沢渡真琴の朝は、非常に遅く始まる。

それは家主である水瀬秋子よりも遅く、学生である相沢祐一よりも遅く。

さすがに『あの』水瀬名雪よりかは幾分か早いものの、それでも彼女が自発的に布団から起き出して来ると云うのは滅多にある事ではなかった。

そもそも性格的に夜更かしを好む傾向にあるらしい彼女は、就寝時間そのものが他の水瀬家住人よりかは若干遅めに設定されている。

今日は月9ドラマ、明日は火サス、合間を縫っては少女漫画を読みふけるのが忙しい。

加えて目覚まし時計のアラーム音が子供の泣き声の次に嫌いと言い放つ彼女にあっては、自力での起床などむしろ望む方が間違っているのかもしれなかった。


そうして真琴は日々を時間の許す限りまで寝尽くし、時が至れば秋子さんの優しいヴォイスで起こされると云うVIP待遇を受けている。

間違ったって真琴の起床を促す声は、相沢祐一のそれではない。

それが何故かと云う理由を説明するのは簡単で、要するに真琴は、祐一の声で起こされるのが酷く不愉快でしょうがないのだと言う事だった。

しかしそれは別に、普段から真琴が祐一の事を声も聞きたくないくらいに嫌っているから、とか云う理由ではない。

あくまでそれは朝限定の、今まさに眠りから覚めようかどうしようかとまどろむ意識の中で幸福を味わっている瞬間に限定しての事だった。


何しろ祐一の起こし方と来たら、一言で表せばまずとにかく荒っぽい。

二言で表せば、ものすっごい荒っぽい。

ドアのノックの仕方だって『とんとん』じゃなく『ガンガン!』だし、声の掛け方だって「起きろー」と命令口調である。

そりゃ『あの』名雪を起こすためにはそのくらい必要なのかもしれないけど、世間一般的な寝起きの良さを持っている真琴にとっては、そこら辺がどうにも納得がいかない部分なのであった。

二つ目に、デリカシーがない。

いっそ潔いくらいない。

言い換えれば遠慮のない『家族』として接してくれているのだろうけど。

本質的な意味では喜ぶべき待遇だと頭では理解していても、それはそれ。

沢渡真琴、年齢不詳ながら、自称お年頃。

起き抜けの部屋に勝手に入ってこられてしかも寝癖を笑われた日などには、必殺の『沢渡テトロドトキシン』が祐一の脾臓に炸裂しても仕方のない事なのであった。

ちなみにこれは、会心の一撃だった。

しかし真琴は反省など欠片もしなかった。

なぜならば、反省するべきは祐一だからである。

その旨を息も絶え絶えな祐一の頭部に投げかけてやったところ、自称『お人好し部門ではアカデミー賞クラス』の彼も流石にカチンと来たようで。


「起こしに来てやってんじゃねーか!」

「そんなの頼んでないわよ!」

「いつまでも寝てんのが悪いんだろ!」

「祐一には関係ないでしょ!」

「きしゃー!!」

「ふかーっ!!」


云々。

言い合いがヒートアップして東海村レベルの臨界点を迎えようとした頃。

それを易とも簡単に諌めたのは、やはりこの家の誇るべき最終兵器お母さんであった。

反目しあっていた二人をして曰く、「あの時の秋子さんならニーベルン・ヴァレスティくらい余裕でぶっ放す事が出来たんじゃないだろうか」

結局この日を境に祐一が真琴を起こす事はなくなり、代わりに秋子さんがその役目を請け負う事となったのだった。

真琴は秋子さんの声で起こされる毎日に大変満足し、何故にもっと早くにこうしなかったのだろうと、密かにそう思ったりなんかしていた。


無論真琴とて、その行為が多分な我が侭を含んでいる事は百も承知だった。

兼業主婦である秋子さんの朝が忙しい事は想像に難くないし、祐一の声でだって起きれらない訳では決してない。

目覚まし時計にだってアラームが優しい機種は多数存在しているし、それを『嫌だから』で通すのはちょっと自分勝手かなと思ったりもしている。

しかしそれら全ての罪悪感を振り切ってまで秋子さんの声を求める真琴の胸の内には、かつてなくした母親に対する本能的な甘えがあるのだった。


『記憶』ではなく、肉体に刻まれた『記録』

生命としての根幹に位置する生存本能は、『母親』の膝元に安全と安心とを確約する。

日々の連続が一生という物を形作るのだとすれば、一日とは一生の断片であると考えて間違いはないだろう。

そして生命の一生が暁を迎えるその瞬間、誰しもが耳にするのは母の声である。

であれば一生の断片である一日の始まりに全ての存在が『それ』を求めるのだとしても、何も不思議な事ではなかった。

本来の姿と記憶を捨てた真琴の場合でもそれは変わらず、社会の中でどれだけの経験値を得て大人ぶったって何も変わらず。

朝という新たな一日――細分化された一生――の始まりに真琴が求めるものはやはり、何よりも確かな『母親』の存在なのであった。


だからその日も真琴は、秋子さんの声で目覚めるはずだった。

十一月最後の日。

相沢祐一が家に居ない朝。

七時を過ぎても町は暗かった、気温は氷点下を指していた。

そして。

その日の朝、秋子さんが二階にまで上がって来る事は、ついに最後までなかった。


その日、真琴が目を覚ました時。

何をするよりも先に思った事はまず、『もったいない事をした』だった。

外はまだ暗い。

息が白い事から察するに、布団の外は相当に寒そうだ。

しかし布団の中はこれでもかと言わんばかりに暖かい。

結論、布団からは抜け出したくない。

それより何より真琴にとっては、『秋子さんに起こされる』と云うその部分こそが最大に重要なのであって。

それに比べれば他の部分などは、ただの『布団から出ない言い訳』にしか過ぎないのだった。


しかし布団の中でぬくぬくとしながらよく考えてみれば、既に覚醒している自分のために秋子さんの手を煩わせると云うのは何だか申し訳ない。

どうせなら自分から起き出して「おはよう」と先に言ってみるのも悪くはないんじゃないだろうかと、頭から被った布団の中で真琴はそう考えた。

そりゃこの寒い朝方に布団から抜け出すのはえらく辛いだろう。

氷点下の恩恵を受けた廊下はさぞや冷え冷えしてるだろう。

自分で起き出すのとどっちがステキかと聞かれたら、それはもう問答無用で秋子さんの声で起こされる方が心安らぐに決まっているだろうけど。

だけど、起きてしまったからにはしょうがない。

そこまで考えを巡らせてから真琴は、もう一度だけ『もったいない事をした』と、布団の中で自分の覚醒を強く悔やんだ。


そして強く悔やみながら彼女は、自分の身体に存在しているある違和感に気付いたのだった。

それは後悔の根源であり、現状の因子。

沢渡真琴が後悔の念を抱いている現状とはつまるところ、『何故』目が覚めてしまったのかという一点に集約されていた。

自分は後悔している。

何故。

秋子さんに起こされる前に目が覚めてしまったから。

それじゃあ――


――『どうして』、目が覚めたのか


トイレに行きたかった訳でもなく、外が明るくなったからでもなく、不測の事態が彼女を驚かせた訳でもなく。

真琴は、それはもう『自然』に目を覚ました。

起き抜けの思考も実に鮮明だった。

それは端的に表現するならば、彼女にとっての睡眠時間が『そこ』で充分に満ち足りた事を指し示していた。

一日の疲れを癒すのには満足のいく睡眠、しかしこれ以上の惰眠は逆に身体を疲弊させる、そんな休息と怠惰の分水嶺。

多分に秋子さんのおかげではあるが一応は規則正しい生活を送っている真琴は、まさに本能的な部分でそのラインを越える事を拒んだのだった。

睡眠時間は充分、だから真琴は目を覚ました。

最近では珍しくなった自力での覚醒がもっともらしい理由を伴った今、しかし彼女はそれだけに、逆に現在の状況に納得がいかなかった。

何故なら彼女の充分な休息の終わりとは自分で得る物ではなく、常に秋子さんによって齎されるはずのものだったからである。


秋子さんが真琴を起こすタイミングとは、毎日毎朝キッチリ定時と云う訳ではない。

それどころかむしろ、分単位で見れば流動的であると言っても差し支えのない精度であった。

今日はチカちゃんの天気予報が見れる時間、昨日はウィッキーさんの流暢な英語が聞ける時間。

時間だけを追っていけば何ら一貫性のなさそうな朝の一幕はしかし、視点を真琴の内面に移せば、また違った様相を映し出すのだった。

その様相とはつまり、沢渡真琴がその不規則な起床時間に非常なる満足を覚えていると云う一点である。

「まだ眠い」とか「あと五分」とか、そんな文句など欠片も出ない。

呆れるほどに毎日毎朝がしゃきっと爽快な目覚めである。

定時に起こされているのであればまだしも不規則な時間に起こされて日々之満足だと言うのだから、これはもう偶然なんてレベルの問題じゃなかった。

どう云った方法を用いているのかまでは判らないが、秋子さんは確実に、真琴の睡眠が充足を迎えた瞬間に部屋のドアをノックしている。

一度などあまりに不思議に思った真琴がそれとなく尋ねてみた事もあったが、結果はもちろん言わずもがな。

誰しもが思い浮かべる所である『あの』スーパー可愛らしい笑顔でもってただ一言、やんわりとこう言われてしまったのであった。

「企業秘密です」、と。

企業秘密じゃしょうがないと真琴がそれ以上の追求を諦めたのも、無理のない事だった。


毎朝繰り返されてきた『日常』が今、音を立てて崩れ去ろうとしている。

少なくとも現状は、今までにない不測の事態である。

刹那のみ思考を逡巡に費やした真琴はしかし、次の瞬間にはもう現状に対しての打開策を打ち出していた。

何も問題はない。

繰り返し思う。

何も、問題は、ない。

自体が不測であるのなら、測定して既知にしてやれば良い。

起き抜けの思考でそんな事を思える真琴の精神はきっと、常人であれば目を見開いて驚くほどのタフネスを有しているに違いなかった。

そもそもの性格的な部分で彼女は、物事に対してのグレーゾーンを許さない傾向がある。

今回の場合もまたそんな性格が彼女の行動を後押ししたようで、真琴はなんの躊躇いもなく一階へと続く階段を下っていったのだった。


一階に下り立ち、薄暗い廊下の向こうを見やる真琴。

その視線の先には、リビングへと通じるドアがあった。

そしてそのドアのガラス部分は、リビング内部で今も煌々と点っているのであろう、蛍光灯の光によって淡く発光していた。

視覚的にも人に暖かみを感じさせる、仄かな赤色を含んだ人工の光。

そう言えば夏の間は涼しさを感じさせる青色の光だったような気がするなと、真琴は過ぎた季節に思いを馳せてみた。

季節によってインテリアだけでなく、蛍光灯の色までをもコーディネイトしながら、そこに居る人間の心地良さを慮る。

秋子さんはやっぱり凄い人なんだなぁと、真琴は半ば現実逃避のような心持ちでそんな事を思った。

そして次の瞬間にはもう、その甘美な逃避を強靭な精神力で打ち切っていた。


リビングに電気が点いていると云うことは、秋子さんは既に起きているはず。

しかし自分は今現在、自力で起床してこの場に立っている。

真琴はこの時点で、現状が単なるイレギュラーである事を切望した。

自分が早く起きすぎただけであると、秋子さんの勘がほんのちょっと鈍っただけだと、そんな事態を切に願った。

だって『そう』であるならば、今朝の一件は笑い話で終わるのだ。

この先に何の禍根も残さない、単なる杞憂で終わるのだ。

リビングのドアを開けたら誰もいなくて。

ダイニングからはお味噌汁の良い香りが流れてきて。

キッチンでは秋子さんがいつもの様にお料理をしていて。

その背後からこっそり忍び寄って「おはよう」って言って、そしたら秋子さんは真琴の顔を見て驚いて。

そしたら自分はへらっと笑って「今日は起こされる前に起きちゃった」とか言って、秋子さんは「えらいのね真琴は」なんて微笑んでくれて。


そうであれば、どんなに良かった事か―――


『それ』はまるで、額縁に入れられた一枚絵であるかのような光景だった。

だから真琴はその光景を、恐らくこれから先の人生で何度も思い出すことになるのだろうと、本能的な部分で理解した。

自然と込み上げてくる涙の気配を噛み殺し、全ての情動を必死になって押さえ込む。

そのくらい『それ』は、あまりにも美しい光景であった。

そのくらい『それ』は、あまりにも寂しい光景であった。


リビングのソファに座ったまま。

テーブルに上半身を預ける形でうつ伏せになり。

恐らくは一晩中稼動していたのだろう、暖房器具の吐き出す暖気が重く淀んで停滞している、そんな澱のような空気の中で。

秋子さんはたった一人、まるで死んだように眠っていた。

瞬間、真琴は全てを察知した。


秋子さんは自己管理を疎かにする人ではない、そんな事は判りきっている。

家主として、母親として、一家の経済と安心とを司る人間として。

自らの健康の大切さが判らないほど、秋子さんは愚かな人間ではなかった。

だが現状、秋子さんはそれを放棄したような寝姿を見せている。

それは何故か。

答えは簡単である。

要するに秋子さんは、『自分の健康管理よりもずっとずっと大切なもの』を守るために、自らのそれを捨てたのだった。

では、その『大切なもの』とは一体何か。

それもまた、説明の必要がないくらい簡単な問いであった。

水瀬秋子がこの世界で何よりも大切に思っているものとは、自らの『家族』に関する全ての事象である。

健康を、安全を、笑顔を、居場所を。

全てを守ってなお有り余るほどの愛情は、その源泉が尽きる事も、そそぐ先が見つからなくなる事も、決してありえなかった。


人が人を愛する時、そこに限界などと云うものは存在しない。

例えば。

あくまで例えばの話であるが、ある冬の日、『家族』の一人が何の連絡もなく外泊をしたとしよう。

さて、彼女はいったいどんな行動をとるのだろうか。

推測の手助けをする判断材料は三つ。

『普段とは違う場所で違った寝姿をしている彼女』と『一晩中ついていたと思われる暖房』と云う事実。

そして、『彼女は家族を何よりも大切に思っている』と云う情報である。

全てのピースを組み合わせて導き出されるのは、最早『推測』などと云う曖昧な言葉ではない。

そこに在るのは、確認するのも馬鹿らしいぐらいの圧倒的な『確信』だった。


秋子さんは、ずっとずっと待っていたのだ。

連絡の一つもよこさずに外泊した家族/祐一の事を、たった一人で何時間も待っていたのだ。

真っ暗な夜道を歩いて帰ってきた時に、家に明かりが点っていたら嬉しいだろうから。

本格的な冬の足音が聞こえてきたこの時期、玄関を開けた時に家の中が暖かかったら嬉しいだろうから。

冷えた身体に、心許ない夜に、『家』に帰ってきてくれた家族にたった一言、「おかえりなさい」が言いたかったから。


そのためならば、そこに形振りなど構わない。

自分の健康など捨てても良いとさえ思ってしまう。

真琴が把握している限り、秋子さんはそんな人だった。


壁掛け時計を見る。

『いつも』の朝であればとっくの昔に朝食の準備が終わっている時間である。

真琴は小さく溜息を吐き、最終的には起こすために『そう』するにもかかわらず、あくまで静かに秋子さんに歩み寄った。

一秒でも、刹那でも長い休息を取ってもらいたい。

願いは叶えられ、真琴がその吐息を感じられるぐらいすぐ傍にまで近づいても、秋子さんに起きる気配は感じられなかった。

そしてその事が、真琴にはたまらなく辛かった。


秋子さんは綺麗な人で、秋子さんは優しい人で、秋子さんは完璧な人で。

お料理が上手で、勘が物凄く良くて、付け入る隙なんかどこにもなくて。

だから例えそれが寝ている時であったとしても、こんなにも間近に他の人間が接近している事に気付かないなんて、あるはずがないのであった。

少なくとも今までに、こんな状況は一度もなかった。

こんなにも隙だらけの、こんなにも華奢な背中。

壊れてしまいそうなほど繊細で美しい寝顔、甘い吐息、桜色の唇。

こんなに間近で見れるなんて思わなかった。

間近でなんて、見たくはなかった。


「秋子さん……もう朝だよ……」

「ん…ま、こと?」

「うん、真琴。 おはよう、秋子さん」

「あら……いやね、私ったら。 こんな場所で寝ちゃって、恥ずかしいわ」


ほつれ毛を耳に掛けながら、いつもの様に頬に手を当てて笑う秋子さん。

だけど、顔色があまり良くない。

笑顔に、いつもの様な力がない。

それだけを把握した次の瞬間、真琴は、祐一を思い切りぶん殴る事を心に強く誓った。

謝っても何してもとりあえず一発だけは顔面にぶち込んでやろうと、そう決めたのだった。


「私、名雪とあゆの事起こしてくるね」

「ごめんなさい、真琴。 お願いできるかしら」

「うん、まかせて。 だから……その間に秋子さんは……いつもみたいになっててね」

「あ……。 ごめんなさいね…真琴」

「……謝らないで。 今のはただの…真琴の我侭だから」


いつも通りがいい。

いつもと同じ朝がいい。

壊れる事のない日常が欲しい、変わる事のない平凡が愛しい。

たとえそれが書割の世界、板敷きの舞台の上で演じられているような滑稽な代物であったとしても、だ。

今しばらくは演技を続けよう。

そのための裏方作業はいくらでもしよう。

二階へと続く階段を上りながら、真琴は心からそう思っていた。


反吐が出るほど甘ったるい、ホーム・スイートホームの舞台劇。

守るためなら何でもするが、残念ながら主役変更だけはできそうにない。

何故ならば、祐一は全ての根幹であるからだ。

彼を舞台から引き摺り下ろした先にあるのは安寧ではない。

虚無である。

水瀬家に住む全ての人間の幸せには彼と云うパーツが必要であるし、その事には今更何の疑念も抱かない。

だが現状、水瀬家の幸せは、その他でもない彼が引き起こした混乱によって侵害されているのだった。

平穏な暮らしが欲しい、しかし祐一が原因で混乱が生じている、だが祐一の存在は排除できない。

まるで解析不能なパラドックス。

サンチョ・パンサに助けを請いたいような矛盾回廊に迷い込んでしまった真琴は、しかし次の瞬間にはもう事態の打開策を発見していた。


つまるところ、水瀬家の幸せだった『今まで』が破壊されているのは、その根幹に位置する祐一が『今まで』とは違ってしまっているからである。

そしてどのような状況であれ、祐一の存在が『水瀬家の幸せ』から外せない要因であると云うのであれば。

それならば、祐一が『変質』してしまったその『原因』をこそ排除してやれば良いのではないか。


真琴の頭上に電球がぺかっと灯る。

それに負けないぐらいの眼光が薄闇の階段に浮かび上がる。

それは、これから真琴がするべき全ての行動に対して、明確なる指針が決定された瞬間だった。

思い煩う必要などなかった。

全てはこんなにも簡単な事だった。

真琴は小さく頷いた。

同時に、拳に力を込めた。

祐一を変質に導いた要因、それさえ消してしまえば水瀬家にはまた平穏が訪れる。

自分が愛した春の日向のような毎日が繰り返されていく。

そのためならば、誰がどう不幸になろうと知った事ではない。

文句があるのであれば、自分を討ち倒し水瀬家を灰にし全ての夢と希望を台無しにしてから、その跡地に向かって延々と語るがいい。


午前七時四十五分、水瀬家階段部分中央付近。

最高に妖艶で、壮絶で、それでいて可愛らしい微笑を見せながら拳を握る。

これが、沢渡真琴の最終結論であった。

























Stay by My Side
 
 
第二十幕 『真実(まこと)のキモチ』






























学校には戻れない。

水瀬家にも戻れない。

だからと言って桜の家に行くには、今の俺は情けない顔をしすぎていた。

十二月一日、午前十時。

殴られた頬が、とても熱い。

恐らくは氷点下であろう冷たい外気が頬を撫で、逆説的に俺は自分の頬が熱を持っている事を強く実感させられていた。

それはまるで、この地を吹きぬける風にすら、俺の犯した罪を咎められているかのようだった。


思い出す、水瀬家のリビング。

痛みに歪んだ同居人の可愛い顔。

差し伸べた手を、鋼鉄の意志と共に拒絶された瞬間のこと。


真琴は、泣いていた。


この世界のどんな場所よりも『それ』が似つかわしくない場所で。

この世界のどんな場所でだって、『そう』なってほしくなかったのに。


無論あの場所で流された涙は、ただの一滴たりとて存在していない。

誰しもが思い浮かべる意味での『泣く』と云う行為がなされた訳でもない。

事情を知らない第三者からの視点から見ればきっと、あの時の真琴は『怒っている』と解釈されたりするのだろう。

俺だってそんなこと、できる事ならば信じたくはなかった。

『そんなはずがない』って目を瞑って、『ありえない』って耳を塞いで。

全てを自らの都合の良い方へと追いやれたら、それはどんなに楽だったのだろう。

だけど網膜に焼きついた現実は目を覆っても鮮明に浮かび上がり、鼓膜にこびりついたその声は耳を塞いでも擦れる事がなく。

希望に縋った楽観的な視点ですら、事態を『否』と判断したのだ。

真実の有様など、思いを馳せるまでもないだろう。


打ち寄せては砕ける微細な波間にすら、その身を任せて漂う砂粒のように。

立ち枯れた樹の小枝の間を吹き抜け、乾いた歌を高い空に響かせる秋風のように。

どんな事態だって生(き)のままに、少しシニカルな笑顔と共に全てを軽く受け流す。

いつの頃からだろう、真琴は俺なんかよりもずっと感情の調律が巧くなっていた。


なのに――

――だから


傍目には、真琴は泣いていなかった。

泣いていると判断できる部分なんて、外見的な因子からは欠片も見つけられなかった。

それでも俺が、真琴が泣いていたんだと確信を持って言えるのはきっと――

どれだけその資格を失うような事をしたとしても。

たとえ今となっては『それ』が陽炎の彼方に霞む遠い幻想であったとしても。

俺達は、家族だったから。

真琴が泣いている事を確かに把握できたあの一瞬まで、俺達は紛れもない『家族』だったから。

目に見えなくても、音に聞こえなくても。

どんなに信じたくなくても。

真琴が泣いている。

その事に気付いてしまえる。

喜びと痛みが同時に存在する事のあまりの滑稽さに、俺は頬を引きつらせる事すらも忘れ、ただ立ち尽くす事しかできなかった。


涙の介在しない泣き声の響き。

それはまるで遠い昔の夏の夜に聞いた、軒先で揺れる風鈴の音の様だった。

うだるような暑さの中、郷愁を誘う硬質な歌声が大気を振るわせる。

それは強く儚い者にしか奏でる事が許されない、嘆きを根底に携えた祈りの詞(ことば)にも似ていて。

いつまでも聴いていたいと強く思う。

二度と聞きたくないと心から願う。

エスと超自我とがぶつかり合って生まれるのがエゴであるならば、エゴとエゴとの衝突からは一体何が生まれると云うのだろうか。

答えは簡単だ、『何も生み出さない』に決まっている。

そして何も生み出さない行為を『無駄だ』と排斥するのが、この世界の基本構造であるならば。

何の事はない。

俺は、自分が『あの頃』から欠片も成長していなかったのだと、もう何度も繰り返している後悔を性懲りもなくまたやっている。

つまりは、ただそれだけの事だった。


「こんな時、お前なら何て言うかな…」


掠れた声で、遠い目で。

俺は、いつだって俺の隣を歩いていてくれた、ひよひよと揺れる両結いの髪に向かって尋ねてみた。

無論、今の俺にはその姿を見ることは叶わない。

声を聞くこともできるはずがない。

『それ』を再認識する事に対する痛みは勿論あったけど、それでも俺はある種の希望すら抱いて、視線を斜め下に落としていた。


想い出が色褪せていないのであれば。

全てのカケラが俺の中で息衝いているのなら。

何一つ成長していない俺が真琴を泣かせたと云うのであれば、せめてその代償と云う訳でもないけれど――

『あの頃』のままの声を聞きたかった。

いつも一緒にいた頃のままの、唯の言葉が聞きたかった。

だから、声に出して訊いてみた。

何もかもが自分の中の幻想じゃ悲しすぎて泣き崩れそうになってしまうから、実際に空気を震わせて、『声』を出してみた。

そうやって想い出に、俺の中の唯に尋ねてみた。


真琴は殴り飛ばした

桜ならきっと笑い飛ばす

なあ唯

お前なら、どんな風に言ってくれるかな――


思いを馳せた結果は、割とすぐに出た。

あいもかわらず成長の兆しが全く見えない、ひっくい背、幼い顔、ぺったんこな胸。

現実よりもクリアに網膜を焦がす、今も色褪せない柔らかな微笑み。

こんなにも彩(イロ)鮮やかに、息をするよりも簡単に、あいつを形成(ツク)る色々な事を思い出せるくせに。

だけど俺には『さっきの問いに対して唯がどんな答えを返してくれるか』って部分が、悲しくなるくらいに想像できなかった。

優しく諭す顔を思い浮かべてもピンとこない。

言葉に詰まって半泣きになってる顔を思い浮かべると、『それはいつもの事じゃないか』と云うツッコミがどこからともなく入る。

「なさけないですね」って怒って一蹴してもらおうとしても、「そんな事ないですよ」って笑い飛ばしてもらおうとしても。

俺の中にいる愛すべきのほほん少女は、何一つ『答え』を示してはくれないどころか、どんな表情を見せてくれるのかすらも教えてはくれなかった。


はて何でこんなに苦労するのだろうと、その場に立ち止まって腕組みまでしながら考え込む。

『それ以外』の部分がやたら鮮明に思い出せるだけに、悩みだけには頑として答えてくれない唯の事が気になって気になってどうしようもなかった。

ひょっとしたら唯は俺の事が嫌いなんじゃないかと、本人が聞いたらどえらい勢いで怒り出しそうな可能性も、軽く疑ってみた。

勿論、唯が悪いだなんて事態はあるはずもなく。

悲しいけれど、そんな事があるはずもなく。

しばしの熟考の後に導き出された結論としては、やはり俺が悪いと云うことで、全てに説明がつきそうなのであった。


要するに『あの頃』の俺は、唯にだけは弱いところを見せたくないと必死になって頑張り。

弱音や泣き言を聞かせるだなんてもってのほかで。

ひょっとしたら小さな相談程度の事ですら二の足を踏んでいて。

とにかく唯の前でだけは完璧な自分でありたいと願い。

この世界の何よりも強く在りたいと、自分の弱い面をひた隠しにして。

そうしてとある夏の日に、『唯に悩みを相談する』って権利を永久に失ってしまった。

ただ、それだけの事なのであった。


弱さも涙も泣き顔も、何もかもを全部ひっくるめてお前の事が大好きだったくせに。

俺は、自分のそんな部分を見せる事ができなかった。

全て曝け出してもお前が俺を好きでいてくれる自信が、あの頃の俺にはどうしても持てなかったんだ。

惚れた弱み、とも少し違うような気がする。

『若さゆえ』で括ってしまうのが一番適当な気がする。

何が最も大切なのかにも気付けずに過ぎて行った、不器用で青すぎた俺達の日々。

今なら多分、大丈夫なんだけど。

あの頃のお前がびっくりするぐらいの弱音とか悩みとか、むしろお前に聞いてもらいたいって思えるようにもなったけど。

だけど、やっぱり全てが遅すぎたんだな。


どんな言葉で問いかけても、どんなに強く願っても。

お前からの応えが返ってくる事は、もう二度と、ありえないから。


もっと色々話したかった。

お前にしか聞けない事だって一杯あった。

甘く幼いお前の声が、何気なく紡がれたただ一片の言の葉が。

思い出すだけでこんなにも胸を暖めてくれる大切なものだったなんて、何もかもが現在進行形だった頃には気づけないものだったから。

あの頃それを知っていれば、もう少し色々な話しをできただろうか。

今よりもずっと多くの想い出と一緒に暮らせていただろうか。

こうやってふと立ち止まったりした時に。

途方に暮れて泣きたくなったりした時に。

いつもよりちょっとお姉さんぶった顔で俺を励ますお前の顔を思い浮かべる事もできたのかな――なんて。

堰を切り、止め処なく溢れるしょうのない繰り言を胸の内に留めつつ。

視線はいつしか右斜め下方、いつもあいつの頭があった『定位置』に注がれていて。


そりゃ、今更になってこんな事を尋ねられたって困るよな


苦笑混じりに溜息を一つ。

白い想いは大気に溶けて。

気がつけば、俺の足は『学校』へと歩み始めていた。

唯も、桜も、誰も知らない。

二人だけの、『学校』へと。

















____________________________________________________________
















「な、殴ったぁ!?」

「うん」

「それも思いっきりっ!?」

「顔面をね」


何と信じられない事をしでかすのだろうか、この同居人は。

自分の後頭部に漫画的表現で言うところの縦線が入っている事を確信しながら、あゆは真琴の顔と真っ赤に腫れ上がった掌とを交互に眺めた。

色々と言いたい事はあるはずなのに、うまく言葉が出てこない。

それどころか感情にすらうまく反映できない。

あゆはこの時とにかく呆然としたまま、真琴の顔を見つめ続けるより他に為す術を持っていなかった。

恐らく自分が生きている限りは絶対に試みないであろう、『大好きな人の顔面に本気でぐーぱんち』。

内面的には様々な葛藤があるやも知れないけれども、少なくとも表面的にはそれを平然と言ってのけるその精神力。

うまく言葉に表せそうになかったし、別にそこにしびれたり憧れたりはしなかったけど。

それでもあゆは目の前の真琴に対して、『何だか判らないけどこの人は凄い』と云う感情を抱かずにはいられなかった。

せめて平手打ちとかじゃないのかな、叩くにしてもさあ。


祐一が逃げ出すように水瀬家を飛び出してから、数分後。

『部屋で漫画でも読んでるうぐぅ』だったあゆがリビングに下りてきた時に目にしたものは、もうそれこそ信じられないような光景だった。

普段よりも大分くつろいだ感じで横倒しになっておられる、リビング備え付けのソファさん。

何かヒステリックな事があったのだろうと容易に想像できる、ぐっちゃぐちゃになってそこら辺に投げ捨てられている包帯さん。

ふと目を横に向ければ「近寄ったら噛みます」ぐらいのオーラを隠そうともしない不機嫌全開な真琴がこっちを睨んでいたりして。

おまけにその右拳は思わず目を覆ってしまいたくなるぐらい痛々しく腫れ上がっていて。

こんな修羅場に出くわす位であれば、漫画『抹茶☆伝説〜八十八夜編〜』を最後まで読んでおくべきだったと、あゆは心の中で物凄く後悔した。

少なくとも今から数時間は、漫画の続きを読めるなどと思わない方が良いだろう。

それにしても『早摘み編』のラストは感動的だったなぁ。

いやいや、それは今は置いといて。


「その右手……怪我してるんだね?」

「してるわよ」

「片手じゃ包帯、巻けないよ?」

「実験済み」


吐き捨てるように真琴が呟く。

なるほど、道理で包帯が悲惨な感じになっている訳だ。

振り返るまでもなくさっき目にした惨状が鮮明に網膜に蘇ってきたので、あゆはそのまま先を続ける事にした。

もしもこれ見よがしに振り返ったりしたら、真琴の怒りがどこにどう向かうか判ったものではない。

何しろこの真琴の反発係数ときたら、夜店で釣られるスーパーボールが裸足になって逃げ出すくらいの非常に厄介なレベルの物なのである。

もっとも普段であればその反発先は主に相沢祐一に収束しているのだが、生憎と今のこの場に彼の姿は見当たらない。

しかも具合の悪い事に真琴のイライラレベルは、もう目で見て確認できるほどのスペシャルヘビー級な代物であった。

同居してもうすぐ一年になろうかと云うぐらいであるから、当然あゆとしてもその辺の機微に関してぬかったりはしない。

『さわるな危険』と判りやすく表情に出してくれているのだから、これ幸いとそ知らぬふりで二階に戻ってしまえれば、それで全ては終わるのだった。


しかし。

『不注意』とか『うっかり』とかの要因を除いたとしても、時として人は、意志を持って火中の栗を拾わなくてはならない事態に遭遇する。

それは例えば同居人の拳が痛々しく、普段の1.5倍ぐらいの大きさにまで赤く腫れ上がってしまっているのを目にした時とか。

その拳の痛み故にでもなく、包帯を巻けない苛立たしさ故にでもなく。

普段は気丈に振舞っている大好きで大切な同居人の女の娘の瞳が、何だか泣いている様に見えちゃった時とかである。

月宮あゆ曰く。

男の人だけじゃなく、女の子にだって、退けない時ってのはあるんだよ。


「手、出して」

「………」


す―、と。

意外と素直に差し出されたその右手は、間近で見ると遠目に把握していたのよりも更に痛々しく腫れ上がっていた。

触れるまでもなく判っていた事だが、真っ赤になった手の甲は明らかに熱を持っている。

これはひょっとしたら病院に連れて行ったほうがいいレベルなんじゃないかと思ったあゆは、その旨を口に出そうとして――


「これ、びょうい――」

「や」


最後まで言う暇すら与えられず、きっぱりはっきり断られた。

しかもたった一文字で断られた。

何もそこまで無下に言う事はないんじゃないかってくらい断固として拒否されたので、悲しくなったあゆは思わず小さく呟いた。

うぐぅ。


「指は? 動かせる?」

「動かせるわよ。 ただ、動かしたくはない」

「ぐー、握れる?」

「握れる。 握りたくはないけど」


取り付く島もない、訳ではない。

少なくとも訊いた事に対してはちゃんと応えてくれている。

自分が今訊ねた事も、恐らくは既に自分で試した後なのだろう。

あまりにも明瞭でしかも素早い真琴の返答から、あゆはそう判断した。

根拠が足りない上に素人判断に過ぎないけれども、どうやら骨に異常はないらしい。

どのみち最終的な判断は秋子さんに委ねる事になるのだからと、あゆはその場での問診をそれっきりで打ち切る事に決めた。


「湿布を貼って、それから包帯巻くよ」

「好きにして」

「好きにしていいなら、今すぐに病院に連れてくよ」

「それ以外なら、好きにして」

「手の感覚がなくなるくらいまで冷たーい氷水に手を浸して患部を冷すのと、湿布を貼って包帯を巻くのと、どっちがいい?」

「……あんた、性格悪いわよ」

「祐一君に似てきたって、最近よく言われるよ」


『祐一君』

その単語が出た時、真琴のポーカーフェイスが一瞬だけ崩れた。

瞬きをすればその間に消えてしまうくらいの、微細な動揺。

それをあゆが見逃す事がなかったのは恐らく、その反応をおおよその部分であらかじめ予測していたからに違いなかった。

幼い外見からは想像もつかないほど鋭い洞察力で事の次第を朧に把握したあゆは、思わず吐こうとした溜息をぐっと胸の奥にしまいこんだ。

なるほど、やっぱり祐一君が原因か。

なんて、真琴を揺さぶって検出した反応を冷静に分析している自分がちょっぴり嫌で、軽く自己嫌悪。

やっぱり性格悪くなってるんだろうなぁって思うけど、でも、それはやっぱりしょうがないとあゆは思った。

だって好きな人に影響を受けちゃうってこと、最近じゃ否定できなくてどうしようもない。

だからやっぱり全部の責任は祐一君が背負うべきなんだと、あゆはそこで一つの結論を出す事にした。

僕の性格が悪くなったのも。

真琴ちゃんの手がこんなにも痛々しい事になってるのも。

きっと、祐一君が悪いんだ。

多分。

恐らく。

そうじゃないかなぁとは思うんだけど。


「……理由は、訊いてもいいの?」

「祐一が悪い」

「だと思ったよ」


あまりにも予想通りの返答に、あゆが思わずくすくすと笑う。

笑われた真琴は憮然としながらも、それでもあゆに任せた手を振り払うような真似はしなかった。

やはりこの家のリビングを満たすものは、今のあゆが見せているような優しい笑顔であってほしい。

少なくとも殴っただの泣いただのと云う雰囲気は、この場所に不釣合いにもほどがある。

何より真琴としては、何も知らない秋子さんが帰ってくるまでに『今』の空気を出来る限りまで払拭していたいと云う思いがあるのだった。

残念な事に『何事もなかったかのように』と云うラインまで復元するのは、自分の右手の存在が何よりのネックになってしまっている。

そもそも『隠したい雰囲気』なるものを作ってしまったのも自分自身な訳であって(それすら大本をただせば祐一が悪いのだが)

ならばせめて右手の負傷までをも笑ってしまえる空気が欲しいと、真琴はそう強く願っていた。

そして、目の前にいるこの少女であれば『それ』が可能であると、真琴は信じて疑わなかった。

だから真琴は、本当は余り気が進まなかったにもかかわらず、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。


「悪いって言うのは……うん、ちょっと違うかもしれないけど」

「そうなの?」

「ん……いや、やっぱり祐一が悪いから殴ったの。 殴った理由は、間違いなく、祐一が悪いから」

「殴った理由、『は』?」


真琴の言葉は、その部分だけがやたら強調されていた。

多くの要因の中からたった一つだけを選び出して意味を付加する時に用いられる系助詞、『は』。

そこを強調すると云う事は恐らく、裏にあるのは『他にも色々あるけれど』と云う類の言葉なのだろう。

言葉の調子からそこまでを瞬時に察知したあゆは、その場に流れる空気を濁さぬよう、言葉少なく先を促した。

しかし。


「オレンジペコ」

「へ?」

「秋子さん特製のマーマレードを小さじ一杯分溶かした紅茶が飲みたい。 今すぐに」

「……はいはい」


呆れとも疲れともつかぬ溜息を一つ吐き、「しょーがないなー」と言いつつキッチンへ向かうあゆ。

別に『怪我人に優しく』なんて意味ではなかったけど、なんとなく今の真琴のお願いを断る気にはなれなかった。

何より真琴の表情からは、『紅茶を淹れてくれなきゃ先を話す気はないわよ』って意思がこれ以上なく明確に感じられた訳であって。

加えて部屋の惨状とか拳の腫れ具合を見る限り、お茶でも飲みながらじゃないと落ち着いて話せないような内容なのかもって思ってしまった訳で。


「ホットでいいのー?」

「舌が火傷するくらい熱いのがいい」


猫舌のくせに。

思うだけにして口には出さず、あゆは茶棚の中から『OP』と書いてある紅茶の缶を取り出した。

残念な事にあゆの舌では『OP』が『FOP』になろうが『BOP』になろうが、その辺の違いなどよく判らない。

それどころか秋子さんに教わるまでは、『オレンジペコと云うくらいだからきっとオレンジの香りがするのだろう』と思っていたくらいである。

もっとも紅茶の知識が頭に入っていようがいまいが、おいしい物をおいしいと感じる分には何の問題もない。

ダージリンだのスリランカだのと言った小難しい知識は、逆に純粋な味覚を阻害する。

第一その手の御託には味も香りも存在しないではないかと思ったあゆは、そこまで考えてまた一人、何とも言えない苦笑を漏らした。

まいったな、これじゃ本当に祐一君みたいだよ。

澄んだお湯の中に、ティースプーン二杯分のオレンジペコ。

大き目の葉は、四分ぐらい。

ゆっくりじっくり淹れましょう。

いつか耳にした秋子さんの優しい声を思い出しながら、ティーポットの中でゆっくりと開いていく葉を見つめる。

徐々に色が濃くなっていく様をぼんやりと眺めながら、あゆは取りとめもない思考に身を委ねていた。


こうしていると、短い四分。

手持ち無沙汰なら、長すぎる四分。

だけど真琴ちゃんと話すには、きっと短すぎる四分なんだろう。

同じ四分なのに、すごく違う。

同じ家の中にいるボクと真琴ちゃんとですら、違う長さの四分間。

ねぇ。

祐一君は今、どんな四分を過ごしていますか。

何色の風に吹かれていますか。

誰の事を想って、誰のために傷ついていますか。

ボクの知らない場所で、僕の知らない人の事を想って。

もしも今、祐一君が泣いているのだとしたら。

ボクには一体、何ができますか。

それ以前に僕は、その時キミの傍にいる事を許してもらえますか。

そして草薙さんには、それを許しているのですか。

誰かを許容して誰かを拒絶するのだとしたら、その境界線に立って選定を行っている門番は、きっと『想い出』って云う名前なんだと思う。

共通の記憶、共有する想い、変わらない想い出、色褪せない日々。

『誰か』の閉ざされた聖域に踏み込めるのはきっと、そんな形のない幸せを小さな鍵にしてじゃないと不可能だから。

『想い出には時間も距離も関係ない』って栞ちゃんが言っていた。

だからボクは、キミと離れていた七年間を長すぎただなんて嘆いたりしない。

再び出会うために必要な時間だったと、頭では理解している。

しているつもりなんだけど。

だけど――


「蒸らし時間、長くない?」

「ぇ? ……わ、うわっ」


不意の呼び声に意識を根こそぎ刈り取られ、戻ってきた先は当たり前のようだがダイニングの机の上。

あゆの視線の先では秋子さん御用達の紅茶葉が、そろそろ『紅』とは呼べない色になろうかと云うラインにまでお湯を紅く染め上げていた。

一刻の猶予もないと思わずポットに伸ばしたあゆの手はしかし、その途中で真琴の左手にべしっと叩き落されてしまって。

何事かと思って視線を真琴の方に送ってみれば、そこにあったのは半分以上が呆れで構成されている同居人の剣呑な顔付きであった。

うぐぅ、おっかない。


「そんな勢いで触ろうとしたら、あんた絶対にポットひっくり返して火傷するでしょ。 このドジ」

「ぼ、ボクそこまでドジじゃないもん」

「まったく……同じ日に二人も右手を負傷したりしたら、さすがに笑い話にもなりゃしないわよ」


一人の時点で笑い話にはできないと思うんだけど。

せめてもの反論を試みようとしたあゆはしかし、やっぱりなんだか真琴がおっかないので、あえて口を慎む事にした。

今度は怒られないように慎重にポットに手を伸ばし、普段飲んでいる物よりも若干色の濃くなった紅茶を用意していたティーカップに注ぐ。

お湯で薄めた方がいいかどうかを数瞬だけ迷ったが、真琴が何も言わずに自分のカップにマーマレードを投下したので、何も言わない事にした。

結果、「苦いわよ」とお叱りを受けた。

何だかすごく理不尽な気がしたが、勿論これも口には出さなかった。

月宮あゆは、危機回避能力の高い女の娘なのである。



















___________________________________________________________
















「要するに、祐一が秋子さんに心配かけておいてそれをこれっぽっちも自覚してないから、アッタマきて殴り飛ばしたの」

「………」

「何よ」


それは要約しすぎて、肝心な部分がことごとく省略されているんじゃないだろうか。

過ぎ去りし秋の日の空の如くどこまでも精練された真琴の説明に、あゆは思わずそんな感想を抱いてしまっていた。

なるほど確かに『要するに』と前置きしているのだから、発言内容がある程度簡略化されているのはしょうがないだろう。

物事を他人に伝える場合には余分な部分をこれでもかと削ぎ落とすくらいでちょうど良いと、どこかの偉い人も言っていた気がする。

しかしだからと言って肉を切らせて骨まで削りまくったかのような説明ではあんまりなのではないかと、あゆは密かにそう思った。

今の説明で自分が把握できたのは恐らく、事実関係のほんの僅かな部分でしかないのだろう。

一を聞いて十を知るだなんて芸当は自分にはできないし、十を知った気になって百を妄想するだなんてマネはあまり好きではない。

だとすればやはり当事者の口からもう少し詳細な事情を話してほしい訳であって、そうじゃなきゃ紅茶を淹れたかいもない訳であって。

うぐぅ、露骨に『話したくない』みたいな顔はしないでほしいんですけど…


「じゃ、じゃあ話を変えるけどさ」

「何よ」

「……さっき、『殴った理由”は”』って言ってたよね」

「言った」

「祐一君が殴られた事は判った。 その理由も、把握した。 でもじゃあ……他にいったい何があったの?」


無駄に鋭いわね、このうぐぅ。

いつもより少し苦い紅茶を口に含みながら、真琴は目の前の『うぐぅ』こと月宮あゆを睨みつけた。

びくっとなって、少しだけ縮こまった。

その様子が面白くてもう一度だけやってみようかと思ったけど、あまりいじめるのも可哀想なので、この辺でやめる事にした。

何より『あゆをいじめる』と云う行為に若干の楽しみを覚えてしまっている自分が、どこかの誰かさんにそっくりな気がしてムカッとしたから。

少なくとも今は『似た者同士』を素直に喜べない、あんなバカチンと似た者同士だなんて喜びたくもない心情の真琴が、そこにはいた。

勿論、彼の事は大好きである。

『アナタは私を殺すの』と云う質問によって間接的に告げたばかりである『彼を愛している』と云う事実を、否定するつもりは欠片もない。

しかし『人を好きになる』と云う事と『その人の全てを許容する』と云う事は、真琴の中の価値観においてはもう完璧なる別問題なのであった。

いくら好きでも許し難い事は存在する。

その部分についてはハッキリとした拒絶を叩き込む。

こちらの拳が砕けるんじゃないかってくらい思い切り殴り飛ばして、相手が自分の事を嫌うんじゃないかってぐらい思い切り拒絶して。

そして。


「本当なら、思いっきり殴って終わるはずだった。 殴られて真っ赤になった祐一のほっぺに優しくキスして、それで全部を水に流す予定だった」

「なんか聞き捨てならない部分があったんだけど…」

「未遂だから流しなさい」

「未遂って事は?」

「してないわよ。 って言うより、『できなかった』の方が正しいかもしれない」

「雰囲気的に?」

「状況的に」


想い人を思い切り殴った次の瞬間、同じ場所に口付けをしようとする。

モノクロ映画の中でしかお目にかかれないような、何もかもが濃厚なラブ&バイオレンス。

そんなシーンをまさかの『普段通りの日常』の中で体現しようとしていた真琴をして、『状況的に無理』と言わしめるほどの事態。

そもそも『殴り飛ばす』の時点で自分の知っているキスの雰囲気から500マイルほどかけ離れてしまっていたあゆには、それがどんな状況を指しているのかなんて皆目見当がつかなかった。

毎度毎度の事ながら、祐一君とその周囲の状況に関してだけは、予測を立てられそうにもない。

最近じゃ真琴ちゃんまで相乗効果をかもし出し始めるから、尚更に手に負えない。

きっとこの先に待っているのも相当にアレな発言なんだろうなと思い、自らを落ち着かせるためにあゆは香り高い紅茶に口をつけ。


「祐一、この家から出て行くみたい」


吐き出さなかっただけでも、あゆはよく頑張った方だった。


「え、えええええっ?」

「どこに行くかは口にしなかったけど、まぁ考えるまでもないわね。 あんたも心当たりあるでしょ?」

「……草薙、桜さん」

「多分、ね」


視線を合わせるでもなくそう呟いてから、真琴は事の次第をゆっくりと語りだした。

祐一が自分に投げかけてきた質問。

秋子さんが祐一に渡したと云う制服の存在。

それについて祐一が抱いている懐疑的な心情。

そして、全ての背後に見え隠れする草薙桜の影。



「ま、結果的には真琴がこの家から叩き出したって形になるんだけどね」

「ひ、引き止めなかったのっ? って言うか叩き出したのっ?」

「叩き出す……んー、そんなもんじゃないわね。 多分だけどあの瞬間、祐一の目には私が鬼にでも見えてたと思う」

「それは……祐一君が『悪い』からそうしたの?」

「バカね。 逆よ」

「ぎゃ、く?」


思考が追いつかない。

状況が思い浮かばない。

口頭で語られるばかりの情報では実状がまったく把握できず、あゆの思考回路は今にも煙を吐きながらショートしてしまいそうになっていた。

祐一君が殴られて、でもそれは祐一君が悪いのであって。

祐一君が真琴ちゃんに家から叩きだされて、でもそれに関しては祐一君が悪いんじゃなくて、むしろ逆であって。

うぐぅ、難しい。


「祐一君は悪くないの?」

「悪くない」

「じゃあ、真琴ちゃんが叩き出したかったの?」

「違う」

「じゃあ――」

「しょうがないでしょ? だってあの時、祐一は『この家から叩き出される事』を望んでたんだもの」


しれっとした顔で。

さもない事だと言わんばかりの平静さで。

真琴は、実にとんでもない事を言ってのけた。

それは、普通であればありえないこと。

あのような状況下で、たったあれだけの遣り取りで、相沢祐一本人ですら『それ』を自覚するのはその遣り取りのずっと後だったと云うのに。

真琴は、祐一の本心を本人よりも的確に見抜いていた。

『神懸り』と表現しても、『家族だから』の言葉でも説明のつかぬ。

それはまさに『精神の共有』とでも呼ぶべき、驚嘆に値する事柄であった。


「忘れもしない。 『あの冬の日』と同じ事を、祐一は真琴に聞いてきたわ。 『もし俺がいなくなったら寂しいか』、だって」

「………」

「バカにされてるのかと思った。 瞬間湯沸かし機なんかメじゃないくらい、一瞬で頭に血が上るのを感じたわ」


それは、すごく想像しやすい光景だね。

思うだけにして、あゆは無言で先を促す事にした。


「だから、思いっきりいじめてやったのよ。 あの馬鹿が泣きそうになるくらいまで、こっぴどくいじめてやったわ」

「ぐ、具体的には何をしたのかな…?」

「愛してるって、言ってやった」

「……それ、いじめ?」


首を傾げる。

思わず「うぐ?」と声が漏れる。

それもそのはず、真琴の言った『いじめ』の言葉は、あゆの耳で聞く限りではどうにも『愛の告白』のようにしか聞こえないのであった。

あまりにも素直な『わかりません』の態度を見せるあゆに、真琴は軽く呆れた顔を見せる。

しかし次の瞬間にはもう、真琴は若干の自嘲と共にその表情を全て打ち消していた。

自分が賢しくてあゆが鈍感だなんて、とんでもない。

事それが『相沢祐一の理解』と云う分野に限り、月宮あゆは恐ろしく聡明なのである。

あゆが現状で祐一の真意を理解し得ていないのは、単純に『彼女があの場所にいなかったから』と云う、ただそれだけのこと。

それに加えて自らの説明が不足しているからだと云う結論に至った真琴は、矢継ぎ早に先を進めることにした。

少なくとも此処から先は、感情を挟む余裕などなくなるだろうから。


「前に同じ事を聞かれた時は、気付いてあげられなかった。 あの頃は真琴も子供だったし、状況もアレだったし。
 でも今回はちゃんと祐一の目を見て、声を聞いて、真琴も少なからず大人になったから、理解してあげる事ができた。
 こいつは、この馬鹿は、前の時は引き止めてほしくてこんな事を言ってたくせに、今度は突き放してほしくて同じ言葉を吐いているんだ、ってね」

「……だから」

「そう、だから真琴は『愛してる』って言ってやった。 どこにも行かないでって、祐一に捨てられたら真琴は死んじゃうわって、言ってみた。
 まぁ九割以上は本音だったし予想もしてたけど、結果は言わずもがな。 『愛してる』って言って困った顔されたんじゃ、どうしようもないわよね」


自嘲気味に薄く笑い、おどけたように肩をすくめる。

真琴が祐一と交わした一連の遣り取りを耳にしたあゆは、その余波に触れただけでなんだか泣きそうになってしまっていた。

笑ってるけど、きっと辛かったと思う。

辛くないはずなんか、絶対にないと思う。

大好きな人に『大好き』って言って困った顔をされるだなんて、本当ならもっともっと落ち込んでもいい出来事のはずなのに。

思わずそっと目を閉じ、自らの身にそれが起こった時の事を考える。

愛する人からの拒絶、それが意味する祐一の決意、棄てられる自分、棄てられる家族、彼がその代わりに得る『何か』の存在。

思いを馳せるだけで息が苦しくなる、それは想像の世界の中ですら残酷な、あゆにとっては殆ど致死量に値するぐらいの悲しい出来事だった。

物理的なものではないが確かに感じる痛みを胸に抱き、あゆは目を開ける。

それを再開の印と受け取った真琴は、もうそろそろ『涙色』と同義になってしまいそうな『透明』な声で、その場を最後まで一気に駆け抜けた。


「後はさっきも言った通り。 この家を叩き出される事を望んでいた祐一を望み通り叩き出してやって、現在に至るってわけ。
 祐一を殴った理由は、祐一が悪いから。 祐一を叩き出した理由は、祐一がそれを望んでいたから。
 多分、祐一はすごく悩んだんだと思う。 あの女とこの家を天秤にかけなきゃいけないって事に、ものすごく苦しんだんだと思う。
 あんたも知ってるでしょ。 祐一は、自分の中でとっくの昔に出てるはずの答えを、それでもずっと悩み続ける馬鹿な奴だって。
 そうじゃなきゃ遠まわしにこの家から叩き出してほしいだなんて、真琴に拒絶してほしいだなんて、ギャグでだって言い出すはずがないから」


実際にその場に立ち会っていないあゆにも、真琴の言う事は痛いほどよく判った。

少なくとも祐一が満面の笑みで『この家を出て桜の家に居候するわ』なんて言ってる場面なんて、例えモノクロの画面ですら想像できなかった。

祐一が水瀬家に家族として迎え入れられてから、もうすぐ一年。

祐一と、あゆと、真琴と、水瀬親子の五人で『家族』となってから、もうすぐ一年。

それは言葉にすればとても短いようでいて、実際に只中で生きている身にとってはとても永い、そして濃密な時間であった。

だからあゆは、自信を持って言えた。

自分は世界で一番、この家と家族が大好きなんだと、貧弱な胸を思い切り張って言えた。

そして。

祐一がそんな自分と同等かひょっとしたらそれ以上に水瀬家の家族を愛しているのだと云う事もまた、あゆは確信を持って言えるのだった。

春をのほほんと過ごして。

夏をうりゃーっと過ごして。

秋をまったりと過ごして。

だから、また訪れる冬の日々に、誰もが平穏で幸せな日常を期待していた。

昨冬の諸々が起こらなければ良かったなどとは微塵も思ったりしないけれど、流れる涙が少なければそれに越した事はないと思っていた。

しかし此の度、二度目の冬。

二度目の雪。

何が悪いのか、誰が悪いのかも判らないままに。

またしても、歯車は静かに狂い始めていた。


「どう? あんたなら、最後の最後まで『行かないで』って引き止めることができた?」


真琴の言葉。

それは、今は遠い『あの冬の日』に問われたのと全く同じような質問だった。

あの日もそう、気がつけば祐一の姿は水瀬家に存在していなかった。

秋子さんの口から聞き出した真実は、厳冬の寒気よりも激しくあゆの心身を切り刻んだ。

『祐一はこの家から出て行った』

『もう二度と会えないくらい遠くに行ってしまった』

取り乱して、我を失って、必死になって秋子さんを問い詰めて。

走って、走って、遠くなる背中を必死に追いかけた。

あの冬の日の朝を、白い町並みを、あゆはきっと生涯忘れないだろう。

自分が内側から崩壊してしまいそうなほどの寂しさも。

気が狂いそうなほどの愛しさも。

風の匂いも、鳥の詩も、温かいココアの味も。

そして、折れかけた心をそっと包んでくれた人の存在も。

マスターが、彼女に問いかけた言葉の意味も。


真琴が選んだのは、何よりも『祐一が傷つかないこと』を第一とした道だった。

引き止めても、突き放しても、祐一はこの家を去っていく。

それは既に不可逆の決定事項であり、真琴がどちらの態度を選んでも、祐一はその心に傷を負う。

ならばせめて、彼が進んだその先の道では安息が得られますようにと。

繰り返し繰り返し訪れる、『家族を棄てた』と云う罪悪感故の苦しみから、少しでも彼が解き放たれますようにと。

白刃を握って、一刀両断にした。

握った自らの手が傷つく事も厭わずに、その痛みすらも大切な物だと抱え込んだ。

「出て行け」と叫び、「顔も見たくない」と罵り。

だけどそうする事で彼の決心が鈍らないのであれば、彼がそれを望んでいるのであれば。

もうこれ以上、彼が傷つく事がないのであれば。

本心ではどれだけ彼に行ってほくしくないと願っていながらも、平然とした顔でその背中を見送ってやる。

必要であれば殴り飛ばすことも許容する。

そしてそれはやはり、月宮あゆには真似のできない道であった。


「あゆあゆがどんな答えを出しても真琴は否定しないわよ。 こーゆーのは人それぞれだし」

「……うん、判ったよ」


全ての説明が終わり、暫くして。

小さく頷いた後にあゆが真琴に見せたのは、曇りの一つとしてない完璧なまでの笑顔であった。

ただしそれは、楽しくて覗かせる笑顔でもなく、嬉しくて零れだす笑顔でもなく。

言わば、圧倒的な質量の『覚悟』を決めた者が見せる類のものであった。

待ってるだけの女はごめんだって、ボクはもう『あの日』に決めたから――


「……行くの?」

「うん」


どこに、とも。

何をしに、とも言わない。

その程度の意思疎通など、この話が始まった瞬間には終わっていた気がする。

それぐらいあゆの瞳と決意には迷いがなく、それを見た時の真琴の感情は予定調和のものであった。

少しの羨望。

少しの嫉妬。

何故なら真琴はこんな時に、月宮あゆが選ぶような覚悟の道を選ぶ事などできないから。

そして沢渡真琴のデータベースの中には、『こんな時の祐一がどこにいるか』だなんて情報はインプットされていないのだから。

あゆは恐らく、知っているのだろう。

そしてその情報に確信を持てるぐらいの『何か』を、祐一と共有しているのだろう。

自分の与り知らぬ『約束の場所』で、暗黙の了解を経た二人が何事かを密やかに語り合う。

まるで絵に描いたかのようなラブロマンスの一幕が脳裏に浮かび上がってきた真琴は、深い溜息とともにそれを払拭しようとした。

なかなか、うまくはいかなかった。

だからあんまり話したくなかったのよ、まったく。


「その手、絶対安静だからね」

「はいはい」

「痛くなったら病院行くんだよ」

「常時痛いから平気よ」

「………」

「いいから早く行きなさい。 多分……待ってるわよ」

「ん、行ってきますっ」


ぱたぱたとリビングを後にするあゆ。

その背中を見ながら、真琴はもう一度だけ大きな溜息を吐いた。

それが何を意味しているのかを知る者は、誰もいない。

紅茶の香りは徐々に薄らぎ、また、リビングを無色が制圧した。































To be continued……
_________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________________