そのまま数秒間の無言が続いた所で、不意に石橋先生じゃない声が私に向かって投げかけられた。


「水瀬。 相沢は何処に居る?」


びっくりして声の方を向くと、校外指導部長の桐塚先生が凄く難しい顔をしながら立っていた。

それは、『校内嫌いな先生ランキング』で荒川先生とT・Uフィニッシュを決めたほどの嫌われ先生。

怒鳴り声を挙げずにねちねちと生徒を追い詰めるやり方は、祐一は認めてくれないけど体育会系の私からしてみれば荒川先生よりも嫌いだった。

荒川先生の悪評は、担任を受け持たれた生徒間からは完全に消え去る。

桐塚先生の悪評は、むしろ担任を受け持たれた生徒間から主に広がる。

どっちが本質的に嫌われているかは私には判断できないけど、とにかく私は桐塚先生が嫌いだった。


「どこって……家だと思いますけど」

「つい今しがた電話をかけたんだがな、相沢は家に居なかったぞ」

「じゃあ、少し気分が良くなったから飲み物でも買いに行ってるとかじゃないですか?」


そんなはずは、勿論ない。

もっともらしい嘘が口から滑り出す事を自嘲しながら、私はそう思った。

恐らくは帰って来ていないのだ。

昨日の夜からずっと。

『あの娘』と二人で。

『家』にも帰らずに。

『あの娘』と二人で。


「水瀬。 嘘は良くないぞ」

「嘘なんてついてません」


その発言自体が既に嘘だと云うのに、どうしてこうも私は平然と積み重ねられるのだろうか。

もしかしたら、これが私の本当なのかもしれない。

どうしようもないくらい天性の嘘吐きで、周りの人に嫌われないようにまた自分を偽る嘘をついて、嘘の上に更に嘘を積み重ねて。

何所まで掘り下げれば本当の自分が見えてくるんだろうか。

いいや、本当の自分なんてきっと無い。

嘘を積み重ね、厚く纏ったこの姿こそが本当の自分なんだ。


だけどねぇ、知ってる?

この世の全てはね、積み重ねるから崩れるんだよ?

そんな風に笑いながら、誰かが耳元でそっと囁いた気がした。


「相沢は家に居なかったが、代わりに電話に女の娘が出てな。 聞けば相沢は昨日から家に帰っていないそうじゃないか」

「あ………」

「これでもまだ、嘘をついていないと言うのか?」


にやっと笑った顔を、私は蛇みたいだと思って酷く嫌悪した。

初めから判っていたくせに、私が嘘をついてるって判ってたくせに、わざとあんな訊き方をしたんだ。

悔しさと恥かしさと、あと得体の知れない『何か』が身体の内に込み上げてくる。

それは多分、あまり感じた事の無い部類の『怒り』と云う感情だったのだろう。

だとしたら、『それ』は誰に向けられるべき感情なのだろうか。

私にしては珍しく、声を大にして『嫌いだ』と公言できる目の前の桐塚先生か。

例え不測の事態だったとしても、気の利いた嘘をつく事が出来なかったあゆちゃんにか。

家を開けたまま連絡もせずに外泊して、みんなを困らせている祐一か。

それとも、ひょっとしたら全ての元凶かもしれない『あの娘』に対してか。

いずれにせよ、鳴門海峡よりも激しくぐるぐる回っている今の私の思考回路じゃそんな複雑な問いに対する答えは出てこなかった。


「嘘は……ついてません。 私は祐一が今どこに居るかなんて知りません」

「じゃあ質問を変えよう。 昨日、相沢は何処に居た?」

「それも、知りません。 私は昨日早くに寝てしまったので」

「それじゃあ……」

「ちょっと待ってください」


このまま何時までも続きそうな質問責めに、私は堪らずに口を挟んだ。

多分だけど、少しだけ強い口調になっていたと思う。


「私が質問を受けている理由が良く判りません。 ちゃんと説明してください」


その質問に、桐塚先生はさも忌々しそうな表情を見せた。

だけどやっぱりその表情も、桐塚先生の想定していた範囲内の『予定調和』にしか見えなかった。

私が嘘をつくのも、それを見破られて抱く感情も、そして今こうやって反抗のような質問をすることも。

全てが見透かされているような気がして、私は背筋がぞくっとした。


「四時間目の授業中に月ヶ岡高校から電話が入ってな―――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Stay by My Side

 
第十二幕 『冬将軍と鍋奉行』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ブランチ、いや違うな。 この場合は……ランナーか?」

「爆風スランプ?」

「悪いが全然違う。 ブランチの様にランチとディナーを掛け合わせた造語をちょっと、な」

「ヒマ人」

「否定はしない」


午前中からずっと日光に暖められていた所為だろうか、外の空気は思っていたよりも暖かかった。

いや、寒い事に変わりは無いのだが。

それでも昨日の深夜に歩いていた時の気温とは段違いだった。

目に見える、日光が照らす街並みから感じる『色』としての温かさも加わった所為もあるだろう。

加えて、商店街を行き交う人々の息遣い。

性格的に人込みが嫌いな俺ではあったが、この程度の賑わいならばむしろ心地良くも感じる事ができた。

ザワザワと周りを穏やかに包む喧騒が与えてくれる、安心感。

自分独りじゃない、と。

そう思わせる『何か』が周りに在ると云う状況が、今日はいつもより素直に受け入れられた。


「なに喰う?」

「んー、冬って言ったらやっぱり鍋?」

「昼間っから鍋かよ」

「買い物して、お茶して、帰ってから作ったらきっと夕方頃になると思う」


『お茶』ってなんだ『お茶』って。

知らない間に組まれていたプランに突っ込もうとしたが、数秒ほど考えてやめにした。

この後の予定なんてバイトくらいしかないし、それだって夜の予定だ。

今から何かをするのに、時間を気にする必要など何処にも無い。

強いて言うなれば一度は水瀬家に戻って昨日の説明をしなければならない事くらいか。

うーむ、水瀬家。

帰るとしたら、やはり秋子さんが家に居る時間帯にした方が良いよな。

五時、遅くても六時か。

先に夕飯を食べた事を告げるとしたら、夕飯の準備をする前の方が都合が良いだろうし。

無断外泊のお説教の覚悟も……しておいた方が良いんだろうなぁ、やっぱし。

いくら見た目が若々しい秋子さんと言え、今は俺の『保護者』だし。

秋子さん本人もそこら辺を判ってて、って事はやっぱりお説教は確実か。

はぁ、うぐぅだ。


「あれ? おーい、祐一くーん」

「うぐぅ」

「う、うぐっ。 それボクの台詞」


考え事の途中で話し掛けられたので、思わず考えていた事をそのまま口に出してしまった。

何やらリアクションが返ってきているようなので前を見ると、羽リュック無しの軽装でてこてこ走りよるあゆの姿が見えた。

なるほど、話しかけてきたのはお前か。


「珍しいね。 こんなに早く学校終わったの?」

「おう。 市教研だったんだ」


懐かしいな、この響き。

昔は午前授業になったり短縮授業になったりして喜んでたっけ。

まぁそれ以前に授業サボってたんだけどな、俺の場合。

ちなみに、市教研ってのは小・中学校の先生方の研修会の事であって高校教師及び高校生には全く関係が無い。

つまりはウソな訳なんだが。


「なるほど。 しきょうけんだったんだね」

「おう、市教研だ」


うんうんと頷きながら、頭の上に”?”マークを浮かべる。

ナイス知ったかぶりだ、あゆ。

お前なら何の疑いも無く、完膚なきまでに騙されてくれると信じてたぞ。

これだからお前は憎めないのだ。


「ね、この可愛さ全開な女の娘は何者?」


くいくいと袖を引きつつ、桜が俺の顔を覗き込みながら訊ねる。

妙に興味津々な表情だった。


「ほう? あゆはお前をして可愛いと言わしめるほどの逸材か?」

「思わず部屋に飾っておきたくなるくらい。 ね、ね、ちょっとこっちおいでよ」

「う、うぐぅ……すんごい眼がキラキラしてるんだけど?」

「別にいじめないって、祐一じゃあるまいし」

「俺はどんな悪者だコラ」


吐き捨て気味に言ったツッコミは、予想通りスルーされた。

はて、スルーと言えば夢の中でスルーパスがどーたらこーたらしていたような気がするんだが。

それもあゆが。

えーと、確かジョルジーニョも出て来てたような……


「わ、わ、わっ」

「うひゃー、柔らかい髪。 しかもお日様の匂いがするねキミ。 ん―――、いい匂い」

「す、吸ってるっ? 吸われてる? ねぇ、ボク吸われてる?」


きゃーきゃー騒ぐ声に再び思考を中断され、何事かと思って二人の方を振り向く。

その先では、何ともまぁ歎美な世界が繰り広げられていた。

然程体格の良くない桜の腕の中にもすっぽりと納まってしまうサイズのあゆは、それこそがっちりと桜の両腕にホールドされて。

そんな身動きの取れなくなったあゆに、桜はもう好き放題やらかしまくってた。

首筋からうなじにかけてのラインを鼻でなぞる様にすんすん嗅ぎ、あまつさえ髪の中に自らの顔を埋めて『うりうり』する始末。

その間にも、あゆの身体を抱きすくめている腕は休む事無くわきわきと動いている。

とてもエロチックに。

お天道さんの下で、白昼の商店街で、何やってんだお前等は。


「私は草薙桜ってゆーんだ。 ね、キミは? 言わないと放したげないぞー」

「つ、つ、つ、月宮あゆです。 あゆなんです。 お月さんの月に宮家の宮で月宮って書いてあゆはそのまんまあゆなんです」

「祐一とはどんな関係? 私は昔からのダチなんだけど」

「ゆ、祐一君とは……うぐぅ、なんだろう。 ふぃ、フィアンセかな」

「黙れ」


ばこっ


パニくってとんでもない事を言い出したあゆの頭に、とりあえず素敵な角度のツッコミチョップを入れてやった。

予想外に良い音がしたのと同時に桜の腕の中に居るあゆの口から小さく「うぐっ」っと云う声が聞こえ、なんだか楽器みたいだと思った。

もう一発叩こうとしたら桜に睨まれたので出来なかったけど。


「お前も。 そろそろ放してやれ。 落ちついて話しも出来やしない」

「いや、可愛いもんでつい」


まだ少し名残惜しそうにしながらも、素直にあゆを解放する桜。

それでも、その眼は未だ輝きを失ってはいなかった。

隙あらばもっかい捕まえて『うりうり』してやろう、みたいな感じで。

対するあゆはと言えば、警戒心たっぷりの表情で桜との距離を置いている。

一言で表現すれば、『……うぐぅ』って感じ。

おどおどした態度と何処か脅えたような瞳がまるで小動物のようで、俺は思わず唇の端を緩めた。

なるほど。

確かに昔から、俺も桜もこんな感じの女の娘には弱いんだよな。

まったく……偏った嗜好の持ち主だわ。

自嘲ではなく、純粋に今の俺達を微笑ましく思い、また笑みが零れた。


「で? あゆは何やってたんだ?」

「え? あ、えっとね、お買い物してたんだよ」

「秋子さんのお使いか?」

「それもあるけど、実はお昼ご飯もまだなんだ。 だからその分もお買い物」

「なんだ、ずいぶんと遅い昼飯だな」

「秋子さんがちょっと寝坊しちゃったんだって。 だからお昼ご飯は自分で用意しなきゃいけなくって」

「秋子さんが寝坊っ? まさか病気か何かか?」

「ううん。 熱もないし咳もしてなかった。 ただの寝坊だから心配しないでも大丈夫だよ」


秋子さんが寝坊するだなんて、グランドクロス級に稀有な事態ではないだろうか。

風邪や体調不良の類ではないと言う事を聞いて安心する横で、俺はそんな事を思っていた。

加えて、名雪の母親である以上は一年に一度くらい眠気に勝てない朝もあるのかもしれないな、等と。

考えてみれば、秋子さんが体調不良で伏しているような状況であゆがこんなにも明るく振舞っている訳が無い。

あゆが笑ってるって事は、即ち秋子さんが元気って事だ。

お母さんは大切だもんな、あゆ。


「って事はさ、あーやも鍋になるのかな?」

「……誰だ、あーやって」

「月宮あゆちゃん。 略してあーや」


何故そうなる。

相変わらず途中経過と云うものを吹っ飛ばしている桜の思考回路に、俺は小さく溜息をついた。

初対面の奴に向かっていきなり『あーや』はないだろう。


「うぐぅ……ボク、鍋になっちゃうの?」


お前はお前で。


「そうじゃなくてさ。 私と祐一はこれからお昼あーんど夕ご飯として鍋でも作ろうと思ってたの」

「えーと?」

「だからさ、あーやも一緒に鍋を食べようってこと」

「そうだな。 それについては俺も賛成だ。 鍋は大人数で囲んだ方が楽しいし」


そうじゃないと、あゆは水瀬家で独りの昼飯を味わう事になるから。

あゆ自身はもう慣れただろうし、俺も普段はとりたててそれを憂いている訳ではない。

必要以上に気に掛けてしまえば、それは暗黙の内にあゆを独りにしている水瀬家を責める事になる。

俺の居場所を、否定する事になる。

それだけはしたくない。

勿論、こんな俺の考え自体が既に無意味だって事は判りきっているのだが。

だがそれでも、桜と一緒にいる今だけは。

誰にも『独り』なんかで居て欲しくなかった。

みんなで一緒に、鍋でもつつこう。

それはきっと、驚くほどに楽しいから。


「場所は水瀬家でいいか?」

「必然的にね。 さすがの誠一郎さんでも女子高生の家に鍋セットまでは用意してくれなかったんだなコレが」

「よし。 それじゃ材料でも買いに行くか」

「おー」

「ねぇ、ボクの意向は完全無視なの?」


とか、拗ねるような口調で言いつつも。

あゆの顔はちっとも不満そうじゃなかった。

それはそう、まるで日溜まりの様に。

見ているこっちまで暖かくなるような微笑で俺を照らす。

改めて返事を確認するまでもなかったが、それでもやっぱり訊いてみた後の反応が予想できた訳で。

その反応が見たかった俺は、恐らくは笑いながら訊ねたんだろう。


「じゃ、一応訊いてみるぞ」

「うん」

「あゆ。 鍋、一緒に食おうぜ」

「うんっ」

「あー、もう可愛いなぁっ」


笑顔でこくっと頷いたあゆを、再び桜の『うりうり』が襲った。

もみくちゃにされてきゃいきゃい言いながらも、今度のあゆはそんなに嫌そうじゃなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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名雪が単独で遅刻し、祐一と転入生の女の娘が同時に欠席し、遂には『大至急』で名雪が職員室に呼び出された。

職員側にどう云う意図があれ、これではもう『何かありました』と大声で公言しているようなものだった。

勿論その『何か』とは男女の関係しか思いつかず、更に突っ込んで言ってしまえば三角関係にしか思えない。

何も知らないくせに、と言うよりもむしろ『何も知らないから』なのだろうけども。

責められる是非も無い彼等の妄想は、主役を欠いた教室の中ですら留まるところを知らなかった。


「………」

「どーどー美坂。 まずは落ち着け。 そんなにイライラするな。 そして俺を睨むな」


北川の言葉を介するまでもなく、見た目で判断してしまっても構わないくらい香里は不機嫌だった。

その形の良い眉は普段の20%UP(北川比)で吊り上っているし、纏う空気はシベリアのブリザードもびっくりなほど冷たい。

こんな状態の香里の傍でへらっとしている事が許されているのは、ある意味では北川の特権のようなものだった。

親友としての付き合い云々も当然あるが、この場合はそれよりも北川と云う男子生徒の雰囲気に特筆するべきものがある。

その場に居て、何をするでもなくへらっと笑っているのが、あまりにも普通なのだ。

癒し系と云う訳でもなく、和み系と云う訳でもなく。

喩えるなら空気とでも云うべきなのだろうか。

近すぎず、遠すぎず。

その場に居る時は誰にありがたがられる訳でもないのに、居なくなると途端に困ってしまう。

北川潤とはそんな男であった。

そしてそんな北川相手だからこそ、香里も感情を隠そうとせずに居る。

名雪の前では気付かない振りをしていた、教室に蔓延している『噂』に対するを不愉快さをも、露骨なほどに。


「……不愉快よ」

「それは美坂の顔を見てりゃ判るさ。 ついでにその理由も」

「違うの。 って、そりゃ噂自体に苛立ってるのも確かだけど。 問題はそこじゃなくて―――」

「水瀬が草薙さん―――ってか転入生の女の娘にか。 『負けた』みたいに言われてる事が、だろ?」


自分の台詞を先読みされて憮然としながらも、香里は案外と素直に頷いた。

そんな香里の表情に、『やっぱりな』の溜息をつく北川。

その態度はあまりにもあからさまだった。

だが、人の気持ちを逆撫でしない事が特技のような北川がそんな風にするのは、やっぱり相手が香里だから。

数少ない、北川が自分を『空気』にしない相手の中に自分が入ってる事を自覚しているのだろう、香里もそれをいつもの事として受け入れた。


「なんだってこう、みんなして見る目が無いのかしら」

「なるほど。 つまり美坂は水瀬の方が草薙さんよりも優勢だと思ってる、と」

「……その言い方だと北川君はそう思ってないみたいだけど?」

「さあな。 何しろ他人の恋物語ってのは自分のソレよりも酷く難解だ。 どっちがどうとか、判るはずも無い」

「親友を応援してあげようとかは思わないわけ?」

「応援で如何こうできるもんだと、美坂は本気で思ってるわけか?」

「………」

「だから睨むなって。 美坂が睨むと怖いんだから。 水瀬の十七倍くらい」


「どんな比較のしかたよそれは」と言いながら、香里は何かを諦めたように疲れた溜息をついた。

そして、考えるのを止める。

思っていた以上に考えこみすぎていたようで、眉間の辺りを小さな鈍痛が襲った。

いくらソレが常だとは言え、いつもいつも思慮深くしているのは予想以上に疲れる事なのである。

本人ですら気付かない内に張り詰めすぎているその糸を意図的に切ってくれる北川の存在は、やはり香里にとって必要不可欠だった。

もっとも、香里自身がそれに気付いているかどうかはまた別問題なのであるが。


「さーて、午後の授業も張りきって寝―――」

「”寝るか”ってのは聞き飽きたわよ」


やれやれ、さっきのお返しか。

意外と子供っぽい仕返しに微笑みながら、北川は自分の席へと戻っていった。

自分の雰囲気を再び『空気』に戻し、聴くに堪えない噂話にも適当な相づちをうちながら。

ひょっとしたら自分よりもポーカーフェイスが巧いんじゃないかと、その様子を見ながら香里は思った。


結局、名雪が職員室から帰って来たのは五時間目も始まろうかと云う時間になってからだった。

その表情は、今度は親友の目から見なくても判るくらい精彩を欠いていた。

酷く疲れているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「秘技、フライング!」

「させるかっ!」


がきっ、と。

卓上に置かれた鍋の制空圏内で四本の箸が交錯した。

そのままぎりぎりと鍔競り合いをしつつ、箸の持ち主は互いに睨み合う。

一歩も引かぬ、引けぬ、引けるか!

ガスコンロの青い炎よりも更に青い、言ってしまえば白に属する色合いの火花があがるのを、同席していた月宮あゆは確かに目撃した。

そしてこう思った。

いつから此処は戦場になったのだろう、と。


商店街での邂逅から一時間とちょっとが経過した午後四時辺り。

俺達は水瀬家のダイニングで昼食とも夕食ともつかない、俺語録から抜粋すれば『ランナー』を取ろうとしていた。

カニ鍋とかスッポン鍋とかフグチリとかまるっきり予算を度外した発言を繰り返す桜を無視し、俺とあゆが購入したのはスキヤキの材料。

なんとも面白味に欠けるメニューで俺らしくないと言う意見もあったが、それも時と場合による。

どうしようもない空腹に喘いでいた当時の俺には、この後に及んで『面白味』などという食えないものを追求する余裕など無かったのだ。


「おのれ桜、やるようになった」

「御託はいいからさっさと肉を鍋に戻しなさいっ。 スキヤキにおけるフライングはれっきとしたバーゼル協定違反だよっ」


俺の記憶が正しければバーゼル協定はそんな事を定めるほどヒマな類の物ではない。

もっとこう、高尚と言うか何と言うか。

いや、本当は俺もどんな物かは知らないのだが。

兎にも角にも、箸の動きを止められた以上は俺の負け。

そう思いつつ素直に肉を鍋に戻しながらも、しかし俺の胃袋はそれを良しとはしなかった。

胃袋広場で開催されるデモ行進と、そこで巻き起こる『飯よこせ』の大シュプレヒコール。

何も意地悪をしたくて栄養を摂取しない訳じゃないのに、そんな事言われたって俺も困る。

これだから支配者の苦労も解せぬ愚民共は、とか何とか上からの視点でモノを喋ってみたり。

……ダメだ、空腹で思考がまとまらない。


「ぐー」

「祐一君、寝てるの?」

「いや、腹の虫の気持ちを代弁してみた」

「祐一まで『腹の虫語』で喋ってたんじゃ意味無いじゃん」

「おお、そう言えば」

「ねぇ、腹の虫は日本語に直すと何て言ってんの?」

「メシよこせハラー。 ハラヘッタハラー。 胃酸過多で内壁が融けるハラー。 って」

「あ、語尾に『ハラー』がデフォ設定なんだ」

「うむ、どうやらその模様だ」

「腹の虫語とか……祐一君と対等なレベルで話せる人、初めて見たよ」


多分だが『対等』ってのは低い方の意味で言ってるんだろう、呆れの色が見え隠れする声がダイニングに響いた。

でも、呆れだけじゃない。

そこには明確に楽しさの色も在った。

一緒になって笑うだけが楽しさじゃない。

今のあゆが見せているのは、喩えるなら母親の色だった。

じゃれあう子供を微笑ましく見ているような、眼に映る全てを慈しむような、そんな色。

背も、胸も、声も仕草も子供っぽさ全開のあゆが垣間見せる、遥かな母性。

女性の魅力はギャップが云々とか言うつもりは無いが、それでもこんな時のあゆの表情は俺にとって限りなく『好き』なものだった。


「違う違う。 私が祐一のレベルまで降りてあげてるの」

「何を言うか。 俺がわざわざ桜のレベルに合わせた会話をしてやってると云うのに」

「つまり、さっきの会話がレベル低いって自覚してるって事?」


うぐ? とか云う擬音がよく似合いそうな首の傾げ方をしながら、鍋の向こうであゆが訊ねる。

あまりにも無邪気な一言は、しかし俺と桜の邪気を呼び覚ますのには充分だった。


「……ほう…言うようになったじゃないか、お前も」

「うぐっ」

「低レベルかどうか、身体で教えてあげようか?」

「あっ。 ほ、ほら、お肉が食べ頃だよ。 わー、おいしそう」


最後の方は棒読みで、いかにもわざとらしく話を逸らす。

下がり気味の眉に彩られた張り付けられたような笑顔が、妙に可愛かった。

もう少しいじめてやろうかと思ったが、なにぶん今の俺は腹が減りすぎている。

腹が減ってはいじめはできぬのだ。

運が良かったな、あゆ。

あー、それと。


「飯を喰う前はちゃんと挨拶しないとな。 ほら、手を合わせて二人とも」

「……自分でフライングしておいてよく言う」

「今に始まった事じゃないからもう良いけどね……」


呆れ顔の二人にステレオで突っ込まれてしまった。

なにやら打ちひしがれる俺とは対称的に、意見の一致した二人が見せるは親愛の笑み。

女同士に芽生えた友情を微笑ましいと思うよりも先に、俺は背筋に言い知れぬ悪寒を感じていた。

時期は違えど、この二人はお互いに俺の『昔』を知っている。

そんな二人が仲良しになってしまったら、これから先どんな事を言われるか判ったもんじゃない。


「昔っから祐一君はそうなんだよ。 自分で言った事を二秒後には自分で否定し始めたり」

「挙句の果てには開き直るから余計に性質が悪い。 だよね」

「うん。 そー言えばこの前もね―――」

「うわっ、祐一サイアク」


突発的に行われる弾劾裁判。

被告人相沢祐一、弁護人ナシ。

くつくつと美味しそうな音を立てて踊る鍋を目の前にして、何故に俺は過去の悪行を暴かれてしかも責め立てられているのだろうか。

しかも二対一で。

空腹と孤独の相乗効果が切なさの琴線を揺さぶりまくり、半ば反論を諦めた俺は不貞腐れ気味に小さく言った。

鍋の向こうまでも届かないくらい小さな声で、ボソッと。


「……いただきます」

「「はい、いただきますっ」」


重複した声が奏でるは、ヒトツでは成し得ぬ楽しさの調べ。

響き合う言葉(コエ)に託される、宴の幕開け。

計ってではないのだろうハモった旋律に、鍋の向こうの二人はまたも楽しそうに笑うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

To be continued……