初めに祐一を追って教室を飛び出したのは、名雪だった。
 
普段のおっとりした雰囲気とはまるで真逆の俊敏な動作で、長い髪を翻しながら祐一を追いかける。
 
それはまだ、教室内の誰もが突然の『爆発』に煽られて身動き一つ取れなかった状況の中での事だった。
 
 
”あの”相沢祐一が怒りの感情を見せ、しかもそれに留まらず机までをも蹴り飛ばした。
 
普段は『優しい人』とか『面白い人』として認識されている祐一だけに、皆の驚きは尋常な物ではなかった。
 
息をする事すら、許可が必要にも思われる。
 
しかしそんな中ですら、名雪は自身の動きに歯止めをかけなかった。
 
かける故なんて、何処にも無かった。
 
 
北川に腕を引かれて、名雪の現在位置は教室前部のドア近く。
 
祐一が逃げる様にして飛び出したのは、教室後部のドアから。
 
どっちに向かって走り出したかは判らないけど、絶対に追い付ける自信が名雪にはあった。
 
それは、彼女が陸上部の部長だとか云う事とはまったく別次元での思考で。
 
脚の速い遅いなど関係無く。
 
祐一は今、誰かに”追い付いてほしいのだ”と、名雪は確信していた。
 
だから、動きに歯止めをかける必要なんて欠片も見当たらなかった。
 
 
教室から出ていく瞬間の祐一の瞳を思い出す。
 
それは、間違っても怒りに淀んだ者の目ではなかった。
 
それどころか、酷く脅えているようにも見えた。
 
机を蹴り上げ、更には蹴り飛ばし。
 
今や教室中の恐れの対象である祐一が、逆に全てに脅えている。
 
全てに脅えて、逃げ出した。
 
他の誰が勘違いしたって、名雪にはそれを見抜けるだけの理由があった。
 
だって『あの時』も、祐一はそうだった。
 
 
夜の水瀬家。
 
傷だらけの親友。
 
浴びせ掛けられる罵声。
 
 
初めてかもしれない祐一に怒鳴られた経験は、だけどそれ以上の何かを名雪に齎した。
 
どんな時だって、もう二度と祐一から目を逸らさない事を心に決めた。
 
何故ならば、相沢祐一と云う人間は大嘘つきだから。
 
それも自分が有利になる類の嘘は驚くほど下手なくせに、自分を犠牲にする類の嘘は物凄く上手だから。
 
放っておいたら祐一はきっと、誰にもその嘘を見抜いてもらえないままに生きていくかもしれない。
 
自分を最低な人間だと偽り、嘘を吐き続ける内に自分もその嘘を信じ、だけどそれでもいいと思ってしまいかねない。
 
自分が大切に思う『誰か』の為なら、彼は笑って死にかねない。
 
 
相沢祐一は、大嘘つきの上に大馬鹿だ。
 
 
だからせめて、自分だけでも祐一を判ってあげなきゃダメなんだと、名雪は思った。
 
煩わしいと思われるかもしれない。
 
自分が特別だと勘違いしてるバカな奴だと思われるかもしれない。
 
でも。
 
それでも祐一の事を誰もが疎む世界なんて、名雪には耐えられなかった。
 
自分の思考とまったく同じ筋道でもって自身を大馬鹿だとなじられたって、祐一の為ならそれでもいいと思っていた。
 
 
教室のドアを開けて左右を素早く確認し、その視界の端に祐一の背中を見止める。
 
左っ。
 
授業中には決して見せない鋭い反射神経で姿勢を左向きの物にし、名雪はくっと脚に力を篭めた。
 
前方には誰も居ない。
 
本気で走り出しても大丈夫。
 
こんな事になるなら部活の時みたく髪を結っておけば良かったと場違いな思考に0.2秒を費やし、それから名雪は思考を閉ざした。
 
するべき事は既に決まっている。
 
後は一心不乱にその事を為すのみ。
 
早く捕まえてあげなきゃ、祐一はきっと泣いちゃうから。
 
だから―――
 
 
「邪魔……そこをどいて」
 
「ゴメンね。 それはできないの」
 
 
0.2秒の思考の隙をつかれたのか、『彼女』の動きが知覚できないほど速かったのか。
 
今まさに爆裂ダッシュをかまそうとしていた名雪の目の前には、何時の間にか一人の少女が立ち塞がっていた。
 
それも偶然にではなく、明らかに意図的に。
 
退去を勧告する名雪の声に微塵も動じる事無く、それどころかその雰囲気は逆に名雪にこそ撤退を告げるかの様なものであった。
 
不動の姿勢は大木の如く、しかし風雅な容姿は花の如く。
 
少女の名は、草薙桜。
 
今の名雪にとって彼女は、桐塚以上に面と向かって話したくない相手だった。
 
 
「祐一の事、心配してくれてるんだよね……ありがと」
 
 
心配。
 
その言葉は、桜もまた祐一の抱いている感情がただの怒りではないと識っている証しだった。
 
『真実』に気付いていたのが自分だけではなかった事を知り、名雪は少しだけ言葉に詰まる。
 
だがしかし、その数瞬後に思い浮かんだのはやはり反論の言葉でしかなかった。
 
識っているのなら。
 
祐一の抱いている感情を判っているのなら何故、目の前の転入生は自分を押し留めようとするのか。
 
今、何よりも優先すべきなのはまず祐一の事ではないのか。
 
頭の中でぐるぐる回る言葉は、しかし一言も声として産み出されたりはしなかった。
 
代わりに、名雪は桜の事をキッと見据えた。
 
恐らくだが目の前の彼女は、視線に篭められた意味を全て汲むだろう事を予測して。
 
 
「よかった……祐一にはちゃんと判ってくれる人が居るんだね」
 
 
『前の街』では誰もが見落としていた、見ようとすらしてくれなかった祐一の『本当』を、判ってくれる人が居る。
 
桜にとってそれはとても嬉しい事でもあり、同時に少しだけ寂しい事でもあった。
 
いつかこの娘が完全に祐一を包んであげる事ができる日が来たら、その時はきっと自分と祐一との別れの日となるだろう。
 
草薙桜は、自分のみが有していた、ある意味では相沢祐一に対する特権を永久に失う事となるだろう。
 
本来ならばそれは、とてもとても喜ばしい事のはずだった。
 
『あの頃』の自分とあの娘が、何よりも望んでいたであろう未来のはずだった。
 
 
相沢祐一には、幸せでいてほしい
 
 
笑っていてほしい、泣いてなんかほしくない。
 
いつも誰かが傍に居てあげてほしい、独りぼっちになんかなってほしくない。
 
だけどその為には、祐一を愛してあげられる人が必要だった。
 
それも、自分以外の『誰か』が。
 
『あの頃』を知らない、だけどだからこそ祐一の全てを『あの街』から解き放ってくれる。
 
そんな人が相沢祐一には必要なんだと、『あの頃』の桜は願っていたはずだった。
 
 
なのに何時からか。
 
その事を素直に喜んであげられない自分が居る事に、もうずっと前から桜は気付いていた。
 
『鎖』が千切れなければいいと、何処かで望んでいる自分に気付いていた。
 
最低だ、と自嘲する。
 
だがそれでも、『鎖』が千切れた瞬間に自分もまた千切れ飛んでしまう事を彼女は識っていた。
 
鎖は絆。
 
絆は痕。
 
祐一と一緒に居られるなら、死ぬまで痕が痛む事も辞さない。
 
そしてその痕は、自分と祐一にしか持ち得ない物だから―――
 
どんな言葉で繕っても、どんなに深く愛しても。
 
 
「でも…うん、ごめんね? 『今』の祐一に必要なのは、アナタじゃない」
 
 
あんなにも『昔』に戻ってしまった祐一にはもう、アナタの全てが届かないの。
 
だから、ゴメンね。
 
これは私がするべき事。
 
私にしか、できない事だから。
 
草薙桜だからできる事は、沢山ある。
 
だけどきっと、草薙桜じゃできない事はそれよりもっと沢山あるんだよ。
 
例えばそう、祐一を『今』に繋ぎとめておく事とか。
 
そしてこれから先も、ずっとずっと祐一の傍に居て、『先』に向かって歩く事とか。
 
悔しいけど、『あの頃』を共有する私じゃそれは叶わないから。
 
大丈夫、祐一はちゃんと戻してあげるよ。
 
忘れてほしいとは思わないし、誰かの元に行ってもほしくない。
 
でも、私やあの娘がいつまでも相沢祐一を縛り続けていいだなんて、絶対に思ってないから。
 
 
踵を返し桜が走り去る。
 
喧騒の廊下に残された名雪は、ただ呆然と立ち竦むより他に術を持っていなかった。
 
周りの風景がやけに遠く感じられる感覚に翻弄される。
 
何だか凄く息苦しい。
 
自失の沼に頭まで浸かってしまい身動きの取れなくなった名雪を引き上げたのは、最愛の人の声でもなければ親友の声でもなかった。
 
 
『三年B組、相沢祐一 三年B組、相沢祐一 校舎内に居たら大至急職員室まで来なさい 繰り返します 三年B組―――』
 
 
校外指導部部長、桐塚利之。
 
びくっと身体を震わせた名雪は、それから暫く経っても身体の震えを抑える事ができなかった。
 
寂しさに脅えて命を散らせるウサギの様に、ひたすらに『終わり』を怖れて震え続けていた。
 
 
雪ウサギは、桜の季節に追われる様にして、その純白の体躯を少しずつ消し去ろうとしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第十七幕 『雪が溶けるから桜が咲く』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もう随分と久方ぶりになる生徒執行部会会長室に足を踏み入れた久瀬は、其処が既に自分の空間でない事を瞬時に察知した。
 
本棚に収められた膨大な量の学園史は以前と変わらず同じ位置に在ったし、使われる事も無い灰皿もまた以前と同じ場所に在る。
 
何一つ見た目が変わっていない室内に、しかしだからこそ、久瀬は自分の時代との違いをはっきりと見せ付けられたような気がしていた。
 
既に其処には無い、自分の居場所。
 
自覚していたはずの、『引退』の二文字。
 
つい先程まで自分で口にしていた単語にも関わらず、久瀬は自身の内部に生まれた寂寥の感情を否定する事が出来なかった。
 
 
学園史上最強の執行力を有していた、久瀬率いる第壱参代生徒執行部会。
 
その力は、時として教師陣をすら寄せ付けないほど強大だった。
 
理不尽な圧政を受ける事も無く、『生徒自治による学校の運営』なる理念を夢見事では終わらせず。
 
しかしそれすらも、彼等にとっては『途中』でしかなかった。
 
築き上げた栄光に慢心も満足も過信もせず、ひたすらに前へ前へ。
 
思えば自分の身体には無茶をさせてばかりだったと苦笑しながらも、久瀬は、徹夜明けにこの部屋の窓から見る朝日が決して嫌いではなかった。
 
夜を徹しての議論も、地味なばかりの書類事務も、反生徒会の憎しみの矢面に立たされた日の事も。
 
思い起こせば全てが懐かしい。
 
それどころか、今は戻りたいとさえ―――
 
 
「―――瀬くんっ。 久瀬くんってば」
 
「………」
 
「んもーっ、久瀬くんっ!」
 
 
何度呼んでも柄にも無くぼけっとしている久瀬に、焦れた様に沙紀がクイクイと袖を引く。
 
ともすれば何を考えているのかこの人はと思われてもしょうのない久瀬の態度は、それでも沙紀にだけはその理由を見抜かれていた。
 
沙紀だけは、その理由を判っていた。
 
感傷に突き動かされるなんてらしくない。
 
『古き善き時代』なんて今を誇れない負け犬の言葉じゃん。
 
いくら心の中で久瀬を罵ってみても、やはりそれは形式上の物にしかなりはしなかった。
 
どう足掻いても沙紀は、久瀬の呆然とした立ち姿に自分を重ねる事を止める事が出来なかった。
 
 
だって何しろ私達は、この三年間、ずっとだった。
 
 
右も左も判らずに、ただただ先輩達の背中を追い続けた一年生の頃。
 
ようやく自分のするべき事が判り始めたと思いきや、今度は下の育成に追われた二年生の頃。
 
随分と偉そうな肩書きが付いてしまったと苦笑しながらも、やっている事は今までとちっとも変わらなかった三年生の頃。
 
ずっとずっと、沙紀の学校生活は生徒会と共に在った。
 
 
眠い目を擦りながら、世界の全てがまだ白い時間から学校に集った朝。
 
忙しさにお昼を食べる暇も無くて、強制ダイエットに追い込まれた昼休み。
 
六時間の授業が終わっても、むしろ今からが本番だと気合を入れ直した放課後。
 
ずっとずっと、沙紀の学校生活は久瀬と共に在った。
 
 
だから、沙紀には久瀬の気持ちがよく判った。
 
何故ならば、自分もそうだから。
 
既に自分の居場所ではなくなってしまった、ついこの前までは自分の物だった居場所。
 
まるで大好きな人を誰かに盗られてしまった時のような、嫉妬にも似た寂寥の感情。
 
痛いぐらいに久瀬の思う事が判ってしまう沙紀は、できる事ならばその痛みを幾許かでも拭ってあげたいと思った。
 
自分なら、それができると思った。
 
 
第壱参代生徒執行部会書記長、枳殻沙紀
 
 
副会長よりも長くこの部屋に入り浸っていたと自信を持って言える。
 
そんな、ある意味では不良な書記長の自分だからこそ、できる事があると沙紀は思っていた。
 
今一度自分が昔の肩書きを思い出し、会長室と云う久瀬にとってこれ以上無い舞台の上で。
 
久瀬の事を、『会長』と呼べば。
 
彼を『会長』と呼んであげれば。
 
たったそれだけで、久瀬の心の隙間は埋められるだろう。
 
そして沙紀の心も、『あの頃』に戻れるだろう。
 
それはとても、とても素敵な誘惑だった。
 
 
だけどやっぱり、それだけはやっちゃいけない事だと沙紀は識っていた。
 
 
自分が書記長に立ち戻り、久瀬を会長と呼んでしまったら。
 
久瀬を会長だと認めてしまったら。
 
それじゃあ、現会長である橘は一体どうなるのか。
 
会長室に居て会長の椅子に座っている橘君って云う男子学生は、自分の存在証明の消滅にどれだけ苦しめばいいのか。
 
そうでなくても橘は、大きすぎた先代会長の影に思い悩む日々を送っていると聴く。
 
沙紀だって無意識の内に久瀬と橘を比較してしまう事が多々あるし、その場合にはいつも久瀬が勝ってしまう事もまた事実なのだった。
 
偉大過ぎる先代が彼に残したのは、確かな手腕としかしそれ以上の『尊敬』と云う名の依存心。
 
越えねばならぬ存在の強大さに感じた『諦め』を『尊敬』に置き換えただけの『畏怖』は、橘の有り余る素質を確実に握り潰してしまっている。
 
それを実績ではなく感覚で感じてしまえる沙紀には、やはりこの場で久瀬の事を『会長』と呼ぶ事はできなかった。
 
少なくとも、現会長の前とこの場所だけでは、絶対に。
 
 
「……ほら、久瀬君。 ぼけっとしてないで」
 
「ああ、悪い」
 
 
殆ど完璧とも言える精度で沙紀の思考を判っていながらも、だがそれでも。
 
もうどこにも『会長』としての自分が居ない事実。
 
沙紀が自身を『会長』と呼んでくれない現状。
 
それらは、確実に久瀬の心を抉っていた。
 
無論、彼は表情から内情を『誰か』に読み取らせる事を許すほど拙くは生きていなかったのだが。
 
 
「話を聞こう。 できれば手短に」
 
 
その言葉を受けて、橘がようやく口を開く。
 
どこか重々しい空気を纏った彼の様子は、やはり『相談』の内容が聞いていて面白くない方に分類されるのだと云う事を明確に示していた。
 
 
「久瀬先輩は最近の学内を、どう思いますか?」
 
「随分と抽象的な質問だな。 もっと判りやすい質問にしてくれ」
 
「じゃあ……最近の教師陣の動きに、何か感じる所はありますか?」
 
 
橘のそれは、最早質問ではなかった。
 
自分が感じている不穏な空気を、久瀬も同様に感じているだろうと確信しているからこその確認。
 
しかし、橘の言いたい事を知ってなお久瀬は、質問に対して知らぬ振りを見せ付けた。
 
全ての決定に自分の同意を得なくては先に進めないと未だに思っている橘の心根を思っての事か、それとも別の思惑あっての演技か。
 
まるで能面のような無表情を顔に貼り付けたまま沈黙する久瀬の横顔からは、流石の沙紀ですら何も読み取れなかった。
 
それほどまでに、久瀬の表情には色がなかった。
 
 
「……先を続けろ」
 
「あ、は、はい……実は最近になってから、極一部の教師陣に向けた苦情が一般生徒から届くようになりまして…」
 
「正確な時期は」
 
「夏休み明けから少数の苦情はあったんですが……特に取り沙汰されるべき問題でもないと思って…」
 
 
最後の方は消え入りそうな音量でボソボソと口篭もる橘。
 
その態度からは、やはり久瀬に対する様々な種類の感情が読み取れた。
 
脅えとは少し毛色の違う、しかし言葉の端々を萎縮させるには充分な程の重圧。
 
透明なレンズの向こうから自分を射抜く視線の鋭さに、橘はまた一つ、ごくりと息を飲んだ。
 
これが数ヶ月前に第一線を退いた人の眼差しだとは、笑えない冗談もあったものだ。
 
 
「橘、災禍の種は見つけ次第叩き潰すと教えたはずだが?」
 
「久瀬君、恐い」
 
「沙紀、うるさい」
 
「むー」
 
 
それは、空気を弛緩させる為の沙紀の機転だったのか。
 
どうしようもなく場違いな沙紀の突っ込みは、場違いだからこその柔らかさで久瀬と橘とを一時的にほんわかさせた。
 
対峙する野郎二人ともが同時にふっと一息を抜き、何処となく手持ち無沙汰の視線を空に漂わせる。
 
それまでが張り詰めた空気だっただけに、弛緩して行き場をなくした『何か』が室内に余ってしまうのは当然と言えば当然かもしれなかった。
 
上を見れば蛍光灯が白い光を。
 
窓の外を見れば太陽が淡い光を。
 
ようやっとの事で会長室以外の場所でも動いている『時』を思い出した二人を見て、沙紀もようやっと小さく息を抜いた。
 
それは、野郎二人が息を抜いてから数刻置いてからの事。
 
そのタイミングや息を抜いた際に見せた笑みから察するに、やはり先程の場違い突っ込みは全て計算づくの行動だったらしかった。
 
考えてみれば枳殻沙紀と云う女子生徒、これでも人の感情の機微をよく判った上での発言を常とする思慮深い女の娘なのだ。
 
そうでなくては生徒会の要職に就けよう筈もないし、何より久瀬とここまで親しくもなれない。
 
そんな彼女のさっきの発言を『天然ゆえ』として捉えるには、久瀬は、沙紀と云う先代書記長の性格をよく知りすぎていた。
 
 
…要らぬ気遣いを、させてしまったか。
 
やはり表情には出さないものの、内心では軽く自責する久瀬。
 
職を辞してなお自分の身辺に起こる様々な対人トラブルをそれとなく緩和してくれる沙紀に、しかし久瀬は感謝以上の気持ちを抱きはしなかった。
 
三年もの長き月日の付き合いは、いかに久瀬と云えども互いの行動に対しての感情の機敏さを失わせる。
 
ましてやそれが生徒会の仕事に明け暮れた会話に彩られた三年間だったのだから、詮無き事と言えばそうも言えるだろう。
 
そしてもう一つ。
 
久瀬は、その智謀や手腕とは全く顕著な反比例でもって、恋愛関係に関しては驚くほど不器用で一途なのであった。
 
もっとも、それは今の所どうだっていい事柄なのだが。
 
 
「一部教師の専横かそれとも規則違反に対する妥当な裁きか。 そのどちらかを判断する情報も、権限も、今の私は持ち合わせていない」
 
「し、しかし……」
 
「やりたい様にやればいい。 橘。 正面切って教師側とやりあうのはあまり得策とは言えないが、それでもお前達ならそれは充分に可能だろう?」
 
 
常ならぬ好戦的な物言いをする久瀬に、しかし橘は何も答えなかった。
 
否、答える事ができなかった。
 
気が付けば久瀬はもう既に橘に背中を向けて、会長室の扉に手を掛けている。
 
その態度からは明確に、「これ以上話す事はない」との久瀬の意思が読み取れた。
 
さっきの様に久瀬を取り成してくれまいかと一縷の望みを篭めて橘は沙紀を見やるが、返って来たのは『ゴメンね』のゼスチャー。
 
半ば以上困り果てた橘に向けて最後に久瀬が発したのは、それでもやはり助言などでは決して無かった。
 
 
「名を、汚すなよ」
 
 
それだけ言って、後は振り返りもせずに会長室を後にする久瀬。
 
困ったような顔をしながらも諌めようとしない沙紀にも裏切られたような気がして、橘は暫し直立の姿勢から動こうともしなかった。
 
会長室にはまた、静寂が戻った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「いいの?」
 
「何が」
 
「橘君」
 
「構わん」
 
 
単語でのやり取りを苦にしない二人の会話が、もうそろそろ朝のHRが始まろうかと云う時間帯の廊下に軽く響いた。
 
あと数分もすれば本鈴が鳴り、その瞬間に校門をくぐっていない生徒は遅刻扱いになるだろう。
 
そして本鈴までに校地内に入ったとしても、今度は教師が出欠確認をするまでに教室に入っていなくてはならない。
 
脇をドタバタと走りぬけていく数名の遅刻寸前生徒の背中を見るともなしに眺めていた沙紀は、その大変そうな面持ちに若干の同情を感じた。
 
しかし久瀬はと言えばやはりいつもの様に仏頂面のままで、その表情からは呆れの感情以外の何も読み取れはしなかった。
 
どうして遅刻なんかするのか本当に判らない、とでも言いたそうな顔。
 
いつしかその思考はたった一人の男子生徒の元へと集約され、またしても久瀬は不快そうに深い溜息を吐くのだった。
 
 
「あれじゃあ少し可哀想なんじゃない?」
 
「なんだ、随分と橘の肩を持つな」
 
「そりゃあ、カワイイ後輩だもの。 『現会長』が『元会長』に縋るなんて、よっぽどの事だと思うよ?」
 
 
それはそうだろうと、久瀬も思った。
 
橘とて男だ。
 
それも、生半ならぬ才気を持った男だ。
 
日々を安穏と過ごしてきた、性別が男なだけである他の生徒とでは比べ物にならないだろう。
 
何が。
 
その意地が、そしてプライドが。
 
最高職である生徒執行部会会長になった今、橘はそれまでの生涯の中でも最も強い権力と最も高い誇りを自身に持っているだろう。
 
だがしかし、最高位に在る者は、その地位の高さ故に孤独に陥る事もままあるのだ。
 
己の裁定が動かす『事』の大きさに脅える事もあるだろう。
 
しかしそんな時ですら誰かに相談する事なんて、『会長』に在ってはならないのだ。
 
幹が揺れれば枝は震え、枝が震えば木の葉は千切れ飛ぶ。
 
そんな事は、あってはならないのだ。
 
 
「余程の事だからこそ、自分でどうにかしてほしい。 少なくとも私が出張る事だけは自粛するべきだろう」
 
「うん。 それは判ってるけど……」
 
 
判っているけど、自分だってそう思ってはいるんだけど。
 
だけどどうしても、物事を片一方からしか見る事なんて沙紀にはできなかった。
 
困ってる人が居たら、助けてあげたい。
 
そう思うのは悪い事なんかじゃ決してないはず。
 
悪い事じゃないはず…なんだけどな。
 
そう言えば小学生の頃、『情けは人の為ならず』って言葉を間違って覚えていた事を、ふと沙紀は思い出した。
 
情けをかけて優しくばっかりしていても、その人の為にはならない。
 
時には厳しく突き放す事も本人の為なんだと、そんな風に覚えていた事を。
 
勿論今となってはその用法が間違っていた事に気付いているし、本来の意味もちゃんと把握している。
 
しかし今のような状況を目前にした時、やはり沙紀はこう思ってしまうのだった。
 
小学生の頃の私が思っていた用法も、あながち間違いじゃないかもしれないな、と。
 
そして間違いじゃないのかもしれないけど、それだけで全てを語れたりもしないんだな、と。
 
 
背反する二つの必要性に苛まれてふむむと考え込んでしまった沙紀。
 
即断即決を必要とする生徒会の中で、そう言えば彼女のような存在は珍しかったと、久瀬はその隣りで小さく微笑みを零した。
 
時にはお前のような優しさも、必要か。
 
だがしかし珍しいと言えば沙紀の存在以上に稀有なのが、久瀬の微笑であったりする訳で。
 
久方ぶりに目にする柔らかい表情に驚きつつ、沙紀は不思議そうな顔で首を傾げてみたりした。
 
どうして笑ってるのカナ?
 
そしてそんな沙紀に久瀬が発した言葉は、何て言うか場違いもいい所のムーンサルト発言だった。
 
 
「お前は、いい母親になるだろうな」
 
「ぃえっ? へっ? なっ?」
 
 
突然の母親認定にメチャクチャ慌てる沙紀。
 
何をそんなに取り乱しているのかと不思議そうな顔をしている久瀬は、結構な確率でニブチンだった。
 
 
「会長っ! いきなり何をっ?」
 
「何をって……思った事を言っただけだが」
 
「お、お、思った事ってナンデスカっ」
 
 
私は沙紀を怒らせるような事を何か言ってしまったのだろうか。
 
これまた珍しく額に汗マークを貼り付けながら押され気味の久瀬は、しかしステータス異常『混乱』の沙紀にそれを気付かれる事は無かった。
 
気付かれたとしても、恐らくは何も変わらなかっただろうが。
 
 
「心理学や教育学的に、優しさには二つの種類がある事は知ってるか?」
 
「……いいえ」
 
「例えば子供が大きな壁にぶつかった時だ。 到らない自分を責める『彼』を慰めてやる優しさは、とても判りやすい」
 
「判りやすいけど…でも、それは判りやすすぎる」
 
「そうとも言えるな。 安易な優しさだけでは、人は、己の限界を越えられない」
 
「越えられないから限界って言うのに…」
 
「心の底からそう思ってやれるから、お前はいい母親になれるだろうなと言っているんだよ」
 
 
また、久瀬が笑った。
 
たったそれだけの事にも関わらず、沙紀はその動きを再度止められたりしていた。
 
珍しい、珍しい。
 
も一つおまけに珍しい。
 
気付いているかな久瀬クン。
 
キミは今、何だかよく判らないけどいい感じに柔らかいよ?
 
 
「私には真似できない。 その母性的な優しさは、恐らく死ぬまで持てないだろう」
 
「持たない方がいいんじゃないの?」
 
「誰がそんな事を言った」
 
「だってさっき」
 
「優しさは、必要だ」
 
「優しいだけでもダメって言ったよね」
 
「だが厳しいだけでも事は運ばない」
 
「じゃあどうして橘君には厳しくしてばかりなんですか」
 
 
沙紀が久瀬に対して敬語を使う場合、それは九割九分以上の確率で意図的である。
 
クラスメートとしての会話とは完全に一線を画し、何事かを問うからには完全なる答えを要求する。
 
物静かにしかし鋭い切っ先の眼差しをもって自分を見据える沙紀を見て、久瀬はその眼光が『現役』時代より些かも衰えていない事に気付いた。
 
確かに、嬉しかった。
 
 
「沙紀。 お前は橘の会長としての器をどう思う?」
 
「先に私の質問に答えてください。 話しはそれからです」
 
「ならば結論から言おう。 橘には、私を越えてもらわねばならない」
 
「だから、ですか?」
 
「ああ」
 
「それはただの我侭なんじゃないんですか?」
 
「半分は、な」
 
「もう半分は?」
 
 
息も吐かせぬとはこの事か。
 
矢継ぎ早に、端的に、しかも肝心要の所に単刀を直入する沙紀は、久瀬の気の所為とかじゃなければ確かに『戻って』いた。
 
流されるままに自分も『戻って』みようかと、久瀬は刹那の暇だけそう思う。
 
しかし頭でそう思っている内は結局『表面』でしかないのだろうと思い、久瀬はそこで余計な事を考えるのをやめた。
 
何より、少しでも答えるのが遅れたら目の前の書記長が怒り出しかねない。
 
そう言えばやはりあの頃も、こうして余計な考え事をしては沙紀にせっつかれていたな。
 
 
「今ならばまだ、橘がどんな失敗をしようとも私が助けてやれる。 私だけじゃない、先代の執行部会総員でもって橘のフォローをしてやれる」
 
「フォローする気がある様には…見えませんでした」
 
「見せて、どうする」
 
「………」
 
「見せてどうする、沙紀。 フォローする気を橘に見せて何がどうなると言うのだ」
 
 
知らず、口調が厳しくなる。
 
歩みも止まる。
 
久瀬もまた、懐かしきあの頃に『戻って』いた。
 
 
「頬を掠め耳を吹き飛ばし時にはケプラーごと肋骨を喰い千切る銃弾の矢面に立たねば見えない境地にこそ、真の経験値が存在する。
 後ろ盾に甘えた決断や行動では、橘は何も変わらないだろう。 私があいつに、次代会長に望んでいるのは後方支援などでは決して無いのだぞ」
 
「大丈夫…なんですか?」
 
「………」
 
「橘君はそれで……潰れてしまったりはしないんですか?」
 
 
一転、気弱な口調でしきりに橘を心配する沙紀。
 
どこまでも優しさが先に立つその様子を見る限り、やはり母性が強いんだろうなと久瀬は思っていた。
 
そして、それでいいんだとも。
 
誰だって厳しくされるよりは優しくされる方が嬉しいだろうし、優しくされた方がその人に対して好感も湧くだろう。
 
なに、悪役も三年続けていれば立派な代名詞となる。
 
厳しさと優しさを同等に与えて育てるべき人材ならば、その配役は言わずもがなだ。
 
私には、母性的な優しさなど存在しない。
 
 
「そう易々と潰れるような男に会長の座を明け渡した覚えは、私には無い」
 
 
キッパリはっきり最初っから、私はそう言って欲しかったんです。
 
ようやく自分の求める言葉を久瀬が喋ってくれた事に、沙紀は自分でも気付かぬ内に安堵をその表情に浮かべていた。
 
ともすれば久瀬の口振りは沙紀に、橘が潰れる事を前提として話しているようにも聞こえていた訳で。
 
しかしそれすらも久瀬が橘を評価していたからだと判ってしまえば、後は簡単だった。
 
かわいい子には旅をさせ、かわいくなくとも旅をさせ。
 
過保護にならないように育てなきゃね、おとーさん。
 
 
「その様子だと、どうやら納得してもらえたようだな」
 
「あのさ、もう一つだけ訊いてもいい?」
 
「内容によりけりだな」
 
「橘君の相談の事。 久瀬君は実際、どっちだと思ってるの?」
 
「……会長室で言った通りだ。 私にはそのどちらかを判断する情報が―――
 
 
『三年B組、相沢祐一 三年B組、相沢祐一 校舎内に居たら大至急職員室まで来なさい 繰り返します 三年B組―――』
 
 
 ―――注意を受ける生徒の方に問題があるんだろうな。 ああそうだ、そうに違いない。 教師の専横などである訳が無い」
 
 
判り易過ぎるほどに判りやすい久瀬の反応に、沙紀が隣りでくすくすと笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「どうして職員室に呼ばれたのか、判ってるよな」
 
 
名雪が俺に昨日の一部始終を話したと確信しているのだろう、開口一番に桐塚が言い放ったのは既に『確認』の言葉だった。
 
質問ではなく、確認。
 
確信に足る情報を持っていない桐塚が俺を犯人に仕立て上げようとしている事は、この第一声からも明らかだった。
 
何故ならば、確たる証拠を持っていれば確認などは必要が無いから。
 
何処までも推測の域を出ない桐塚の犯人捜しは、その決定的な部分を容疑者の自白に委ねるしかないのだ。
 
だから、桐塚はあえて自分の持っている情報を一言も喋っていない。
 
あくまでも『全て知っている』と云う態度を見せる事によって、相手の自白を待つつもりなのだろう。
 
そしてそんな下らない策謀の為に、お前は、名雪をあそこまで追い詰めたんだな。
 
 
「呼ばれた理由など、欠片も思い当たりません。 もしよければ言ってみてくれませんか? その理由ってヤツを」
 
「……お前その態度は」
 
「無礼だと? じゃあ訊きますが、人を大至急で呼び出しておいてその理由を相手に尋ねるのは無礼ではないのですか?」
 
 
苛立つ。
 
意識してじゃないのに、言葉に棘が混ざる。
 
危険な兆候だとは思いながらも、身体の内部に熱はどんどん溜まっていく一方だった。
 
 
「それともまさか、先生ならば生徒に対して無礼を働いても許される、とでも?」
 
「貴様ッ」
 
「まぁまぁ落ちついて、桐塚先生も……ほら、相沢も」
 
 
あまりに剣呑な雰囲気を見かねてだろう、本来ならば関わり合いになりたくない類の騒動にも関わらず、横から入ってきたのは石橋の声だった。
 
口先だけの言葉ではなく、本当に心の底から『落ちついてほしい』と思っている事が判る口調と、俺の肩をやんわり叩く掌。
 
成る程どうやらこの先生は桐塚と同じく『教師』と云うカテゴリに分類されるにも関わらず、その本質は何処までも真逆であるらしい。
 
元より嫌いではない石橋たっての仲裁に少しは冷静さを取り戻したものの、それが所詮紙一重である事は俺は勿論石橋にも判っていただろう。
 
そして当然、桐塚にも。
 
 
「他校の生徒が傷害事件の被害者になった事は聞きました。 でも、それでどうして俺が呼ばれるんですか?」
 
「事件があった時間帯のお前の居場所が特定できない。 これは疑われるに充分な条件だろう」
 
「それは、何時頃の話ですか」
 
「こっちに入っている情報では午前二時に前後した時間帯だと云う事だ。 そんな時間にお前は何処をうろついていた?」
 
「俺が何所をうろついていたかは一先ず置いて。 午前二時頃の居場所なんて、誰がどうやって証明してくれるんですか」
 
「なに?」
 
「例えば…じゃあ久瀬でもいいです。 今のところアイツに疑いは掛けられてないみたいですけど、本当に奴は午前二時に家に居たんですか?」
 
「………」
 
「断言も証明もできませんよね。 そして恐らくはこの学校の生徒の過半数以上だって、午前二時のアリバイなんて持ってないはず」
 
「ああ、確かにお前の言う通りだな。 午前二時のアリバイなんて証言してくれる人間は誰も居ないだろう」
 
「………」
 
「だがな、明らかに不審なのはお前だけなんだ。 寝室に居なかった”かも”じゃない。 お前は、その夜、確実に寝室に居なかったんだ」
 
「……ええ、それは認めます。 俺は一昨日の夜、確かに部屋に居なかった」
 
 
最大の偽りを通す為には、最小限の事実は認めなくてはならない。
 
そして俺の求める結論に桐塚を導く為には、これは必要な『引き』のはずだ。
 
見誤るなよ相沢祐一。
 
お前が親父の元で学んできた権謀術数は、こんなレベルの戦いじゃなかったはずだぜ。
 
 
「眠れずに、夜の街を散歩してました。 行き先はものみの丘です」
 
「そんな嘘が―――」
 
「勿論、証明してくれる人なんか誰も居ません。 後は桐塚先生が俺を信用するかどうかです」
 
「……お前の普段の素行は信用に値する生活態度だとは思えないが?」
 
「もっとも、信用してくれようがしてくれまいが、そんな事はもうどうでもいいんですけどね」
 
「………」
 
「俺は問われた事に対して真面目な答弁を返した。 これ以上の事など俺には出来かねます。 したがって、俺が此処に居る理由はもう何も無い」
 
 
靴底が摩擦で音を出すほどの勢いで踵を返し、俺は桐塚に背を向けた。
 
ふと周囲の視線に気付いて視線を巡らせれば、見るとも無しにしかしばっちりと注意をこっちに向けている教師陣の姿があった。
 
中には英語担当の柏木ちゃんの様に、事の成り行きにビクビクしながら真っ直ぐに視線を送っている人も居るが。
 
それでも概ね事勿れ主義が蔓延している職員室の雰囲気は、付かず離れずの位置から監視されているような感じを受けて酷く不愉快だった。
 
そう、それは『あの時』によく似ていたから……
 
 
「待て! 相沢!」
 
「……なんだ」
 
 
思いもかけず低く暗い自分の声に驚く。
 
だが、その声は俺よりも桐塚の方を余計に驚かせた様だった。
 
勢いの付いた舌をぐっと詰まらせ、数瞬だけ呼吸を整える。
 
しかしたじろいだ後に浮かんできたのは更なる怒りの感情だったらしく、桐塚はさっきまでよりも強い口調で俺に詰問を続けようとした。
 
 
「まさかお前は、ものみの丘で一夜を明かした訳じゃないよな」
 
「当たり前だ。 この時期に外で寝ようとするほど俺は命を粗末にしちゃいない」
 
「家に、帰ったのか?」
 
「……ああ」
 
 
そう答えてから刹那の後。
 
ふと、桐塚の表情に違和感を感じた時にはもう遅かった。
 
その表情を的確に言い表すには、己が思い描いた計略が成功した瞬間の軍師のような顔とでも言えばいいのだろうか。
 
優越と愉悦を足して二で割ったような歪んだ笑みを見せる桐塚は、なるほど確かに名雪じゃなくても嫌悪の対象に足る存在だった。
 
しくじったかと思う暇もあればこそ、畳み掛けるような口調で俺の答えに見つけた『穴』を押し広げようとする桐塚に、俺はまた少しだけ苛立った。
 
 
「だとするとおかしいな。 昨日の昼一時頃にお前の家に電話を掛けた時には、『昨日の夜から家に帰っていない』と聞いたんだが?」
 
 
くつくつと笑いながら、斜めに歪んだ眼差しを俺に向ける桐塚。
 
その表情からは、確実に勝利を確信している心胆が読み取れた。
 
なるほど、電話。
 
それだけの切り札を持っていたからこそ、桐塚は此処までの不遜な態度をとり続ける事が出来たのだろう。
 
そしてそれだけの切り札の存在を欠片も匂わせずに自分の求める答えに誘導した桐塚の手際に、俺はある種の感嘆すら覚えた。
 
こいつが俺より長く生きてきた時間は、どうやら伊達ではなかったらしい。
 
 
電話を、水瀬家に掛けた。
 
それは恐らく月ヶ岡高校からの連絡があった直後か、遅くても形だけの職員会議を終えた後。
 
昨日の夜に聞いた話では、名雪が大至急で職員室に呼ばれたのは昼休みだと云う事だった。
 
その際に俺が家に帰っていない事が知られていたのだから、やはり桐塚が水瀬家に電話を掛けた時間と云うのは午後一時頃が妥当だろう。
 
午後の一時に水瀬家に居て電話を取った人物となると、それはもうあゆしか居ない。
 
だがしかし、昨日のあゆはどうだった?
 
商店街で俺と桜に遭った時も別に変わった所はなかったし、いや、そもそも。
 
 
あゆは、学校から俺を探す電話があった事を、俺に知らせていない
 
 
忘れていた?
 
違う、少なくとも重要と思われる事柄であればメモぐらい残すはずだ。
 
見た目も声も性格も子供っぽいが月宮あゆ、俺の知るあいつは肝心な部分をうっかりなどで損なうような奴じゃない。
 
なら、どうしてあゆは俺に学校から電話があった事を伝えなかった?
 
無断欠席を咎める類の電話だと勘違いしたとしても、あゆはそれを黙ったままでよしとするような性格をしてはいない。
 
むしろいの一番に俺を咎める行動に出るはずだ。
 
桜と一緒に居た事から事の背景を慮って口を閉ざした?
 
それも違う。
 
それならそれで俺だけにこっそりと電話があったと云う事実のみを伝えればいい事だ。
 
買い物途中でも水瀬家でも、俺に耳伝えをする機会は幾らでもあったはず。
 
つまり出来なかったんじゃない、しなかったんだ。
 
 
電話があった事を、あゆは、俺に伝える必要がないと判断した
 
 
仮にも学校からの電話を伝える必要がないと判断した理由は何処だ?
 
事態を軽く見た、違う。
 
電話があった事を忘れた、違う。
 
いや、それよりもまず―――
 
 
「……っは、そりゃそうでしょう桐塚先生」
 
「な、何がおかしい」
 
「どうにも先生は底意地が悪すぎます。 それじゃあ家に居たあゆだってマトモな返事を返す訳がない」
 
「相沢! ふざけるのも―――」
 
「桐塚先生は、自分が教師である事もその電話が学校からである事も、口頭で言わなかった。 違いますか?」
 
 
職員室が俄かにざわめく。
 
その只中で桐塚は、額に青筋を浮かべながら、射貫かんばかりの視線で俺の事を睨み付けていた。
 
圧倒的な怒りと、しかしそれ以上に奴を脅かしているのは動揺の影。
 
自らの行動に思う所があるのだろう、桐塚は二の句を告ぐ事も出来ぬままにその場で俺を睨み続けるしか出来なくなっていた。
 
 
桐塚は水瀬家に電話を掛けた時、自分が教師である事もその電話が学校からである事も告げなかった。
 
それは、桐塚なりの謀りだったのだろう。
 
どこまで水瀬家の実情を把握しているのかは判らないが、それでも奴もイチ教師。
 
俺が学校に在籍している以上は、『生徒』の家庭環境を調べる事など造作もない事だったのだろう。
 
家主が仕事に出ている事を把握していれば、電話を掛けた時に誰が電話口に出るかは容易に想像がつく。
 
例え想像がつかなかったとしても―――本人の前で言えば相当な怒りを買うだろうが―――あゆの幼い声は聞いただけで家主でない事が判る。
 
そして電話に出たのが家主でない事を確認した桐塚は、自分の身柄を偽る事を考えた。
 
理由は恐らく、真実の情報を引き出す為に。
 
電話の相手が家主でない、加えて俺と年齢の近い女の娘である事から、俺があゆに口止めをしているかもと云う危惧は考える必要がある。
 
例えば限定的に考えて、『学校から電話があった場合には、俺は部屋で寝ているから電話に出れないと言っておいてくれ』みたいな言い訳。
 
だからなのだろう、桐塚は自分の身分を明かさずにあゆに接する事で、自分を口止めの対象外の存在に仕立て上げようとしたのだ。
 
 
目論みは成功した。
 
桐塚は、真実を手に入れた。
 
しかしその真実は、身分を偽って電話しなくても手に入れる事が出来る物だった。
 
策謀を巡らせすぎたが為に桐塚が犯した、たった一つのミス。
 
動いた数が多ければそれだけ付け入る隙は多くなる上に、桐塚はやってはいけない事をしてしまった。
 
それは、動かずとも得られた情報に対して、自らを動かしてしまった事。
 
どんな些細な事だろうが、自然にしていれば良い結果が得られた事態を自分で動かしてしまった失態は、その後の全てを裏目に導いてしまうのだ。
 
この世界のどんな場面においても言える、絶対の理。
 
焦って鳴いたドラが次順の自分のツモだった時って大抵アガれないよな、桐塚。
 
そしてその一手が、お前の敗因だ。
 
 
「先生ともあろう方が身分を偽るなど、随分と道義に悖る事をなさいます。 そんなにしてまでもこの俺を犯人に仕立て上げたかったですか?」
 
「ぐっ……」
 
「じゃ、今度こそ帰らせてもらいます。 桐塚先生も今の事で”色々と”お忙しいでしょうし」
 
 
故意に『色々と』を強調し、嘲る視線を送りつける。
 
俺の言いたい事を恐らくは全て理解したのだろう、桐塚は歯軋りをしながら拳を固く握り締めていた。
 
抑えても滲み出る怒りのオーラは教師が纏うにはあまりにも攻撃的で、しかし俺にとってソレはあまりにも馴染み深い物だった。
 
街中で、空き地で、ビルの隙間に出来た吹き溜まりで。
 
いつも俺に向けられていた敵意と云う名の白刃。
 
懐かしいな、桐塚。
 
まさかお前までもが『あの頃』に俺を引き戻してくれるだなんて、思ってもみなかったぞ。
 
 
「……このままで終わると思うなよ……相沢」
 
 
周囲には聞こえないように、しかし俺にだけは確実に届くように。
 
怨嗟と憤怒に彩られた黒い響きは、まるで蛇の様に衆目の間を擦り抜けて俺の耳に絡みついた。
 
 
「虚偽詐術で俺を謀りたいなら、もう少し経験を積むんだな。 少なくとも今のアンタには、俺の影すら踏ませない」
 
 
言い捨て、職員室を後にする。
 
もう二度と、振り向きはしなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued……