目覚めは優しかった。
 
まるで夢の中からそのまま引き継がれたかのような、自分以外の体温が自身を包む感覚が心地良い。
 
暗い部屋の薄ぼんやりとした視界の中で真っ先に感じたのは、何よりもまず誰かが傍に居てくれると云う安心感だった。
 
沈み込むソファーでも羽毛の布団でもなく、人間の女性にしか求める事の出来ない暖かさと柔らかさ。
 
自分が桜の胸に抱きすくめられているのだと云う事に気付いてからも暫くの間、俺はその状態から抜け出そうとはしなかった。
 
それどころかもう一度目を閉じ、触れている温もりだけを世界の全てに仕立て上げたりもした。
 
不埒だと罵られても。
 
不潔だと野次られても。
 
たとえ夢の中だとは言えあんなにも圧倒的な救いを齎された後じゃ、この優しい呪縛から自ら逃れるなんて事は不可能だった。
 
 
「起きた?」
 
「……お前こそ、起きてたのか」
 
「かなり前からね」
 
 
不規則になった呼吸から俺の目覚めを感じたらしき桜が、意外にも眠気の色が残らない口調で俺に尋ねる。
 
恐らくは言葉通り、かなり前から目覚めていたのだろう。
 
という事は、俺を胸に抱いているこの状態も寝惚けているが故の事からではないらしく。
 
事実俺が目覚めた事を知っても、桜は俺を抱くその腕の拘束を緩めようとはしなかった。
 
しかし緩めないとは言っても、抱擁はあくまで優しく。
 
抜け出そうと思えばいつでも抜け出せる強さでしか抱かれていない分だけ、温もりの喪失に脅えた俺が動けないでいる事も確かだった。
 
 
「ね」
 
「ん?」
 
「どんな夢、見てたの?」
 
「……なんでそんな事を訊く?」
 
「だって祐一、泣いてたんだもん」
 
 
言われてから、初めて気が付いた。
 
頬を涙が流れた後にのみ感じる、ある種独特な違和感。
 
そして何よりも、未だ目尻にうっすらと湛えられた塩の泉。
 
涙がただの水ではない事を明確に示す軌跡は、大方が桜の胸に吸いこまれただろう事を差し引いてもなお余りあるものだった。
 
 
昨日の朝は、俺が桜の寝顔を見詰めていた。
 
光の射し込まない暗く冷たい部屋で、だけどその寝顔は何処までも平静に。
 
時間が許すならばいつまでも穏やかな寝息をたてる桜の傍に居たいと、そんな事を思わせるには充分な寝顔だった。
 
現実はいつも残酷で。
 
だけど、夢の世界ですら時には現実よりも残酷で。
 
もしも桜が夢を見る事すら拒絶していたのだとしたら、それはどんなに悲しい事だろうか。
 
夢を見て、涙を流して、それを暖かく拭ってくれる人が居ないと言うのは、どんなに心許無い事だろうか。
 
 
そして。
 
夢を見て、涙を流して、それを暖かく抱き止めてくれる人が居るという事は、どんなに嬉しい事だろうか。
 
 
だから、か。
 
だからお前は、抱いていてくれたのか。
 
夢の中身なんて、涙の理由(わけ)なんて、判るはずが無いのに。
 
誰かの涙を抱える事は時に自分すら傷つけると言うのに、己に刻まれた傷痕すら未だ痛みを訴え続けていると言うのに。
 
それでもお前は、夢に見た『あの日』と全く同じ様にして、溢れる涙を受けとめてくれていたんだな。
 
今でもまだ、俺には涙を流せる場所があるんだな。
 
 
「あの日の事、夢に見てた」
 
「あの日?」
 
「俺が、泣いた日」
 
「じゃあ……涙の理由も、あの頃と同じ?」
 
 
哀しくて。
 
悔しくて。
 
寂しくて。
 
あの頃は本当に、ただそれだけが心を埋め尽くしていた。
 
少しでも涙に溶けて流れてくれれば楽だっただろうに、しかし涙の理由だけはいつまでも心に深い楔を打ち込んだままで。
 
理由が溶けないから、涙もまた枯れない。
 
涙を免罪符にしていたんじゃないかと自虐的に思うほど、それでも嗚咽は留まらなかった。
 
そう、『あの頃』は。
 
 
「……今は、少し違うかな」
 
 
夢の中でもやっぱり俺は泣いていた。
 
その行為自体は、『あの頃』と何も変わっていなかったようにも思える。
 
だが目覚めてみれば、確かに涙の意味は違っていた。
 
それが良い事かどうかは判らない。
 
本当は、忘れちゃいけない『傷』を自分の都合で忘却しようとしている卑怯な防衛機能かもしれない。
 
すぐ近くに居てくれる『誰か』に媚びた、甘えの意味を内包しているかもしれない。
 
でも、それでも―――
 
 
「半分、いや、二割くらいかもしれないが……俺は、嬉しくて泣いてた様にも思う」
 
 
悲しみが薄れた訳じゃない。
 
悼みを棄てた訳じゃない。
 
だけど、涙の全てが嘆きに囚われた物じゃなかったって、今は言えるようになった。
 
自分の涙の意味に、やっと気付いてやれるようになった。
 
多分に時間が掛かりすぎたかもしれないけど、ようやく辿り着いた真実。
 
 
『あの日』確かに、俺は嬉しかったんだ。
 
 
存在の肯定。
 
居場所の確立。
 
必要としてくれる、誰か。
 
全てを惜しみなく与えてくれたお前が、とんでもなく嬉しかった。
 
 
「それじゃ、私もまんざらじゃなかったって事かな」
 
 
ゼロ距離で微笑む親友の顔がとんでもなく可愛くて。
 
だけどそれに対する照れなんかは微塵も感じなくて。
 
ああ、完全に『戻った』んだな、と。
 
ただそれだけを無上の喜びと感じている自分が居た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第十六幕 『瞬間回帰【フラッシュ・バック】』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
爽やかな朝の陽射しが差し込む3-Bの教室でしかし、美坂香里は昨日以上に不機嫌だった。
 
見知った顔に対してもおざなりな挨拶を交わしたきり、自分の席に座ったまま静かに目を閉じて顎の下で手を組む。
 
呆れるほど判り易い彼女の行動に、クラスの中に居た数人も流石に危険を察知した。
 
さり気なく香里の席と距離を置き、声高に話していた『噂』のボリュームも幾分か下げる。
 
まったくもって正しい判断だ、と香里は思った。
 
昨日から引き続く下劣な噂話なんか耳に入れたくなかったし、親友の耳にだって入れさせたくはない。
 
だとすれば、親友よりも朝の早い自分がするべき事は一つしか思い浮かばなかった。
 
たとえ付け焼刃でも、その場しのぎでも構わない。
 
あたしの不機嫌そうな所作が意図的である事を彼等が見抜けるかだって、どうでもいい。
 
要するに、聞くに耐えない与太話はあたしの耳に聞こえない場所でやれば良いのだ。
 
あたしの耳に入らないって事は、名雪の耳にだって入らないって事。
 
七十五日なんて、待ってられるもんですか。
 
 
「美坂おはよー……って、これはまたご機嫌ナナメのご様子で」
 
 
ガラガラとドアを開けながら、教室に入って来る北川。
 
開口一番に爽やかな朝の挨拶をしようとした彼は、しかしちっとも爽やかじゃない雰囲気の香里に少々たじろぎながら、小さく溜息をついた。
 
やれやれ、まだ収まってないのか。
 
 
「そう思うなら、不機嫌の元凶を何とかしてくれようとか思わない?」
 
「美坂がそう命令するなら。 今すぐに奴等の口を物理的に塞ぐ事ぐらいは可能だけど?」
 
「……遠慮しておくわ」
 
「多分、俺もその方がいいと思う」
 
 
どうせ物理的に、具体的に言えば拳を使って彼等の口を塞いだ所で、それが根本的な解決にはならないだろう。
 
そんな事、言われるまでもなく香里にだって判っていた。
 
手の届く所で噂をする事が出来ないのなら、手の届かない所でヒソヒソやればいいだけの事。
 
逆に手出しをすればするほど、このような類の流言飛語は勢いを増す事になるのだ。
 
それが判っていたからこそ香里も、そして北川も、教室に蔓延する『噂』に対して手も足も出せずにいるのだった。
 
非常に、不愉快極まりない事だが。
 
 
「結局、あいつらが自分で何とかするしかないんだろ」
 
「……昨日から引き続き、随分と冷たい言い方ね」
 
「そんな事ないさ。 俺が冷たく見えてるとしたら、そりゃ美坂が熱くなってるって事だ」
 
「あ、熱くなんて―――」
 
「違う違う、それでいいんだって。 少なくとも、今回の件は美坂に熱くなってもらわないと困る」
 
 
言って、北川は少しだけ目を細めながらクラス内部を見まわした。
 
其処彼処で繰り広げられる『噂』は未だ収束する事無く、むしろ増大して闊歩している。
 
どうやら香里の言った通り自分は物事を楽観視し過ぎていたようだと、彼は多いに自戒した。
 
同時に、ここ最近では随分とご無沙汰だったある種の感情が心の内に湧き上がってくるのを感じた。
 
暗く、黒く、それ故に何物よりも熱い情動。
 
あえて名前を付けるならば、それは『怒り』と呼ばれるものだった。
 
 
「美坂に熱くなってもらわないと……俺が暴れちゃいそうだから」
 
 
にっこり笑う北川の表情は、完璧だった。
 
しかし完璧だったからこそ、香里はその笑顔の裏に存在している炎の揺らめきに気付く事となった。
 
紅く渦を巻き、近付く者を焦がし、全てを焼き尽くすまでうねりを広げる炎。
 
『いつも』の北川からは想像も出来ないだけに、香里には彼の内奥で燻る熾火が恐ろしく思えた。
 
だけど、それがまた嬉しくも思えた。
 
 
「暴れて解決する問題じゃないけど、やっぱ俺としても親友に対して何もしてやる事が出来ない歯痒さってのがある訳でさ」
 
「……だからって、私が熱くなるのがどうして北川君のストッパーになる訳?」
 
 
少しだけ不満げに、香里が呟く。
 
考えてみればそれも当然の事で、言葉だけから読み取れる感覚としてはまるで自分の沸点が低い様に言われているのだ。
 
慎み深きを美徳としている日本女性としては、なんとなく納得がいかないのも無理はなかった。
 
それを抜きにしても、自分の熱が北川の行動抑制剤になっているらしき事がまず判らない。
 
熱とは伝導する物であり、その理論から行けば二人ともが灼熱に包まれて然るべきだろう。
 
ねえ、どう云う事?
 
 
「足して二で割ればちょうどイイんだよ、俺達。 熱さも、冷たさも、テストの点数も」
 
「……最後のは、自分でどうにかしなさい」
 
 
叱るような口調で言いながらも、この時の香里は少しだけ微笑んでいた。
 
斜め上に位置する北川の顔をそれとなく見やり、自分を諌めてくれる友人に、ぼんやりとだけど感謝。
 
だけど口に出してお礼を言うには、彼の顔はもう随分と大人っぽくなりすぎていた。
 
まだあどけなさの残っていた瞳は芯に強さを持ち、首筋から顎にかけてのラインには確かに男性の骨格が見える。
 
まるで初めて目にしたかのような親友の横顔が、なんだかとても不思議だった。
 
おかしいなぁ。
 
毎日こうやって見てるはずなのに、ふと気が付けば前とは全然違ってる。
 
明日、明後日、一年後。
 
これから先、北川君はどんな風に変わっていくんだろうか―――
 
 
「美坂? 俺の顔、なんか変か?」
 
「―――え? え、あ、べ、別にっ?」
 
 
わたわたしながら香里が応えるのと名雪が教室に入って来るのは、ほぼ同時だった。
 
名雪の隣りには、『今日も』誰もいなかった。
 
教室が、俄かにざわめいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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深く焙煎されたコーヒーの薫りが、鼻孔を擽る。
 
冷たいが心地良い風が、身体中を吹き抜ける。
 
朝の光が、今日の一日を祝福している。
 
それは、どうしようもないほど素敵な時間の始まりだった。
 
 
「これで場所がコンビニの前じゃなければ、完膚なきまでに優雅な朝のヒトコマなんだけどな」
 
「しょーがないじゃん。 家には麦茶しかなかったんだから」
 
 
今さっき入手した『たこ焼きパン』に噛り付きながら、桜が俺の呟きに応えを返す。
 
「む、意外とおいしい」とか言っている所からすると、どうやら『たこ焼きパン』は半分ぐらいネタで購入されたっぽかった。
 
意外なのかよ。
 
 
優しい揺り篭から目覚めたあの後。
 
登校までの時間にゆとりがあるから、じゃあ朝食でも食べようかと云う話しの流れになった。
 
顔を洗い、寝癖を直し、制服に着替え。
 
さぁいざ調理となった段階で、俺達はある重要な事に気付いてしまった。
 
冷蔵庫の前で二人立ち止まり、どちらともなく顔を見合わせる。
 
微妙な作り笑いを顔に貼りつけたまま二人で恐る恐る開いた冷蔵庫の中には、昨日の麦茶のボトルのみが悠然と仁王立ちしていた。
 
コメ、なし。
 
パン、なし。
 
何も、なし。
 
まったくもって記憶力に乏しいおバカさん二人が冷蔵庫の前でがっくりと膝を付いていたのは、もはやお約束だった。
 
 
「とにかく、今日の放課後の予定は決まりだな」
 
「んー、流石に炭水化物がカケラも備蓄されてない家庭ってのも問題だよね」
 
 
うんうんと首を縦に振りながら納得したように話す桜。
 
それは既に家庭がどうとかのレベルじゃない気もしたが、自分もその事を忘れていただけに何も言えなかった。
 
全ては昨日の昼下がり、商店街であゆに遭遇してしまったのがいけなかったのだ。
 
いや、アレはアレで楽しかったんだが。
 
 
「主食は……やっぱご飯か?」
 
「日本人はお米族ですから」
 
 
えっへん、と何故か偉そうに言い放つ桜。
 
しかし『たこ焼きパン』に嬉々としているお米族の意見には、何て言うか信頼度と云う物がまったく無かった。
 
 
「ま、お米族云々はどうだっていいんだが……」
 
「ぅ?」
 
「ご飯は、面倒だぞ?」
 
 
研いで、浸して、炊いて、蒸して。
 
一食として見た場合、ご飯がパンに比べて圧倒的に手間のかかる主食である事は否めなかった。
 
保存方法によってはすぐに悪くなるし、洗い物が増える事にも繋がるし、食べるには少なくとも一品以上のおかずが必要になる。
 
最終的には本人の嗜好による部分が大きいのだろうが、俺としてはあまりご飯を奨める事が出来ないのが現状だった。
 
そう、特に―――
 
 
「独りの、場合はな」
 
 
それから、二人の間に小さな沈黙が訪れた。
 
目の前の道路を俺達と同じ学校の制服を来た人々が通りすぎ、そろそろ学校へ向かう時間だと知らせていた。
 
動き続ける世界の中で二人、止まった時間を共有して。
 
ブラックコーヒーが喉を通る音だけが、やけに大きく響いた気がした。
 
 
「独り……なの?」
 
 
肩が触れ合うほど近くに居るのに、遥か遠くから聞こえてくる声。
 
否定も肯定もせず、俺はまたコーヒーの缶を傾けた。
 
 
それは、昨日の夜からずっと考えていた事だった。
 
簡単に答えを出せるような問題じゃなく、それどころか正解が何なのかすら判らない問い。
 
恐らくはどんな答えを出したとしても、必ず何処かで誰かが傷付くのだろう事だけは確かだった。
 
そしてそれは決して、俺も例外ではなく。
 
 
傷付くのは嫌だった。
 
だがそれ以上に、誰かを傷付けるのはもっと嫌だった。
 
出来れば誰にも傷付いて欲しくない。
 
シアワセでいてほしい。
 
そう思って生きた日々は、きっと間違いなんかじゃないのだろう。
 
だがそれは、酷く独善的な考えだった。
 
酷く、偽善に満ち溢れた考えだった。
 
自分の事すら養えぬ小僧が、何を勘違いすれば『誰か』の幸せなどを願うまでに増長できるのか。
 
日々をただ生きる事すら拙くしかできないくせに、一端の口を叩くなど、まるで弁えぬ小僧の所作ではないか。
 
 
願いには、正しいも間違いも無い。
 
全ての願いはあまりにも平等に、その殆どが棄却される。
 
そうして世の中に残された選択肢とは、いつの時代も悲しくなるほど現実的だった。
 
何も持たない俺達を包み込む条件は、『All or Nothing』なんて優しいもんじゃない。
 
全てを捨てる覚悟でいたって、実際に他の何を捨ててがむしゃらに追いかけたって、得られる物はたった一つでしかないのだ。
 
そしてそのたった一つすら、得られない事もある。
 
手に入れたとしても更々と零れ逝く、形を持たない俺達の望む物。
 
曖昧なシアワセを追い求めて気付いた真実は、それでもやはり陳腐な物でしかなかった。
 
あまりにも弱く小さいこの腕じゃ、誰しもの幸せなんて望めるはずもない。
 
多くを求め、一つも得られず、後に残るのは莫大な後悔のみ。
 
 
だから俺は、全てを手に入れようなんて思う事をやめた。
 
代わりに、自分が出来るたった一つだけの事を全うしようと誓った。
 
独りにはしたくないって思いを、独りにはなりたくないって願いを、ただそれだけの事を守る為に。
 
桜の笑顔を護る為に。
 
 
「……いや。 今日からは、二人だ」
 
 
俺は
 
暖かかった『家族』を
 
捨てる決意をした
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「会長」
 
 
喧騒に包まれた教室の中ですら囁かれた程度の声がはっきりと耳に聞こえてくるのは、果たしてそれを聞く者が声の主に対して何らかの『特別』を感じているからなのだろうか。
 
二日連続での色恋噂に多少ならずとも気分を害しながらそれでも自制を効かせて受験用の小冊子を読んでいた久瀬は、耳障りな騒音【ノイズ】の中に朧気ながらも自分を呼ぶ声が在った事に気付いて、ふと顔を上げた。
 
見れば黒板に程近いドアの向こうから見なれた顔が手招きをしており、それはつまり呼ばれた事が気の所為ではなかった事を意味していた。
 
彼女の声にだけ敏感になっている自分の聴覚に気付く事も無く、久瀬は普段通りの無表情を貼りつけたままで、さもつまらなそうに口を開いた。
 
 
「沙紀。 私は既に執行部を引退した男だ」
 
「知ってます。 でも、知った上で私は久瀬君の事を『会長』と呼びました」
 
 
きぱっと言い放つ沙紀。
 
わざとらしく敬語で喋っている所から察するに、ひょっとしなくても久瀬の事を軽くバカにしている様だった。
 
既に会長職を辞している男を、それでもあえて『会長』と呼ぶ。
 
そこに含まれた意図としては、引退してなお執行部会及び学園内において多大な影響力を持っている久瀬の助力を必要としていると言う事だろう。
 
「言わなきゃ判んないですか?」と後に続きそうなニュアンスが加味された沙紀の言葉に、久瀬の口元がそれとは判らぬほど微かに緩んだ。
 
やれやれ、適わんな。
 
 
「……何用だ?」
 
「橘クン。 第壱四代生徒執行部会会長が折り入って相談があるとの事です」
 
「何処で」
 
「会長室で」
 
「何時」
 
「今」
 
「……判った」
 
 
タン、と冊子を閉じて机に置き、久瀬は眼鏡を中指で押し上げながら颯爽と席を立った。
 
その表情は、心なしか若干険しい。
 
と言うのも当然の事で、先代の会長である久瀬に現役の会長が持ち掛ける相談など、九割九分が厄介事の類でしかないのだ。
 
間違っても、『美味しいお饅頭が手に入ったんで一緒にお茶でも飲みましょう』みたいなお誘いではないだろう事だけは確かだった。
 
 
華音学園高校執行部会の要職は、創設以来の伝統として代々世襲(指名)制で次代に引き継がれている。
 
反生徒会に言わせれば『権力の独占』でしかないこの制度は、しかしその一方では確実に『生徒の自治による学園』を支える要でもあった。
 
世間的な常識を全て取り払って真正面から各個の存在を見詰めたとしても、高校生とはやはり『こども』である。
 
その『こども』が仮にも『大人』である教師と対等の力関係を築こうというのだから、生半な才気や覚悟では執行部は務まらないのであった。
 
仁を尊び義を抱き、礼に厚くまた智の深き人物。
 
そして時には四徳をかなぐり捨ててまでも、生徒会と生徒会の掲げる『正義』を貫く為に尽力する人物。
 
生徒会の要職に就ける人物とはこの様に、一般生徒とは明らかに一線を画した存在なのであった。
 
 
例えば生徒総意を重んじると云う形で、投票による役員選出を考えてみた場合。
 
日々を安穏と生きる一般生徒が、たかだか一週間程度の選挙活動や代表演説でそんな人物を見抜けるだろうか。
 
それ以前に、生徒会役員の投票を真摯な姿勢で行う生徒がどれくらい居るだろうか。
 
一時的なノリで人気者に投票、顔が可愛いからあの娘に一票、どうでもいいから不信任。
 
真面目な生徒の為の生徒会とは、かくも虚しい。
 
しかし虚しくとも善良な生徒はそれを凌駕するほど遥かに多く、ならば生徒会は彼等と彼等の学園生活を守る為に全力を尽くすべきであろう。
 
その為ならば、たとえ守るべき生徒から『権力の独占』と罵られようが、世襲による役員選出の慣わしは止めぬ。
 
 
と、まぁそう言う訳で、この学園の生徒会役員の責任感や職務能力は他の学校と比較した場合でも郡を抜いて高くなっていた。
 
学園史上最強の執行力を有していた第壱参代と比べれば見劣りするものの、相応の人材が揃っている事は第壱四代としても同じ事。
 
むしろ『最強』だった久瀬が後見人となって選んだ人物として、歴代の会長の中でも現会長の橘はその手腕が非常に有望視されていた。
 
もっとも、その風評の過半以上は『久瀬の背中を見て育ってきた世代だから』によるものなのだが。
 
 
そして、将来が非常に有望視されている現会長が折り入っての相談をしてくるなど、やはりどう考えても面倒事にしか久瀬には思えなかった。
 
 
「相談ってなんだろうね」
 
「聞く前から判る訳がないだろう」
 
「うわー、つれない返事」
 
「あ、いや、すまない……教室の雰囲気に少し害されたようだ」
 
 
廊下から教室内部を振り返りつつ、嫌悪感を込めた溜息を一つ漏らす。
 
純粋な疲れにも似た溜息の意味は、それでも長年の付き合いである沙紀の耳にはしっかりと聞き取れるだけの色を持っていた。
 
そうじゃなくったって久瀬の、他人の誤解を多大に招く冷徹な言葉使いには既に慣れっこだった。
 
だから沙紀は、まったくもって笑顔のまま、久瀬の謝罪を軽く無視した。
 
 
「じゃ、行きましょうか」
 
「君も行くのか?」
 
「教室の雰囲気に害されたくは、ありませんから」
 
 
言葉をそのままに返された久瀬は、ただ曖昧に笑うしかなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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教室に姿を表した祐一と桜を待っていたのは、意外にも沈黙だった。
 
しかしその沈黙は御世辞にも『閑静』とか『静寂』とかの一種の趣きを携えた物ではなく、本当にただの沈黙でしかなかった。
 
貝の様に口を閉ざし、ひたすらに意味ありげな視線のみを投げ掛ける。
 
暴力的なまでの無言は、只中に居た北川等にですら圧死しそうな不快感を感じさせるのに充分だった。
 
羨望を伴った嫉妬。
 
嫉妬を伴った侮蔑。
 
若さゆえで片付けてしまうには、それらの感情は幾分にか負の方向に傾いた質量を持ちすぎていた。
 
そして祐一は。
 
桜は。
 
自分達に向けられた視線がどのような類の物であるかを、既に三年前に知ってしまっていた。
 
 
クラスメイトの視線は、『あの頃』と同じだった。
 
まったくではないのだろうがそれでも、視線の中に存在する、彼我を明確に『違う者』として区別するような色合いだけは同じだった。
 
人は、人間は、『違う者』を酷く嫌う。
 
祐一には、異端とされて忌み嫌われた過去が確かに在った。
 
観空唯と云う少女に出会う前と、観空唯と云う少女が消えてしまった後。
 
どちらもが祐一の存在を否定する眼差しだったにも関わらず、圧倒的に後者の方が心を深く抉った。
 
何故ならば、その時もそう、彼等は直前まで『クラスメート』だったから。
 
その日までは確かに、多分に危うい線上の関係ではあったが、祐一と彼等はクラスメートだった。
 
なのに『あの日』
 
突然に
 
奴等は
 
バケモノヲ見ルヨウナ目デ俺ヲ―――
 
 
「……なに見てんだよ」
 
 
小さく呟かれた声の異変にクラスの中で最初に気付いたのは、北川だった。
 
沈黙から小さなざわめきへと波紋が広がりつつある教室の中で聞こえた、小さな声。
 
しかしその音色は、ざわめきの中ですら彼の耳にはっきりと届くほど異質であった。
 
普段の祐一からは想像もできないほど暗く、冷たく、それよりも激しい怒りの音。
 
ついさっきまで北川自身が抱いていた炎はまったく異質の、黒い焔。
 
彼の記憶が正しければ、祐一が今のような声を発した事は過去にただの一度も―――
 
否。
 
北川はその声に、その雰囲気に、確かに覚えがあった。
 
古く、苦い記憶の奥底。
 
思い出せる限りでは、二度。
 
今はもう遠い霞みの向こうにも思える、なのに拳を強く握れば昨日の事の様にも感じる事ができる『あの日々』
 
それは、自分でも驚くほどに生きている事を実感した戦いの日々だった。
 
そしてその中で祐一は―――
 
 
「美坂、水瀬。 ちょっとこっち来て」
 
「ちょ、ちょっ? 何?」
 
「いいから早く。 少なくともその位置はマズイ」
 
「ど、どゆこと?」
 
「あの相沢の眼。 声。 空気。 アレはマズイんだ」
 
 
一度目は倉田先輩の家の庭だった。
 
川澄先輩と相沢と俺。
 
たった三人を取り囲む偽警備員、総勢およそ六十名弱。
 
どう考えても絶望的だったあの場面で、だけど俺は絶対の安心感を背中に感じたもんだった。
 
そしてそれよりも圧倒的に感じた、高峰の馬鹿野郎から電話が掛かってきた時の、触れただけで灰燼と化してしまいそうな灼熱。
 
焦がれると同時に畏れを抱いてしまった威圧感。
 
こいつは『違う』んだと、本能が告げていた。
 
 
二度目は、流血に霞んだ視界の向こう側だった。
 
割れそうなくらいの頭痛と吐き気がするほどの痛みの中、俺は確かにその声を聞いた。
 
今でもにわかには信じられない、明らかに質量を持った相沢の言葉。
 
背中越しに聞くだけでも、充分過ぎるくらいだった。
 
言葉に、力を込める事ができるのだと、初めて知った。
 
どう抗っても信じざるを得ないほどの力を言葉に込める事ができる奴が居るって事を、初めて知った。
 
それは、絶対なる恐怖と同義だと思った。
 
 
「美坂も水瀬も一回は見てるはずだ。 ”あの”状態の相沢は―――」


北川が最後まで云い終わる前に、爆裂音にも似た音が教室に響き渡った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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考えてみれば、朝の時点で既に『そう』だったのかもしれない。
 
心の奥底に仕舞われていたリボルバーには何時の間にか弾丸が篭められていて、激鉄も起こされていた。
 
ただ、風が吹いただけでぶっ放してしまいそうなフェザータッチの引鉄に掛けられた力が、銃身ごと壊れてしまうのに足るほどの力だっただけで。
 
それ以外は概ね、遅かれ早かれいずれ訪れるであろう『予定調和』にしか過ぎなかったのだろう。
 
 
「あーあ、また相沢の女が増えただけか」
 
 
どうでもいい事は24時間で忘れてしまえる都合の良い脳みそは、その声の主が誰なのかを特定する事ができなかった。
 
だけどやっぱり、それはどうでもいい事でしかなかった。
 
誰が言ったかなんて事は、どうでもいい。
 
俺がこの先どう思われるかなんて事も、どうでもよかった。
 
ただ、一つだけ、許せない事。
 
 
桜が流した涙の存在も知らず、またその理由も知らず。
 
あんなにも冷たい部屋の空気も知らず、俺達がやっと取り戻した『あの頃』の距離も知らないくせに。
 
お前は、それでも桜と俺が一緒に居た事を揶揄しようと言うのか。
 
独りでは居たくないと震える声で俺に縋りついた桜を、お前等は―――
 
 
前方直線上に人が居ない事を確認するだけの冷静さがあった事だけは、自分を誉めてやってもいいと思った。
 
廊下側最後部の席はたしか佐伯さんが座っていたはずだが、今はその姿が見えない。
 
机の中に物が入っていない事から察するに、どうやらまだ登校していないようだった。
 
瞬時にそれだけの情報を頭に叩き込み、結論として『問題無し』を選択する。
 
もっともその結論すら怒りに濁った取捨選択の中から弾き出されたものなので、信用はできなかったが。
 
だけどそれも、どうでもいい事だった。
 
 
ふっと小さく息を吐き、腕を後方に振りながら眼前の机を上方に蹴り上げる。
 
金属がひしゃげる音が案外と大きく教室に響き、机は天上から吊り下げられている蛍光灯寸前の所まで跳ね上がった。
 
振り上げた蹴り足を慣性以上の力で引き戻し、床に刹那だけ接地させる。
 
たったそれだけの反動と身体の捻りを総動員した中段足刀は、落下してきた机の中心を苛烈な勢いで貫く事に成功した。
 
 
二度目の衝撃音は、瞬間の後に複数個の机を巻き込んだ大合唱へと成り果てた。
 
蹴り飛ばされた机、巻き込まれた机と椅子、全ては圧倒的な速度を持って木製の壁へとぶち当たった。
 
木、壁、金属、リノリウム。
 
巻き込まれた机の中に入っていた様々な物までが耳障りな大合唱を構成し、しかしその音が鳴り止めばそこに在る物はまた沈黙でしかなかった。
 
さっきまでとはまるで異質な、本当の意味での沈黙。
 
もうずっと前からその意味に気付いてしまっている俺は、蹴り終わったままの姿勢から顔を上げる事が出来なかった。
 
もう一度あの眼差しを真っ直ぐに受け止めてしまったらと思うと、怖くて顔を上げる事なんかできる筈も無かった。
 
蔑み、恐れ、忌み嫌い、存在そのものを嘲笑う。
 
その感情を招いたのが自分の行動だって事は、誰に言われるまでもなく判っていた。
 
誰だって突然に狼藉を働くような奴には好意的な視線など送らないだろう、そんな事は百も承知だ。
 
でも、それならあの場で俺はどうするべきだった?
 
俺だけじゃなく桜までをも侮辱するような言葉に対して、二人の関係を構築する最愛の枷を知らぬ奴等に対して。
 
それでも笑え、と?
 
それができないから俺はいつまでも、いつまで経っても―――
 
 
「―――くっ」
 
「あ、ゆうっ?」
 
 
そうして俺は、逃げ出した。
 
教室から、視線から、”他人”から。
 
まるでそう、それは『あの頃』の様に。
 
辛い事から逃げ出して、嫌な事には目を背けて。
 
狂々と廻る歯車の中で、同じ過ちばかり繰り返す阿呆が一人。
 
 
本質的に救われぬ人間が居るのだとしたら、それは恐らく自分の事なのだろうと思いながら。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued......