「ばいばい……」
「ん。 じゃーね、名雪」
「ほんじゃーな、美坂」
「待ちなさい。 あんたはこっち」
「い、いたたたっ。 じゃーな、水瀬」
「うん」
これは放課後突入直後の美坂チームの様子。
元気メーターが限りなくゼロに近い名雪が課外を欠席する旨を香里に伝え、それに便乗してサボろうとした北川が香里に耳を引っ張られていた。
傍目で見ている限りでは、少し微笑ましい。
その実情や内包されている感情の動きがどうであれ、表面的に見れば間違いなくその光景は仲の良い者達の放課後以外の何物でもなかった。
それは彼等のみに当て嵌まる事ではなく、ひいて言えばこの世の中全てに当て嵌まる。
いつだって自分が渦中に居なければ、悲劇は喜劇に見えるのだ。
何も知らない無責任な観衆は、ただただ笑うだけ。
悲劇の役者は、演じている事にも気付かぬまま笑われ続けるだけ。
それは今までも、そしてこれからも。
人が生きていく『人生』と云う名の舞台でも、その構図はずっとずっと変わらないのだろう。
「なー美坂ー。 俺等も帰ろうぜー」
「だーめ。 ほら、教科書出して。 今日は数学と英語でしょ」
「どうせまたセンターの過去問だろ? 家でやっても変わらないじゃないか」
「じゃあ家に帰ってから一人で机に向かって九十分間、他の何もせずにプリントに集中する事ができるの?」
「…………オウヨ」
「はい、嘘バレバレ。 そもそもこの前の模試の結果、どうだったのよ」
「この前の? ああ、ヘネッセのヤツか。 えーと……栞ちゃんの胸と同じくらいかな?」
ばきっ
えぐい角度でステキな一撃が、全くの無防備だった北川の頬に見舞われた。
具体的に言うと右斜め下方向のステキ角度から。
物体A『美坂香里の右拳』から放たれたベクトルは、物体B『北川潤の顔』を直撃、距離Gを動かした。
物体Bの動いた距離と抵抗係数Fを用い、また物体間での推進力消費は0とし、物体Aが放ったベクトルを求めよ。
ぐらぐらと揺れる脳漿の中で、北川はそんな何処か間の抜けた問題を考えたりしていた。
当然答えは風の中。
「〜〜〜〜〜っばか!」
「それは模試の判定に対してか? それとも俺の発言に対してか?」
「後者よっ。 だいたい模試の判定はAなんだから文句の付けようがないじゃないの」
「いや、俺はBのつもりで言ったんだけど……」
ひゅーっ、と。
窓の閉めきられた教室に一陣の風が吹いた、ような気がした。
えーと、とか言いながら目を泳がせている香里と、苦笑を噛み殺している北川。
こんなほのぼのした会話に比べたら、やっぱり課外授業とか過去問なんてどうでもいい事柄だった。
時計を見れば三時五十分。
先生はまだ来ない。
「……あれってBあるの?」
「さらっとキツイこと言うな、美坂」
「姉の特権よ」
「よし、今度栞ちゃんに密告してみよう」
「どうしてそんな話しの流れになったのかを説明する勇気があるなら、どうぞご自由に?」
「なるほど、それは盲点だった」
両手を挙げて降参の意を示す北川。
それをみて、「よしっ」と勝ち誇る香里。
芝居じみた決着がつくのと、凶器と見紛うほどのプリントの束を持った教師が教室に入ってくるのとはほぼ同時だった。
そのプリントの量にげんなりしつつも、まさか今から逃げ出す訳にもいかない。
多分に諦めの色を強くした溜息をつきながら、北川は窓際の自分の席に向かった。
そして香里もまた、授業中の自分の席から離れて北川の横へと向かう。
基本的に課外中は座席指定が無い為、美坂チームは窓際最後尾付近に固まっているのが常なのだった。
だが、今日はその美坂チームも二人しか居ない。
閑散とした教室内で、男女が机を並べて座っている。
祐一と桜ほどではないが、後々密かな噂の種になるのには事欠かない風景だった。
ひたすらに無言でプリントを配る教師を、北川はまるで機械のようだと思う。
どうやったらあそこまでつまらなそうに人生を送れるのか。
そもそも教師と云う職業には望んで就いたのではないのか。
そこんトコどうなんだオイっ。
等と不毛な事を考える理由としては、やはり目の前にばさばさと積み上げられるプリントの束が一役買っていた。
紙資源の無駄使い、いくない。
てな事を言ったら言ったで美坂女史から「その紙資源を無駄にしない為にもしっかりおやりなさい」なるお説教が来る事は判りきっていた訳で。
途方に暮れた気持ちを隠す事無く机に突っ伏しながら、北川は力無く呟くのだった。
「帰りたい……」
「この模試の点数であたしに勝ったら、英語の課外はサボってもいいわよ?」
くすっと笑って。
いじわるなお題をふっかける香里の表情は、それはもう北川の恋心をピンポイントで撃ち抜いた。
あらためて確認する、『二人っきり』
もちろん教室内には北川と香里以外にも複数人の生徒が居るのだが、それはそれ。
今の北川にとって、自分と香里以外の全ては背景でしかなかった。
だからやっぱり、今の状況は二人きり。
ポーカーフェイスの裏に隠された感情に、自分は気付いて欲しいのだろうか。
それとも気付かずに居て欲しいのだろうか。
北川は配られた数学のプリントを見ながらそんな事を思っていた。
まいったな、この問題だけは√でも∫でもΣでも解けそうにない。
かと言って隣の秀才にアドバイスをしてもらう訳にもいかないし。
やれやれ、恋の媒介変数はいつだって不明だ。
「いきなり難しそうな顔して考えこむほどの問題じゃないでしょ。 ほら、頑張る」
難しいんだよ、実際。
どうやったら美坂と俺をイコールで結べるのかって問題は、非道く難しい。
十八年間生きてきて、そん中で今までに遭遇したどんな問題よりもいっとうヘビーだ。
そもそも答えなんてあるのか? この問題。
「ふぅ。 考えるだけ無駄ってヤツか」
「本気で言ってるとしたら志望校のランク、下げた方が良いわよ」
「確かに。 今の俺とだったらランク的に見て釣り合わないかもな」
「……随分と弱気ね」
「でも、やっぱ目標のレベルは下げられない。 妥協して手に入れたって、嬉しくない」
だとすると受験ってのは案外、勉強とは一番遠くに位置するような恋愛と似てるのかもしれないな。
そろそろ闇の世界に陥りそうな窓の外を見ながら、北川は半ば独り言の様に呟いた。
己を磨き、必死で追い求めてみたり。
逆に追わせるほどの己を持ちたいと願ってみたり。
妥協もあり、挫折もあり、そしてまた恋焦がれるもあり。
なるほど、やっぱり学生の本文てのは勉強と恋愛か。
その鬱積やら歓びやらをスポーツとか芸術で昇華したり消化したりするのが、部活動。
学校ってのは案外と巧く出来てるもんだったんだな。
やれやれ、俺はいっつもそうだ。
残り少なくなってから真実に気付く。
始めから全てを識ってりゃ、判ってりゃもっと余裕も持てるだろうに。
まったく、我ながら無駄の多い事この上ない。
ああそう言えば。
「無駄と言えば、水瀬も無駄な事でエネルギー使ってたな」
「聞き捨てならないわね。 あんなに思い悩んでた名雪の姿を見て言う事がそれ?」
「無駄だろ? 少なくとも俺がこのプリントの問題を解くために頭を使う事で消費されるエネルギー用途よりかは、遥かに無駄だ」
「……説明なさい」
「おっかないから睨むなって」
プリントを配ってからすぐに教師が居なくなったのを良い事に、これまた無駄な雑談に興じる二人。
多分に迷惑だと言われかねないが、実は教室に残っている者の殆どが真面目に課外を受ける気が無いのだった。
本当に真面目な者は、プリントを受けとってすぐに図書室へと消える。
例えばそう、北川の目からすれば教師に負けず劣らずつまらなそうな顔をして教室を出ていく久瀬のように。
それ故に教室に残っている生徒と云うのは、暗黙の内に『のほほん組』として大別されているのだった。
「仮定その一。 草薙さんが実は相沢の彼女で久し振りに会った二人は学校に行くのも忘れてしっぽりと以下省略、な場合」
「………」
「さて、アイツは自分の彼女を一年近く放っておくような奴でしょうか。
仮に遠距離恋愛を続けていたとして、俺達に彼女の存在を隠し続ける事が出来るほど器用な奴だったでしょうか」
「……いいえ」
「加えて言えば、彼女が居るなら相沢は水瀬の、女としての好意を完全に拒絶するはずだ。
中途半端が優しさになるだなんて事を考えるほど、俺の知ってる相沢は馬鹿じゃないし腑抜けてもいない」
「仮定の二は?」
「久し振りに会った前の街の知り合いが予想以上に可愛くなってたんで、そのまま学校に行くのも忘れてしっぽりと以下省略」
「………」
「考えるまでもない、答えはNOだ。
一目惚れとかの可能性が無いとは言えないが、まさかその日に一夜を共にするような軽い男でもないだろうしな」
「……その三」
「二人揃って事故に巻き込まれたとか誘拐されたってオチは、残念ながら水瀬の背負ってる『心配』の範疇から外れる」
確かに、と香里は思った。
名雪の心労を一瞬の内に消し去る事が出来る『鍵』を握っている自分が言うのもなんだが、さすがに二人を恋仲と考えるには早計すぎる。
北川の論からいってもいかなくても、だ。
職員室に呼び出された後からの様子を見る限りでは、恋する乙女の悩みと『大至急』の齎した何かは五分五分で名雪を苛んでいる。
ならば片方を投げ捨てるだけでかなりの負担が消えて無くなるだろう。
だのに名雪はそれをしようとしない。
冷静に考えれば判るのに、いや、それどころか―――
「信用。 してないんじゃないか? 基本的に」
誰に遠慮する事無く言い放たれたその一言は、しかし確実に香里の心を揺さ振った。
つきっ、と。
何故かは判らないけれど、心の何処かが小さく痛んだ。
気がつけば、少しだけ強い口調になっていた。
「そんな言い方、ないんじゃない?」
「わり。 そんなつもりじゃなかったんだ」
「名雪は……相沢君とすごく近いから……」
「やめといた方がいいな。 その理論は、少なくとも美坂が言う分には実感が伴いすぎる」
近しいから、その分だけ失う事が怖くなる。
じゃあ、失った時に傷付かずに済む方法は?
そんなのは簡単。
とっても簡単。
愛しい人を、愛しいと思わなければ良い。
居なくなっても平気。
消えてしまっても平気。
初めから親しくなかった、愛しくなかった、そんな人は存在しなかった。
そう思ってしまえば、すごく楽ちん。
自分が傷付いている事にも気付かず、相手が傷付いている事にも気付かぬ振りで。
馬鹿のフリをして全てを見過ごして生きていければ、凄く楽だった。
だけど、ねぇ。
そんな哀しい嘘を、キミはいつまで押し通せた?
「気楽にいこうぜ。 どーせ全てが勘違いなんだ。 明日になったら元通りだよ」
「……だといいけど」
「物事を悲観的に見るのは美坂の悪いクセだ」
「物事を楽観視しすぎるのは、北川君の悪いクセよ」
「なら足して二で割ればちょうどイイって事で、この話しは終了。 異議は?」
「なーし」
「よろしい」
うんうんと頷いて、北川は今さっき配られたプリントを白紙のまま綺麗に折り畳みはじめた。
あまりにも『普通』な動きに、さしもの香里も一瞬だけ反応が遅れる。
「ちょっと待ちなさい」と言おうとした時には既に遅く、忍者のような身のこなしをした北川の足は窓の桟にかかって久しかった。
北川潤、四十八の必殺技の一つ、『忍者風帰宅術』の発動である。
「じゃ、俺は帰るけど?」
「だ、誰の為に課外に残ってると思ってるのよっ」
「俺のためか? ソイツは光栄だ」
「〜〜〜〜〜っ!!」
ぶんぶかと。
あたりもしない鞄を振り回す香里は、普段よりも相当子供っぽく見えたりした。
そんでもって、めちゃくちゃ可愛く見えたりした。
北川の主観的な見解からいってもいかなくても、である。
「ラーメン食いに行こうぜ。 最近みっけた美味いトコあるんだ」
「『北方領土』なら、この前の日曜日に栞と行ったわよ」
「マジで?」
「ええ。 私は歯舞ラーメンで、栞は色丹ラーメン。 確かに美味しかったわね」
「じゃ、今日は国後と択捉だな」
「……あたしも行くのは決定事項なの?」
「樺太餃子オゴリで」
「のった」
いかに学年トップの頭脳を誇る香里とて、勉強が好きな訳ではない。
教室で数列の処理を解いているくらいならば北川とラーメンを食べていた方が美味しいし、何より楽しいのだ。
しかも樺太がオゴリだと言う。
断る理由など何処にも無い。
課外サボりに罪悪感を感じている様に見せる為に一生懸命創ろうとしている素の顔が多少にやけてしまうのも、まぁしょうがない事だった。
「あ、そうそう。 その過去問は明日までにちゃんとやってくることね。 じゃないと非道いわよ?」
「うっ」
「返事は?」
「……はい」
「ん、よろしい」
そして、何処までいってもやはり香里は香里なのであった。
Stay by My Side
第十三幕 『そしてまた日が暮れていく』
リビングの時は、それはもう完璧に止まっていた。
俺も、あゆも、桜も動けない。
動いちゃいけない気がする。
もし少しでも身体を揺らして、声を発して、それ故に空気が踊ってしまったら。
きっと名雪は、泣いてしまうだろうから。
その大きな瞳に限界まで湛えられた涙が一滴、ことりと零れてしまうだろうから。
どうしてそんなにも様々な感情の綯い交ぜになった瞳で俺を見ているか、なんて事はさっぱりちっともこれっぽっちも判らない。
だがそれでも、俺は身動き一つ取る事が出来なかった。
俺達は声を発する事も出来なかった。
瞬きすら罪悪の様に思える緊迫した空気の中で、唯一ことことと美味しそうな音をたてる鍋は、とても場違いな物体でしかなかった。
三人で囲んだ鍋はとても美味しく、とても楽しく。
時には箸を動かす事すらも忘れて、俺達は雑談に興じたりもしていた。
話題が主に俺の悪行についてだった事は頂けないが、それすらも一種のスパイスとして楽しめる程度。
責め立てる声が、謝罪の声が、決して本気ではない事をお互いに判っているじゃれあいは、予定調和の楽しさを俺達に与えてくれた。
こんな時間こそが『幸せ』だと気付けない人間が、往々にして世界には多すぎる。
大好きな人と一緒に美味しい物を食べるって事だけで、俺達はこんなにも暖かくなれると言うのに。
「祐一……なに、やってるのかな……」
ダイニングの扉が開いて後ろから掛けられる、途切れ勝ちの声。
雑談の合間にも玄関のドアが開く音はここまで聞こえてきていたから、誰かが帰って来たのだと云う事は判っていた。
真琴か、あるいは名雪か。
秋子さんが帰ってくるにはまだ早い時間帯なので、俺はこの二人が帰ってくると予想した。
予想通り扉を開けて姿を現したのは名雪。
だが、俺が予想したのはそこまでだった。
誰が帰ってくるかまでは予想できたものの、その帰ってきた人がどんな声を発するかなんて予想もできなかった。
こんなにも、聴くのすら辛いような声だなんて、思ってもみなかった。
「何って……見ての通りスキヤキだが。 喰うか?」
『何をやっていたか』と言う名雪の問いに対する答え。
俺達がやっていたのは本当にただのスキヤキであって、魯山人風でもなければシャブスキーでもなかった。
今のご時世ならば何所のご家庭でも一度はお目にかかった事があるだろう、不偏的な鍋物。
「仲間外れにしてズルイー」程度の反応こそあれ、そこまで感情の色を無くすほど蒼白な顔をする物ではない。
そう思った俺はその場に『いつも通り』が戻ってくる事を期待しながら、『いつも通り』の俺で笑って返した。
だが、またしても俺の予想は覆される。
「そう言う事じゃなくて……そんなんじゃなくってっ!」
「へ?」
「家にも帰らないで、連絡もしないで、学校休んでっ…………祐一は今ここで何やってるのかなぁっ!」
然程大きな声ではなかったにも関わらず、震える名雪の声にダイニングの空気もまた震えた。
思わず口に咥えたままの箸を取り落としそうになり、慌てて手で抑える。
それは、本当にほんの少しの動き。
だがそれすらも既に撃鉄が起こされていた銃の引鉄を引くのには充分だった。
その身に外から持ち込んだ冬の空気を纏わせたまま、名雪は零下の温度で言葉を続けた。
「昨日の夜。 何所で何やってたの」
「………」
言えない。
普段から様々な意味でのほほんとしている名雪が、それこそ眼に涙を浮かべて激昂する様を目の当たりにしても。
昨日の夜を、そこに到る経緯を。
俺は名雪に話せない。
興味本意で訊いてるんじゃないって事は判る。
心配してくれてたんだ。
あゆじゃないけど、俺が事故に遭ったんじゃないかとか、確率は無きに等しいけど誘拐されたんじゃないかとか。
今まで一緒に暮らしてきたんだ、そこら辺の機微が判らないほど愚かじゃない。
でも……それでもだ。
名雪の言葉がどんな心情から発せられたにせよ、『昨日の夜』には。
昨日の夜を創り出した俺と桜の共有する『あの頃』には。
名雪。
お前の入りこむ余地はない。
「何所に居たかを言えば、それで何がどうなる?」
「ゆ、祐一君?」
「場所を言うのは簡単だ。 だが、それだけで全てを判断されたくはない」
桜の家に泊まったって事実。
背景を全て取り除けば、抽出されるのはたったそれだけの事でしかない。
純化された『事実』に新たな『背景』を塗り込むのは、情報を受け取った相手側の独占的な権利。
例え『それ』がどんなに俺達の実情とはかけ離れていたとしても、文句さえ言う事が出来ない代物となる。
『そう思われた』と云う事実は、覆せない。
昨日の俺が身を持って経験した事だが、そう云う『事実』にはほぼ無条件にある種の背景が付加される。
人間の営みの中ではある意味で最も尊く、今の俺達にとっては最も禁忌たる行為。
名雪の思考がそこに直結されるかどうかはすごく疑わしいが、それでも年齢的にはイチ女子高生。
周囲の色が赤ければ、表面的にではあれ朱色になるだろう。
その表面的な朱色が、表面的だからこそ、俺を苛立たせるとも知らずに。
「だから……悪いがお前には言えない」
「開き直ってんじゃないわよバカ」
すぱっと。
ほとんど固形物と化していたダイニングの空気を切り裂くような声が、背後から聞こえた。
それは、あまりにも『普通』の声。
呆れとも罵りとも取れるが、いずれにせよ涙の気配を伴わない声はおおむね普段通りとして俺に響いた。
固まった『異質』な空気を、『普通』の刃で切り裂いて。
その声を発したのがコイツであれば尚更だと、場違いにも俺はそう思った。
「ま、真琴っ? お前いつの間に俺の背後にっ」
「どうでもいーでしょそんなこと。 いま問題になってるのはそこじゃないんだから」
「……相手がお前でも同じだ。 昨日の事は言えない」
「別に訊いてないわよ昨日の事なんて。 祐一がしてたのが夜遊びでも女遊びでも、真琴には関係無いし」
「女…遊び、だと?」
「はいはい怒んないの。 どうでもいーって言ったでしょ? 本気で言ったかそうじゃないかぐらい判んない?」
「……だとしても本人の前で言う事か」
「はい墓穴。 自己紹介とかされてないから名前は知らないけど、そこの人と今まで一緒に居ただなんて誰も言ってないわよ」
「ぐっ」
「んもー、ダメじゃない祐一。 ぜんっぜんダメ。 隠し事はもう少し巧く、ね」
「う、うるさいっ」
女教師宜しく人差し指を俺の眉間にちょんっと当てて偉ぶる真琴の手を、ぺいっと弾く。
そう、それはまるっきり『年上のお姉さんにしてやられて照れ隠しに拗ねている子供』の反応だった。
その自分の反応が何やら真琴の思惑通りの気がして視線を合わせると、やっぱり思惑通りだったようで。
ふふん、と言わんばかりの余裕の笑みが返ってきた。
何だかめちゃくちゃ悔しい。
どうにもこうにも、最近の真琴は扱いづらくてしょうがなくなりつつあった。
扱うって言葉を使ってる時点で何処かしら自分を上に置いてる気がしなくも無いが、それにしてもだ。
ついこの間まではからかって遊べるくらいだったのに、今ではもう俺と対等、って言うかむしろ俺が遊ばれてる感すらあった。
まったく、これだから女は恐ろしい。
「判ったよ。 昨日はコイツの、桜の家に泊まってた。 学校に行かなかったのは寝坊したから。 これでいいだろ」
「だから真琴に言わないでよ。 それを問い質してたのは名雪でしょ?」
「あ、ああ。 そう云う事だ、名雪」
「……まだ、答えてないよ」
「あ?」
「何、してたの?」
「………それが余計な老婆心からの言葉だったら、俺はお前を見損なうぞ」
「違うっ。 そんなんじゃないもんっ。 祐一は全然わかってないっ。 何にも判ってないからっ!」
とうとう涙を零しながら俺を見据える名雪の姿を見て。
ふと、その様相がいつもと『違う』事に気付いた。
帰ってきた時から既に普段通りではなかったのだが、その差異の種類がまるで異なっている。
心配とか心労の所為じゃない、もっと異質な『何か』にその背を追われて。
好きで走ってるんじゃなくて、追われるから走っている。
だからなのか、今の名雪は酷く冷静さを欠いているように見えた。
「悪かった。 何かは知らないが、お前をそこまでにさせる事があったんだな?」
「……うん」
「リビングで話そう。 立ちっぱじゃあれだろ」
「……うん」
長い髪を揺らし、ただ俯いて小さく頷きを返す。
幼い子供が叱られている様にも見えるその姿は、どう考えても平静を保っているようには思えなかった。
こんな状況に追いこまれた名雪を見るのは、俺にとって人生の中で辛い事柄ランキングの上位にランクインする。
ここが彼の場所ならば酒でも勧める事も出来るだろうとは思ったが、俺の記憶する限りではこの家の冷蔵庫に酒の類は入っていないはず。
かと言って何も無くては、話しも始められないだろう。
「あゆ。 悪いがホットミルクでも……あー、いいや。 俺がやる」
「うん。 じゃ、ボクは後片付けしてるよ」
「んじゃ、私はそれを手伝うって事で」
さり気無く。
本当にさり気無く席を外す事を暗に伝えてくれる二人の心遣いが、とんでもなく嬉しかった。
……はて、二人?
「なによぅ。 言われなくたって余計な事に首なんか突っ込まないわよ祐一じゃあるまいし」
全然、ちっとも、これっぽっちもさり気無くない返事。
ジト目で睨んだ先の真琴からは、何とも気遣いの感じられない言葉が返ってきた。
仕事で疲れているのか、心の底から余計な事だと思っているのか。
前者でも後者でも真琴に無駄な疲れを感じさせてしまっているのかと思うと、俺は幾許かの罪悪感を感じずにはいられなかった。
もっとも、さっきの事を思い返してむかちーんとした為に口にも態度にも出さなかったが。
____________________________________________________________
舌先に仄かに感じる程度の甘味を練乳で付加する。
たったそれだけで『ホットミルク』がただの『暖かい牛乳』ではなくなる事を、俺は幼い頃からの経験でよく知っていた。
砂糖じゃなく、蜂蜜じゃなく。
練乳がその内奥に秘めている豊かな母性は、温度を与えられるとより深みを増すのだ。
優しくて柔らかい。
誰しもの原体験であろう暖かい母乳を彷彿とさせる、ホットミルク。
未だ豊かに湯気を吐き続ける白いマグカップを名雪の前に置き、俺はその斜め向かいに並ぶ様にして腰を落とした。
「まだ熱いからな。 気、つけろよ」
「……ん」
僅かに判る程度こくりと頭を揺らし、ぽつりと了解の意を示す呟きを零す。
だが、本当に判っているのかどうかは不明だった。
酷く不鮮明な応答。
虚ろな瞳。
疲れた表情。
どうして一目見ただけで異変に気付く事が出来なかったのかと自分を責めるに充分なほど、名雪の様相は普段とは違っていた。
良くも悪くも『はにゃーん』としているのが常なのに。
こんなに思い詰めたような顔をして……
「ぁつ!」
「おいっ?」
のろのろとした動きでマグカップを口に運んでいた名雪が発した短い悲鳴。
おおかた呆けながらホットミルクを飲もうとして舌を火傷したんだろう。
かちゃっと鋭い音を立てながらテーブルにマグが置かれ、次いで涙目の名雪が口元を覆った。
ったく、何やってんだか。
「どれ、見せてみ? ほら、べーって」
「……ぇー」
ぴろっと短い舌を差し出す名雪。
多少赤みが強くなってはいたが、深刻になるほど酷い火傷でもないようだった。
せいぜいが『ちょっとひりひりする』くらいだろう。
一時間もすれば治る程度だ。
「気を付けろって言っただろ? そうじゃなくてもお前はネコ舌なんだから」
「……祐一、優しいね」
「こんなのは優しいとかの範疇に入らないって。 普通の事だよ」
「祐一、優しいもんね……ケンカとか出来るはず無いもんね……何かの間違いだよね」
「名雪?」
「今日ね……桐塚先生に呼び出されて――――――」
ふっと視線を床に落とし、そして名雪は語り始めた。
ぽつぽつと地面を穿つ雨音の様におぼろな声で、所々に涙の気配を滲ませながら。
俺と桜が何にも気付かずじゃれあって遊んでいた時に、学校で何が起こっていたのかを。
____________________________________________________________
祐一は学校に来ないかもしれない。
だから、教師に何事かを聞かれた時には『風邪で休んでる』って事にしておいてあげて。
今朝の段階で秋子さんは名雪にそう言っておいた。
複雑な心境ながらもそれに頷く名雪。
そして遅刻して学校に着いた名雪を待っていたのは、案の定祐一が学校に来ていないと言う事実だった。
ちくりと痛む心。
疑心が創り出す有り得ない想像を、暗鬼が耳元で愉快そうに肯定する。
それでも、名雪はさももっともらしく祐一の欠席の理由を先生に告げた。
綻びは何処にも無いはずだった。
だが。
その日の正午過ぎ、一本の電話が職員室の空気を揺らした。
発信元は、月ヶ岡高校。
内容を出来得る限り簡略化すると、『昨夜未明に恐らくは生徒間でのケンカがあり、月ヶ岡高校側の生徒に怪我人が出た』である。
久しく無かった暴力沙汰に職員室が一気に剣呑な雰囲気になり、早急に会議が行われた。
華音高校内で疑わしい生徒は、若干名。
そもそもが不良にカテゴられる生徒自体が稀少であり、それだって服装が乱れているとか態度が悪いとかその程度の可愛いものでしかなかった。
そしてその中に、相沢祐一も居た。
無理も無い。
彼の、良くも悪くも目立ちすぎる行動は、教師側から見れば確実に不良の類でしかなかった。
遅刻、無断欠席、生徒会との確執、昨年度の卒業式事件、複数の女生徒との『高校生らしい』一線を越えた付き合い。
騒動、騒動、また騒動。
疑わしいを越えて、既に第一候補だった。
当然の如く呼び出して詰問をかけようとする教師陣。
だが、当の本人はまるで計ったかのように学校を欠席していた。
疑わしさを示すメーターがぐんぐん上がる。
ひょっとしたら、ひょっとするんじゃないか。
あわよくば誘導尋問でもしようと思い、水瀬家に電話をかける校外指導部長の桐塚。
その電話を受け取ったのはあゆ。
そして、彼女は『何も』知らされていなかった。
加えて、彼女は正直者だった。
咎める事など出来はしない。
あゆの、嘘を吐くことの出来ない純真さを、咎める事なんて誰にも出来はしない。
真実を述べる事が罪悪であるとして彼女を咎める事が出来るとしたらそれはただ一人、月宮あゆ本人だけだろう。
『相沢祐一は昨日の夜から家に帰っていない』
事実が、教師に知れ渡った。
その確認として職員室に呼び出される名雪。
同居人の明確な証言が取れている今、名雪がいくら頑張っても無駄だった。
暴かれる、嘘。
だがそれでも、名雪は言った。
「心当たりなんてありません」
真実を述べる事に一片の躊躇いも無く、『本当』を知る事が出来ない自嘲も篭めて、普段より強くそう言った。
数十分の詰問の後、名雪は釈放された。
酷く、疲れていた。
____________________________________________________________
「なるほど。 そんな事があったなら無理もない、か」
「ごめんね……取り乱して、なんか、騒いじゃって……」
「気にすんなよ。 少なくとも俺は気にしてないし、多分だけどあいつ等も気にしてない」
「ん」
やっと表情が戻った名雪を横目に見ながら、俺は数秒間だけ笑みを浮かべた。
ぽむぽむと撫でる様に頭を二・三度軽く叩き、全てを赦す空気を名雪に伝える。
そして数秒後。
さっきの名雪と同じ経緯で床に視線を落としながら、俺はほぼ意図的に自身の浮かべた笑みを消した。
これから廻らせる思考に、恐らくだが笑みの介在する暇が無い事を知っていて。
なるほど、確かに詰めが甘かった様だ。
あの夜の小僧が自発的に漏らしたかどうかは知らないが、脱臼くらいの怪我になれば接骨医に行く必要が出てくる。
階段で転んだとか自転車で転んだとかじゃない事ぐらい、専門家なら見てすぐに判るだろう。
加えて、脱臼した箇所への追撃の痕が見止められる。
暴行か、喧嘩か。
どちらにせよ、あの時間に高校生が救急外来で行ったのなら怪しまれてもしかたが無い。
問われたんだろうな、恐らくは。
だがしかし、俺が奴の心に刻んでやった『恐怖』はたった数時間で消えるほど浅いものだったか?
高校生同士の喧嘩や脅しなんて、身近な大人を含めた社会の中に入ればそれほどの恐怖を持たないって事は判ってる。
それほどまでに自分や社会を包む『大人』ってのは、偉大な存在だ。
今まで絶対だった恐怖がちっぽけなモノに見えるくらい、その存在は力強い。
だがそれを判っていたからこそ、俺だって相応の苦痛を叩き込んでやったはずだ。
言葉のみではなく、精神と肉体にほぼ同等の恐怖を植え付ける為の苦痛を。
しかも、あれは世間一般的な『脅し』の類ではない。
普通に生活している限りは、あいつに危険が降り掛かる事は無いんだ。
その点では一般的な不良がするような強請りや恐喝とは一線を画している。
黙っていれば、何も起こらないのだ。
だのにわざわざ危ない橋を渡るか?
自分がチクったとあからさまに判るような状況で、自分にとって全くリターンが無い選択を?
その結果としてもう一度、あの夜よりも酷い苦痛が自分を襲う事がほぼ確定すると言うのに?
違うな。
鍵山とか言ったか、とにかく、あいつが自発的に俺の存在を洩らしたとは考え難い。
いや、そもそも………
「……名雪。 お前は二重に動きを読まれてたんだよ」
「ど、どゆこと?」
「学校が、桐塚が俺を疑ってるって事には何の根拠も無いんだ。 それこそ勝手な臆測にしか過ぎない」
「だって桐塚先生はもう犯人が祐一に決定したみたいな言い方で―――」
「どこの馬鹿が、自信無さげに犯人を追及すると思う?」
「……あ」
『なるほど』の表情で顔を上げる名雪。
間の抜けた表情がなんだか可愛かった。
だがしかし、お前も高三なんだからさ、もう少しこう、何て言うかな。
そろそろ人をとことん疑うって事を覚えようぜ。
いや、まぁ、そーゆーのが無い所が名雪って言えば名雪なんだけど。
「お前が職員室に呼び出された時、自分の嘘が見抜かれていた事は自覚してるな?」
「……うん」
「更にその後。 断定的口調で俺が犯人である事を印象付けられた」
「うん」
「お前はその様子を、俺にそのまま告げる。 まるで桐塚が何らかの確信を持って俺を犯人扱いしている様に」
それを聞いた俺は、何か証拠を握られてるものと錯覚する。
何しろ名雪の嘘は既にばれていて、それでもそ知らぬ振りで尋問をするような奴だ。
自分がどんな嘘をついても、桐塚には見抜かれているのではないかと思い込む。
嘘をつくのが無駄ならばと、自白に至る。
っは。
馬鹿にしやがって。
「なぁ名雪、この町には高校生が何人居ると思ってるんだ?
高校生だけに限らなくてもいい。
ちょっと大人っぽい中学生も、童顔の大学生も、どっちでもないけど年齢だけで見れば高校生なフリーターもだ。
仮に犯人が高校生だと断定されていたとしても、恐らくだが生徒間での障害事件があったって電話が来たのはウチだけじゃない筈だ。
今回のケースなら近隣の高校全てに疑いが掛けられたと見た方が正しい。
だとしたら妙じゃないか?
電話を受けてようやく事を知り得たたかだかイチ教師の桐塚如きが、どうして俺をピンポイントで犯人だと決めつける事が出来る。
アリバイ? そんなもんは例えばお前にだって無いんだ。
同居人の俺ですらわざわざ寝てるお前の部屋を覗きに行って確認したりはしない。
普段の素行? それこそ知ったこっちゃない。
桐塚が俺の事をどれだけ判ってるって言うんだ。
家に居なかった? ふん、深夜徘徊を責めたければ責めればいい。
だがそれ以上の事を奴等が俺に被せようとするならば面白い、やってみろ。
つまるところ桐塚は、お前に対してはペテンを、俺に対してはカマをかけてるだけなんだ」
まぁ、真犯人は偉そうな事を言ってるこの俺なんだけど。
だがそれでも、決定的証拠も無いままに犯人扱いをされる事は赦せなかった。
俺が犯人だと明るみに出るとしたら唯一、あの場に居た五人が直接俺の所に乗りこんできて『コイツが犯人だ』って言うしかないだろう。
そして、それは今のアイツ等にとってこの世で最も難しい事。
出来るのか?
命を賭して、俺を糾弾することが。
「だから、な。 何の心配も要らないって。 俺は停学にも退学にもなりゃしないよ」
「あ、あれ? 停学とかの事まで、どうして?」
「お前がそこまで取り乱すってのは、『事件』自体じゃなくてその後の俺の処分も匂わされたからだろ? ったく、性悪だなあのバカ先は」
「……すごいね祐一。 何でも知ってるみたい」
「お前が人の悪意に対して鈍感なだけ。 ったく、これだからにぶちんは」
「鈍感とか…祐一が言うかなー」
「む?」
「何でもないよ。 何でもなーい」
何かをはぐらかす様に言いながら。
やっと戻った、『いつも通り』
雪割りの花の様なその笑顔が嬉しくて、俺もまた口元を綻ばせた。
ホットミルクを湛えたマグから立ち上る湯気は、既に姿を見せなくなって久しかった。
だがそれでも、薫る母性は微塵も失われてはいなかった。
そして今日もまた、ゆっくりと日が暮れていった。
To be
continued……