授業の開始を知らせる本鈴が鳴り響いた瞬間からおよそ小一時間に渡って繰り広げられる、授業と云う名の束縛タイム。
 
学校と云う閉鎖された空間は、一種の『異界』としてそこに存在する事が許されていた。
 
街中であれば取るに足らないイチ中年の存在ですら、その只中では看守にもなるし執行人にもなる。
 
有り体に言ってしまえば学校を包む『空気』自体がその瞬間に変質を遂げるのだが、それを感じる事のできる人間はあまりにも少なかった。
 
例えば本鈴が鳴っても教師が来るまでの時間をめいっぱい遊び倒す生徒はそれを知らないだろうし、挨拶寸前まで寝ている生徒も同様である。
 
それほどまでに『空気』とは、只中に居る人間にとっては完璧な『空気』であり得るのであった。
 
そこに在るのが当たり前であり、その中に自分が居るのも当たり前。
 
変質に気付く為には只中に居て変質以前の『それ』を知っておかなければならないのに、只中に埋もれてしまえば感覚はどこまでも鈍磨になる。
 
ある一部分において完全な二律背反を示すこの構図から逸脱するためには、対象自体が『普通』のカテゴリから逸脱する必要があった。
 
それは即ち、所属を学校に置きながらも心を其処に置く事ができない者の事である。
 
学校に居ながらも、教室に居ながらも、心の奥底をその場に委ねる事ができない者。
 
空気を食みながらもそこに客観性を残さないと生きていけないほど臆病な彼等は、その代償として変質の合間を知る事ができるのだった。
 
ただ、それが幸福であるか不幸であるかを決める根拠は、どこにも存在しない。
 
唯一の根拠は本人の感情でしかないし、その感情ですら朝と夕とでは違う事など珍しくもなかった。
 
『今』と云う一瞬においてそれが幸福だと思われれば幸福なのだろうし、そうでないとしたら不幸なのだろう。
 
その不定さこそが人間なのだと一蹴してしまえば事は簡単なのだろうが、定型の答えでは満足できないのもまた人間の常であった。
 
結果としてはやはり『曖昧』こそが全てに安寧を齎すのだと何やら悟りきった答えがぼんやりと思い浮かぶまでに、祐一の頭脳でおよそ五分。
 
勿論その五分がこれ以上なく無駄な時間だった事に祐一は気付いておらず、気がつけば授業開始から早くも七分が経過しようとしていた。
 
 
「チャイム、鳴ったね」
 
「……ああ、鳴ったな」
 
 
学生である俺達がチャイムを無視すると云う行為は、学校と云う名の『世界』から完全に離脱する事を意味している。
 
未だ自分の足で立つ事すら出来ない俺達が『世界』を裏切ると云う事は、暗黙の内に自らの存在すらも否定する行為と繋がりかねなかった。
 
少なくとも教室に居れば、自分が何者であるかの判断を他人に委ねる事ができる。
 
教師に名前を呼ばれては自分の存在を確認し、難しい問題を解いては達成感を味わい、友達の輪の中で笑っては自己肯定感を得られるのだ。
 
そして『学生』である俺達にはそれ以外の選択肢が存在せず、故に『学校』を拒むことは即座に自己否定にも繋がる。
 
何かそれ以外に縋れるモノがあれば苦労なんかしないのだろうけども、そんな事ができるなら俺たちは最初から『学校』を拒んだりはしなかった。
 
縋れるモノ、誇れるモノ、例えばそれが在るだけで自分の存在を世界に赦してもらえそうな何か。
 
誰にも疎まれない自分。
 
穏やかに流れる日々。
 
それが欲しくて学校に通い、それが無いから学校を逃げだし。

そうして俺達は今、こうやって屋上に『避難』しているのだった。
 
戻れない、戻りたくない、俺達を疎むだけの教室になんか。
 
それがただの逃避だと云う事に気付いていながらも、俺達はその場を離れなかった。
 
たとえ二人が教室に戻らない事が更なる状況の悪化を招いたとしても。
 
今の俺は既に、『教室』を捨てる覚悟ができているのだから。
 
 
大切にしていたモノが次々と壊れ逝く焦燥を胸に覚えながら、俺はある事を確信していた。
 
恐らくはもう二度と、今まで通りの学校生活を送る事はできないのだろうと。
 
大好きだったあの季節には、もう戻れないのだろうと云う事を。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第十九幕 『恋でも愛でもないけれど』


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ん? 相沢が居ないな。 水瀬、相沢が何処に行ったのか知らないか?」
 
「……いいえ、知りません」
 
 
まるで糸の切れた人形の様に、ぽつりと呟きだけを零す。
 
常ならぬその様子から敏感に事態を察知した石橋は、それ以上の言及を避けてただ一言「そうか」とだけ残した。
 
祐一が登校している事だけは職員室の一悶着で確認していたが、いざ教室に戻ってみればその本人がどこにもいない。
 
下手に桐塚との舌戦を多数の教師に目撃されているだけに、初めから登校していなかったと云う言い訳も効きそうになかった。
 
勿論その言い訳とは、石橋に対して行われるものではない。
 
むしろ石橋以外の全教師に対して行われるものであって、彼は逆に『共犯者』としての視点で物事を把握していこうとしているのであった。
 
 
最初から学校に来ていなかったと云う事にさえすれば、その後の詐称など担任である石橋の一存でどうにでもなる。
 
しかし一度教師にその姿を見られてからの脱走となると、これはもうれっきとしたサボタージュ以外の何物でもなかった。
 
ただでさえ桐塚率いる校外指導部の動きが不穏なこの時期に、更に自らを窮地に追い込むかのようなこの行動。
 
たとえそれが誰かを護る為の行動だったにしろ、あまりに直情的で誉められたものではないなと、石橋は出欠簿の陰でそう思った。
 
 
もっと利口なやり方は他にいくらでも存在する。
 
バカではあるが愚かではないアイツの事だ、考えればリスクの少ない抜け出し方など腐るほど考えついただろうに。
 
飢えたハイエナに活きの良いエサを与えて。
 
降り掛かる火の粉に対してガソリンを噴霧して。
 
現状を悪化させるだけ悪化させておいてそれでも『誰かを護りたい』などとほざくくせに、現状打破の一手は未だ指されていない。
 
 
まったくもって頭の悪い事だと、石橋は深い溜息を吐かざるをえなかった。

共犯者の視点で捉えようとする祐一の行動は、どれもこれもが非効率的に過ぎる。
 
だがしかし石橋は、その一連の動きに対し何やら満足気なものを感じている自分がいる事も否定できなかった。
 
不器用な生き方しか出来ないのだろう、何故なら奴は上に『超』が付くほど不器用だ。
 
何より相沢が損得勘定だけで動けるような利口な奴であれば、そもそも昨冬の騒ぎは一つだって起こってはいなかった。
 
であれば今現在の状況すら根底から覆される訳で、しかし現実にこの世界は間違い無く『今』のまま未来へと進んでいる。
 
つまりは相沢祐一が相沢祐一である以上、『今日』と云う日が来る事は決して避けられない運命だったのだ。
 
 
『今日』が来る。
 
予め決定されていた『今日』が消化されると同時に、過去には記録としての『昨日』が、未来には道としての『明日』が形成される。
 
そのどちらもが『今日』と云う限定された時間に引き起こされた事象の『結果』でありながら、人はそこに全く真逆のイメージを付加させた。
 
『昨日』は既に起こった事象の記憶/記録に過ぎない。
 
故に、不変性が価値として付加される。
 
『明日』は未だ訪れていないと云うただそれだけで、可能性や希望と云った価値を付加される。
 
不変性、可能性。
 
全く異質の二つの価値。
 
縋るべき価値観すら自作自演だと云うのだから、人間と云うのも存外に処置無しである。
 
『明日』に希望を抱きたければ『今日』を変えるしかない。
 
しかし『今日』を変える為には、『昨日』を変えなくてはいけないのだった。
 
だが言わずとも判るように、過去とはその性質的に絶対不変のものである。
 
したがって、人々が声高に可能性や希望などと謳う素晴らしき『未来』もまた、その根本的な性質は『不変』なのであった。
 
抗いたければやってみるといい。
 
運命を壊したければ、好きなだけ試してみるといい。
 
『今日』に窓ガラスを壊せば、『明日』は必ず怒られる。
 
なるほど確かにその限りでは未来を変えたと言い張れるだろう。
 
だが『行動』に対する『結果』と言う観点では、未来の不変性は何一つ損なわれてはいないのだ。
 
 
青臭い理論だと、石橋は自らの想い出に対して苦笑いをした。
 
大学時代だったか、『未来』とか『明日』にやたらと希望を抱く輩と居酒屋で交わした、情熱的でありながらも他愛の無い会話。
 
運命論とも微妙に食い違う、厭世的な感情と読み耽った文学と無け無しの知識とが融合した、学生特有の気だるげなMy理論。
 
もう少し若ければ勢いに任せて無視でき、もう少し大人であれば簡単に論破できたであろうこの理論は、まさにあの一瞬でだけ存在を許された。
 
そして恐らくは、今の自分が考えている全ての物事も『そう』なのだろう。
 
刹那的な思考が介在する余地は、まさに今この瞬き一つの間に過ぎないのかもしれない。
 
後から思えばなんと青臭かったのだろうと、酒の席の笑い話にしかならないのかもしれない。
 
しかしだからこそ、その感情は大切にしてもらいたい。
 
今はこの場に居ないムードメーカー兼トラブルメーカーのイチ男子生徒に向けて、石橋教諭はそう思った。
 
何時の間にか懸想が自分の事から相沢祐一の事にスライドしているが、それはそれ。
 
この思いが奴に届かない事も判りきってはいるが、それもまた些細な事でしかなかった。
 
損得を全く顧みずに動いてしまうバカ。
 
刹那の感情でしか動けないバカ。
 
他人に迷惑をかけない限りは好きなようにしていいから、まぁ少しぐらいなら他人に迷惑をかけても許容範囲だから。
 
何より、お前が引き起こす様々な騒動は枯れ掛けたこの我が身にとても面白いから。
 
 
「あー、じゃあ授業に入るか。 まずは前回やった過去問の正解率が最も低かった問題の解説からだが―――」
 
 
死んでこい若人よ、骨は拾って埋めてやる。
 
知らず口元が愉しげな笑みを浮かべてしまうのを抑えるために、石橋教諭はとても苦労した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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『……帰るか』
 
『帰りますか』
 
 
そんな会話を人気の無い屋上で交わしてから数分後。

スパイ大作戦ヨロシクな感じで校舎内からの脱出に成功した俺達は、晴れ渡る青空の下をテクテクと歩いていた。
 
制服ゆえに浴びせ掛けられる道すがらの視線が、若干煩わしい。

しかしその視線さえ我慢してしまえれば、それ以外の部分で世界は概ね俺達に優しかった。
 
徐々に暖かさを増す陽射し。
 
冬の匂いを運ぶ風。
 
塀の上で丸まって眠る猫。
 
それらの些末な『日常』はしかし、俺達にとっては学校を抜け出すと云う『非日常』の中でしか味わえないものであった。
 
学校と云う一種暴力的なまでの強制力を抜け出し、手に入れたのは圧倒的な開放感。
 
なるほどやはり快楽の最もな友人は背徳なのかと、俺は昨日も思った事を再度繰り返してみたりしていた。
 
考えてみれば、これで二日連続のサボりである。
 
どうせ授業はその殆どがセンター試験の過去問に費やされるだろう事は判り切っているのだが、ソレとコレとは話が別だった。
 
要するに新しい知識の獲得が云々ではなく、授業に出ていないと云うただそれだけが問題視される対象になる。
 
何やら本末転倒な気がしないでもないが、どうせ何を言おうがこちらの言い分など黙殺されるだけに違いなかった。
 
それならばいっそ口を閉ざしていた方が、エネルギー効率的に正しい気がする。
 
これからの地球、省エネは人類の義務です。
 
よって俺は、この件について問い質された時はひたすら貝になろうと心に決めたのだった。


「だがどんな貝にするか、それが問題だ」

「えーとね、私は牡蠣がキライなんだけど、そこら辺は考慮してくれるのかな?」

「じゃあ牡蠣以外で。 そうだな、アコヤ貝なんかどうだ?」

「……あれって食べられるの?」

「……お前は俺を食べる気なのか?」


ハテナマークを頭上に浮かべながら、訝しげな視線を絡ませる俺と桜。
 
まだ白い陽射しの降り注ぐ町中に、微妙に会話の噛み合ってない二人がいた。
 
 
「え、と。 今晩のご飯の事だと思ってたんだけど、違うの?」
 
「夕飯に貝を単品で食べようとするとは、お前はラッコか」
 
「ちーがーうー。 お鍋にするのかと思ったの」
 
「二日連続で鍋物か。 この鍋奉行め」
 
「作るの簡単だし、あったかいし、お腹いっぱいになる。 鍋はいいよねー。 人間の生み出した文化の極みだよ」


俺としては鍋奉行の辺りを否定してほしかったのだが、どうやら桜にとっての鍋奉行は尊称に値するらしい。
 
元より俺も夕飯が鍋になる事に不満など無かったので、この話題はそこで打ち切る事にした。
 
何より、『貝』と云う単語を俺が口に出した経緯など桜に知られたくはなかったから。
 
今はただ、『夕飯に何が食べたいか』なんて目先だけの楽しさや希望だけを口に出していたかった。
 
空の青さを。
 
陽射しの白さを。
 
繋いだ手の温もりだけを、世界の全てにしておきたかった。
 
何故なら、選択の時は確実に迫りつつあったから。
 
さしあたって今の俺が向かい合おうとしているのは、雪の町に来てから手に入れた『家族』との離別。
 
本来であれば『棄てる』だなんて大袈裟な意味合いを持たせなくてもいいかもしれないのに、現状と感情はそれを許してはくれなかった。
 
 
昨日の夜。
 
バイトに行こうとする俺に秋子さんが手渡したのは、学校の制服とそれに付随する一つの真実だった。
 
『……何を、何処まで識っていますか?』
 
俺の問い。
 
『全て、です』
 
秋子さんの答え。

まさか言葉の意味を捉え違えたりなどしていないだろう、秋子さんはそんな所で綻びを見せるほど拙い生き方をする人ではない。

だとすれば文字通り、言葉通り、全てを知っていたのだと考えて間違いは無いはずだった。

そして、渡された制服。

付加された意味は、恐らく拒絶。

桜の来訪を一つの切っ掛けとしたかったのだろう、そこには朧気ながらもある一つの意志が在るように思えてしょうがなかった。

暗に『家族』からの離別を匂わせる小道具。

家を出ると云った意味での自立を急かすメッセージ。

いずれにせよ、水瀬家という場所から俺が居なくなる事に関して、秋子さんの考えは『是』なのだろうと思った。

それどころか、早く居なくなってほしいとさえ思って―――


「――桜」

「ん?」

「先、家に帰っててくれないか。 俺はちょっと水瀬家に用事があるから」

「……うん、わかった」


何かを言おうとして、だけど何も言わないで素直に頷く桜。

微かに見えた感情の色が俺をざわめかせたが、かと言って桜はそれ以上の情動を決して見せようとはしなかった。
 
ただへにゃっと笑い、こくりと頷く。

あまりにいつもどおりの仕草で行われたそれら一連の仕草は、しかし草薙桜が行う分にはあまりに『自然』でありすぎた。

そう、草薙桜は勘が良い。

一体どこの高感度センサーかと問い詰めたくなるくらい、桜の頭部のアンテナは人の情動を鋭く察知する事に長けている。

加えてこいつは、相沢祐一と云う人間をよく理解しすぎていた。

完璧だと自負するポーカーフェイスも。

デビット・カッパーフィールドも驚くトリックも。

時に自分ですらそれが本心だと思い込んでしまっている偽りの感情さえも、桜を騙す事なんかできやしなかった。
 
いつだって桜は、その華奢な白い指先で、澱の中に沈み込んだ俺のココロをそっと救い上げてくれるのだった。

ある時はハッキリと口に出し。

またある時は眼差しだけで物を言い。

そして今この時のような場合は、何も気付かない振りで。

深く言及しないでくれた。

素直に頷いてくれた。
 
本当はあの冷たい部屋に、一人きりでなんて帰りたくないはずなのに。

できる事ならいつだって、『誰か』と一緒にいたいはずなのに。


隠そうとしたって判る。

たとえそれがこの町に住む誰をも騙す事ができたとしても、俺にだけは通用しない。

お前のその、寂しさを裏に隠した『普通』の表情。
 
何度も見てきた、ずっと前から気付いていた。

そうやって憂いを抱えながら平然としている時の横顔が、哀しくなるくらい透明で綺麗だって事を。

お前が俺の事を理解してくれているように、俺もまたお前の事なら誰よりも理解できるように在りたいと願っているから。


「ありがと」

「……ん」


俺の呟きに桜の声が小さく重なり、それからまた二人はしばらくの間無言で歩き続けた。

何時しか繋いでいた手は、最後の岐路に辿り着くまで解かれる事はなかった。

暖かい。

確かに在る。

大丈夫、だいじょうぶ。

水瀬の家を離れても、俺には帰る場所が存在する。

必死に自分に言い聞かせないと崩れてしまいそうな決心を胸に、俺は桜の手を少しだけ強く握り締めた。


「じゃ、また」

「ん、またね」


そうして握った手が解けた瞬間。

俺は、喪失感に泣き叫びそうになるのを抑えるのに必死になっていた。

振り返らずに歩いていく、小さくなっていく、揺れるポニーテール、桜の背中。

いつもなら何を思うでもないその後ろ姿ですら、今の俺には『拒絶』の具現に思えてしょうがなかった。

怖い、恐い、コワイ。

誰の肯定も得られない世界。

誰にも拒絶のみを突き付けられる世界。

存在が、否定される。

命の意味が、ワカラナイ。


不意に襲いくる、気が狂いそうなほどの恐怖。

逃れたくて、俺は走り出した。

『あの場所』なら、きっとこんな怖気など吹き飛ばしてくれると思った。

『そこ』になら、意味が存在する。

『そこ』でなら、生きる事を許される。

だから俺は冷たい空気に肺を切り刻まれながらも、ひたすらにその場所を求めて脚を動かし続けた。


例えそれが数刻の後に、自らの手で棄てなければならない安息の場所だったとしても―――

 

 




 

 

 

 

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家の前で立ち止まり、大きく深呼吸をする。
 
その行為が既に、俺がこの家を『居場所』として認めていないのだと物語っている。
 
自分の中で悲しくなるほど遠くなってしまった水瀬家のドアを見つめながら、俺はもう一度だけ深く息を吐いた。
 
それから、ゆっくりとドアノブを握る。
 
初冬の空気に晒されて痛いほどに冷たくなった金属の感触が、まるで意思を持って俺の手を拒んでいるかのようだった。
 
この扉を無条件に開いて良いのは、水瀬の家にとって家族足り得る資格を持った者のみ。
 
そして今の俺に、その資格は無い。
 
まるでその事を象徴するかのように、水瀬家のドアには鍵がかかっていた。
 
 
何も不思議な事ではない。
 
家人が在宅している時でも施錠をするってのは、俺を除けば女性しかいない水瀬家では通例となっていてもおかしくない事柄だった。
 
無論、全員が全員それを遵守している訳ではない。
 
むしろこの家の中では唯一、沢渡真琴のみがそれを行い得る者だった。
 
それも防犯上の理由からではなく、簡単に言えば余計な面倒を一切排除するために。
 
何しろ真琴には昼日中に尋ねてくる来客など存在しなく、来る者と言えばやたらしつこいセールスだったり宗教勧誘だったりなのだ。
 
それは、まだ鍵をかける事が習慣化していなかった頃。
 
せっかくの休みの大半をくだらないセールストークに潰されたのだと、真琴が俺にローキックしながら愚痴をこぼした事があった。
 
それはお気の毒だと思う前に俺の足がお気の毒な事になったので、その時はあっさりと聞き流しただけだったのだが。
 
次の日になってもまだローキックがしたりなさそうな真琴に俺が提案した方法こそが、今の『在宅施錠』だった。
 
平たく言えばただの居留守な訳だし、そもそもインターフォンに応答している時点で色々と無意味な気がしないでもない。
 
それでも『鍵を閉めている』と云う事実は家の中にいる真琴を大いに安心させるらしく、以来セールス関係の愚痴は聞かなくなった。
 
 
この時間に鍵がかかっていると云う事は、どうやら平日にもかかわらず真琴が家に居るらしい。
 
さて、俺はすんなりと家の中に入れてもらえるだろうか。
 
まさか無視されはしないだろうかと嫌な不安を抱えながら、俺はゆっくりとインターフォンに向かって腕を伸ばした。
 
まるで客人が…他人がするような仕草だと思いながら。
 
『家』の中に居る誰かの許しを請わなければドアの向こうには行けないのだという現実を、しっかりと噛み締めながら。
 
 
『はーい、どちらさまー?』
 
 
機械を介して聞こえてくる声は、いつもどこかが物悲しい。
 
所詮は電波が作り出した偽の声を聞かされているに過ぎず、本質的な意味での会話なんて望むべくもない。
 
今の世の中ではそんな事を思う俺の方が異端だという事は判り切っていたが、それでもこんな時には強くそれを感じてしまうのだった。
 
機械越しの声が遠い。
 
何もかもがうそ寒い。
 
それが例え春の太陽を髣髴させるお前の声であってもだ、真琴。
 
 
「俺だ、祐一だよ」
 
『新手の詐欺? 本物の祐一は今の時間、学校に行ってるはずですけどー?』
 
「頼むよ真琴……俺だって気付いてんだろ?」
 
『ったく、しょーがないわね』
 
 
ガチャ、と受話器を置く音が聞こえ、それから数秒後。
 
やはり声だけで俺だと確信していたのだろう、何の迷いもなくドアのロックとチェーンロックを同時に外してドアを開ける真琴がそこにはいた。
 
俺が言うのも何だけど、ちゃんと本人である事を目で確認してからチェーンロックを外そうな、真琴。
 
 
「真琴が祐一の声を間違える訳ないでしょ、バカ」
 
「……なんで」
 
「声」
 
「出てた?」
 
「ぼそっとね」
 
 
いつまで経っても変わらないわねー。
 
そんな風に俺を笑いながら廊下を歩いていく、真琴の背中。
 
太陽に透ける金色の髪を。
 
ぴんと張った背筋を。
 
まるで鈴が歌うような声を、とても素敵だと思った。
 
本当に、そう思った。
 
いつもはただ結わえているだけの髪を、今日は両側でお団子に纏めている。
 
胸に飾り文字で『SNOW WHITE』とあしらわれている淡いクリーム色のトレーナーは、初めて見る服だった。
 
たったそれだけの事なのに、今の俺はそこに確かな『変容』を見て取ってしまっていた。
 
変わる。
 
移ろう。
 
全ては気付かぬ内に、音も無く。
 
変わらない物など何もない。
 
それは俺も例外ではなく。
 
変わってしまうんだ、何もかも。
 
 
「で、お前はなんでこんな時間に家に居るんだ?」
 
「お互い様でしょ。 真琴は祐一にこそ、それを訊きたいわよ」
 
「俺はその、あー、えーと……」
 
 
言いよどむ。
 
目が泳ぐ。
 
態度から何かを推し測られそうではあったが、それでも俺は真琴に対して『本当』の事を言う気にはなれなかった。
 
それは何も、真琴を騙したかったからじゃなく。
 
嘘が吐きたかった訳でもなく。
 
ただ単純に、『本当』の事を教える事によって真琴が不機嫌になるのが嫌だったから。
 
 
「サボったんでしょ」
 
「……まぁ、簡単に言えばそうなるかな」
 
 
肩越しにジト目で俺を睨む真琴に、出来の悪い苦笑いを一つ。
 
『嘘を吐く事』への罪悪感を『学校をサボった事』に対するものだと見せかけたそれは、思ったよりも巧くいったようだった。
 
一瞬だけ呆れの表情を見せる真琴。
 
しかしそれでも足を止めることなく、興味を失ったかのようにまた前を向いてリビングを目指す。
 
その態度から俺は、真琴がこの件についてこれ以上の追求をする気はないのだと云う事を読み取った。
 
結果的に騙している事になるのは心苦しいが、悪意があっての事ではないので許してもらおう。
 
そんな意味を込めてこっそり安堵の溜息を吐いたのと、真琴が鋭い目付きでこちらを振り返ったのとはほぼ同時の事だった。
 
瞬間的に表情を繕おうとした俺の努力は、完璧なまでに徒労に終わった。
 
 
「あ、いや、まこ……」
 
「バレバレ」
 
 
それだけ言って、また前を向く。
 
『バレバレ』とは恐らく、『俺が嘘を吐いている事が』と云う意味で間違ってはいないだろうと思われた。
 
もっとも、その嘘がどんな意味を持っているかまでは、ばれる訳がない。
 
それでもある種の神懸り的な洞察力を見せた真琴の前に、俺はただ立ち尽くすより他に術を持っていなかった。
 
お前は。
 
お前も。
 
知っているのか。
 
何を。
 
何処まで。
 
あるいは全てを―――
 
 
「寒いでしょ。 早く来なさいよ」
 
「あ、ああ……」
 
 
暖かいリビングから俺を招く、暖かな響きを持った家族の声。
 
それは震えるほど渇望していた物であるにもかかわらず、俺は牛歩にも劣る速度でしかその元へと進むことが出来なかった。
 
のろのろと、のろのろと。
 
結果として、またしても真琴に訝しげな表情をされてしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
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「今日は休園日。 サボり魔の祐一と一緒にしないでね」
 
「はいはい休園日休園日」
 
「………」
 
「し、信じてる信じてるっ。 心の底から信じてるから、無言で長州ばりに腕を回すのはやめようぜ」
 
「そう? なーんかイマイチ目が信用してない気がするんだけど」
 
「ん、んな訳ないだろ。 ほら、俺と真琴の仲じゃないか」
 
「なによ、やっぱり信用してないんじゃない」
 
「……俺と真琴ってそんな仲だったのか」
 
「何を今更」
 
 
やれやれ、と肩をすくめながらソファーに深く座り込む真琴。
 
何やら掌の上で遊ばれているような気がしなくもないので、俺はそれ以上抗うのをやめる事にした。
 
中身の入っていない通学鞄を床に置き、真琴に習ってソファーに座る。
 
一瞬だけ桜の家のソファーとどっちが――なんて比較をした自分を恥じて、おもむろにクッションを手に取ってみたりした。
 
ふかふかと、触り心地が良い。
 
すべすべと、肌触りも良い。
 
既製品にありがちな商品タグが付いていないので、秋子さんの手作りなんじゃないかと俺は想像した。
 
中の綿も包み込む生地も手芸屋で見繕ってきて。
 
縫製だってミシンじゃなくてきっと手縫いで。
 
このクッションを抱くであろう愛する子ども達の事を想いながら、秋子さんが夜鍋してクッションを作ってくれた、なんて――
 
 
「――現実逃避も甚だしいな」
 
「ん? なんか言った?」
 
「いや……、そう言えばあゆは?」
 
「部屋。 さっき『洗濯機が止まるまで本でも読んでるうぐぅ』って言ってたし」
 
「……そうか」
 
「用があるなら行けば?」
 
 
特に俺の目を見据えるでもなく、あくまで淡々と話す真琴。
 
抑揚など欠片も存在しないその声には、感情の色なんて不純物は一切含まれていなかった。
 
言いたい事があるなら言葉で表す。
 
感情だって俺達は言葉で伝えることができる。
 
互いに不必要な遠慮をしなくてもいい間柄だからこそ、俺も真琴も『言葉』を便利なツールとして利用することができるのだった。
 
今みたいな言葉のやり取りですら、決して『冷たい』だなんて思わない。
 
見えない感情に怯えたりもしない。
 
無色にすら彩を感じられるほどの関係を、俺達は確かに築き上げていた。
 
投げかけられる透明な声がそのまま互いの信頼を示していると知っていた俺達が、この家の中には確かに居たのだった。
 
 
だけどそれも今では、悲しい過去形に成り果てた。
 
何故なら俺は今、色の見えない真琴の声に、少なからずの寂しさを覚えている。
 
 
「……なぁ、真琴」
 
「んー?」
 
「いつかお前に訊いた事、今、もっかい訊いてみてもいいかな」
 
「内容によるけど、くっだらない事だったら怒るからね」
 
 
それでもいいなら話してみなさい、と続ける真琴。
 
どうやら問答無用で却下する気は無いらしく、一応聞くだけは聞いてくれるみたいだった。
 
だがその態度を裏返せばつまり、今から話をはぐらかす事は許さないと云った意味でもある。
 
そう言えば真琴は昔から物事を言い掛けで止められるのが凄く嫌いだったなと思い、俺は胸の内だけで小さく苦笑した。
 
退路は自ら断ったに等しい。
 
この切っ先からはもう、逃げられない。
 
思い返せばあの時も、水瀬家を後にする俺と最後に言葉を交わしたのは真琴だったなと。
 
今はもう程遠い冬の日を思い出しながら。
 
あの時に刻まれた痕が、今再び赤黒い血を滲ませる感触に蝕まれながら。
 
俺は、終わりを始める言葉を口にした。
 
 
「俺がこの家から居なくなったら……お前は、その、寂しいか?」
 
 
それは、『あの日』と全く同じ質問だった。

外国にいる親父に電話一本で呼び出され、その日限りで『相沢』の家に戻らざるを得ない状況に追い込まれた冬の日の事。

あまりにも唐突な『水瀬』の家との別離に怯えた俺が縋ったのは、誰あろう、『水瀬』ではないコイツの言葉にだった。

何故、なんて無意味な問いかけはしなかった。

ただ、コイツはあまりにも普通に其処に居たから。

だから俺は、欠片も疑わなかった。

『家族』だと、本能的に認識していた。

だからこそ俺はコイツに家族としての承認を求め、引き止めて欲しくてその手に縋り。

そして、完膚なきまでに突き放されたのだった。
 
 
「やっぱりくだらない事だった。 聞いて損したわよ」
 
「……そう、だな」
 
「祐一が居なくなったら? そんなの決まってるじゃない」
 
「ああ、決まってたな……」
 
 
そう、答えは決まっている。
 
真琴ならきっと、『そう』答えてくれる。
 
何故ならそれが、俺とお前の関係なのだから。
 
 
口を開けば憎まれ口ばかりを叩き合った。
 
顔を付き合わせればしかめっ面ばかりだった。
 
洗面所を使う時間が重なれば文句を言い合い、二人並ぶには手狭な玄関で押し合っては互いを邪魔だと言い張り。

チャンネル争いをした、おかずを奪い合ったりもした。

お気に入りのシャンプーを使われたと言っては喧嘩をした、時には本気の言い合いにもなった。
 
だから今回も俺は、真琴が『そう』言ってくれるはずだと勝手に確信していた。
 
あの冬の日には容赦なく俺の胸を切り刻んだその答え。
 
だけど今はその言葉が、俺の背中を押してくれると信じている。
 
胸の内で別れを前提としている俺にとっては、お前の『いつも通り』こそが何よりも優しいはずだから。
 
 
言ってくれ、真琴。
 
あの冬の日と同じ場所で、同じ言葉で、もう一度。
 
この家には、この場所には、沢渡真琴の傍らには。
 
相沢祐一はもう、要らないのだと。
 
相沢祐一が居なくなる事などむしろ喜ばしいくらいなのだと、いつも通りのその小憎らしいほど涼やかな音色で―――
 
 
「悲しいなんてもんじゃないわ。 祐一が居なくなったら、真琴は死んじゃうかもしれない」
 
「なっ……」
 
「何よその顔。 文句でもあるの?」
 
「あ、いや、文句って言うか……」


――何を。

何を言っているのだろう、と思った。

沢渡真琴は一体何を勘違いしているのだろう、と思った。

だって真琴は俺の事が嫌いで。

俺なんか居なくなればいいと思ってるはずで。

だから今回の問い掛けにだってあっさりと頷いて嘲りの笑みさえ浮かべてアンタなんかさっさと居なくればって―――


――もう、気付いてるんだろう?


理性の耳元で本心が口を開く。

醜悪なまでの愉悦を携えた口振りで、『俺』を誹る。

そんなはずはない、そんなはずがないと叫んでみても、それも所詮は滑稽な一人芝居にしか過ぎず。

在りし日の残滓が生み出した酷薄な幸福の虚像に、脳漿を穿たれる。

引き摺り出された『真実』から、更なる罪を抉り出す。


――本当はもう判ってるんだろう?

――判っているのに、目を逸らしたんだろう?


耳を塞いでも意味が無い。

鼓膜を揺らさない不協和音の群れに、吐き気すら覚える。

脳髄に直接叩き付けられる『言葉』

思考回路をある種物理的に遮断する、圧倒的な『情報』

そして何よりも強く俺の心を揺さぶるのは、他のどれでもない、自分自身への嫌悪感だった。


「ねぇ祐一、知ってる? ウサギは寂しいと死ぬって言うのは、全くの嘘なんだって」
 
「……いや、知らなかったけど…」
 
「なら、今覚えて頂戴。 ウサギはね、寂しくたって死なないのよ」
 
 
ウサギは寂しさでは死なない。
 
真琴の瞳が、それを切に訴えかける。
 
だが俺には、その情報がどんな意図を持っているのかがまるで判らなかった。
 
嘘ではない事は判る。
 
空気を読み違えてまで嘘を吐くほど、真琴はガキじゃない。
 
戯れに言った事でもない。
 
全く無意味な言葉を口にする事を許すほど、真琴は人生を無駄に過ごしてはいない。
 
だとすると問題なのは理解力の足りない俺の頭一つであって、それ以外の部分では何一つセカイに歪みなど起こってはいないのだった。
 
秒針は動く。
 
埃は舞う。
 
風に小枝は揺れ、つられて影も微かに踊り、今日も太陽は東から昇り、真琴は俺から目を逸らさない。


ウサギは寂しさでは死なない。
 
寂しさではウサギは死なない。
 
寂寥も、静寂も、孤独も隔離も静謐も、ウサギを殺す銀刃とは成り得ないのだ。
 
しかしウサギは死ぬ。
 
『死ぬから』以外の理由など存在しなく、ウサギは死ぬ。
 
なら、寂しさで死ぬのは誰?
 
寂しさと云う名の杭を心の臓に討ち込まれるだけで儚くも生命の灯火を消え去らせるその脆弱な存在とは一体――
 
 
「――そう、寂しさで死ぬのは、人間の特権だよ」
 
 
人は、寂しさで死ぬ。
 
寂しさが人を殺す。
 
それが答え。
 
沢渡真琴が相沢祐一に叩き付ける、雪の降る町水瀬家に住む一人の少女の絶対的真実。

そして彼女は、ゆっくりとこう続けた。
 
 
「祐一は、私を殺すの?」
 
 
真琴が問う。
 
その顔に微笑みすら浮かべながら、ひたすらに透明な響きで問う。
 
東からのまだ白い陽射しが照らすソファーの上で、こんなにも『日常』の濃い居間のど真ん中で。
 
相対距離、ほんの僅か。
 
手を伸ばせば触れられる。
 
なのに彼女の笑みは那由他の彼方に消えそうなくらい遠く、遥か遠くにしか存在していなかった。

比類なく高潔でありながらも限りなく残酷な、寂しさと云う名の殺意無き銀刃。

彼の存在を自らの生命に重ねてまで愛しいと思えるからこそ、その刃は彼女の頚動脈を掻き切るに足る鋭さを持てるのだと。

幻楼の彼方で微笑む少女が口にする。
 
日常と云うぬるま湯を一瞬で凍りつかせるほどの絶対的な零度を持って、その言葉を口にする。
 
ねぇ、祐一は、私を殺すの?
 
貴方ハ、私ヲ、殺シマスカ?
 
 
「あ……あ、うぁ…」
 

頚動脈に宛がわれた斬首の薄氷に、声帯を震わせる事ですら罪であるかのような錯覚を覚える。

『私を殺すのか』と俺に問う少女こそが俺の命を掌握しているのだという事実に、今更ながらの歓喜【ヨロコビ】を感じる。

完全に相反した二つの感情が生成した『真実』の胎動が俺に齎したものは、この場においてもやはり圧倒的な『罪』の意識でしかなかった。


判っていた。

そんな事、言われるまでもなく判っていた事だった。

疑う余地が微塵も存在しない、既に理由すら超越した理不尽なまでの結論。

例えるならそれは水が高い所から低い所へと流れていく理のように、あまりにも厳然たる事実として其処に横たわっていた。


そう、相沢祐一が沢渡真琴を愛しているように。

沢渡真琴もまた、相沢祐一を愛しているのだと云う事実が。


自惚れなんかじゃない。

世間一般で用いられるような『意味』でもない。

だがそれでも、血肉骨髄髪の毛の一本に到るまで互いが互いを必要としているこの感情を表すのに、俺は他の言葉を知らなかった。

愛している。

愛している。

言葉にすれば、何と陳腐なフレーズだろうか。

文字に書き表そうものなら、その字面に怖気すら覚える。

我ながら捻くれた物の考え方をしていると思うが、それでも俺達は、そんな感じだからこそ『二人』が心地よかったのだ。

一方的に寄り掛かるんじゃなく、どちらかの背に負われてる訳でもなく。

だけどどちらかの協力がなくては成立しない背中合わせの体勢が大好きで、体重を掛け合うってのがとんでもなく安心できて。

似たような感性を持っていたからこそ俺達は『愛』を口に出したりせず、だからこそ俺達は互いを近くに置く事ができたのだった。


だからそれは、罪。

知っていながら欺こうとした、卑劣な行為。

誰よりも自分がよく『それ』を理解しているはずなのに、何よりも得がたい幸福の鍵だと知っていたはずなのに。

俺は『それ』を偽ろうとした。

それも自らの『それ』を、ではない。


少しでも自分が負う傷を少なくしたくて、相沢祐一は、自分ではなく沢渡真琴の感情を偽ろうとしていたのだ。


沢渡真琴は相沢祐一を疎んじている。

嫌っている。

相沢祐一が居なくなる事を求めている。

そう決め付ける事で俺は、水瀬の家を捨てる事の正当な理由を追い求めていたのだった。

『俺が』捨てるのではない。

望んで捨てる訳じゃない。

真琴が望むのであれば、真琴がそれを望んでいるから。

愚かな自己保身のみで俺は、そう必死に繕おうとしていたのだった。


それがどれだけ酷い裏切り行為であるか、判らない訳ではない。

現に今、この心は罪悪感と嫌悪感で腐敗しきっている。

俺は自らを愛してくれる少女の心を勝手に偽った挙句、その発言を拠り所として被害者面をしようとしていたのだ。

醜悪にも程がある。

誹りの言葉など千では済まない。

だがそれでもこの俺に、たった一つだけの言い訳が許されるのであれば―――


「……秋子さんも」

「はい?」

「秋子さんが俺に渡したんだ……制服を……その、もうこの家に戻ってくる必要が無いようにって」


昨日の夜に手渡された制服と、それに添えられた『識る者』としての言葉。

制服に込められたある種の暗示を『拒絶』の意味で受け取るならば、俺の居場所はもう水瀬家には存在しない事になる。

家主である秋子さんの意思なのだ、抗う術は存在しないだろう。

だからそう、全ては遅かれ早かれなのだ。

望もうが望むまいが関係なく、取捨選択の余地などなく、俺がこの家を出ると云う事は既に―――


「秋子さんが……祐一の事を追い出そうとしてるって?」

「追い出そう…とまでは言わない。 ただ、それに近い考えを持っている事は確かだと思う」

「それは、秋子さんがもう祐一を『家族』じゃなく見てるって、そう言いたい訳?」

「……ああ。 恐らくは」


いずれ来る別れの季節のために。

そう遠くない未来を模倣するように。

例えば其処に『痛みに慣れるように』と云うある種の優しさが含まれていたとしても、俺はそれを『拒絶』だと受け取った。

僅かばかりの『癒し』では釣り合いが取れぬほど『痛み』に傾いた天秤は、何をもってしても贖えぬように思えた。

言葉でも。

態度でも。

心の奥底に根付いてしまった猜疑の樹を立ち枯らす事なんて、もう二度と。


「ね、祐一」

「ん?」

「目、閉じてくれる?」

「何で」

「なんでも」

「断る」


却下した。

即答だった。

何しろこの沢渡真琴と云う少女、手の届く範囲にいる時は目を開けていたって行動が予測不可能なのである。

その上この状況で『目を閉じろ』だなんてのは、これはもう『お祈りをしろ』と言われているのに等しいものがあった。

だがしかし。


「真琴は、真面目に頼んでるんだけど?」

「……判ったよ。 こうで良いのか?」


思っていたよりも真琴の頼みは真剣なものだったらしく、一切の雑音を含まないリソルートが俺の胸を穿つ。

抵抗の術が奪われる。

そもそも真面目な顔をした真琴の『お願い』を断るなんて事ができるようであれば、始めから俺はこんな所にはいないはずだった。

だとするとコレもやはり世界の予定調和の一つなのだろうと思い、半ば諦めにも近い心持ちで静かに脱力する。

薄く閉じられていく視界の中で最後に見たものは、愛する同居人の最高に綺麗で壮絶な微笑だった。

――って、壮絶っ!?


「さーわーたーりーエクスプロージョン!」

ばきぃっ!


脳が揺れる。

痛みなんかのレベルじゃなく、麻痺にも似た灼熱を頬に感じる。

現状を把握するよりも先に俺が思ったのは、ああやはり後悔とは先に立つものではないのだなと云う事だった。


まさか殴られた顔だけを胴体から分離させる訳にもいかず、与えられたベクトルと同方向に吹っ飛んでいく俺の身体。

ソファーの背もたれ程度の質量じゃ、その勢いを殺す事なんかできやしなかった。

あの華奢な身体の何処にそんな力がと、思う暇もあればこそ。

気が付けば俺はもう随分と久方ぶりになるであろう、大して愛しくもないフローリングの材木さんとの熱いベーゼの真っ最中だった。

頬骨が軋む。

奥歯がぐらつく。

そして揺らぐ奥歯よりもえげつない勢いで流動を起こしている俺の意識はしかし、その中においても彼女の声を聞き漏らす事だけは決してしなかった。

ましてそれが苦痛に喘ぐ声であれば、尚更の事だった。


「くっ……ったぃ…」


人間の拳を形成する骨は、およそ二十以上もの細かなパーツで複雑に構成されている。

対する顔面の骨は、鼻の軟骨と眼窩以外はかなり丈夫な作りをしている。

加えて真琴は人を殴るのにあまり慣れておらず、そのくせ手加減だなんて思考回路は微塵も存在していない。

そんな、ただでさえ華奢な身体の作りをしている真琴が放つには、今の一撃はあまりにも攻撃力に富みすぎていた。

そして、殴る場所が悪すぎた。


「真琴っ!?」


床に突っ伏している姿勢から一気に跳ね起き、何処を向いているのか判らない視界の中に真琴の姿を探す。

自分の痛みなんかは、当然の如く忘却の彼方へと追いやって。

ようやく見つけた先にいた少女は、今さっき俺を殴り飛ばした右拳を胸に抱くようにしながら、その強い痛みに形の良い眉を顰めていた。

小さく震える細い手足。

それは金色の穂を湛えたススキのように、だけど優しい風の吹くあの丘にではなく。

今、水瀬家のリビングに。

俺の前に、静かに立っている。

痛み故にか俯いているその立ち姿、できる事なら今すぐにでもその細い手をとってあげたいくらいなのに。

手を伸ばせば、触れられる距離のはずなのに。


「お前その手っ、大丈夫――」

「さわるなぁっ!」


涙の気配を携えた叫び声が、彼我の間を隔絶する。

物理的拘束力すら有しているかのような視線が、俺を戒める縛鎖となる。

じゃれあいながらの『それ』とは違った強い拒絶を含んだ声色に、俺は、伸ばしかけた手を中空に止めてしまっていた。

思えばこの時が真琴の手を取る最後の機会だったにも関わらず、臆病な心は目に見えた拒絶に酷く怯え、細胞はその一片に至るまで凍りつき。

そして俺の手は遂に、真琴のいる場所に届く事はなかった。

同じリビングに存在しているはずの俺達は、いつの間にかその立ち位置を遥か遠くに置いてしまっていた。


初めて出会った時のように、その瞳には確固たる敵意を漲らせて。

初めて出会った時からずっと変わらないその綺麗な瞳を、零れそうなほどの涙でいっぱいにして。

胸には強く痛む拳を。

そして、心を抱いて。

まるで淀んだ人いきれの中で生きる薄汚れた俺を軽蔑するかのように、そう云う風にしか生きられない俺を哀れむかのように。

そうして、真琴は立っていた。

水瀬家のリビングにではなく、この世界のどこか俺の手の届く場所にでもなく。

それは喩えるならば、風の辿り着く場所に。


「昨日、さ。 秋子さん……寝坊したんだよ。 真琴の方がその日は早く起きた。 多分、初めての事だった」


鈴が歌う。

この上なく悲しげな音色で、鈴が鳴る。

薄金の内で踊り狂うのは痛みか、それとも悲しみか。

判りはしないが、鈴が鳴る。

体内【なか】から喰い破られるようにして、鈴が鳴る。


「何でだと思う? ねぇ祐一、答えてよ。 何で秋子さんは寝坊なんかしたんだと思う?」

「……病気じゃないとは聞いた。 でも、俺にはその理由なんて――」


――判らない、そう言おうとした瞬間だった。

真琴の眼差しが急激に鋭さを増し、直後には悲しみに染まる。

最も端的に表現するならばそれは、あらゆる感情の奔流だった。

憤怒、哀願、憐憫、軽蔑、情愛、憎悪。

臓腑をぶち撒けるかの如くにして吐き捨てられた言の葉は、刃と見違うほどの鋭利な辺縁を持っていて。


「秋子さんはアンタをっ! 祐一の、事をさぁ――」


それでもその中に微かな優しさがある事が、脈動の内奥に確かに感じられて。


「朝が来るまでっ、祐一がこの家に帰ってくるまでっ、ずっと寝ないで待っていてあげようとしてくれてたんじゃないのかなぁっ!」


真琴の瞳から零れ落ちる水晶と共に、疑心に曇っていた心に叩きつけられる『真実』

浅く乱発される呼吸により覚束なくなる足元から容赦なく瓦解していく、俺の信じていた『現実』

最も疑ってはいけない感情に背を向けていた事が露呈した今、俺は、本当に自分がこの家に帰る事を許されざる存在にまで堕ちた事を知った。

望んでいた事が現実になるのだと言うにもかかわらず、俺はその事が齎す残酷な結果にようやく気付き。

狂い掛けの思考回路で崩壊を阻む手段を模索しようとも、時が濁流の向きを変える事などあろうはずもなく。

この場所にかつて在った笑い声は霧散し、暖かかった空気は凍て付き、金色に思えた関係は今や赤褐色の錆に塗れ。


「……出ていって。 今の祐一なんか秋子さんに会わせたくない。 ……真琴の傍にも、居てほしくない」


そして俺はその言葉で、全てが終わってしまったのだという事を悟った。




























To be continued……
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※リソルート→音楽用語。決然と、きっぱりと、などの意味を持つ。