騒がしい、と感じたのはそれからだいぶ経った後だった。
 
頭が痛い、と思ったのもそれからずいぶんと経った後だった。
 
そして何よりも。
 
嬉しい、と思ったのはやはりそれからずっと後の事になるのだった。
 
 
黒板に書かれた三つの漢字。
 
整った字体。
 
性格を著すような真っ直ぐな線画。
 
『草』 『薙』 『桜』
 
今さらになってぼんやりと、どうでもいい事を思った。
 
ああ、全ての文字に植物を示す部位が含まれているな、と。
 
そしてもう一つ。
 
ああ、良い名前だな、と。
 
 
「草薙桜です。 よろしくおねがいします」
 
 
そう言ってぺこりと頭を下げる、久しぶりに見る親友の姿がやけに印象的だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第二幕 『キミが居てくれてボクは嬉しいから』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜がいる。
 
俺の住む雪の街の、しかも俺が通っている学校の、それも俺の教室に。
 
その顔を見ても、声を聞いても、自己紹介を受けてもまったく実感が沸かなかった。
 
頭に浮かぶのは、ただ、疑問詞。
 
何故この街にいて何時この街に来て何処に住んでいるのか。
 
知りたいと思うよりも先に、やはり実感を持てないでいる俺がいた。
 
 
そんな俺とは裏腹に、クラスの奴等は突然の来訪者―――しかも回りの評価によれば美少女―――に歓喜の奇声を発している。
 
ところで何故、剣道部の田中は頭を抑えて蹲っているのだろうか。
 
どうでもいい疑問が浮かんでは、すぐに消えた。
 
 
「取り敢えずこの時間は自由にする。 各自勉強をするも良し、転入生との親睦を深めるも良しだ」
 
 
そんな無責任な事を言いつつ、石橋が疲れた顔をする。
 
どうやらこの騒ぎは相当前から沸き起こっていたらしい。
 
ご苦労様だ。
 
 
「ただ、他の教室から文句が来るほどの喧しさになった場合、数学の授業に変更するからな」
 
 
おお、最高の脅し文句だ。
 
クラス中が水を打ったように……は静まらなかったが、それでも多少の落ち着きを取り戻した。
 
やはり数学の授業は嫌らしい。
 
ところで、石橋の担当授業は古典だったような気もするのだが。
 
 
「えっと……私はどうしたら?」
 
 
黒板の前に放置された桜が困惑した表情で石橋を見る。
 
それに気付き、何故か石橋が俺の方を向いた。
 
 
「ああ、それなら相沢の席に座って構わないぞ」
 
「はい」
 
 
きぱっと良い返事をして俺の席に向かって来る桜。
 
満足そうに椅子に深く腰掛け、眠る体勢に入る石橋。
 
ちょっと待て。
 
石橋は俺の席に座って良いと言ったが、現にこうやってこの席には俺が座っているではないか。
 
 
「それと、相沢は視聴覚室に行って草薙の分の机と椅子を持ってくる事」
 
「何で俺がですか?」
 
「草薙の席はお前の隣の空き場所だからな。 お隣さんが準備をするのは当然だろう」
 
「……」
 
「それに、草薙はお前と知り合いのようだしな。 なんならさっきの遅刻免除の話を持ち出しても良いぞ?」
 
「持ってきます、サー」
 
 
びしっと海軍式の敬礼をして席を立つ。
 
朝っぱらから肉体労働を課せられるとは思わなかった。
 
ま……それも良いかな。
 
 
「手伝うか?」
 
「いや、大丈夫だ」
 
 
北川の手伝いを断り、廊下に出ようとした。
 
と、そこで桜と眼が合った。
 
 
「………」
 
「私も行く?」
 
「いや……いい」
 
 
ぎこちない会話。
 
なんとなく眼を合わせていられず、半ば逃げるようにして俺は教室を出た。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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視聴覚室から机と椅子を持ち出し、教室へと向かう。
 
他のクラスの前を通るたび、奇妙な物を見る目で見られた。
 
なんか……むかついた。
 
 
自分の教室の前まで戻ってきた時、俺の耳に入ったのはクラス内の楽しそうな話し声。
 
恐らく話の中心にいるのは桜だろう。
 
そしてそれを取り囲むクラスメイト。
 
笑い声や様々な会話が、自分たちという存在を助長するかのように場を包む。
 
そこには、他を排斥する雰囲気が産まれていた。
 
仲間。
 
クラス。
 
友達。
 
狭い範囲内で閉じられた友好関係を築くのは非常に心地良い。
 
連帯感は陳腐な絆へと様相を変え、それにしがみ付いてその中に居る事の優越感に浸る事が出来るから。
 
その為には、外と中を隔離する必要がある。
 
今の俺は、外。
 
あいつらは、中。
 
もっともそれは単なる俺の被害妄想でしかないのだろうけども。
 
それでも俺は、その中に入っていくのを躊躇った。
 
 
机と椅子を音を立てないように廊下に置き、教室には入らずに踵を返す。
 
遠くなっていく喧騒が悲しいようで、だけど俺にはそれが『いつも通り』だと錯覚された。
 
俺の周りに喧騒が無いのが『いつも通り』だとしたら、『いつも通り』の俺が向かうべき場所は一つしかない。
 
喧騒から離れ、人の気配から離れ。
 
学校と言う建物の中で、学食以外で唯一俺が好きだと言える場所。
 
 
俺は、屋上へと向かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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屋上へと続く、鍵の掛かった扉を蹴り破った。
 
相当に派手な音がしたが、ここは教室塔からは遠く離れている。
 
おそらく、誰にも聞こえなかっただろう。
 
 
普段なら鍵が掛かっている時点で諦めたはず。
 
人が来ないと言うだけなら、階段の踊り場でも事は足りた。
 
昼休みですら人が来ないこの場所だ、授業中に人が来る可能性なんてものは皆無。
 
それなのにやはり。
 
『いつも通り』の俺は扉を蹴り破る選択肢を選んだ。
 
 
 
 
雪が、降っていた。
 
 
小さな破片が、注視しないと判らないような小さな破片が、ひらひらと。
 
まだ穏やかな日の光を反射しながら舞い落ちる雪。
 
見慣れたはずの風景に、俺は違和感を感じる。
 
理由は……多分自分でも気付いている。
 
だけど………
 
 
屋上の中央まで歩き、その場に寝転がった。
 
コンクリートの感触が堅くて冷たかったが、それはそれで良いと思う。
 
今までは上から下に降っていた雪が、今度は放射状に俺の視界に降り注ぐ。
 
眩しくて、冷たくて、俺は目を閉じた。
 
瞼の裏に映し出されるのは、ついさっき間近で見詰め合った桜の顔。
 
可愛いとか綺麗だとか思う前に、変わっていなかった。
 
よく考えれば桜と前の街で別れたのは去年の一月だったから、実質一年経っていない事になる。
 
だから、そんなに変わっていないのは当たり前だと言われれば当たり前の事なんだろう。
 
変わったのは、俺の方。
 
この街で時を過ごし、大切だと思える者に囲まれ、ただ穏やかな生活の中で。
 
 
俺の隣に桜がいる事を普通だと思えなくなった?
 
 
「んな馬鹿な」
 
 
一言の下に吐き捨てる。
 
突然の邂逅に戸惑いはしたものの、決してそれは不快ではなかった。
 
むしろ、嬉しいと思えるからこそあそこまで当惑したのだろう。
 
『嬉しい』
 
改めて自分の感情を言葉に表す事に、少し照れを覚える。
 
別段変な意味合いを持たせるつもりは無いが、周りはそうは取ってくれないだろう。
 
周り……
 
 
「………」
 
 
ダメだ。
 
この感情は捨てろ。
 
そう思う気持ちと俺の感情が完全に背反する。
 
無責任に揶揄するだけの野次馬の存在を疎ましく思う俺がいる。
 
昨日までの俺なら、笑って容認できていただろうその行為を。
 
普段の俺じゃないけど、『いつも通り』な俺の感情。
 
率直に思ってしまう。
 
コロシタイ、と。
 
 
「こら! 不良少年A!」
 
 
心臓が止まるかと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「え、えっと……」
 
 
私は困惑していた。
 
転校には馴れていないし、一気に十人を越える人に質問されても答えきれないし、何より異常なまでにハイテンションな男子が怖い。
 
第一して、十数分前に遭ったばかりの女の娘の住所や電話番号を聞こうとする男子はどう考えても違うと思う。
 
女の娘の住所って言うのは好きな人にしか教えたくないものなんだよ……って、今の状況でそんな事を言うのもちょっと変だ。
 
 
「住所はヒミツ。 電話番号もヒミツ。 ストーカーは間に合ってます」
 
 
きっぱりと言ってみた。
 
少し、勇気が要った。
 
いきなりこんな事言って不遜な女だと思われたらやり辛い。
 
だけど。
 
何故か私の言葉は『恥じらいを持つ乙女』として受け取られた。
 
世の中には不思議な事が多い。
 
 
「なぁ」
 
「ん?」
 
 
不意に私の席(と言っても、この席は祐一の席なんだけど)の前に座っている人がこっちを向いて話し掛けてきた。
 
ふむむ、なんか祐一に繋がる目つきをしてる人だなー。
 
 
「相沢と知り合いなのか?」
 
「あー……」
 
 
何と言ったら良いのか、少し迷った。
 
そして、少し迷ったその瞬間に私の周りを取り囲んでいた群集の性別が一気に変わった。
 
男子から女子へ。
 
口々に私と祐一との関係を問う。
 
みんな、結構真剣だ。
 
ほほう、なるほどなるほど。
 
『恋人だ』なんて言って見るのも面白いかもしれないけど、それにはやっぱり祐一もこの場に居た方が面白い。
 
ところで。
 
 
「そう言えば祐…相沢君遅いね」
 
 
無意識的に呼称を変えた。
 
他人に使うような呼称に。
 
少しだけ自分と流れた時間を嫌悪する。
 
だけど、顔には出さない。
 
 
「確かに。 視聴覚室はそんなに遠くないはずだが」
 
 
祐一が教室から出て行って、かれこれ十五分が経とうとしている。
 
いくらなんでもおかしい。
 
 
「……さては」
 
「ん? どうかしたか?」
 
「何でも無い。 でもちょっと用事が出来た」
 
「どっちだ」
 
 
アンテナ君のツッコミには無反応で、私は教室を後にした。
 
何か咎められるかとも思っていたけど、どうやら石橋先生は寝ている様で、授業中に教室を出ていく私を止める人は誰もいなかった。
 
廊下に出て、何の情報もないけど確信を持っててくてく歩く。
 
歩き慣れない校舎だけど、それでも屋上は屋上に在るに違いない。
 
建築士がどんなに偏屈でも、一階に屋上は造れないだろうから。
 
 
屋上。
 
なーんであの馬鹿は何かあると決まって屋上に行くのかな。
 
ま、馬鹿と煙はって言うし。
 
そんで……『何か』って言うのは大抵嫌な事なんだよね。
 
とすると……
 
 
「やっぱ……まだ私と一緒に居るのは辛いのかな」
 
 
思い出しちゃうかな。
 
あの街の事。
 
あの娘の事。
 
んー、でも前の街を出て行く時にはふっ切ってった筈だし。
 
そうすると気に入らないのは私の存在?
 
むー、嫌われるような事はした覚え無いんだけどな。
 
まぁ……出会い頭に引っ叩いたのはホラ、挨拶みたいなもんじゃん?
 
まさかあの程度で怒ったりしてないよね。
 
 
とか考えてるうちに、何とか屋上に繋がる階段を見つけた。
 
一段一段確かめるように登って行くと、目の前に蹴り破られたドアがあった。
 
鍵が所在無さげにぶらぶらしてる。
 
絶対居る。
 
確信を持って、だけど、だからこそ私は足音を抑えて祐一へと忍び寄って行った。
 
そして、寝てるんだか目を瞑ってるだけなんだか判らない祐一に向かって、結構大きな声で言ってやった。
 
 
「コラ! 不良少年A!」
 
 
ちなみに、『A』は相沢のAだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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心臓が止まるかと思った。
 
跳ね起きようとする身体を必死に抑え、さも驚いていないかの様に目を開ける。
 
 
白い下着が見えた。
 
 
確信犯じゃない事だけは言っておこう。
 
強いて言うなればこの学校の制服のスカートが短いのと、寝ている人間の頭の上に仁王立ちになった桜が悪い。
 
俺は潔白だ。
 
無実だ。
 
不可抗力だ。
 
だからと言う訳じゃないが、俺は目を逸らさなかった。
 
逸らせなかった。
 
逸らしたら、それはつまり『そう言う目』で桜の下着を見た事になると思ったから。
 
言い訳なんかじゃない、と思う。
 
前にもこんな事、あったな。
 
あの時は色気の欠片もないタヌキさんだったけど。
 
 
「……桜」
 
「何?」
 
「白」
 
「知ってる」
 
「少しは隠すか恥らうかしろ」
 
「別に減るもんじゃないし」
 
「高校生の女が言う事か」
 
「誰にでも見せて良いって訳じゃないよ」
 
「俺だから……ってか?」
 
「ふふっ、前にもあったよね、こーゆー会話」
 
「お前がフライングボディアタックを仕掛けて来た時か」
 
「挨拶だって言ってるのに」
 
「普通の女の娘は挨拶にフライングボディアタックなどしない」
 
「友情の証だよ。 まさか私だって無差別に抱き着いたりはしないもん」
 
 
半ば芝居がかった俺と桜の会話。
 
お互いがお互いに、あの頃を懐かしむ様に言葉を紡ぐ。
 
それはあまりにも自然で、何気ない日常の一コマですら描き出すように思い出せた。
 
思い出せてしまった。
 
 
「………」
 
「………」
 
 
そして、二人の会話が止まる。
 
痛い、沈黙。
 
やり取りを忘れたからじゃない。
 
むしろ、思い出せたから。
 
この後の会話に混ざるべき奴の声も、姿も、雰囲気も、全てを悲しいほど鮮明に思い出してしまったから。
 
 
「あのさ……祐一?」
 
「何だ」
 
「私が来た事で、ひょっとして唯の事思い出しちゃったりする?」
 
「………」
 
「思い出して少しでも悲しい気持ちになったり辛い気持ちになったり……するかな」
 
 
ぺたんと俺の横に座り、俯き加減に呟く。
 
俺は桜にそんな顔はさせたくないし、そんな声も出させたくない。
 
殆ど脊髄反射の域で桜の頭を引っ叩いた。
 
ぺしっと軽い音がした。
 
 
「痛い」
 
「お前が阿呆な事を言うからだ」
 
「阿呆って」
 
 
これもまた何時かどっかであったようなやり取りだ、とか思いながら話を進める。
 
 
「俺が唯の事を思い出すだと? 馬鹿言え。 忘れた事なんか片時も無いわ」
 
「………」
 
「思い出すなんて特別な事じゃない。 唯はずっと俺と一緒に居る。 今更悲しくなったりなんかしない」
 
 
最後の方はちょっと虚勢だったが、概ね事実だ。
 
思い出すとかじゃなく、何時だって俺と唯は一緒だから。
 
そして俺が唯を想う時、悲しくなったりするのは変だから。
 
あいつとの想い出は楽しい事ばかりだったから。
 
後悔はしてないし、懺悔はもうやめた。
 
痛みはこれからもずっと消えないだろうけど、それでも強く在ろうと思った。
 
だから、それを桜が気にするのはおかしい。
 
って事を言いたかったのだが、俺の口から出た言葉は簡略化が過ぎていたようだ。
 
不満顔の桜が俺を睨む。
 
 
「……唯のお墓の前で泣いてた泣き虫小僧が偉そうに」
 
「なっ!?」
 
「『あの日』お墓参りをしていたのが自分だけだと思った? 私はそこまで薄情な女だったかな?」
 
「お前の姿なんか見かけなかった」
 
「出してないもの。 えと、正午過ぎに行ったら祐一が居た」
 
「顔ぐらい出せよ」
 
「年に一度の恋人達の逢瀬を邪魔しろって言うの? 馬に蹴られて死んじゃうよ」
 
「だからって……」
 
「夕方にもう一回行ったら、まだ居た」
 
「二回も来たのに声すら掛けなかったのかよ」
 
「正確には三回。 夜にもう一回行ったらまだ居た。 祐一、泣いてた」
 
「……文句あるか」
 
「祐一が唯の事を思って涙を流す。 その事を嬉しいと思う事は有っても、文句なんか有る訳が無い。 文句があったらその場で言ってる」
 
「だな。 お前はそう言う奴だ」
 
「誉められてる気がしないんだけど?」
 
「誉めてないからな」
 
「あっそ」
 
「それにしても……本当に何で声を掛けてくれなかったんだ?」
 
「言ったじゃん。 恋人同士の逢瀬を邪魔する趣味は無いって」
 
「何時もお前は居ただろ。 俺と、唯と、桜。 それが『いつも通り』だった筈だ。 遠慮される方が俺としてはムカつく」
 
「………」
 
「……言いたくないなら無理には聞かないけど」
 
「………一回目はさ、本当にさっき言った理由だった」
 
「恋人同士がどーたらこーたら?」
 
「うん。 そんなめんどくさい理由じゃなくても、なんとなく出て行き辛かった。 祐一が帰ってからでも良いかなって思って帰った」
 
「二回目は?」
 
「少しだけ、祐一の話を立ち聞きした」
 
「……で?」
 
「不覚にも、泣いた」
 
「………」
 
「一回目は遠くから見ただけだったんだけどさ、実際に唯に向かって話してる祐一の声聞いたら……なんか、泣けた」
 
「悲しくて?」
 
「ううん。 きっと嬉しくて」
 
「嬉しい?」
 
「祐一と、私と、見えないけどきっとそこには唯も居て。 そうしたら何か大好きだったあの時間が戻った気がした。 
 遠くに行っても変わらずに居てくれた祐一が嬉しかった。 唯を変わらずに好きだって言ってくれる祐一が嬉しかった。
 元気そうで良かった。 声が聴けて安心した。 忘れてないって信じる事が出来た。 それだけで充分だった。 だからもう、涙が止まらなかった」
 
 
言いながら桜の目が潤む。
 
自分でも気付いたのか、目尻をごしごしと擦り、精一杯強がった声でこう言った。
 
「さっき祐一が殴った頭が痛いからだ」、と。
 
そう言う事にしておいた。
 
 
「三回目も言った通り。 祐一だってまさか泣いてる場面で私と出会いたくは無かったでしょ?」
 
「確かに、それは言えるな」
 
「私だって色々考えてるんだよ」
 
「何も考えてない様に見えるけどな」
 
「失礼な。 祐一ほど散漫に生きてないよ」
 
「俺だって色々考えてるさ」
 
「何を?」
 
「色々」
 
「答えになってないっ」
 
 
茶化したように言い、空を見る。
 
雪は、もう止んでいた。
 
時折吹く風に髪を揺らし、同じように風を受ける桜の髪も揺れる。
 
同じ風を受けていると言う事。
 
同じ時を過ごすという事。
 
同じ場所に居ると言う事。
 
言葉を交わす度に、お互いの過ごした時間と距離は意味を為さなくなる。
 
さっきまで感じていた、桜がここに居ると言う事に対する現実感の無さ。
 
それも跡形無く消え、代わりに巻き起こる別の感情。
 
どうしようもない嬉しさ。
 
不思議なドキドキ。
 
奇妙な高揚。
 
全てをひっくるめて、俺はもう一度桜の顔を見る。
 
 
「さしあたっては………」
 
「ん?」
 
「何とも不思議な再会を果たした親友に向かって言うべき、歓迎の言葉とかを、な」
 
 
言ったところでチャイムが鳴った。
 
屋上でチャイムを聞くのも久しぶりだ。
 
一時間目、サボりか。
 
俺も桜も立派な不良生徒だな。
 
そんな事を考えていたら、桜も桜で何かを考えていた。
 
それもご丁寧に腕まで組んで。
 
そして数秒後。
 
ぽんっと手を叩いて、俺の目を見据えて、やたら楽しそうに。
 
 
「もう二度と放さないよ愛しいマイハニー、とか言うのはどう?」
 
「………何が」
 
「親友に対する歓迎の言葉」
 
 
無言で舞直伝の突っ込みチョップをぶちかます。
 
ばこっと音がして、桜が「あぅちっ」と言った。
 
風が、少しだけ強く吹いた。
 
 
「なにすんのさー!」
 
「チョップ」
 
「……久しぶりだなー、祐一とプロレスごっこするのも」
 
 
笑顔の桜。
 
非常に可愛らしいが、目が笑っていない辺りに殺意を感じる。
 
それと、指の関節をぽきぽきと鳴らすのは止めておいた方が良いと思うぞ。
 
指が太くなってしまうらしいし、何より恐い。
 
 
「お前とのプロレスごっこが『ごっこ』だった覚えが無い」
 
「手加減は挑戦者に対して失礼だからね」
 
「挑戦した覚えも無いぞ」
 
「祐一? 問答無用って言う言葉、知ってる?」
 
 
知っているが、今この場ではその意味なんか思い出したくも無い。
 
 
「時間無制限60分一本勝負を始めます」
 
「ちょっと待て、今のアナウンスには矛盾があるぞ」
 
「かーん!」
 
「おおおっ!?」
 
 
試合開始のゴング(桜が自分で喋った)と同時に、桜が俺のバックを取ってコブラに持ちこむ。
 
背骨と頚椎が理不尽な痛みに悲鳴をあげている気がした。
 
半端じゃなく痛い。
 
そう言えば桜はこういう奴だった。
 
ならば俺も……
 
 
「ふんっ!」
 
「ひぁっ」
 
 
力任せにロックされた手首を外し、そのまましゃがみ込んで足を取る。
 
取った足と逆足を大内の要領で刈り、桜を背中から地面に落とす。
 
あ、もちろん落とす寸前に身体を引いてやったので、着地による衝撃はゼロだ。
 
 
「その程度で俺に勝とうとは笑止千判!」
 
 
『待て』のルールが無い以上、この体勢になれば勝利は確実。
 
マウントを取って脇でもくすぐってやろう。
 
秘奥技、笑い地獄だ。
 
覚悟するが良い、桜。
 
 
「隙ありっ」
 
 
刹那、腕を取られた。
 
認めよう、勝利を確信した俺には確かに隙が在った。
 
だからと言って誰がこんな展開を予想するだろうか。
 
右腕を取られ、前につんのめる俺。
 
すかさず腕と首を挟み込む様に足を絡める桜。
 
完璧な形で前三角絞めが決まっていた。
 
『相手が勝利を確信した時、そいつは既に敗北している』
 
誰が言った言葉だか忘れたが、経験上言わせてもらう。
 
アンタは正しい。
 
 
「っ!!!!!」
 
 
気道と頚動脈を一気に閉ざされた。
 
脚の力は、一説には腕の数倍から十数倍になると言う。
 
女の娘の力だったとしても、この技だけは御免被りたい。
 
そして、問題はまた更に別の所にあった。
 
 
察して欲しい。
 
体勢をもう一度、よく思い浮かべて欲しい。
 
桜が俺の腕を自分の方に引き寄せ、体制を崩した俺が前につんのめる。
 
その腕と首を、桜が両足で挟みこむように絞めつけたのだ。
 
加えてもう一つ言っておこう。
 
桜は、制服だ。
 
この学校の制服は、スカートだ。
 
 
「ぎぶ?」
 
「くっ! ちがっ! ぱん……」
 
 
見える、と言うだけならばまだマシだ。
 
視覚と触覚がスクラムを組んで、俺の人生始まって以来の強烈過ぎる情報を伝達してくる。
 
勘弁してくれ桜。
 
俺はまだ犯罪者にはなりたくない。
 
 
理性と意識が両方一気に飛ぶかと思われたその時。
 
屋上のドアが、音を立てて開いた。
 
風かと思い、さりとてそんな強風は吹いていない筈だとも思い、取り敢えず音のした方を見る。
 
北川が居た。
 
 
「あー……うん。 俺は何も見てないから。 次の授業は二人とも保健室で寝てるって事にしとこうな。 じゃ、ごゆっくり」
 
 
そそくさとその場を後にする北川。
 
鍵ごとドアを蹴り破った自分の行為を激しく後悔した。
 
そもそも屋上に来てしまった自分の行為を激しく非難した。
 
考えうる未来の中で、下から二番目くらいの未来だった。
 
 
「ちょっと待げはっ、かはっ!!」
 
 
去り行く北川を呼びとめようとして、激しく咳き込んだ。
 
予想外に桜の前三角は俺の器官にダメージを与えていたらしい。
 
 
「あーあ、絞められた状態で大声なんか出そうとするからだよ」
 
 
妙に冷静な桜の声が頭の上から聞こえた。
 
三角絞めがようやく解けた。
 
 
「どんな誤解をしたんだろうね、アンテナ君は」
 
「考えたくも無い。 とにかく、一刻も早く北川を追って事の顛末を説明せねば」
 
「がんばれー」
 
「お・ま・え・も・い・く・ん・だ・よ!」
 
「ぎ、ぎぶぎぶ。 ちょーくちょーく」
 
「ったくもう……どうしてこうもお前と居ると」
 
「元気、出た?」
 
「……へ?」
 
 
空間ベクトルと三次微分方程式の複合問題を突きつけられた幼稚園児のような顔で桜を見る。
 
流れる後れ毛を押さえながら、桜はふと笑って。
 
 
「ここ、しわが寄ってたぞ」
 
 
そう言って俺の眉間を人差し指でつん、と突付いた。
 
呆けた顔で立ち尽くしている俺。
 
少しだけ声の調子を落した桜が、眼を見つめながら優しく語り始めた。
 
 
「私がここに居る事も、それで思い出しちゃういろんな事も。 心の準備をしてなきゃ誰だって戸惑うし困惑するよね」
 
「まぁ……そりゃな」
 
 
いきなりって言うのは、結構厳しい。
 
突然に『あの頃』がリアルになるのは、いくら時が経っても、少し、痛い。
 
俺はそんなに強くは無い。
 
無意識的に桜を避けた事も、クラスの喧騒に疎外感を感じた事も、今在る現状に違和感を感じた事も事実。
 
『変わってしまった』
 
『変わらずにいられた』
 
二律背反な事象が、確実に俺の中で蠢いている。
 
喧騒から逃げる。
 
現状に違和感を覚える。
 
それは間違い無く『今』ではなく『昔』の俺が在るべき姿。
 
桜の存在を即座に認められなかった。
 
それは明らかに『昔』ではなく『今』の俺を示す姿。
 
桜はさっき、『変わらずに居てくれた事が嬉しい』と俺に言った。
 
他意は無いだろう。
 
だが、俺は確かに変わってしまっている。
 
望む望まないに関わらず、全ては移ろい往く。
 
それでも変わらずに居られる本質的なものが、俺にはあるのだろうか。
 
変えたくないと願えるだけの自分を、俺は持っているのだろうか。
 
祐弥さんに問われた時には、本質的なものは変わってないって言ったんだよな、たしか。
 
変わらずに居るのか、変われずに居るのか、変わってしまったのか、変えたのか。
 
今の俺は、誰かの望む俺で居られているのだろうか。
 
 
「……どうなんだろうな」
 
「何が?」
 
「維持存続し続ける事への疑念と渇望」
 
「ごめん、難しい話はキライ」
 
「変わりたかったのか、変わらずに居たかったのか」
 
「難しい話はキライだって言ったー」
 
「俺も嫌いだ。 だからもう言わない」
 
「あのさ、私に判りやすく話そうとかいう努力はしないの?」
 
「桜に判りやすく説明する? ドストエフスキーの文学を分子力量学で説明するくらい不可能だ」
 
「英語も化学もキライ」
 
「アホ。 ドストエフスキーはロシアだ」
 
「………」
 
 
どげしっ!
 
 
「無言で蹴るなっ」
 
「いいかげん寒いよー。 教室戻ろ?」
 
「そうだっ! 北川に説明せねば!」
 
「『ボクは屋上で転入生を押し倒してスカートの中に顔を突っ込んでいた変態です』って?」
 
「………」
 
「冗談だからそうやって怖い目で睨むのは止めようね?」
 
「あーもう! どうしてこうも―――――」
 
「『いつも通り』……だよね」
 
「………ああ」
 
「ごめん。 少し意図的」
 
「俺も、多分」
 
 
わざとはしゃいでいた。
 
無理にでもはしゃがなきゃ、距離が縮まらない気がした。
 
そんな事、ある訳無いって二人とも判っていたはずなのに。
 
首を擡げて来る過去の痕が少し、痛むから。
 
気付かない振りではしゃぐ子供を演じていた。
 
 
「独りなら前に進めるのに……二人揃っちゃうと足踏みしか出来ないのかな」
 
「足踏みが悪い事だとは思わない。 足場を固めて、そっからまた歩き出せるだろ」
 
「そう……かな」
 
「俺はお前がここに居る事が嬉しい。 また話が出来て嬉しい。 充分だろう? それだけでも」
 
「……そう……だねっ」
 
「よし、早く教室戻るぞ。 そろそろ二時間目が――――」
 
 
きーんこーんかーんこーん
 
 
「チャイム……鳴ったね」
 
「桜。 お前は転入したその日に授業をサボると言う快挙を成し遂げたいか?」
 
「ご冗談を。 不良で名を売る相沢祐一と一緒にしないで貰いたいですわ」
 
「じゃ、そゆ事で」
 
 
言うが早いか、俺は屋上を一気に駆け去る。
 
穏やかな風に背中を押されながら。
 
 
「あっ、ちょ、こらー」
 
 
置いて行かれた事に気付き、桜もダッシュで教室へと向かう。
 
後ろから聞こえる冗談交じりの罵声。
 
息遣い。
 
確かな存在感。
 
多分、俺は笑っていたと思う。
 
桜が居る、ただそれだけの事で。
 
戻れないと判り切っていた筈なのに。
 
 
 
まるで、『あの頃』に戻ったような気がして。
 
 
 
 
 
俺は、笑っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued………
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