『大至急』で生徒が呼び出される事態を考えた時、それは既に学校全体を揺るがすほどの問題だと思っていいと云う事を、久瀬は識っていた。
 
例えば部活動の顧問が生徒を呼び出す場合、どんなに事を急いていても精々が『至急』で留まるのが常である。
 
『急いで』、『ただちに』、『今すぐに』
 
行動の迅速を促す単語は幾つもあり、故に皆もそれの使い時を知っている。
 
明文化された学校法などではないが、それは学園に務める教師及び生徒ならば誰もが知っている事柄だった。
 
『大至急とは、よほどの事でもない限り使用される言葉ではない』
 
しかして今回、それも二日続けて、『大至急』の言葉がスピーカーを揺らした。
 
加えて呼び出した人間が”あの”桐塚である事を考えれば、今回の事もやはりただ事ではないと考えるのが普通だった。
 
もう一つ加えるならば、呼び出された人間が”あの”相沢祐一である事も一つの要因なのだが。
 
 
「でもさ、本当に正当な呼び出しなのかな」
 
「遅刻の常習者である相沢を生徒指導主任が呼び出す事は、何も不審ではないだろう」
 
「はいウソ。 久瀬君は今ウソをつきました」
 
「む……」
 
「桐塚先生は校外指導部長。 校内の生徒指導部長は荒川先生」
 
 
元会長のキミがそんな初歩的な事を知らない訳が無いでしょ。
 
後にそう続く事がお互いに判っているだけに、沙紀はそれ以上を告げず、久瀬はわざとらしく顔を背けた。
 
やはり相沢祐一が絡むとこの久瀬と云う生徒、妙なまでに人間臭い側面を見せる傾向にある。
 
本人曰くその変化は単なる敵愾心の表れらしいのだが、沙紀風に翻訳すればそれは『喧嘩するほど仲が良い』になっていた。
 
何せ怒りにしろ親愛の情にしろ、久瀬の感情を表情にまで引きずり出す事はえらく難しい。
 
この三年間でそれをイヤと言うほど判り切っている沙紀は、それだけにまた相沢祐一と云う生徒が不思議に思えてしょうがなかった。
 
 
どうして久瀬君はこんなにも、彼の事を毛嫌いするのだろう。
 
 
そりゃ私だって生徒会の一員だったから、昨冬の事件はよく覚えている。
 
でも書記長である私ですら、あの事件は『よく覚えている』程度にしか踏み入る事を許されなかった。
 
『よく知っている』とは、決して言えない。
 
一般生徒に比べて私がよく知っている事があるとすれば、それは事件に苦悩する会長の姿だけだった。
 
それだって実際の所、彼が『何に』苦悩していたのまでは判らない。
 
いつかは話してくれるんじゃないかと思っていた自分がとんだマヌケだと気付いた頃にはもう、私達は次代にバトンを渡していた。
 
なるほど確かに生徒会には、即断即決の能力が必要らしい。
 
一度話を切り出すタイミングを失えば時が流れるのは異様なまでに速く、今となってしまえばそれこそ『今更』に過ぎる話題となり。
 
何より自分自身が二度と『あんな』久瀬君を見たくないと思ってしまえば、自分の中で睦月事件が禁句扱いになるのにそう時間はかからなかった。
 
ただ少し、やっぱりほんの少しだけ、今でも真実が気になるのだけれども。
 
 
「―――噂の段階だがな」
 
「え、あ、はい?」
 
「まだ噂の段階だが、荒川は今年度限りでこの学校から去るらしい」
 
「辞めるの?」
 
「年齢的にそれは無いだろうな。 恐らくはただの転勤か、将来を見越した教育委員会への出向か」
 
 
それだけを口にして先を続ける事もせず、また視線を合わせることもしない。
 
久瀬は、無駄な行動や軽口を叩くのが何よりも嫌いな男だった。
 
特に他人の噂話なんかもっての外で、対称的に一般的女子生徒並には他人の恋の噂が好きな沙紀は、よく仕事中に怒られたりしたものだった。
 
そんな久瀬が唐突に口に出した、荒川教諭の人事移動に関する噂話。
 
普通の生徒なら『荒川繋がりで話したんだな』と読み取る所をしかし、沙紀は決して読み違えなかった。
 
今までの会話の本懐は、荒川ではなく桐塚。
 
確かに荒川の動向も第一級の情報ではあるが、久瀬がそれを言うにはタイミングがあまりに稚拙。
 
だとすれば久瀬が言わんとしている事は、荒川の移動によって桐塚に起こり得る何らかの余波の事だと思うのが妥当だった。
 
そう、例えば
 
 
「……生徒指導部のパワーバランスが崩壊する?」
 
「正確には『させようとしている』、だろうがな」
 
 
学園内の生徒指導部には、大きく分けて校外指導部と校内指導部がある。
 
それぞれ字面の通り、校外指導部は学園外の生徒指導、校内指導部は学園内の生徒指導を担当している。
 
例えば商店街で生徒が事件を起こしたとなればそれは校外指導部の管轄となり、逆に学園内の事件であれば校内指導部が機能する。
 
そして二大指導部の最大の特性が、双方の管轄における事件に対して下された処罰への徹底した不干渉だった。
 
表向きの理由は『同様の事件でも内部と外部では著しい処遇の差が生じるので、正確な判断に支障を来すのを避ける為』となっている。
 
確かに学園内であれば如何様にも揉み消せる生徒間の争いですら、校外で起こってしまえば一種の障害事件足り得る。
 
そう云った際に互いの管轄の判例を持ち出しては切りが無いと言う事で、ある時機を境に両者の間には不介入の原則が組まれているのであった。
 
無論、『表向きの理由は』だったが。
 
では裏の、本当の理由とは何か。
 
それは陳腐に言ってしまえば、権力集中の阻止だった。
 
生徒の処遇を事の内外を問わず一手に担う組織が存在すれば、おのずと学園内の権力はそこに集中する。
 
そして権力が集中すれば、如何なる専横ですら咎めだてる手段が存在しなくなるものであった。
 
立法、司法、行政は互いに独立しているべきである。
 
勝手に作られた法律を勝手に施行されて勝手に裁かれたのでは、学園生活も何もあったものではない。
 
三権分立の縮図がそのまま学園に適応されている訳ではないが、基本的な考えとしては民主主義のソレと何ら変わるものではなかった。
 
だが。
 
 
「生徒指導部二分化制度は、元々は我々が提案したものだからな。 桐塚がそれを鬱陶しく思っていたとしても何の不思議も無いだろう」
 
 
『学校』と云う閉鎖された空間において、教師とは言わば『君主』である。
 
法を敷き、民を指揮し、場を仕切る。
 
私立校であればその権限は、時に男女関係のようなプライベートな空間にすら入り込むほど強力な物になり得た。
 
もっともそれは経営の基盤足る生徒数の確保を大前提として、つまりは保護者の理解を得られればの話なのだが。
 
だが逆に言えば、保護者の同意さえ得られれば、教師側の作るルールに際限などは存在しない事になるのだった。
 
平成の世になって久しい現在ですら、新入学生の髪形を坊主に指定している学校が存在する。
 
そしてその法が受け入れられている現実がある。
 
『伝統』と云う名のバックが付いている事を差し引いても、教師の権力が相当な物である事は疑い様が無いのだった。
 
 
しかしそう考えると、指導部二分化制度がいかに不可解な代物であるかが浮き彫りになってくるだろう。
 
何故ならば、教師側には指導部を分け隔てる必要が欠片も存在しないのだから。
 
組織の弱体化すら危惧される権力二分化を、権力を保持している側の人間が率先して行なう理由。
 
そんなものは、普通に考えれば何処にも存在しないはずだった。
 
普通に、考えればだが。
 
 
「アレは……大仕事だったよね」
 
「……ああ」
 
 
沙紀の呟きに、久瀬はただ薄く笑みを浮かべ、小さく頷いた。
 
そう、この仕業こそが『最強』の名を欲しいが侭にした第壱参代生徒執行部会の、学園史に名を残す最大の所業だった。
 
作戦秘匿名-『S2/』
 
正式名称-学園生徒指導部二分化計画。
 
この計画の前では、対外的な表の理由に対する裏の理由ですら、真の『表』に届かぬ浅墓な物でしかなかった。
 
生徒主権を明確にする為に、教師の横暴を許さぬ為に、次の、そのまた更に次の世代の為に。
 
我等は構わない、何故なら我等は最強だから。
 
教師側が一枚岩と化そうとも、対等に渡り合えるだけの力が我等にはある。
 
だが、次代はどうか。
 
ちゃんと育ててきた自負はあるが、いざ親元を離れた雛鳥はその翼を限界まで広げられるのか。
 
更に次の世代はどうか。
 
そこまで行けば我等にはもう、何をしてやる事も出来ない。
 
ただでさえ踏まれた麦は強く伸びる。
 
教師側がいつまでも伏しているとは限らないのだ。
 
だからこそ今、最強の力を持つ我々が、やっておかねばならない事がある。
 
そうして彼等は動き出し、晩冬からの僅か二ヶ月あまりと云う短時間で、体制と云う大きな壁に風穴をぶち空ける事に成功したのだった。
 
そしてその契機となったのが言うまでもない、睦月事件である。
 
 
川澄舞の起こした様々な騒動は、その処分を決定する段階においても学園内に大きな波紋を呼び起こした。
 
退学を強行に支持したのが桐塚教務主任率いる、現在では校外指導部に就いている桐塚派。
 
自宅謹慎処分に留めておく事を主張したのが荒川指導部長率いる、現在の学内生徒指導部である荒川派。
 
容疑が固まるまで処分を下すのは妥当ではないと川澄舞を強力に庇ったのが、生徒執行部会。
 
舞踏会での事件以降は容疑が確定した為に生徒会も舞を庇う事ができず、荒川派も行き過ぎた舞の凶行に為す術がなかった。
 
だがそれ以前までの各派閥の主張は、まさに現在の学内を象徴するかのような三者三様ぶりであった。
 
そこに目を付けた久瀬は、前々より暖めてあった『学園生徒指導部二分化計画』を実行に移す。
 
読みは的中し、互いに互いを疎ましく思っていた教師陣営はあっさりと両断、相互不可侵の条約を締結した。
 
しかし徒に相互不可侵条約を締結したのみでは、完全ではない。
 
そこに必要とされたのが、両部署の議決の妥当性を問う査問機関の存在だった。
 
相互不可侵とは言い換えてしまえば、相手の管轄における如何なる不条理をも糾弾できないと云う事に他ならない。
 
何処からも歯止めの掛からなくなった機関が暴走する事など、歴史を紐解くまでもなく予見し得る事態でしかなかった。
 
査問機関は、必要不可欠。
 
だが互いの指導部は不可侵条約を締結しているため、任を受ける事はできない。
 
そこで満を持して登場するのが、彼等こと生徒会執行部だった。
 
学園の内外を問わず、事の大小を問わず。
 
全ての教師側が行なう生徒指導に対し、正当な権利を持って異議を唱える事の出来る立場を生徒会が獲得する。
 
そしてそれこそが、この計画の最終目的であった。
 
権力集中の阻止などは、所詮副産物に過ぎない。
 
久瀬率いる執行部の算段に関する限り、裏の裏とは決して表ではない。
 
恐らく桐塚は事後に後悔したのだろうが、正式に調印された条約を一方的に破棄する事は侭ならず、歯噛みしていると思われるのが現状だった。
 
元より荒川派の吸収をこそ目論めど、力が二分されてしまうのは桐塚の求める所ではなかったはず。
 
執行部の台頭などもってのほか。
 
それを念頭において物事を組みたてていけば、ここ最近に頻発していると云う桐塚派の行き過ぎた動きの理由も容易に想像がつくものだった。
 
 
「桐塚が目論んでいるのは、言わば王政復古。 奴は学園における主権を、今一度その手中に収めようとしているのだろう」
 
 
荒川の移動を機に再び指導部を一枚岩とし、『教師側』としての権力を一箇所に集中させる。
 
その上で生徒会執行部をも叩き潰し、完全な専制君主制を学園に敷く。
 
それが、久瀬の予想した桐塚の計画している王政復古の全容だった。
 
職員室内の分類のみで言えば『穏健派』とも呼べる荒川派に属している教師は、皆一様に押しに弱いと聞く。
 
対する意味で『過激派』と称される桐塚派の画策が彼等に叩きつけられた場合、毅然とした態度で跳ね除けられる者が果たして何人いるだろうか。
 
きっとその数は、指導部併合を謳う輩の半分も存在しないだろう。
 
だがそれよりも。
 
気付いているか、橘夾碁。
 
桐塚が動きを始めた夏休み前と云う時機が、何を示しているのかを。
 
それは恐らく、夏季休暇中の生徒の動向が目に余ったからではない。
 
荒川移動の情報を手に入れたからでもない。
 
気付いているのか、第壱四代生徒会長。
 
桐塚は、お前に襷が渡されるのを待っていたのだ。
 
橘夾碁が統率する生徒執行部会など組み伏すに易しと、夏より今この時も嘲笑っているのだ。
 
随分と見縊られたものだな、橘。
 
 
「……だがな、判っているとは思うが、沙紀。 これは私達の戦いではないぞ」
 
「うっ……」
 
 
ぎくっ、と擬音が出そうなほど肩を揺らし、そーっと久瀬の顔を盗み見る沙紀。
 
しかしそこで久瀬の呆れ果てたような視線とぶつかり合ってしまい、そうなってしまえば後は判り易かった。
 
 
「だ、だってー」
 
「橘を信用しろと主張していたのはお前じゃなかったか?」
 
「そ、それはそうですけども……」
 
「いい加減に子離れをしろ。 過保護にも程がある」
 
「……でも」
 
 
なんだまだ言う事があるのか。
 
いかにもそう言いたげな溜息を一つ吐き、久瀬はその場に立ち止まった。
 
対する沙紀は二言三言を口の中で言い淀み、やっと口に出せた言葉すらひどく情けない響きを纏っていた。
 
勢いで相手を納得させる事も出来なければ論理的な骨組すら為されていない、その呟き。
 
しかし幾許かでも同じ感情を抱いているはずの久瀬に対してだけは、何よりも強い説得力を持っていた。
 
 
「アレは……『私達』が頑張った証だもん…」
 
 
アレ、即ち生徒指導部二分化計画。
 
私達、即ち第壱参代生徒執行部会。
 
今となっては『元』が上に乗ってしまうけれど、別に下の代を軽んじたり疎外してる訳じゃないけど。
 
それでもやっぱり、私達は私達だから。
 
譲れない、譲りたくない、私達は確かに何かを残してきたんだって誇りたい。
 
目に見える物が全てじゃないって偉そうに言う人もいるけど、全てが目に見えない物ばかりなんて寂しすぎる。
 
 
「……感情論だって判ってる。 子供みたいな事言ってごめん」
 
 
これだから、沙紀には気付かせたくなかったのだ。
 
すっかり肩を落としてしまった古い相棒の姿に、久瀬はやり場のない憤りを感じていた。
 
生徒が桐塚に反感を持っている事は何も不思議な事ではない、何故なら奴は生徒指導部の人間だ。
 
誰しもがそうであるように、叱責ばかりに任を置く人間を皆が嫌うのは当然の事だろう。
 
ならば今回の疑惑すら、『桐塚だから』で済ましておけばよかったのだ。
 
裏に見え隠れする桐塚の思惑など、知らぬ存ぜぬで通せばよかった。
 
気付きさえしなければ、沙紀、お前は何事も無かったかのように今も笑っていられたのだ。
 
だから久瀬は嘘を吐いた。
 
暴かれると判った上で嘘を吐いた。
 
その真意は、遂に汲んでもらえる事は無かったが。
 
 
「全ては臆測に過ぎん。 相沢が呼び出された理由もまだ定かではないし、過去に桐塚宛ての苦情を出した生徒の実情も不明だ」
 
「そう、だね…」
 
「今も私を会長だと思っていてくれるのであれば、これは命令だ。 沙紀。 これ以降、橘に手を貸す事は許さん」
 
「な、なんでっ?」
 
「説明の必要は無い。 同様に、お前がこの命に従う必要も無い」
 
 
端的に言い放つ久瀬の態度には、どこか刃物のような雰囲気が感じられた。
 
触れる事は許されない、触れるのであれば身を裂かれる事を覚悟しなくてはならない白刃。
 
そこには確かに、『あの頃』に戻った久瀬がいた。
 
そして同時に、『あの頃』に戻り切れない久瀬がいた。
 
命令なら命令として言語道断に押しつければいい、どんな無理難題だって昔は日常茶飯事だった。
 
説明不要もいつもの事だった、理由を察する事の出来ない無能は生徒会に必要無かったから。
 
でも今の久瀬はそこに、逃げ場を残した。
 
反論で切り裂かれる前に、自分から一歩身を引いたのだった。
 
『命令に従う謂れは無い』と、もしもそんな事を言われたらと怯えたのか。
 
理不尽に過ぎる命令を下す自分に、幾許かの嫌悪を抱いたのか。
 
眼前に立つ久瀬の表情からは何も読み取れなかったが、沙紀は勝手に前者だと判断する事にした。
 
そして、自分がそう判断したからには絶対に間違っていないと云う自信があった。
 
 
久瀬君は今、ほんの僅かにだけれども怯えている。
 
多分だけどきっと、それはさっきの私の所為だね。
 
会長室で、橘君の前で、久瀬君が最も呼んでほしかったんだろうタイミングで。
 
私はキミを、『会長』って呼んであげる事が出来なかった。
 
頭のいい久瀬君の事だから、私があの場で不自然なほど『会長』って言葉を避けていた事には気付いたはず。
 
私も、久瀬君が私の思考を察するだろうなって事には気付いてた。
 
だけどそれがこんなにもキミを不安にさせていただなんて、私は気付けなかった。
 
”あの”久瀬君が、私に見破られるくらいの弱さを見せるほど不安になっていただなんて。
 
ごめんね、久瀬君。
 
ううん―――
 
 
「承知しました、会長」
 
「……そうか」
 
 
軽く吹き抜ける吐息。
 
柔らかい微笑み。
 
薄い冬の朝日に白く包まれて、慌ただしい朝の雰囲気の中で音も無く。
 
久瀬は今、誰に見せた事もないであろう無防備な表情を曝け出していた。
 
 
朝のSHR開始を告げる本鈴が、静かに時を知らせていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第十八幕 『壊の序曲』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教室には未だ鉛の如く重たい沈黙が蔓延し、場を制圧していた。
 
祐一が教室を飛び出し、名雪がその後を追い、気付けば転入生までが教室から消えていて。
 
それから暫しの後に祐一が『大至急』で呼ばれ、傍目にも見て取れるほど蒼白な顔をした名雪が教室に戻ってきて。
 
それでも尚、教室内部の空気は一片たりとも動きを取り戻したりはしなかった。
 
まるで細い綱の上に取り残されてしまった、臆病な道化の様に。
 
動く事と『何か』の破壊が今の教室では同義である事を直感で感じたのか、彼等はひたすらに身体を固くして時が過ぎるのを待っていた。
 
時が過ぎ、忘却さえ訪れれば、贖罪を為さずとも己の罪も消えるだろう。
 
なあなあで済ませてしまえば蟠りもいずれ消えるだろう。
 
あまりにも身勝手な思惑が見て取れるその様相に、香里は酷い嫌悪感を覚えた。
 
何もその場にいた全員を嫌った訳じゃない。
 
その人を構成する全てを嫌った訳でもない。
 
事が一過してまた普段通りの日常に戻れば、彼等と何気なく談笑する事は易とも簡単だろう。
 
それでも今この一瞬、確かに香里は、目の前にいる顔見知り達を酷く嫌悪した。
 
 
「……こりゃまた派手にやってくれたな」
 
 
沈黙を破る、と云う表現がこれほどまでに似合わない男も珍しいだろう。
 
気が付けば既に北川は動き始めていて、その唇からは言葉が紡がれていた。
 
てくてくと蹴り飛ばされた机の所まで歩き、「よっ」と小さな声を吐きながら横倒しになっていたそれを拾い上げる。
 
あまりにも『普通』に過ぎる彼の仕草に、凝り固まっていた教室内の空気が一瞬だけ元に戻った。
 
ざわざわと声にもならない呟きがあちこちに産まれ、それは次第に収束を迎えて一つの言葉になる。
 
 
「ま、まったくだよなぁ。 何も机を蹴らなくたって―――」
 
 
動き出してしまえばそれはまた普段通りの日常になるだろうとの、楽観的思考からか。
 
それとも、今再びの重圧に怯えたが故か。
 
半ば無理矢理に押し出されたかのような声は、場違いな程に明るく教室内に響き渡った。
 
だが。
 
 
「はぁ? 何言ってんだお前」
 
「え、いや、だから―――」
 
「俺はお前等に向かって言ったんだよ。 派手にやってくれやがって、てな」
 
 
低く、暗く、黒く、鋭く。
 
怒りの色に深く淀んだ北川の声は、その場に居た者全ての心の臓を握り潰した。
 
今までにこんな彼を見た事のある者は、少なくともこの教室の中には居ない。
 
多少は北川と交流のあった男子生徒は勿論、親友であるはずの名雪や香里までもが驚きに目を丸くしていた。
 
だがそれも、無理のない事だった。
 
普段の北川は、前者に対しては集団としての協調を保つために自らを『空気』に仕立て上げているのが常である。
 
そして親友二人に対してはそれ以上に、自らの内奥に宿る炎を見せないようにしてきたのだった。
 
人が人として他人の中で生きていく時、『怒り』の感情は少なければ少ないほど良い。
 
それは怒りを抱く側としても、そして怒りを向けられる側としても変わらない事実だった。
 
笑顔がいい、のんびりした雰囲気がいい、一緒に居るとまったりできる人がいい。
 
諍いを平静以上に好む偏った性格をしていない限り、『人』が『人』にそれを求めるのはある種当たり前の事だった。
 
だから北川は、いつだって『空気』でいた。
 
『空気』で居れば誰に疎まれる事も無く、面倒な争い事に巻き込まれる事も無く。
 
何よりも、『彼女』に嫌われる事が無いだろうから。
 
 
そう云った点では流石の美坂も『まだ』読み違えているなと、北川はうっすらと思った。
 
俺が隠してる狂気も、そしてそれ以上にひた隠している気持ちも。
 
意図的に僅かに匂わせている部分を読む事で、美坂は其処が俺の『底』だと思ってる。
 
他人の情動を深く鋭く読める美坂だからこそ、あえて一定ラインを読ませる事でそれ以上の侵食を防ぐ事ができる。
 
勿論それを意図的に読ませてるところまで気付かれたら終わりなんだが、幸か不幸か、どうやら俺は嘘を吐くのが得意らしい。
 
だけど、だからこそ逆にこの手は水瀬には使えないんだよなと、北川は心の中だけで苦笑した。
 
水瀬は、他人の見せる『表面』とか『欺き』とかに凄く弱い。
 
すぐにころっと騙されてしまう。
 
だけどその分だけ、時に問答無用で『底』を見抜いたりする。
 
単純に言ってしまえば、良くも悪くもイイコなんだよな。
 
自分は凄く傷付き易いくせに、他人を傷付けようとは絶対にしない。
 
自分は凄く騙され易いくせに、他人を欺こうだなんて考えもつかないらしい。
 
そんな水瀬だからこそ、俺も美坂も殆ど無条件で親友を続けているんだろう。
 
そしてこれからもずっと続けていきたいと、少なくとも俺はそう思っているんだろう。
 
のんびりはにゃーんと笑っていてほしい、すぴーすぴーと何の悩みもなく転寝していてほしい、大好きなネコの事を夢見る瞳で語っていてほしい。
 
百花屋に行こうって俺達を誘う時の弾む声、イチゴサンデーをぱくついている時の幸せそうな表情、眠気を堪えて頑張ってる授業中の横顔。
 
何だかんだ言ったって、結局は俺は水瀬の事が大好きなんだよな。
 
この感情にはきっと名前なんか無く、この先何かに昇華したりする事も無く、ましてや恋でも愛でもないけれど。
 
俺は、水瀬の笑顔が大好きだから。
 
 
「二度とふざけた噂話なんかしてみろ……その時は―――」
 
 
もしももう一度、水瀬を追い詰めるような真似をしやがったら―――
 
 
「―――その時は、相沢より先に俺が切れるからな」
 
 
あくまで淡々と、抑揚無く。
 
さながら呟くかのように発せられた北川の声には、それでも隠し切れない圧倒的な敵意が付加されていた。
 
表面的には穏やかに見えるからこそ、内包された怒りの密度が外観から覗えない。
 
常より『情報』を糧として他人との距離を測って生きている彼等には、今の北川はただそれだけでも恐怖の対象足り得る存在だった。
 
今の北川は怒りを覚えている、それは確かである。
 
ただその深さを推し量る事だけが、何をどうしてもできそうにない。
 
思いを走らせてみればそれも当然の事で、彼等は今までにただの一度だって北川の、『本当』の表情を見た事がなかったのだった。
 
いつもヘラヘラしていた。
 
誰かを不快にさせる事もなかった。
 
どんなジャンルの話題を振っても即座に反応してくれたし、自分からヘンテコな事を言い出して皆を笑わせてくれる事もあった。
 
だけど振り返ってみればいつだって、北川は『線』の向こう側から笑っていた。
 
それは拒絶とか警戒とかの強い意味合いなんかじゃなく、単純に言えば北川なりの他人への思い遣りだったのだけれども。
 
明確な理由など無くとも、他人を思い遣る為に己を隠そうと決めた。
 
その思いは、明確な理由が無いからこそ強く固められたものだった。
 
そして今、この一瞬。
 
『底』を隠し続けた代償として、北川の心情は誰にも理解される事は無かった。
 
皆は北川の怒りを、『相沢を護る為』のものだと捉え違えていた。
 
親友の相沢を無責任に揶揄する噂が許せなかったから、北川は怒ったのだと。
 
教室の現状と北川の発言から推察すれば、その結論に達するのは決して愚かな思考ではない。
 
だが、賢いとも言い難かった。
 
このミスリードが後々どのような結果を齎すのか、そもそも皆の捉え違い自体が北川の巡らせた思惑の範疇なのか。
 
謀りか導きかすら定かならない現状を把握し切る事のできる人材など、聡明と噂高い美坂香里を含め、この教室内には一人も存在しなかった。
 
教室の中には、ただの一人も存在しなかった。
 
 
「……リアルな中学生日記は終わったみたいだね」
 
「どうせまた相沢絡みなのだろうが……まったく、迷惑極まりない」
 
 
廊下に佇む賢者は眉間に皺を寄せながら腕を組み、現状を憂ながら深遠なる溜息を吐いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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高所恐怖症のくせに何かあると決まって屋上に足を運んでしまう俺は、ひょっとしたら本能レベルでのお馬鹿さんなんじゃないだろうか。
 
桐塚との対峙で妙にささくれ立った心を落ち着けるために足を運んだ屋上で、俺は一人そんな事を思いながら佇んでいた。
 
馬鹿だから後先を考えずに机を蹴り飛ばした。
 
馬鹿だから、感情を抑えきれなかった。
 
その場凌ぎで奴等を黙らせたって何の解決にもならない、そんな事は判り切ってるはずのに。
 
判り切っていた、はずなのに。
 
過去の行ないに反省も学習もせず幾度幾度も同じ過ちを繰り返す者を、人は馬鹿と呼ぶ。
 
成る程確かにその定義に拠れば、今の俺は世界でもトップクラスの馬鹿と認定される事だろう。
 
重ねた過ちなど数知れず、煙同様に高い所をやたらと好み、全ての岐路の前で答えを間違い続ける愚か者が此処に居る。
 
だがそれならば、誰か教えてくれ。
 
野卑な妄想と好奇の眼差しに淀んだあの教室では、一体何が『正解』だったと云うのだろうか。
 
そもそも正解など、本当に存在していたのだろうか。
 
奴等は『過去』と『今』とを同時に蹂躪するような身勝手な妄想を口にし、俺達が手に入れかけた小さな『世界』すら破壊した。
 
『あの日』からずっとずっと欲しくてたまらなかった物を、汚したのだ。
 
 
唯と過ごしたあの日々。
 
三人だった幸せ。
 
『ふたり』に戻ってしまった夏の日。
 
互いに『ひとり』になった冬の日。
 
雪の降る町で俺が手に入れた大切なもの。
 
雪の降らない街で桜が背負ってしまった哀しいもの。
 
全て理解できる訳じゃないけど、ゆっくり分かち合っていこうと思った。
 
全てが癒される訳じゃないけど、それでも寄り添っていこうと思った。
 
季節と距離とを越えてようやく『ふたり』に戻れた夜に、何も不安なんか抱いていなかったはずなのに。
 
 
どうして俺は今、『ひとり』なんだろうか。
 
どうして俺達は、繋いでいた手を離さなければならなかったのだろうか。
 
 
まだ白さの残る朝の教室で、灼熱が身体を乗っ取る直前の事を思い出す。
 
もう今となっては誰の物だか完全に判らない声を耳にして、怒りに視界が暗転して。
 
だけどその前に一瞬だけ、俺は桜の横顔を見たんだ。
 
俺にとって触れられたくない事は、桜にとっても同様に触れられたくない事になる。
 
一心同体なんて大層な言葉を使うまでもなく、俺にはそれが判っていた。
 
何故なら俺達は、過去にも同様の眼差しに射貫かれた事があったから。
 
目の前に存在する全ての人間が俺達を『チガウモノ』として蔑む、あの温度と云うものを持たない何処か壊れた視線に晒された事があったから。
 
だから余計に、桜の事が気になったのだ。
 
もう麻痺したと思っていた俺の感覚ですら、『排斥』を内包した視線に穿たれた瞬間には痛みを覚えた。
 
拒絶される事には既に馴れきったと思っていた俺ですら、それは確かに痛かったのだ。
 
だけど。
 
いや、『だからこそ』だろうか。
 
痛みを覚えた次の瞬間に思った事は、もう既に自分の事なんかじゃなかった。
 
こんな痛みを、桜にだけは受けさせたくないと思った。
 
今だ滴々(したした)と血を滲ませ続ける痕を、更に抉るような結果にだけはならないでほしいと。
 
できる事ならこの教室も桜にとっての『居場所』になってくれれば良いと。
 
そう願って視線を向けた先にあった桜の表情を見て。
 
俺は、怒りに我を忘れた。
 
 
哀しみに瞳を濡らすでもなく、怒りに唇を噛むでもなく、苦痛に眉を顰めるのでもなく。
 
そこには、ただただ怯えだけが内在する蒼白な面持ちがあった。
 
故無く自分を責める眼差しに怯え、ある筈も無い非を自らに探す。
 
俺の抱く痛みとはまるで違う畏れを眼差しに抱くその様子は、俺に想像したくもない『ある事』を連想させた。
 
『存在の否定』を意味する冷たい視線に対して桜が抱いている、暴力的なまでの既視感【デジャヴ】とそれに付随する本能的な恐怖心。
 
あの時の桜は確かに、眼差しの向こうに『それ』を見止めてしまったのだろう。
 
故も無く桜を嫌い、疎み、要らないとまで言い放ち。
 
桜を、娘を、モノ同然に棄てた者達の双眼を。
 
 
最もしてほしくない妄想で一番大切にしてきた想いを汚され、挙句眼差しにすら未だ痛む心を千々に切り裂かれる。
 
涙を流す事すら忘れて立ち竦む桜を助ける事ができないのであれば、仮に在ったとしてもそんな『正解』、俺は御免だった。
 
間違いでもいいから、桜を護りたかった。
 
だけどあの教室には、初めからどちらも不正解の二択しか存在せず。
 
黙っていても傷付けられ、逃げ出そうとしても背中に傷を負い。
 
跡を濁す事しかできない鳥には、初めから飛ぶ事すら赦されていなかったのだ。
 
その背からは純白の代わりに鮮血を散らし、飛べない翼は徒に折れ、泥炭の中で醜く足掻くのみが唯一の赦された行動。
 
だとすれば誰か、誰でもいい、教えてくれ。
 
俺は一体、何処で選択肢を誤った。
 
何処まで時を逆巻きにすれば、俺達の前に『正解』は訪れる。
 
選ぶ全てが他を傷付けるしかできないのなら、今の俺にできる事なんて―――
 
 
「……結局、俺は『あの頃』から何も成長してなかったって訳か」
 
 
紅に染まる公園で、唯を泣かせたあの日。
 
あれからもう四年も経つと言うのに、未だに俺は同じ所で立ち止まったままだった。
 
何もできない俺が唯一できる事。
 
それはきっと、『何もしない』と云う事に他ならないのだろう。
 
俺が居たからあの教室は、誰も口を開けないような状況に陥った。
 
俺と居たから桜は、無責任な噂と下劣な妄想の矢面に立たされたのだ。
 
一緒にいなければ、声を出さなければ、いっそ俺と云う存在すら消してしまえれば桜は今も笑って―――
 
 
どがしょーん!
 
 
「やっほーい。 なに? サボり?」
 
 
もう殆ど蹴り破るが如き勢いで鉄製のドアを開けて、片手をしゅたっと挙げながら俺の視界に乱入する。
 
思考の螺旋階段をひたすらに降っていた俺を現実に引き戻したのは、そんな桜の声だった。
 
明るく、軽く、暖かく。
 
まるっきり普段と変わらない雰囲気で。
 
十一月の微弱な太陽なんかじゃ太刀打ちできないほどの『陽』は、淀んでいた俺の『陰』を完全に吹き飛ばしてくれていた。
 
後に吹く風はもう、蔭りを帯びてなどいない。
 
ただ少し、言葉を知り過ぎた俺は心情を表すのに真正直になどなれはしなかったが、それも些細な事だと今は思えた。
 
 
「……どんな状況把握のしかたをすればそんな能天気なトーンが出せるんだ、お前は」
 
「状況把握したからこそ、私は『いつも』の私でいる事に決めたの。 文句は?」
 
 
状況把握したからこそ。
 
教室を『あんな』状態で逃げ出した俺が、一人っきりで屋上なんかに居たからこそ。
 
桜は、こうして笑顔を見せてくれているのだと言った。
 
一緒に落ち込むのではなく、無理に感情を理解しようとするのでもなく。
 
だからと言って安易な慰めの言葉で場を取り繕うのでもなく、あくまで桜は『いつも』のままで。
 
傍に居てくれる。
 
笑っていてくれる。
 
お前にだって辛い事ぐらい幾らでもあるだろうに、思い出せる限りではいつも、いつの日も。
 
負の感情に捕らわれて俯けば俯くほどに『それ』は相対的に温かく、そして柔らかに俺を包んでくれていた。
 
 
「……面倒かけるな」
 
「それこそ、いつもの事だよ」
 
 
薄い笑みを浮かべながら事も無げに言い放ち、壁を背にして座り込む。
 
制服が汚れる事を欠片も気にしたりしない仕草があまりに『らしく』、気がつけば俺もその横に座り込んでいた。
 
冷たい風も今は無く、浮かぶ雲にも動きは無い。
 
目を閉じれば世界はただ『此処』にしか存在せず、桜の吐息だけが鼓膜を揺らす唯一の音だった。
 
そしてそれが今は、妙に心地良い。
 
このまま世界が固定されてしまえば良いのにと、俺は本気でそう思った。
 
 
「でさ」
 
「ん?」
 
「一時間目、サボり?」
 
「……少なくとも教室には戻りたくないな」
 
「奇遇だね。 私もだよ」
 
 
目を閉じたままで。
 
俺は、直ぐ隣から聞こえてくる声だけに身を任せた。
 
霜月も暮れのこの季節、じっとしているだけでは屋上は少し寒い。
 
それでも二人は、その場を動かなかった。
 
寄り添えばきっと共有される体温はそのままの意味を越えて温かく俺達を包んでくれるだろうけど。
 
それでも俺は、動く事ができなかった。
 
 
これ以上『あの頃』に心を馳せれば、俺は『此処』には居られなくなる。
 
この町に来てから手に入れた、多くの形無い温かなものを捨てなければなくなる。
 
だからこそ今この時、俺は桜に触れる事を頑なに拒んだのだ。
 
隣りで優しく笑う親友に何もかもを許容されてしまったならば、俺はきっと全てがどうでもよくなってしまう。
 
俺達を傷付けるだけの『教室』なんか捨て去って、このままただ『ふたり』でずっと居られればと、そんな事ばかりを願ってしまうだろう。
 
まるで母親の様に全てを赦す無条件の温かさに甘えるには、今の俺は脆過ぎる。
 
不安定な俺を抱き抱えるには、今の桜は余りに優しすぎるのだ。
 
そして優しすぎるから、甘えてしまいそうになる。
 
隠すのが巧すぎるから、俺はすぐに忘れてしまいそうになるのだ。
 
 
ただでさえ華奢なその身体は、今や様々な理由で傷付けられている事を。
 
 
『他人』と云う鉄格子の外からほんの少しだけ触れる事を許された桜の痕は、傍目から見ただけでは決して判らないくらいの深さを持っている。
 
撫でる程度にしか識る事のできない状況ですら胸を痛めるほどなのだから、桜しか知り得ない『真実』の痛みは推してでも計れる物ではなかった。
 
この上俺の想いまで抱え込んでしまったら、きっと桜は転んでしまうに違いない。
 
抱え切れない重圧に耐え兼ねた親友は、身も心も潰されてしまうに違いなかった。
 
心許無い独りの夜に儚く舞うばかりの小さな雪の欠片ですら温度の消えた部屋の哀しさを声も無く唄う季節の残酷さだと云う事に気付いて。
 
ふと、泣きたくなってしまう―――
 
そんな、本当はお前だって孤独を怖れる普通のか弱い女の娘のはずなのに。
 
それでも桜は、俺を支えようとする。
 
俺の隣りで俺と同じ道を歩もうとするのだ。
 
力尽きて倒れる事すらも、二人でならば笑い話になるとでも言わんばかりに。
 
肩を寄り添わす事すらも今の俺がしてしまったならば、それはきっと『壊』の序曲にしかならないと言うのに。
 
 
全てを投げ出して、想い出に縋り付いて。
 
桜に縋り付いて。
 
きっと桜はそれでも良いと俺を赦してくれるだろう。
 
だけどそれが『今』を否定する事と同義なのであれば、俺はそんなものを求めたくはなかった。
 
捨てなければ手に入れられない物になど、手を伸ばしたくはない。
 
想い出も未来も家族も親友も、全てが同時に存在する事を、俺は欲したのだ。
 
この雪の降る町に俺が求めたのは、崩壊と喪失の境にのみ存在が許された不安定な日常。

混沌の辺縁【エッジ・オブ・カオス】
 
そして今の、この現状こそが、臨界なのだ。
 
懐古が現状を凌駕すれば日常は崩壊し、雪を愛し過ぎれば凍土高原に桜は咲かない。
 
『両方』を求め始めた時から俺の過ちが始まったのだとしたら、それはきっと俺の業なのだろう。
 
あの頃にやっと手に入れた『今』を捨ててまで過去の絆に寄り添うような真似をしたから、今の俺はこうして『両方』の喪失に怯えている。
 
だとしたら、どちらかを捨ててしまえれば楽になれるだろうか。
 
どちらかを切り捨ててしまえれば、俺は楽になれたのだろうか。
 
だけど今の俺には『どちらか』を選ぶ事なんてできやしない。
 
ならばいっそ何もかもを捨てて、この切先から飛び降りてしまえば―――
 
 
「それにしてもさ」
 
「ん?」
 
「こんなんばっかだよね、私たち。 教室が嫌で飛び出してさ、屋上で授業サボって。 だけど悪い事しただなんてこれっぽっちも思ってないの」
 
「……そうだな」
 
「唯がいたら絶対怒ってるよ。 『授業サボるなんてふりょーですっ』、ってさ」
 
「……怒ってるよな、絶対」
 
「でね、多分だけど私達は、それを軽く無視して寝転がったりするんだ。 そんで、『授業受けたいなら勝手に行けば?』みたいな事言うの」
 
「ああ。 でも次の瞬間にはもう唯が涙目になってて、そこで俺達は慌てて飛び起きるんだ。 二人してごめんって言いながら頭撫でるんだ」
 
「判るよ……すごくよく判る。 あはは、目に浮かぶってこの事かな」
 
 
桜が笑う。
 
ほんのりのほほんと笑う。
 
触れられるくらい傍にいて、俺の存在を『此処』に繋ぎ止めてくれる。
 
『今』と『昔』の両方に立ち、あの日の屋上と同じように、その存在の全てでもって。
 
 
だから、そんな事できやしないって、初めから判っていた。
 
手を離す事も、忘れる事も、最初からできるはずがなかったんだ。
 
何故ならこれは、如何しようも無いくらいの現実だから。
 
どれ一つとして手放す事のできない大切な欠片を拾い集めて、今の俺が存在しているのだから。
 
出会わなければ良かっただなんて、絶対に思わない。
 
紡がれなければ良かった想いなんて、ただの一つも在りはしないのだ。
 
 
リセットもデータクリアも存在しない、ただただ蓄積を繰り返しながら進む愚かな記憶回路を詰めこんだ身体で過ごす日常。
 
時には大切な人を失いながら、辛い記憶だけがいつまでも心を苛むけど。
 
それでも、楽しい時間は確かにあったから。
 
今でも俺は、あいつのカケラを持っているから。
 
握り締めたあいつのカケラと共に歩く日々の中で、ふとした時に感じる『もう一人』のココロ。
 
「あいつならきっと」って想う度に幾度も気付かされる、俺の中に息衝いた小さな灯り。
 
だから俺は、歩き続けるしかないんだ。
 
正直に言ってしまえば、辛い事の方が多い。
 
泣きたくなった事なんて一度や二度じゃ済まない。
 
死のうとした事だってある。
 
それでもなんとか生きていこうって思えるのは。
 
生きていたいと思えるのは。
 
 
「一緒にいるね、私達。 今でもやっぱり『三人』だ」
 
 
俺は、全てを亡くしてしまうのが怖いんだ。
 
唯の存在が此の世から完全に消えてしまう事が、如何しようもなく怖いんだ。
 
今でもやっぱりあいつの事が好きだから、どんなカタチでもそれを感じていたいから。
 
誰に願えば良いのかも判らないけれど、この想いがいつか叶うのならば。
 
どうかこの胸に抱いた小さな灯りが、いつまでも途切れてしまわない様に。
 
 
いつか俺は祐弥さんに問われた。
 
『変われずに居るのか、変わらずに居るのか』
 
あの時の俺には、その問いに対する答えが見つからなかった。
 
ただ曖昧な答えとして、『今』の自分の存在意義を『誰か』に託した。
 
変わったとしても変わらずにいたとしても、傍に居る誰かが俺を赦してくれれば、と。
 
だけどそれは問いに対する本質的な答えではなく、見えない振りをしていた『それ』はふとした時に鎌首を擡げてくる。
 
そして俺は今もその問いに対して、明確な答えを持ち合わせてはいなかった。
 
あの日の夜、俺は佐祐理さんに向かって『変わった俺』を必要としてくれる人がいれば嬉しいと言った。
 
だが今は、『変わらない俺』が桜と共に居られる事を喜びと感じている。
 
そのどちらかに優劣を付けられる筈など勿論無く、それ以前にどちらの俺も自分が望んで手に入れた姿ではない訳で。
 
いつかどちらかを選ばなくてはならない日が来たら、俺は一体どうするのだろうか。
 
問いに対する答えは今日も溜息となり、大気を軽く揺らしただけだった。
 
 
一時間目の開始を告げる本鈴が、緩やかに俺達を『世界』から隔離した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued……