騙されたと思うでしょうか。
 
今まで一緒に居てくれた人々よ。
 
アナタ達は、騙されたと思うでしょうか。
 
 
雪の降る街で、相沢祐一はただの高校生でしかありませんでした。
 
何所にでも居るような、ちょっと変わった高校生でしかありませんでした。
 
 
意図的にそうしていたのではありません。
 
隠していた訳ではありません。
 
周囲が余りにも温かかったので、あまりの居心地の良さに笑顔になっていただけです。
 
アナタ達があまりにも優しいので、それを映す鏡の様に相沢祐一もまた優しく見えただけです。
 
 
お喋りをしていました。
 
鼻歌を歌っていました。
 
とてもとても楽しそうでした。
 
 
咎人で在る事も忘れて。
 
 
騙されたと思うでしょうか。
 
『普通』の相沢祐一と一緒に居てくれた人々よ。
 
アナタ達は騙されたと思うでしょうか。
 
 
本当の事は言えませんでした。
 
考えただけでも恐ろしすぎて言えませんでした。
 
また『あの時』のような目で見られるのは嫌だったのです。
 
もう二度と失う事だけはしたくなかったのです。
 
 
だけどそれももう終わり。
 
欺き続けてやっと手に入れた幸せももう終わり。
 
だって全ては割れていた。
 
誰も知らないはずなのに、あの人だけは識っていた。
 
 
相沢祐一は咎人です。
 
相沢祐一は罪人です。
 
相沢祐一は、人を殺しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第十五幕 『たとえ世界中がキミを嫌っても』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
思わぬ過去の露呈に、言い知れぬ不安ばかりが雪の様に降り積む最中。
 
表面上だけは平静を装いながら、俺と桜は『雪見大福』への道を歩いていた。
 
雪こそ降っていないものの、時期は霜月も末。
 
これから恐らく三月の始め頃まで、この街に振るのは雨ではなく雪になるのだろうと確信するに足るほど、動きを止めた外気温は冷たかった。
 
そして、もう一つ。
 
二重の意味で温かい水瀬家から出た事による格差も、俺の肌を刺す寒さの一因となっていた。
 
 
つい先程の水瀬家での、桜を玄関においてダイニングで交わされた遣り取りを思い出す。
 
たった二言三言だけの会話だったにも関わらず、それは今までの生活が全て虚像だったと俺に告げるかのような強さを持っていた。
 
 
秋子さんは、知っていた。
 
 
あの人の事だ、虚言などは吐いたりしないはず。
 
だとすれば、本当に言葉通りの意味で、全てを識っていると考えるべきだった。
 
親父からの情報か、それとも母さんとの繋がりか。
 
今の俺にはどちらかを判断する情報が無かったし、仮に判ったとしてもするべき事など見当たりはしなかった。
 
 
思う事はただ一つ。
 
渡された制服は、拒絶か否か。
 
ただそれだけの事。
 
 
普通なら、拒絶だなんて思わなかっただろう。
 
俺と桜の関係を知って、今の桜の状況を知って。
 
その上で、自身の『保護者』としての責務も弁えた上で、秋子さんが俺にくれた暖かな心遣いだと考えるのが妥当だ。
 
本当は昨冬のあゆや真琴に対しての様に、水瀬家でもって桜を迎え入れてくれるつもりだったのかもしれない。
 
まるで、初めから自分の居場所が其処に用意されていたかのような、完膚無きまでの優しさで。
 
 
だが、現在の状況はあまりにも特殊でありすぎた。
 
両親からの拒絶を直接に受けた桜にとって、暖かく自身を包んでくれる『家族』こそが今は何よりも辛いのだ。
 
例えその優しさが自分を拒絶するはずが無いと頭で理解したとしても、心の奥底に刻まれた傷はそれを信じようとしないだろう。
 
それに、あゆだって『あの時』には涙を流していた。
 
水瀬家が、『家族』が、優しくしてくれればくれるほど、もう二度と戻れない日々が胸を過って。
 
自分にも確かにあった筈の『家族』が今は無い事を思い、みんなの優しさが余計に痛くて、あゆは泣いたんだ。
 
 
今また同じ轍など踏ませたいはずもなく、だけど『家族』じゃ何の役にもたってやる事が出来ない。
 
ならば次善の策として、せめて桜の元に誰かが一緒に居てやるべき。
 
そう思ったからこそ、秋子さんは俺に制服を渡したのだろう。
 
桜の傍に居てやれる、その役は少なくとも雪の降る街では俺にしか出来ない事を知って。
 
本分である学業には支障を来さぬよう、けれど出来得る限りは一緒に居てあげてほしいと。
 
 
しかし、優しさに感謝する思考の裏側では、一抹の不安が拭い去れていない事もまた事実だった。
 
即ち、制服の譲渡は『水瀬家』からの離別を暗に推奨しているのではないかと言う危惧。
 
もっと言ってしまえば、『出ていけ』の意味ではないかと俺は思っているのだ。
 
高校卒業を控えたこの時期。
 
いつまでも居候で居続けられる訳ではないのだと、『これから』の処遇を匂わせる小道具として制服は利用されたんじゃないかと。
 
そんな筈は無いと自分に言い聞かせようとすればするほど、それが自分に都合の良いだけの解釈なんじゃないかと思えてしかたが無かった。
 
 
何て馬鹿々々しい思考だろうか。
 
どれだけ愚かしい考えだろうか。
 
判っているのか相沢祐一。
 
お前のその考えは、今まで居候のお前にすら『家族』としての愛情をくれていた秋子さんの思いを、何よりも冒涜する事に他ならないんだぞ。
 
 
「祐一。 どったの?」
 
「……なんでもない。 明日の数学の事を考えてただけ」
 
「なるほど。 そりゃ眉間にしわも寄るね」
 
 
あたしも数学嫌いだよー、とか言いながら隣りを歩く桜。
 
昨日と同じ様に手を繋いだままで、ずっと昔から変わらぬ距離で。
 
全てを識ってなお俺の傍に居てくれる存在がこんなにも俺を安心させるだなんて、今まで考えた事すらなかった。
 
離れないで居てくれる。
 
一緒にいようと言ってくれる。
 
『あの日』の屋上で交わした約束は、今でも俺を支えていてくれる。
 
 
「桜」
 
「なーに?」
 
「今日も……お前の家に泊まっていいか?」
 
 
桜なら拒絶はしない。
 
そんな事は判り切っていたにも関わらず、俺は訊ねてしまっていた。
 
自分の事ながら、果てしなく情けない奴だと思う。
 
だがそれでも、どうしても俺は聞きたかったのだ。
 
確固たるモノが欲しかったのだ。
 
視線じゃなく、態度じゃなく。
 
カタチこそ持たないものの明確に俺を包み込んでくれる、誤解の入りこむ余地の無いくらい確かな存在の肯定を。
 
暖かい、言葉ってヤツを。
 
 
「大歓迎っ。 あったかくして待ってるからさ、なるべく早く帰っておいでねっ」
 
 
救われてるのは俺の筈なのに、それ以上に喜びの色を見せてくれる桜の笑顔。
 
弾む声と共に揺れるポニテ。
 
強く繋がれた左手。
 
お前は……優しすぎる。
 
意図的にじゃなく与えられる喜びは、意図的じゃないが故に何よりも嬉しい。
 
 
「……ありがと」
 
「ぅ? なんか言った?」
 
「何でも無い。 寒いなって言ったんだ」
 
「ん。 寒いね」
 
 
そう言って、ぎゅっと。
 
俺が寒いと言ったからそうしたのか。
 
それとも、初めに呟いた言葉が聞こえていたのか。
 
どちらにしても、二人繋いだ手がまた更に堅く握られたと云う事実は変わらなかった。
 
暖かいと思った俺の気持ちは、揺るがなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「私の部屋番号わかるよね。 帰ってきたらそこの変な機械に番号打ち込めば私のトコに繋がるからさ」
 
 
『雪見大福』のエントランス。
 
オートロックを司る機械と自動ドアの狭間で、桜がちょっと誇らしげに解説していた。
 
だが、ロックシステムの機械を『変な機械』と呼んでいる辺りがまだ慣れていない証拠。
 
そう言えば向こうの桜の家は一軒家だったなと思い、気付いてすぐにその思考を切り捨てた。
 
『向こう』の事など、どうだっていい。
 
俺達は今、雪の降る街で生きている。
 
 
「お前、俺が帰ってくるまで起きて待ってるつもりか?」
 
「ぇ? だって起きてなきゃ開けらんないじゃん」
 
「……鍵よこせ、ってのはやっぱ抵抗あるか」
 
 
オートロックを外す方法は、簡単に言えば二つある。
 
一つは桜が言ったように、訪ねる部屋の主に連絡を取って中から開けてもらう方法。
 
もう一つは言わずもがな、鍵を『変な機械』に突っ込んで住人だと認識してもらう方法だ。
 
裏技として他の住人が帰ってきた時に便乗して擦り抜けると云う方法もあるが、あまり使いたくはない。
 
よって上の二つになる訳だが、前者は住人が中から開けてくれると云うのが絶対条件である。
 
部屋番号のみでロックが解除されるのならば、オートロックの意味が無い。
 
住人の同意があって初めてドアが開くのだ。
 
それを今の俺と桜に当て嵌めると、俺がバイトを終えて帰ってくる時間まで桜が起きて待っていなければならない事になる。
 
早くても一時半、遅ければ二時を回るバーテンのバイト。
 
負担など、掛けたくはない。
 
誰もいない部屋で誰かを待たせるなんて、絶対にさせたくなかった。
 
 
しかし、だからと言って『鍵をよこせ』ってのはあまりにも短絡的すぎる思考だと思った。
 
桜とて仮にも女の娘だ。
 
自分の家の鍵を誰かに渡すのには、やはり少なからず抵抗を覚えるだろう。
 
 
「いや、鍵を渡すのは別に問題ないんだけど」
 
 
問題ないらしかった。
 
 
「ただね。 やっぱりこう……なんてゆーのかなぁ……」
 
 
言いながら、柄にも無く言葉を濁す桜。
 
ちらちらと床を見る視線も、何処か泳ぎ勝ちだった。
 
暖色系のライトに照らされたエントランスに佇む二人の間に流れる不思議な空気。
 
何と形容して良いのかも判らない雰囲気を持て余した俺が無理矢理に言葉を挟もうとした時、ようやっとの事で桜が次の言葉を口にした。
 
 
「自分で開けたいんだ。 んで、ちゃんと祐一が来る前に玄関開けて……『おかえりなさい』って、言いたいんだよ」
 
 
えらく恥かしそうに、ライトの所為だけじゃなく顔を赤くしながら。
 
見た事も無いくらいはにかんだ表情で、だけど最後まで聞き取れるほどしっかりとした強さを持って。
 
まったくもって普通の女子高生とは照れるべき場所が違う桜の感性を、俺は呆れるくらいに愛しいと感じていた。
 
自分が普通だとは思っていないし、普通である事に絶対的な価値なんて見出せない。
 
かと言って逸脱する事がそのまま誇れるような事かと訊かれたら応えはNOだし、じゃあお前は何を誇っているのかと問われても答えられない。
 
そんな、何一つとして確固たるモノを持っていない俺だけど、それでもこれだけは譲れないような気がした。
 
桜が、桜を形成【ツクル】する全てが、俺は大好きだ。
 
 
「明日の朝、起きれなくても知らないからな」
 
「なるべく優しく起こしてくれればそれで」
 
「朝メシ食ってる時間なくても、俺の所為にするなよ」
 
「一緒にお昼、食べよーね」
 
「いってきます」
 
「いってらっしゃい」
 
 
制服の入った紙袋は桜の手に。
 
暖かい言葉は俺の背に。
 
帰る家を示す、何よりも明確な『約束』だと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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木で創られたシックな扉。
 
昼間の俺が生きる世界との明確な境界線であるそのドアの向こうからは、微かにだがピアノの音が聞こえていた。
 
腕時計をしない主義だから今の時間を知る術は無い。
 
だが、少なくとも普段の俺がバイト場に現れる時間よりかは相当に早いのだろうと云う事だけは予測できた。
 
何故なら、マスターは俺の前で滅多にピアノを弾かないから。
 
そもそもが俺とマスターの共に過ごす時間自体が店の営業時間内でしかないからしょうがないのかもしれないが。
 
それでも、俺の前では何処かしら意図的に弾く事を避けているような雰囲気が見える事もまた事実だった。
 
 
「……Bye For Now、か」
 
 
俺の世代なら知らない奴の方が多い、ロックバラードの名曲。
 
だからと言ってマスターの世代を直撃していると言う訳でもないのだが、何故だか今はとてもよく似合っているような気がした。
 
仄暗い店内。
 
グランドピアノ。
 
傍らにはスピリッツ。
 
渋すぎる一枚絵のような光景を思い浮かべた俺には、幸いな事に素敵なBGMまでもが用意されていた。
 
滲む様に聞こえる、木製のドア越しの旋律。
 
再会を前提とした別れの言葉。
 
『Bye For Now』
 
今さっき桜と交わしてきた暖かい言葉の群れが胸の内で踊り、十一月も末の夜風すら俺の頬に何処か心地良かった。
 
 
「ちーっす」
 
「………」
 
 
曲が一段落した所で、カウベルを鳴らしながら店内へと入る。
 
普段よりかなり早い俺の登場に驚いたのだろう、マスターは怪訝そうな表情を浮かべながら無言で俺を迎え入れた。
 
着崩れたノータイのスーツに、グランドピアノと『山崎』のロック。
 
サングラスの奥からぎらつく視線は鋭く、佇まいは柔らかく。
 
職場の中に在った光景は俺が予想していたよりも遥かにふしだらで、予想していたよりも遥かに格好良かった。
 
 
「どうした」
 
 
やはり俺の前でピアノを弾くつもりは無いらしく、いたずらに鍵盤の上で指を滑らすだけのマスターがそう呟いた。
 
俺の方をちらりとも見ずに、そもそも問い掛けかどうかも疑わしい音量で。
 
人と話しをする時は相手の目を見なさいって先生に教わりませんでしたか、と俺は心の中だけで突っ込んでおいた。
 
まぁ今の日本は相手の目を見た瞬間に『ガンつけた』と言われる社会だしな、とか何とか。
 
どうにも昨日の夜の雰囲気が残ってる自分を戒めながら、俺は努めて明るく振舞いながら言葉を返した。
 
 
「いえ、ちょっと時間を持て余してたんで」
 
「誰がお前の事など訊いたか阿呆。 俺は昨日の嬢ちゃんはどうしたかと訊いてるんだ」
 
「へ?」
 
 
ピアノの上に置かれたロックグラスを鷲掴みにし、もう片方の手で長い前髪を掻き上げながらカウンターの中に入るマスター。
 
雰囲気から察するに、同じ言葉を二度告げる気は無さそうだった。
 
『昨日の嬢ちゃん』とは恐らく桜の事。
 
ってかそれ以外に『昨日の嬢ちゃん』に該当する奴が思い浮かばない。
 
マスターが何故に桜の事を気に掛けているかは判らないが、問われたからには答えない訳にもいかなかった。
 
 
「桜なら……自分の家に帰りましたけど?」
 
「つまり此処には連れて来てない、と」
 
 
阿呆。 と、もう一度言いたげな顔でマスターが溜息を吐く。
 
ひょっとしなくても呆れられている様だった。
 
ロックアイスを鳴らしながらグラスが傾けられ、マスターがまた一塊のバーボンを嚥下する。
 
その様子を見ながらまさか酔ってる訳ではないだろうとは思うものの、発せられた言葉の真意が掴めないのもまた事実だった。
 
今のマスターは昨日の様に、決して冗談やからかいで桜の存在を問うている訳じゃない事は判る。
 
本気とふざけの区別がつかないほど、俺は馬鹿じゃない。
 
だがしかし馬鹿ではないと自負する俺の思考回路ですら、今の現状は把握し切れなかった。
 
俺がバイト場に独りで現れる事。
 
それは一も二も無く今までの生活の中で培われてきた『普通』だった筈だ。
 
なんで今更になってそんな事を異端扱いするのだろうか。
 
考えても判らなければ、大人しく訊ねるしか道は残っていなかった。
 
 
「何か……問題でも?」
 
「あの娘が抱えている問題は、一日やそこらで解決するような軽いもんだったのか?」
 
 
問い掛けではなく、確認。
 
低く響くマスターの呟きには、疑問の空気なんて欠片も感じられなかった。
 
つまりは反語。
 
語尾に『違うよな』の類の言葉が付随している事は容易に読み取れた。
 
基本的に自分が関与しない問題に首を突っ込む人ではないので、昨夜の会話は傍聴されていないと断言できる。
 
桜が此処に来た理由だって、昨日のマスターは一言も問わなかった。
 
背景にある様々な思いを暗黙で了解してくれているのだと俺は勝手に思っているし、加えて桜への配慮もあったのだろう。
 
傷はまだ新しい。
 
涙はそう早くは乾かない。
 
問題は、そんなに軽いもんじゃない。
 
 
「……いいえ」
 
「だろうな。 じゃなきゃお前が此処まで連れて来る訳が無い」
 
 
俺がバイト場に誰かを連れてくる意味。
 
それを、この人は判っていてくれた。
 
判ってくれてだからこそ、マスターは桜を心配するような言葉をかけてくれたのだ。
 
どうしようもない理由があって連れてきた女の娘。
 
仕事場にまで私情を持ち込むほどだ、そう易い問題ではないのだろう、と。
 
あまりにも身勝手で口に出す事すら憚られていた『それ』は、俺の勝手な思いなんかじゃなく、ちゃんとマスターに理解されていた。
 
桜の身を憂いている今の状況でこんな事を思うのは不謹慎なのだろうが、それでも俺は思ってしまった。
 
嬉しい、と。
 
 
「桜とは、今まで一緒でした。 昨日は『バイト場に連れてってほしい』って言ったんで連れてきましたけど、今日は何も言わなかったんで」
 
「大丈夫だと思ったか?」
 
「笑ってたんで……はい、大丈夫じゃないかと」
 
 
そう、笑ってたんだ。
 
商店街でも、水瀬家でも、別れ際にだって桜は笑ってた。
 
昼から二人で遊んで、あゆを見つけていじって、三人で鍋しながらまたはしゃいで。
 
断言できる。
 
あの時の俺達の、桜の笑顔は作り物なんかじゃなかった。
 
陰なんか何処にも見えなかった。
 
だから大丈夫だと、本気でそう思ったんだ。
 
 
「いくらなんでも自分からは言い出せなかったんじゃないのか? 二日連続なら、尚更に」
 
「さ、桜はそんな事を気にするような奴じゃ―――」
 
「ない、とでも言うつもりか?」
 
 
伏したままでも俺を射抜く鋭い視線。
 
揮発するアルコールの香り。
 
普段よりも饒舌なマスターの声を何処か遠くに聞きながら、俺は自らの到らなさに強く歯噛みしていた。
 
 
気にするような奴じゃない?
 
そんなバカな。
 
今のアイツは何よりも他人に疎まれる事に脅えているはず。
 
他人に拒絶される事に、酷く臆病になっているはずだ。
 
そして臆病になればどうするか。
 
言うまでもない、桜は些細な事にすら脅えて身を隠した。
 
これ以上の迷惑を掛ける前にと、笑顔のままで独りの空間に戻ったのだ。
 
女連れでバイトに赴く俺の立場、営業時間中ずっと店に姿を現す事のなかったマスター。
 
そのどちらもが俺達にとっては然程気にする事でもなく、しかし桜にとっては脅えの対象となったのだろう。
 
……馬鹿野郎が。
 
 
水瀬家のリビングで自分が言っただろう。
 
『普通にいこう』って。
 
気遣いばっかされるのはイヤだって。
 
なのにどうして、お前はまた独りを選ぼうとする。
 
迷惑だなんて、いつ何処で誰が言った。
 
 
「迷惑なんかじゃないって口でいくら言ったって、一抹の不安は拭えないんだろうな」
 
「……また、気付いてやれなかったんですか。 俺は」
 
「お前を責めるよりもあの娘を誉める方が妥当だな。 少なくともお前は、『そっち』の方にかけては飛び抜けて敏感だ」
 
 
そう、桜は『巧い』んだ。
 
いつだって素の表情でとぼけて、たまに全てを包み込むくらい果てしなく笑って。
 
言い訳をする訳じゃないんだが、それでも桜は圧倒的に自分の想いを隠すのが上手だった。
 
前の街でいつも一緒にいた俺ですら桜の弱さを見た事は稀だったし、素の表情の裏に隠された本当の姿なんて恐らくは誰も見た事が無いだろう。
 
口では『自分がいちばーん』とか言っておきながら、全てにおいて『誰か』を自分よりも最優先にするのだ。
 
あの頃それは唯だったり、今回のケースでは俺だったり。
 
守りたいと思った姫に実は守られている事に気付いたマヌケな騎士は、これから一体どうすればいいのだろうか。
 
 
「命令だ。 明日っから彼女も連れて来い」
 
「……いいんですか?」
 
「いいもクソもこれは命令だ。 拒否など認めていない」
 
 
マスターの命令って形をとらなきゃ、俺がどう言ったって桜は気負いするだろう。
 
自分の『孤独』よりも俺の『立場』を気にして。
 
だけどマスターの命令なら俺も従わざるを得ないし、桜の自発的な提案でもないから此処に来るのに気兼ねする必要がなくなる。
 
全てをちゃんと判った上で、本当は俺や桜の事を考えてくれているのに、そのくせまるで自分の我侭で言ってるみたいな素振りで。
 
マスター……あなたって人は―――
 
 
「―――絶対連れてきますよ。 嫌がったって首根っこ掴んで連れてきます」
 
「あの嬢ちゃんにそんな手荒な事してみろ。 七兆倍の苦痛をお前に進呈してやる」
 
「……抵抗はあると思います。 多かれ少なかれ、今のアイツは誰にも、少しの負担も掛けたくないと思ってますから」
 
 
店に、俺に、マスターに。
 
今まで無かった新たな物が既に完成された場に入り込む時、それは必ずと言ってもいいほど何かしらの問題を巻き起こす。
 
喩えるならば、静かな水面に投げ込まれた一石の様に。
 
生じた波紋は綺麗に映し出されていた水面の月を歪ませ、湖底では堆積していた泥が跳ね上げられて水を犯す。
 
乱れた湖が再び元の静寂を取り戻す為には、恐らく多大な時間がかかるだろう。
 
月はいつまでも真円には戻らず、泥はいつまでも浮遊したまま、全体は異物感を孕んだまま。
 
人は、桜は、そうして自らが呼び水となって起こった一連の混乱をこう呼ぶのだろう。
 
『迷惑』、と。
 
 
「だからこそ多少むりやりにでも連れてくる必要があるんです。 そうじゃなきゃマスターに対してだって失礼だ」
 
「俺に?」
 
「足下に擦り寄ってきた可愛い捨て仔猫に対して『迷惑だ』なんて感情を抱くほど、ウチのマスターは見た目ほど冷酷じゃありませんから」
 
「ふん。 勝手な妄想を」
 
「だとしても。 迷惑なんじゃないかと思う心こそがマスターに対する冒涜である以上、俺は桜をこのままにはしておけませんよ」
 
「……それだけじゃ半分だな相沢。 その答えだけじゃ満点はやれない」
 
 
唐突に採点される俺の言葉。
 
50点。
 
足りない答えを、俺は既に知っている。
 
 
「桜を、二度と独りにはさせません。 誰が何と言おうと、俺がそんなのは嫌だから」
 
「正解だ。 店を開ける準備をしろ」
 
「Yes Sir My Master」
 
 
グラスに残ったウィスキーを飲み干し、サングラスを外しながら営業モードへと移行するマスター。
 
その姿を横目で見つつ、俺は表の看板【CROSE】を外す為に扉へと向かって歩き出した。
 
今日もこの場所の空気は俺に優しい。
 
願わくば明日からの桜にとっても、そう在ってほしい。
 
 
「相沢」
 
「はい?」
 
 
背中に投げ掛けられる独り言のような声。
 
それは他に音の無い店内だからこそ使われる事ができる、この場所ならではの静かな響きだった。
 
仄暗い暖色の照明、二人分の吐息。
 
言葉は少なく、意味多く。
 
決して欠片も偽らぬ、男と男の真面目な本音。
 
 
「いい娘だな。 彼女は」
 
「ええ、極上ですよ」
 
 
背中同士で確認しあい、恐らく俺達は互いに笑みを浮かべていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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午前一時半の帰り道。
 
久し振りにまとまった客が来た事に、何故かマスター以上に喜んでる俺が居た。
 
それは収益があった事に対する喜びではなく、純粋に客が来た事に対する喜び。
 
端的に言えば、店の雰囲気を解せぬ無粋な輩が百人来たってそれはちっとも嬉しくないのだった。
 
本当にあの店とマスターを好きな人がふらりとやって来て、自分の好きな酒を自分の好きな速度で自分の好きなだけ嗜む。
 
恐らくは俺以上に『あの場所』を好きでいてくれる人が居るって事は、いつしかそれだけで俺も嬉しくなる事柄になっていた。
 
相当に重症だと、自嘲気味に笑う。
 
しかしその笑いは決して自虐ではなく、乾いた夜の空気に軽く響いては俺の気分を更に昂揚させた。
 
 
『雪見大福』のエントランスは深夜を過ぎても未だ明るく、閑散とした周囲の中でただ一つの灯りを放っていた。
 
疎らな街灯故に遠くからでも確認できるその光が、何故だかとても優しく見える。
 
原因が何よりも明確なだけに、俺はここでもやはり自嘲気味に笑った。
 
 
部屋番号、594
 
続けてすかさず『呼出』ボタンを押す。
 
桜曰く『変な機械』を操作しながら、俺はふと小さな不安に駆られた。
 
 
……もしも寝てたらどうしよう。
 
 
今までの経験からすると不安が現実になる可能性は一概に否定できず、それどころかむしろ多いに肯定の余地を残す事柄だった。
 
草薙桜は、水瀬名雪とはまた別の次元で、圧倒的に寝起きが悪い。
 
昨日の時点で既に体験済みのそれは、記憶が新しいだけに多大なる不安を俺に与えていた。
 
知らず知らずの内に『送信』のボタンを押す手が動きを遅くする。
 
だが、次の瞬間。
 
 
『はいなーっ』
 
 
インターフォンから聞こえてきたのは、深夜である事を思わず疑いたくなるようなハイテンションな声だった。
 
よほど大きな声を受話器の向こうで出したのだろう、少しだけ音割れしたしかし即座に桜のものだと判る声が、エントランスに大きく響いた。
 
暖かく、響いた。
 
 
「お前な、俺じゃなかったらどうするつもりだったんだよ」
 
『へ? ああ、ゴメン。 ぜんっぜん考えてなかった』
 
 
目を閉じれば容易に想う事が出来る、受話器の前で『あはー』とか言いながら眉を下げながら笑う桜の顔。
 
マスターとの会話の所為だけじゃなく、俺はその笑顔の傍に居たいと素直に思った。
 
出来る事ならば、一刻も早く。
 
誰よりも近く。
 
何があっても消えないと約束してくれた俺の『居場所』に。
 
 
『んじゃ、あっけるよーん』
 
「ああ」
 
 
言葉から時間にして一秒足らずの後、ガーとか云う音を鳴らしながらドアが開いた。
 
ガラスに微妙に湾曲して映った自分の姿を見るでもなく、足早に自動ドアの内側へと身体を滑りこませる。
 
二重の扉によって保たれていた『雪見大福』の中の空気は存外に暖かく、俺は知らぬ間に張っていた気を溜息と共に中空へと吐き出した。
 
暖かいとは言っても、あくまでそれは外の空気と比較した場合の事。
 
吐き出された空気はやはり季節相応に白く色付いていて、この街がもう本格的な冬である事を俺に認識させた。
 
 
一階で待機していたエレベーターに乗りこみ、最上階である『9』のボタンを押す。
 
時間にすれば二秒にも満たない時間の短縮である事が判っていながらも、『閉』のボタンを連打する。
 
客観的に見ても見なくても、ひどく落ちつきを無くしている自分に少しだけ苦笑した。
 
寒いから、疲れたから、早く寝たいから。
 
誰に言う訳でもない言い訳を自分の中に用意しながら、俺は九階が近付いた為に起こる人為的なGすら心地良く感じていた。
 
 
到着を告げる音と共に足を踏み出す。
 
驚くほどに人の気配のしない九階廊下部分は、常備灯の光が明るいが故に、その雰囲気をより閑散として俺に見せていた。
 
扉側と反対方向を見れば、遮る物の何も無い夜の世界しか目に映らない。
 
僅かに点々と灯る遊歩道の街灯とそれよりも更に僅かな民家の灯りのみが、世界と俺とを繋ぐ全てだった。
 
もしも今、目にして見ている光の全てが消え去ってしまったら。
 
……それは、俺にとって、世界が存在していると言えるのだろうか。
 
全く同じ意味で、世界の中に、俺が存在していると言えるのだろうか。
 
答えの出ない疑問をいつまでも考え続けるのは非常に無駄な事だと思ったので、それ以上の思考を俺は廻らせなかった。
 
何より、もうすぐ目の前に桜の部屋のドアがあったから。
 
今の俺にとって何よりも確たる『セカイ』の象徴である桜の存在を間近に感じれる場所に居る以上、さっきまでの疑問はやはり無駄でしかなかった。
 
 
「さくらー?」
 
 
ドアを数回ノックしながら、深夜相応の小さな声で桜を呼ぶ。
 
鍵が開いているかどうかを確かめはしなかったが、仮に開いていたとしても黙って入るような無粋な真似はしたくなかった。
 
それは女の娘の家だからとか云う理由じゃなく。
 
他人の家だからとかそんな理由でもなく。
 
俺がこの場で尊重したかったのは、出掛けに桜が言ってくれた暖かな言葉だった。
 
自分で開けたい。
 
玄関開けて「おかえりなさい」って言いたい。
 
繰り返してきた時間と比較すれば無きに等しい微々たる時間だが、それでも桜は誰にも「おかえりなさい」を言えない日々を確かに過ごしたのだ。
 
何気なく繰り返してきた取るに足らない言葉が、今は何故だかやたらに愛しい。
 
『誰か』に向けて伝えたい。
 
欠けてしまった桜の破片(ピース)を、例え仮初めだとしても俺が埋めてやれるのなら、その行為を厭う理由など何処にも有りはしなかった。
 
 
始めにタタタタタって足音がして、次にガチャガチャと鍵を開ける音がした。
 
勢いよく開け放たれるであろう事を予想してドアから少し離れたら、案の定とてつもない勢いでドアが開いた。
 
だが、その扉は10センチ程度の隙間を開けた所で『ガギン!』とか云う音を立てながら動きを止めた。
 
身体ごと勢いに任せて飛び出そうとしていたのだろう、ドアに額を打ち付けたらしき『ゴン』って感じの鈍い音と「ぅにゃっ!」って声が聞こえてきた。
 
察するに、どうやらチェーンロックが外されていなかったらしい。
 
いったん閉められて、それからもう一度ガチャガチャと金属音がして、数秒後にはさっきよりも凄まじい勢いで玄関扉が開け放たれ―――
 
 
「おかえりなさいっ!」
 
「ん。 ただいま」
 
 
額を赤くしながら、頬を赤くしながら、周囲の空気を明るくしながら。
 
息を切らすほど急いで俺を出迎えにきてくれた親友が嬉しくて、俺は知らぬ内に口元を綻ばせていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「二度ある事は三度あると言うが……」
 
「ま、世の中ってのはそんなモンじゃないの?」
 
 
昨日の夜、シャワーを浴びたら着替えがなかった。
 
寝ようとしたら、布団がなかった。
 
僅か二十四時間ばかりで草薙邸の装備が充実する訳もなく、まして充実させようと云う気も桜にはなく、何より二人はずーっと一緒にいた訳で。
 
結果として状況は昨晩と変わらず、二回目であるが故に俺の脱力感もまたひときわ高いものとなっていた。
 
簡単に言えば布団が無い。
 
少しは学習しようぜ、俺。
 
 
暖かな言葉と笑顔に迎え入れられた594号室。
 
昨日とは明らかに違う『人の居る空気』に満ちた部屋の中は、しかしその裏に『桜を独りで居させた』事実を確かに内包していた。
 
俺がそう思うだけかもしれないが、今の空気がある種の犠牲の上に成り立っている物だとしたら。
 
そんなモノなど、欲しくはなかった。
 
どんなに暗い部屋だろうが、どんなに冷たい部屋だろうが、二人で帰るならそっちの方がマシだと思った。
 
電気なんかつければいい。
 
凍える部屋の中でも二人、寄り添えば暖かい。
 
そんな風に思うのはやはり、俺の独り善がりなのだろうか。
 
 
「そーいや布団で思い出した。 祐一、あんた昨日あたしが寝た後にこっそり布団から抜け出たでしょ」
 
「あ、あれ? ひょっとして気付いてたのか?」
 
「寝てる時にふと、ね。 起き出すまではしなかったけど、やっぱ判っちゃうんだよ。 隣りに誰も居ないなーって」
 
「……怒るか?」
 
「怒んないよ。 ただ、少し、寂しいなって思うだけ」
 
 
言葉通り、桜の表情からは怒りの雰囲気など見えなかった。
 
言葉通り、桜の表情からは明確に寂しさが読み取れた。
 
 
「それよりも祐一は? 祐一は私と一緒に寝るのが嫌で布団から出たの?」
 
「いや、それは……」
 
「嫌ならちゃんと言って欲しいんだ。 ほら、私はこんなんだからさ……口に出してはっきり言ってくんなきゃ何も判ってあげらんないよ」
 
 
嘘つけ。
 
お前は、少なくとも俺なんかよりはよっぽど巧いだろ。
 
口に出さない事や、口に出せない事、そして口に出したくない事までも理解してくれるだろ。
 
時には全てを語り、時にはあえて口を噤み、そうやって俺はどれくらいお前に救われてきたか判らない。
 
それは『あの頃』からずっと。
 
恐らくは今この時もきっと。
 
 
「じゃあ訊くが、俺とマスターはいつお前に対して『迷惑だ』なんて言った?」
 
「ぇ、え? へ?」
 
「あの店に居る時間と一人で家に居る時間、どっちの方がお前にとって過ごしやすい時間だ?」
 
「……話をいきなりすりかえるなんて卑怯だ」
 
「根本的には同じさ」
 
 
不満そうな顔で俺を睨む桜の頭に手を置き、そのまま二回ほどぽむぽむと叩く。
 
まるで分からず屋の子供を相手にしているみたいだと思ったが、口には出さないでおいた。
 
俺とマスターの本心。
 
『一緒に寝るのが嫌?』に対する答え。
 
まるで接点が無いような二つの問いに、しかしそのどちらに対しても、俺はたった一つの答えしか持ち合わせていなかった。
 
 
「今までに一度でもあったか? 俺が、お前を、嫌いだなんて言った事が」
 
「ないけど……だってそんなの判んないじゃん」
 
 
俯き、呟く、ぽつりと、哀しく。
 
驚くほどに不安の色が強い声は、音量とはまったくの反比例で俺の心に強く突き刺さってきた。
 
人の肉体は傷を受ける度に強くなるが、心はそんなに簡単なものじゃない。
 
むしろ傷を受ける度に弱くもなるのだ。
 
裏切りを、拒絶を、喪失を。
 
過去に一度でも酷い傷を受けた者は、事在る毎にその傷痕が痛む様になる。
 
痛みに脅えれば、全てを恐れて全てを避ける。
 
断定的に言いたくない事柄にも関わらず、確たる根拠がある以上は否定できない事実だった。
 
そう、何故ならそれは、俺も通ってきた道だから。
 
 
「今まで一回もそんな事言われてなくったって、いきなり………」
 
 
そこでぐっと声を詰まらせ、深く息を吸う桜。
 
直後に顔を上げてキッと俺を睨んだのは、恐らく反論の為ではなかっただろう。
 
 
「い、いきなり『いらない』って、言われる事だってあるじゃんかぁっ」
 
 
下を向いていれば涙が零れる。
 
涙が零れたら後はもう止まらない。
 
だから、桜は必死で俺の顔を見詰めていた。
 
 
涙の数だけ強くなれたら、人はこんなにも苦しまずに済むのに。
 
独りで生きていけるほど強ければ、人はこんなにも傷つかずに済むのに。
 
 
手に入れては失い、求めては裏切られ。
 
信じては傷付き、祈っては叶わず。
 
幾度も血を流し、幾度も涙を流し。
 
それでも何故、どうしてこんなにも、人間【ヒト】は他人【ヒト】を求めずにはいられないのだろう。
 
どうしてこんなにも俺は、桜の涙を拭いたいと思うのだろう。
 
 
「ずっと一緒だって、『あの日』言ったよな」
 
 
片時も眼を逸らさず、胸の位置にある桜の顔を俺もまた見詰めた。
 
『あの日』交わされた単語に敏感に反応し、夕焼けの屋上を覚えていたのが自分だけだとでも思っていたのか、桜は少しだけ驚いた顔を見せた。
 
それが、『あの街』に桜を独り置いていった事に対する咎めの類ではないと判っている。
 
判ってはいるが、やはり胸が痛かった。
 
俺があの街を出たのは『約束』を忘れたからじゃない。
 
しかしそう思われているのであれば、やはりこれだけは言っておかなければならないと思った。
 
 
「ゆ、祐一……あの日のこと覚えて……?」
 
「あの約束にどれだけ救われたと思ってんだよバカ。 たとえ虚数解の求め方を忘れたって、『あの日』の事だけは忘れない自信があるぞ」
 
 
あの日、屋上、夕焼け、約束。
 
どれだけの時が過ぎ去ってもきっと、この先何があろうともずっと。
 
俺は、あの日の約束を糧に生きていけるだろう。
 
 
「勝手に居なくなったりなんかしない。 お前が望む限り、俺はお前の『居場所』になってやれる。 なぁ桜、今でもそう思ってるのは俺だけか?」
 
 
誰かに必要とされた日の記憶。
 
生きていく事を続けようと思った日のこと。
 
唯がいなくなってから初めて泣いた日のこと。
 
覚えている限り、俺が一番弱かった日のこと。
 
 
「そ…だよね……約束、したもんね」
 
「ああ、指切りまでした」
 
「ウソついたら針1000本…だもんね」
 
「しかも畳針だ。 千本も飲んだら確実に死ぬぞ」
 
「じゃあ……じゃあ……」
 
 
下を向いてぐしぐしと目頭を擦る。
 
顔を上げた時にはもう、桜はいつもの笑顔だった。
 
瞼が少し脹れて目が少し赤かったが、それでもいつもの笑顔だった。
 
 
「約束、破る訳にはいかないねっ」
 
「少なくとも、俺は破る気はないからな。 それだけ判ったら、もう寝ようぜ」
 
「んっ」
 
 
まったくの自然に同じ布団で、まったくの自然に『おやすみ』を言い合う。
 
俺がずっと切望していた桜との距離が、今まさに展開されていた。
 
近すぎる故に壊れる不安など何処にも無い。
 
そもそも壊れたりする間柄じゃない。
 
そんな、何処までも何処までも沈み往くような心地良さを持った関係に溺れながら、俺の意識は深い眠りへと落ちていった。
 
 
辿り着いたのは、『あの日』の屋上だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued……