オレはずっと、学校ってヤツが気に入らなかった。

勉強なんて好きじゃなかったし、集団行動なんて耳にするのも嫌だった。

給食を食べるのが遅かった誰かの連帯責任で昼休みが潰された時なんか、ソイツの事よりもシステム自体の方を呪ったものだった。

自分が汚してもいない場所を掃除させられる事が納得いかなかった。

避難訓練の時に先生がしたり顔で言う『お・は・しのルールを守りましょう』みたいな子供騙しの文句が嫌いだった。

何の能力もないのに威張り散らす、『上級生』と呼ばれる特権階級が存在する事が、あまりにも理不尽すぎて許せなかった。

『右向け右』で右を向くのが嫌だった。

『前へならえ』なんか冗談じゃなかった。

『小さい前へならえ』なんて言われた日には、コイツはオレを笑わせるために喋っているのかと勘違いしてしまったくらいだった。

案の定、勘違いして笑ったオレはしこたま怒られた。

不愉快な気分のまま家に帰って「オレはなんで怒られたのだ」と親父に訊いてみたら、「そりゃ上官不敬と命令不服従だな」と言われた。

言葉の意味が判らなかったので、親父の書斎に走っていって辞書で調べてみた。

言葉の意味が判明したので、オレは余計に不愉快になった。


「父さん」

「どうした?」

「オレは軍隊に入った覚えはないのに、なんでジョーカンフケーなんかで怒られなきゃならないんだ」

「ああ、その答えは簡単だ。 俺が入隊させたんだよ、お前の事を」

「なっ、なんでまたそんな事を勝手に!?」

「国民の義務だとよ」


海外のドラマみたく、両手を肩の高さに挙げながら「まいったぜボブ」みたいな仕草を取る父さん。

実際にまいっているのはこっちの方なのに、先にそんなポーズをするのはちょっと卑怯なんじゃないかとオレは思った。

オレのジェスチャーを返せとか、勝手に入隊させるなとか、もう少し判りやすい言葉を使えだとか。

あまりにも横暴な父さんに言いたい事は色々とあったけど、オレにはそれよりもまず先に、確認するべき事が残されていた。

国民の義務。

ギム。

未知の単語の出現に、また辞書が必要になった。


「ふむふむ、うん。 平たく言うと『やらなきゃいけないこと』、か。 んー、納得できない! 誰が決めたんだ、こんなギム!」

「そりゃ、昔の偉い人だろう」

「偉い人? それは父さんよりも偉いのか?」

「偉いな」

「な、なんだってー!」

「何しろ俺はお大臣様でもなければ、学者様でもない。 それどころか学士の資格すら満足に持っちゃいない、低学歴叩き上げ野郎だからな」

「すとっぷ! 日本語で! せめて日本語でお話しようぜ、父さん」


そろそろ辞書を捲るのにも疲れてきたと言うのに、またぞろ訳の判らない単語を並べ立てる父さん。

そんな『ガクシャサマ』とか『タタキアゲヤロウ』とか東北地方の妖怪みたいな響きの言葉を連ねられたって、オレの方だって困ってしまうのだ。

子供扱いされるのは好きじゃないけど、父さんはもう少し小学生にも判りやすい言葉を選んで会話をするべきだと思う。

口に出したら何だか負けたような気分になってしまうので、オレは抗議の眼差しで父さんを睨むだけにしておいた。

「はいはいそうだな」みたいな顔をされたのが不本意といえば不本意だったけど、話の先が気になったのであえて黙っている事にした。


「あー……人の偉さってのはな、自分で決めるもんじゃないだろ?」

「うん。 そこは何となくわかる」

「そこで他人に決めてもらう事になる訳だが、そのためにはまず世の中の人にとって判りやすい『偉さ』が必要になってくる」

「判りやすいえらさ? 今の時点でもうオレは判らなくなってきてると言うのに、判りやすいえらさときたか?」


偉くなるためには他人に『偉い』と認めてもらわなければならない。

他人に『偉い』と認めてもらうには、判りやすい『偉さ』が必要になる。

じゃあ、その判りやすい偉さを手に入れるためには?

そもそも、『判りやすい偉さ』とは何ぞや?

思考回路がショート寸前に陥っているオレを見て、父さんが呆れたような溜息を吐いた。

ちょっぴり傷付いた。


「そうだな……例えば、総理大臣はどうだ?」

「えらい」

「じゃあ、名雪ちゃんはどうだ?」

「えらくない」

「なら、二人の違いはどこにある?」

「んー? ……ん、んんんー?」


困った。

何が違うって言われたって、そんなの『全部』としか言い様がない。

でも、父さんが訊いてるのはそんな事じゃないと思う。

いくら『ギム』が何の事だが判らなかったオレにだって、そのくらいは判るのだ。

二人はまず歳が違う。

それから男と女の違いもある。

名前も違うし、見た目も違うし、住んでる場所も知ってる事も何もかもが違うのは判ってるけど。

でも、そんな事じゃない。

今、父さんが求めていて、オレが考えるべき二人の違いはそんな所じゃなくて――


「――名雪は、名雪だ。 でも総理大臣は、名前忘れたけどその人が総理大臣に『なった』から、多分、偉いんだ」

「正解。 名雪ちゃんは『なる』ものじゃない。 でも大臣は自分の意志で『なる』もんだ」

「つまり……偉い人になるためには、自分から偉くなろうとしなきゃいけない?」

「大正解。 結果的に周囲に認められたにせよ、初めからそれが目的だったにせよ。
 並外れた評価や地位って物を他人から得るためには、自らの意志でその道を選ばなくてはならないんだ」

「……自分の意志で偉くなる道を選ぶこと。 それが、さっき言った『判りやすいえらさ』の正体?」

「勘が冴えてきたな。 お前の言う通り、人が人を判断する時に最も判りやすいのは、その人がどんな道を選択して生きてきたかを見る事だ」

「それで、お勉強か」

「正確に言えば勉強じゃなくたって良いんだが、今のお前の辿り着いた答えはあながち間違っちゃいない」

「その心は?」

「要するに、だ。 気持ち良くも面白くもないクソ退屈で拷問みたいな事を、どれだけ耐える事ができたか。
 それが今の日本社会における『判りやすい偉さ』で、その中でも全国民に共通する苦労の概念として該当するのが、『お勉強』って訳さ」


理解はした。

でも、納得はできなかった。

あまりにも単純で、それ故に純粋だったあの頃のオレの思考回路は、父さんの説明に対して本能的な部分で『否!』と叫んでいた。

と、そんな俺の複雑な表情に気付いての事だろうか。

今まで『物分りの良い大人』の顔で喋っていた父さんが、突然その表情から形容し難い『何か』を追い払った。

大人としての常識とか、社会人としてのモラルとか。

そんなゴテゴテした物を取り払って悪戯に微笑む父さんは、間違いなくオレの大好きなカッコイイ父さんだった。


「――と、まあここまで世間一般的な話をしてきてだな」

「うん」

「お前も俺の息子なら、きっと俺と同じ事を思ったはずなんだが、そこんトコどうよ」

「父さんと同じこと?」


それは、言われてみて初めて気が付いた事だった。

その辺に掃いて捨てるほどいる『普通の大人』みたいな顔をした父さんが話す、面白みの欠片もない『偉い人』の話。

納得できないままにそれを最後まで聞いていたオレが、遣る瀬の無い心持ちでぼんやりとだが考えていること。

漂白するそれらの思考を文章として頭の中に構成してみれば、それは確かに父さんが口にしそうな言葉でもあった。

勉強は、気持ちよくも面白くもない。

学校なんて、クソ退屈で拷問みたいな制度だ。

だから、オレみたいな適当で忍耐力のない人間は、すぐにそこから逃げ出そうとする。

きっと世の中の大多数の人間も、勉強とか学校なんてものは大嫌いなはずなんだ。

そして大嫌いだからこそ、それに耐え忍ぶだけの精神力を持っている人間に対して、『共感』を根底に宿した『尊敬』の念を抱く事ができる。

自分には到底真似できないような事を成し遂げるそいつらを、人は尊敬の意味を込めて『偉い人』って呼ぶ。

人が嫌がる事から逃げず、怠けず、目を逸らさず。

放り出したって誰も咎めやしない事なのに、自らを律して徹底的にやり通す。

このような人たちを『偉い』と表現する以外に、他にどんな言葉が用意されていると云うのだろう。

あるとしたらそれはきっと、『偉い』だなんて意味から500マイルほどかけ離れた所にある言葉であって。

だけど、それはきっとオレと父さんにだけ共通する言葉【キモチ】であって――


「この世の中のえらい人は、みんなそろってマゾヒストである」


真面目な顔をして答えてやったら、父さんが間抜けな顔して五秒くらい動かなくなった。

そうかと思えば次の瞬間、父さんは今までに見た事がないくらい愉快そうな顔で、盛大な笑い声をあげはじめた。

――さすが俺の息子だ

――忙しくて何も教えてやれねーと思ってたが、しっかり”俺”を受け継いでやがる

ゲラゲラと笑いながら、嬉しそうにオレの頭をぐしゃぐしゃに撫でる父さん。

何だか判らないけど父さんが楽しそうだったので、オレも一緒になって笑ってやる事にした。

最初は微笑み。

次の瞬間には大爆発。

一度笑い出してしまったらもう、止める事なんてできやしなかった。

夕暮れの程近いリビングルームから、笑い声を消す事なんか不可能になってしまっていた。

そしてそれは、間違ったって『父親と息子』のするような笑い方じゃなかった。

例えるなら、山の中に作った誰も知らない秘密基地で。

喩えるなら、大人がこぞって『いけません』と言う様な『いけない何か』をした時のように。

仲の良い男同士が愉快な出来事を共有した時に、不意に込み上げて来る抗い様のない強烈な笑いの衝動。

子供であるが故に抗う術を知らず。

子供だからこそ我慢する必要もなく。

感情を素直に表現できる心地良さに酔い痴れながら、オレはただひたすらに『愉快だから』と笑い転げていた。


笑いすぎてお腹が痛くなってきた辺りで、母さんが家に帰ってきた。

『親子』ではなく『男同士』の距離で笑っているオレたちを見つけて、母さんは怪訝な顔をしながら父さんに「どうしたんですか?」と訊ねた。

だが、そこは流石の父さんだった。

オレの方を見てニヤリと笑い、「なんでもないさ」とはぐらかす。

たとえそれが自分の妻であり俺の母親だったとしても、『其処』に立ち入る事を許さない。

幼いオレが抱いていた奇妙な連帯感の存在を、父さんは確たる事実としてそこに示してくれたのだった。


この感覚だけはきっと、母さんとは死ぬまで共有できないだろう。

恐らくは、名雪とだって無理だろう。

親子とか。

幼馴染とか。

仲良しとか、恋人とか、そんな言葉で括られる関係じゃダメなんだ。

もっと深くて、だけどもっと遠くて。

何だか判らないど、そんな相手とじゃなきゃオレは『それ』を共有できないような気がして。

だから、『これ』はひょっとして父さん以外の誰とも分かち合えない感情なんじゃないかとオレは思った。

でも、それならそれで一向に構わないんじゃないかとも、オレは思った。

この世界の中でただ一人だけでも構わない。

こんなくっだらない事でニヤニヤ笑いあえる人間が、この世界に少なくとも一人は存在してくれている。

独りじゃない。

『ふたり』になれる。

ただそれだけで、退屈だった日常を何とかやっていけるような気がする。

『何か』を失くしかけていた所に現れた愛すべき『理解者』の存在は、オレにとって充分過ぎるくらいの幸せの象徴だった。

だから――


「真面目に勉強する人間なんか絶対マゾだよ。 自分を苦境に追い込んで楽しんでるマゾだね、うん、間違いない」


だから、定期テストの差し迫った放課後の教室で。

傾いでいく夕日に紅く彩られた桜が。

難解な数式の並んだノートをぺちぺちと叩きながら、やたらと偉そうにこんな事を言い出した時。

俺は、この愛すべき大馬鹿者に、もういっそ思いきり抱き付いて痛いくらいの頬擦りでもしてやろうかと思ったぐらいだった。

嬉しかった。

信じられなかった。

「こんな所に居たのか」と、あと少しで口に出してしまう所だった。

遠くて。

近くて。

血よりも濃くて、水より軽い。

泣きたくなるほど深いのに、笑っちゃいそうなくらい薄味な。

そんな愛しい、『ふたり』の片割れ。

『足りない』俺の、大切な半身【カケラ】。

見付けてしまったからにはもう、二度と手放したくなんかなかった。

比喩表現なんかじゃ足りなくて、物理的にも拘束しておきたくて、ついうっかり手を握ってしまうところだった。

流石に唯の目の前でそれをやったら大変な事になるのは判り切っていたので、実際には声にも態度にも出したりはしなかったのだが。

ただ、二人で一緒にたこ焼きを食べに行った。

訝しがられない程度に適当な理由をつけて、桜の分の代金も俺が支払ってみた。

「おいしうれしい」と、奇妙な造語で喜びを表現する桜が印象的だった。

後日、それが発覚して、主に『内緒にしていた』と云う一点で唯がぷんむくれになった。

「別に内緒にしてた訳じゃないけど報告する程の事でもないと思った」と云う俺の主張は、素粒子レベルでだって受け入れてもらえなかった。

何とか機嫌を直してもらおうと必死でなだめる俺がいて。

珍しくプリン程度じゃ懐柔されてくれない唯がいて。

その横では一応の当事者であるくせに、我関せずを貫き通す桜がニヤニヤしていて。

冬休みを目前に控えた、十二月のとある日のこと。

雪の降らない灰色の街で過ごしていた日のこと。

『学校』の持つ意味にようやく気付き始めていた、そんな日のこと。


























Stay by My Side
 
 
第二十一幕 『あの日のゆびきりげんまん』






























「俺は偉くなんかなりたくない。 父さんが偉くないんなら、別にオレも偉くならなくったっていい。 だから、学校なんて行きたくない」

「偉くもないお前の主張なんか、誰が聞くものか。 悔しかったら誰よりも偉くなるしかない。 世の中ってのは、理不尽に出来てるもんだ」

「……偉い人だけで世の中を動かすだなんて、いったい誰が決めたんだ」

「そりゃ、もっと昔の偉い人だろう」


「諦めろ」と言外に宣告する、まったくもってやる気のない親父の返事。

物凄く納得いかないのだけれども、反論の糸口が掴めずに沈黙してしまう幼き日の俺。

時に、小学校低学年の日のこと。

反抗期と呼ぶには幼すぎた、楽しさ最優先の短絡的思考。

あの頃の俺は、『学校』ってヤツが本気で大嫌いだった。

まだ全てが手の届く範囲でしかなかった、小さな子供の小さな世界。

だけど全ての物に手が届く気がしていた、幼い子供の素晴らしき世界。

曲がりくねった道の先が何処に通じているかなんて判らなかった。

だからその分だけ、想いだけは何処までも遠くに馳せる事ができた。

思い切り走れば世界の果てに辿り着ける気がしていたし、力いっぱい抵抗すれば全ての困難は克服できるものだと思っていた。

毎日を全力で生きていた。

食べるのも。

遊ぶのも。

泣くのも、笑うのも、生きていく事その物にすら、あの頃の俺は一生懸命だったはずなのに。


「……何時の間に覚えちまったんだろうな……こんな笑い方」


余力を残してシニカルに、唇の端を緩ませるだけの笑み。

本当は笑いたくなんかないのに、他にするべき表情が見つからないから、手持ち無沙汰に自嘲する。

誰に教わるでもなく身に付いてしまった、『相沢祐一』と云う名の仮面。

貼り付けておけば周囲の人間から異端視されないと云う、ただそれだけのために必死で覚えた、拙いながらの処世術。

自分でも嫌な人間だとは思うが、『仮面』の成果は上々だった。

人の好意に埋もれながら日々を暮らす事は、意地を張って生きる事よりも、ずっとずっと快適だった。


俺にとって『学校』とは、所詮その程度の場所でしかなかった。

適当に笑って、適当に学んで。

遊ぶ時だけ本気になって、掃除なんかはまた適当にして。

それでも何一つ滞る事無く日々が続いていく事に気付いてしまったからには、もう何かに一生懸命になんかなれはしなかった。

本気で笑わなくてもお腹は空いたし、本気で泣かなくても夜にはちゃんと眠くなった。

楽しい事も不愉快な事も、永遠に持続したりはしなかった。

「なんだ、そんなもんか」と納得してしまえば、学校で過ごす日々はは驚くほどに順調で、驚くほどに退屈だった。


だからあの時。

今はもう八年も前になる、この雪の降る町で過ごした最後の冬の日。

俺は、あゆが口に出した言葉に心の底から驚いた。

わざわざこんな場所にまで『学校』と云う概念を持ち込んだあゆに、一瞬だけだが本気で「何言ってんだお前」ぐらいの思いを抱いたものだった。

俺にとって学校とは、お世辞にも楽しい場所ではない。

勉強やら宿題やら『廊下を走るな!』やらで俺を縛り付ける、どちらかと言えば敵に値する存在だった。

だが、あゆの想いは違っていた。

俺みたいな捻くれまくった考えなんか、あゆは一片だって抱いてはいなかった。


『今日だけ、祐一君といっしょの学校に通いたい』


いっしょにお勉強して、いっしょに給食を食べて、いっしょにお掃除をして、いっしょに帰りたい――

それは、ちっぽけな天使の人形に託された、小さな少女の二つ目の願い。

もうすぐ離れ離れになる二人を繋ぐ、同じ場所に居たと云う想い出。

目の前にある物だけを純粋に信じる少女が思い描いたのは、『同じ学校ならずっと一緒に居られる』と云う、ただそれだけの単純な光景だった。

幼い少女の目に映る世界は、あまりにも狭い。

若干の例外であるこの俺をも含めて、まだ何も知らなかったあの頃の俺達は、『学校』と『世界』とを等式で結んで日々を生きていたのだった。

『ずっと一緒にいたい』と云う願いは、天使の力不足で叶えられそうになかったから。

だけどそれでも、同じ世界に生きていたかったから。

だから、『いっしょの学校に通いたい』と願った。

せめて今この一時だけでも、ボクとキミとが一緒に居たと云う証しを残したかった。

ままごとみたいな『学校』だけど。

子供のお遊びだって笑われたらそれまでだけど。

人気のないこの場所で、二人だけの『学校』で過ごした時間はきっと、何物にも代えがたい未来への遺産になる。

月日が流れても、町が移ろっても、ボクとキミとが遠く離れても。

ほら、こんなにも鮮明に覚えている。

楽しかった日々を、繋いだ手の暖かさを、隣に居てくれたキミの笑顔を覚えているから。


「間違いなんかじゃ、なかったよな……」


二人が出会ったこと。

幼い約束を果たしたこと。

七年の時を経て再会したこと。

世界中の誰もが否定したって、俺はその事を間違ってるだなんて思うつもりはなかった。

あゆは俺の存在を喜んでくれた。

俺も、あゆと共に居られる事が嬉しかった。

ずっとずっと、このままの日常が続いていくものだと思っていた。

何もかもが平穏で暖かい日々を継続させる為ならば、何を犠牲にしても厭わないと本気で思っていたはずなのに。


人気のない遊歩道から更に脇道に逸れ、葉の落ちた街路樹の間を縫うようにして歩く。

やがて木々の間に僅かな隙間を発見し、俺はそこでふと足を止めた。

立ち枯れた木の並ぶ林の入り口。

俺たち以外の人間にとっては足を止める価値もない、色彩感覚の欠如した物悲しい風景。

かつて俺たちの『通学路』であった獣道は、今や雪よりも深く積み重なった月日により、人の歩いた形跡が欠片も存在していなかった。

薄く降り積もる雪によって純白に輝いている、何者にも踏み荒らされていない聖域。

立ち枯れた幾許かの樹木と、その足元を覆い尽くす白の絨毯。

一切の穢れなく存在する冬の被造物は、まるで他者がそこに介入する事を強硬に拒んでいるかのようだった。

人に敷かれ、人に築かれ、人に踏まれる為の遊歩道から踏み入った俺が。

人を拒み、人を避け、かつて人に傷付けられた巨木へと続く路を見やる。

まるで相容れぬ二つの存在の狭間。

普段であれば意識すらせずに踏み越えていたその『境界線』に、俺は酷く怯えていた。


判ってる。

本当なら、こんな事を思ってしまうその事自体が間違いなんだって、そんな事は自分自身が一番よく判っている。

真琴を泣かせてしまったのだって、この疑心暗鬼が原因だ。

最も疑ってはいけない人を疑い、最も信じるべき家族に背を向け。

今まで共に過ごしてきた時間の存在をことごとく否定し、最も愛する家族を裏切ったのだ。

許される事ではない。

何をさて置いても『過ちだ』と断言できる愚考である。

愛する同居人を泣かせて、愛する同居人に殴られて。

愛する真琴を失って、愛する家族を失って。

そこまでの代償を支払って、俺はようやく気付いたはずなのに。

自分のしてきた事がどれだけ罪深く、どれだけの間違いだったかと気付かされたはずなのに――


それでも俺はまた、目の前に現れた無垢なる白銀に心を揺さぶられている。

二人の想い出の場所である『学校』までもが俺を拒絶しているのではないかと、そんな怯えを抱いてしまっていた。


そんなはずはない。

そんなはずがないだろう。

いい加減にしろ、相沢祐一。

秋子さんの愛情を疑い、真琴の愛を自分の都合で否定し、今度は一体何を踏み躙るつもりだ。

積み重ねた時間か。

七年越しの再会か。

それとも、八年前にあゆと出会ってしまった事から後悔を始めるつもりか。

記憶も想い出も無くなってしまえば全てから開放されるだなんて、お前は本気でそんな事を考えているのか。


殴られた頬が、酷く熱い。

最後に耳にした真琴の言葉が、とても痛い。

浅く乱発される呼吸が視界に薄い靄をかけ、寒さ故にではなく膝が震えだしていた。

怖い、と思った。

俺は、俺の思考を初めて『怖い』と認識した。

想い出の否定。

それは、部分的に人を殺すのとほぼ同義である。


人が他人を認識する時、その情報の全ては脳によって処理されている。

大脳新皮質、脳幹、海馬、松果体。

網膜に映った光を象として結び、視神経を通して情報を脳に伝達し、過去のデータと照合して個人を特定する。

鼓膜を揺らす大気の振動パターンを音として認識し、既存のデータに符合させて『音』を『声』として認識し、声のパターンから個人を特定する。

他人とは、其処に居るから存在しているのではない。

俺の網膜や鼓膜、時には皮膜や粘膜が『それ』と認識しているから、他人は『他人』として此の世に存在し得るのだ。

もし仮に、誰の眼にも映らず誰の耳にも声が聞こえず、誰の触覚にも訴える事のできない人物がいたとして。

彼は、『生きている』と言えるのだろうか。

彼自身は自分の事を、『生きている』と断言できるのだろうか。

俺は、そうは思わない。

他人を介在させずに自己を確立する事など、少なくとも俺にはできそうにない。

他人の瞳に映った自分を見る事でしか、俺は己の形を保てないんだ。

この世界を埋め尽くしている森羅万象の中。

ひしめき合った人と人との狭間にぼんやりと、人間が一人分だけ納まるスペースが空いている。

それが、『俺』だ。

人とはそういう物だ。

認識する事でしか、自分も他人も存在しない。

全ては自分の脳が作り出した、身勝手で独り善がりの虚像に過ぎないんだ。

だからこそ。

そう、だからこそ俺は――


俺が、俺の中の『誰か』を意図的に削除しようとする時

それは自身の内面世界において、完璧なる殺人と成り果てる


七年前、相沢祐一は罪を犯しました。

認めたくない現実から目を逸らし、自分の中で幾人もの人を惨殺していきました。

知らない。

お前なんか知らない。

『俺』の中にお前は存在しない。

『俺』の生きていく世界の中に、お前の居場所は存在しないんだ、と――


「酷い……話だよな」


サクサクと雪を踏み鳴らし。

ざくざくと『白』を虐殺し。

目に映る全てのモノを疑いながら、俺は『学校』に辿り着いていた。

辿り着いて、しまっていた。

こんな心境のまま『此処』に立ち入る事なんて、本当なら絶対にしたくなかった。

どんな時でもこの場所だけは、楽しい想い出で一杯にしなきゃいけないような気がしていたのに。

俺はまた、こんな気持ちで此処にいる。

楽しかった想い出を逃げ場所にして、いつだって辛い現実から目を逸らしてばかりいる。

こんなんじゃ駄目なんだって事くらい、自分でも嫌になるほど判り切っているのに。

それでも、愚かな思考を拭い去る事はできず。

かと言って、この場から立ち去る事もできずに。

俺は、切り株に座ったままの姿勢から身動き一つ取れずにいた。

震える膝を抱えたまま。

殴られた頬の熱さだけを、己の存在証明の様に感じながら。

目を閉じ、息を潜め、俺は『世界の全て』を自分の中だけで完結させようと、必死の努力を続けていた。


――だって『想い出の中のあゆ』だけは、絶対に俺を否定したりしないから


俺を必要としてくれた。

俺に微笑みかけてくれた。

存在を全肯定してくれた。

繋いだ手がとても温かかった。

何もしてやる事ができなかった無力で幼い俺とでさえ、あの頃のあゆは『一緒にいたい』と願ってくれたから。

だから、なあ。

あゆ。

どんなに情けない俺の姿を見せたって、お前なら許してくれるよな。

お前なら絶対に、俺の事を拒絶なんかしないよな。

つい先日まで友好的だったクラスメートは、まるで『壊れたモノ』を見るかのような目で俺を拒絶した。

あんなに心が安らいだ秋子さんの笑顔ですら、今じゃ正面からマトモに見られる自信がない。

『家族』や『日常』に対して誰よりも『変わらないこと』を望んでいてくれた真琴でさえも、俺の裏切りを決して許してはくれなかった。

あゆ。

あゆ。

俺はもう……駄目なんだ。

どうしようもなく、何もかもが怖くてしょうがないんだ。

消えていく。

壊れていく。

いつの間にか手にしていた大切な幸せのカケラ達が、二度と修復できないまでにそのカタチを磨り潰されていくんだ。

失いたくない。

これ以上の痛みを背負いたくない。

こんなにも失う事に怯えるくらいなら、いっそ何もかもを自分の意志で投げ出してしまえれば――


「……助けてくれよ……あゆ…」


こんな事、考えたくない。

もう二度と、誰との想い出も否定したくない。

この町の中で穏やかに時が流れていく事を、『あの日』の俺は誰よりも強く願って生きていたはずなのに。

学校に行けば必ず会える友達がいて。

商店街を歩いていると不意に出会える誰かがいて。

家に帰ると家族が待っていて。

みんなで笑って、歌って、時には少しだけケンカして、だけどまた笑って手を繋いで。

そんな夢の様な日々が、明日も明後日もずっとずっと続いていくと、何の根拠もなく信じて生きていられるはずだったのに――


でも、失うのはどうしようもなく怖いんだよ、あゆ


膝が震える。

必死で押さえ込もうとしても、ガクガクと震え続ける。

震えているのは膝か。

それとも、押さえ込もうとしている俺の腕か。

寒い。

『ひとり』は寒い。

だから、『誰か』に傍に居てほしい。

絶え間ない温もりと確かな存在感で、その隣に『俺』が居る事を信じさせてほしいのに。

キミと手を繋いで。

キミが話しかけてくれて。

そうする事でようやく俺は、『俺』がそこに居る事を確認できる。

誰かがそうして繋ぎ止めていてくれなくちゃ、俺はきっと自分の存在すらマトモな形に保てないから――


もう、ダメなんだ。

俺はもう、『ひとり』が当たり前だった日々には戻れなくなっちまったんだ。

『あの頃』は平気だった。

自分の周りに誰も居なくても、俺はそれを『普通』だと思って生きる事が許されていた。

何も持たず。

何も失わず。

たった一人で孤独に過ごすのは、とてもとても楽だった。

でも、独りきりで過ごす毎日は、全然ちっとも楽しくなんかなかった。

本当は心の底でいつだって、傍に居てくれる『誰か』をずっとずっと渇望していたはずなのに――


それなのに、やっとの思いで手に入れた暖かな日常の中で、俺は今度は失う怖さに怯え続けている


あの日から。

あの時から。

アイツが俺の前から永遠に居なくなってしまった瞬間から、俺は『それ』を信じる事ができなくなってしまっていた。

ふとした瞬間。

何気ない日常の一時。

自分の周囲に存在する人達の中に、俺は『それ』の片鱗を垣間見る。

どんなに仲の良い友達だって。

どんなに強く手を握り合ったって。

所詮、俺達は別々の人間で。

どこまで行っても完全に『ひとつ』になんかはなれなくて。

いつか、どこかで、俺達は離れ離れになる。

繋いでいた手がぬくもりを覚えていたその分だけ、俺はそれを手放した瞬間の温度差に打ちのめされる。

永遠なんて、何処にも無い。

少なくともそれを誓う『言葉』や『願い』なんて代物じゃ、俺たちを翻弄する理不尽な現実からは逃れられない。

また、失う。

また、奪われる。

かつて『それ』が与えてくれた幸せな記憶こそが、後に心を削り取る刃と成り果てる事は判り切っているのに。


ああ、それなのに。

そんな事は嫌になるくらい心と身体に刻み込まれたはずなのに、俺はまだ『誰か』に傍に居てほしいと願っている。

そこに永遠が有り得ないと判っていながらも、刹那の救いを享楽的に貪る自分がいる。

温もりの飽食。

満ち足りる事は決してない。

今日も、明日も、明後日も。

もっと、もっと、もっともっともっと!


「俺の……傍にいてくれ…」

「――かしこまりました。 それではそのお願い、この私が見事に叶えてさしあげましょう。 なーんて、ね」


突然。

まるで何の前振りも無いままに、優しく包み込むような声が『学校』に響き渡った。

それが完全なる不意打ちだったにも関わらず。

俺の本能的な部分は、『彼女』の存在を『此処にいるべき人』として心静かに受け入れていた。

此処は、聖域だ。

少なくとも俺がこの場に存在している限り、此処は名も無き『学校』としてその校門を硬く閉ざす。

『学校』に立ち入るためには、共有されるべき想い出が必要だ。

それを持たない人間がこの場所を訪れた所で、俺の心はその相手を許容しない。

心が認めていないのだから、身体が反応するはずもない。

俺が認識しない限り、全ての存在はこの世界から抹殺される。

だから、『此処/ココロ』には誰も入れるはずがないんだ。

この世界中のどんな奴だって。

俺と、お前の、二人以外は、絶対に。

なあ、そうだろう――


「――あゆ」

「やっぱり、此処にいたんだね」


優しく。

柔らかく。

暖かく。

だけどその声は、どこか悲しげな色に染め上げられていた。

それはまるで俺がこの場所に居る事を、『悪い事だ』と責める様な響きを持っていた。


「……真琴から、聞いたのか」

「うん、全部」


何を、とは問わない。

何処まで、とも訊かない。

真琴があゆに語るとすればその答えは『全て』以外に存在しないし、あゆが此処にいると云う事は『それ』を識ったからに違いないからだ。


「こう云うの、バツが悪いって言うんだろうな……」

「うぐ?」

「机の引き出しに隠してた0点の答案用紙を、母親に見つけられてこっ酷く怒られてる。 今丁度、そんな気持ちだよ」


本当はそんな記憶、俺の想い出には存在していない。

0点を取るほど学業的な意味で馬鹿でもなければ、それの隠し場所を母親に暴かれるほど愚かでもない。

そして何より、『テストの結果で一喜一憂する母親』なんてモノが、俺には初めから備わっていなかった。


「その配役だと、ボクがお母さんなのかな?」

「ああ。 背が低くて、胸も小さくて、ホラー映画もろくに見れないお母さんだ」

「背が高くて、胸が大きくて、オバケとか幽霊がへっちゃらなお母さんの方が良かった?」

「いや……背が低くて、胸も小さくて、ホラー映画もろくに見れない方がいい…」


お前でいい。

お前がいい。

お前以外の誰かなんて、今のこの場に必要ない。

料理ができないお前でいい。

運動神経の鈍いお前でいい。

俺の知ってる月宮あゆは、今も昔もずっと変わらずに――


「でも、ボクは変わるよ?」


静かに。

優しく。

しかし、驚くほどの堅さを持った声が。

まるで俺の思考を先読みしたかの様にあっさりと、全てを丸ごと否定した。


「あ、ゆ…?」

「背は、ちょっとずつ伸びてる。 胸も……うん、おっきくなってる、はず。 多分」

「………」

「怖いの苦手なのだって、かなり克服した。 家のテレビで、真琴ちゃんと一緒にだけど、『13日の金曜日』シリーズは全部見れた」


一つ、一つ、確かめるように。

自らの成長を、誇らしげに語るあゆ。

それは、八年前に一度止まってしまった自分の時間が再び動き出した事を、心の底から喜んでいる様子だった。

昨日よりも今日。

今日よりも明日。

できる事が少しずつ増えていく日々が、楽しく、嬉しく、誇らしい。

『世界』が有限だと云う事を知らなかった頃の俺も、きっと今のあゆと同じ様な気持ちを抱いていたのだろう。

道は何処までも続いていると思っていた。

空に手が届く日の事を本気で信じていられた。

『明日』は『今日』よりも素晴らしい日になるに決まっているのだと、あの頃の俺は信じていられたはずなのに――


「変わってしまうボクは、いや?」

「………」


答えられない。

答えが見つからない。

『口に出したくない応え』しか、頭の中に浮かんでこない。

違うんだ。

そうじゃないんだ。

俺がお前を否定するだなんて、そんなのは絶対に有り得るはずの無い事なのに――


「……そう、だね。 ”今”の祐一君にそんな事を訊くのは、ちょっと意地悪だったね」


俺の無言を肯定と捉えたのだろう、あゆが力の無い笑いを見せる。

咄嗟に「違う!」と叫ぼうとしても、焼け付いてしまった喉からは、微かに息が漏れる音しか出てこなかった。


「誰かに必要としてほしいから――」


サクサクと、白を踏み潰す音がする。


「助けを必要としてほしいから――」


ザクザクと、言葉が俺の心に突き刺さっていく。


「自分を頼ってほしいから、そのためには”助けを必要とする人”が必要になる?」


ホラー映画を見て、涙ぐんでしまうあゆ。

「これは作り物だから大丈夫だよ」と、震える肩を抱いて慰める俺。

美味しいお菓子を作るんだと意気込んでは、炭化した小麦粉の塊を前にしょぼくれてしまうあゆ。

「砂糖が多いと焦げやすいんだよ」と、作り直したクッキー生地の入ったオーブンを、肩を寄せ合って覗き込む俺。

巡る季節の中で繰り返されてきた日常。

いつまでも続けば良いと願ってきた日々。

どんぐりまなこを涙で濡らし。

可愛い頬をぷーっと膨らませ。

何かとすぐに困ってしまう”お前”だから。

”お前”にそんな顔をさせたくないから。

だから。

そう。

俺は別に、そんな――


「祐一君が今ここに居てほしいのは、キミの助けをいつでも必要としている、『泣き虫なままの月宮あゆ』。 多分、そういう事なんだよ」

「ち、違っ――」

「馬鹿に、しないで」


内耳から頭蓋へと響き渡る、侮蔑を含んだ冷たい声音。

弾かれた様に顔を上げた俺の事を、真正面から見詰める温度のない眼差し。

狂った様に吹き抜ける風が。

足元を侵蝕する白銀が。

『月宮あゆ』の口から発せられたあまりにも耳慣れない一言が、俺の身体から一瞬で体温-ネツ-を奪い去っていった。

耳の後ろが針を刺されたようにじくじく傷む。

心臓が壊れたみたいに収縮を繰り返す。

ドクドクと鳴る耳障りな鼓動が思考を妨害し、何一つマトモな言葉が思い浮かんでこない。

どうしよう。

どうしよう。

何を問うているのかすら定かではない疑問詞だけが、牡丹雪の様に厚ぼったく覆い被さっていった。


「あの日のゆびきりげんまん。 祐一君は、もう忘れちゃった?」


忘れてなんかいない。

忘れたりなんかするものか。

よく晴れていたあの日。

空港。

甘いココアの香りに包まれた、どうしようもなく優しい空気の只中で。

俺達は、ゆびきりげんまんをした。

変わりゆく現実に翻弄され、それぞれの道が別たれてしまうその最後の瞬間。

再び巡り合う日に訪れる『変わらない日常』を願った俺達は、まるで何かに抗うようにして、初めて出逢った頃と同じ行為に身を窶したのだ。

変わらない事を望んだから。

あの日のままでいたいと願ったから。

だから俺たちは、『七年前』と同じゆびきりげんまんをした。

そう、思っていたはずなのに。


「……あの日、約束、したじゃない」


ああ、言っていた。

確かにお前は、自分が成長する事を俺に約束していた。

でも、だけど、ソレは――


「結局、祐一君が帰ってくるまでに間に合わなかったけどさっ」

「……そう、か?」

「だって祐一君、全然驚いてくれなかった。 だから、『驚くほど美人になる』って言った約束は守れなかったってこと」

「……まあ、三ヶ月やそこらじゃ驚くほどには変わらないだろうな」


整形手術とかの物凄い物理的な手段に頼らない限りは、だけど。


「お勉強もまだ途中だったのに」

「勉強を『完成』させたヤツなんか聞いた事ない。 気にするな」

「お料理にいたっては別の意味で祐一君を驚かせちゃったし」

「……ああ、あの『酸っぱ甘辛ほろ苦エグい』と云う味の新境地を開拓した、ゴルゴンリゾットミネストロケバブ…」

「変な名前付けないで。 アレはただのクレープだもん」


待て、お前はまだあの物体をクレープと言い張るつもりなのか。

無言で抗議の意を示す俺の表情を見て、あゆも負けじと頬を膨らませる。

そうかと思えば次の瞬間、互いに小さな苦笑を合わせる。

ほんの僅かに緩んだ空気。

想い出すことでしか思い出せない、『いつも通り』の俺らの距離感。

用意してもらった優しさの中でしか、『本当』を曝け出す事ができない自分を情けなく思いながら。

それでも俺は、今しか話す機会が無いのだからと自分に言い聞かせ、凍り付いていた舌の根を少しずつ動かし始めていた。


「安心……したんだ」

「ん?」

「親父の所から帰って来た時……本当は凄く不安だった。 俺が居ない所で、俺の知らない所で、流れてしまった時間がすごく怖かった」

「うん……分かるよ。 すごく、分かる。」

「でも、お前は変わってなかった。 変わらない『お前』のままで、俺の事を出迎えてくれた。
 お前だけじゃない……家も、町も、そこに俺の居場所がそっくりそのまま残されてたみたいで、何だかすごくほっとした」


例えば朝ぼらけのリビング。

大して愛着を持っていた訳でもない俺専用のマグカップに、俺以外の誰も飲まない濃い目のブラックコーヒーが注がれていた時。

例えば昼下がりの商店街。

魚屋の前をふと通りすがった時に、店の奥から威勢のいいオッサンが「久しぶりじゃねえか、どこ行ってたんだ小僧!」なんて呼びかけてくれた時。

例えば夕霞みの公園。

小学生に帰宅を促す『七つの子』が音割れのするスピーカーから大きく鳴り響き、そこにかつての自分を重ね合せる事ができた時。

俺は、そこに確かな自分の居場所を見つける事ができたんだ。


「だから、変わってしまう事が嫌なんじゃない……変わっていくお前が怖いんじゃない! でもっ――!!」


――変わらなければ、ずっとシアワセなままだっただろう?


変化なんて望んではいない。

先の知れない未来なんて欲しくない。

イマがいい。

このままがいい。

たとえ何処にも続く事のない閉ざされた円環の中だったとしても、気付かずに笑っていられればシアワセだっただろう?

なあ、あゆ。

俺たちはシアワセだったよな。

『これ以上』なんてどこにもないくらい、俺ら楽しい日々を過ごしてきてたよな。

何も不満なんてなかった。

ずっとずっと『イマ』が続けば良いと思った。

なのにどうして、俺はどこで何を間違って、お前はどんどん先に進んでいってしまって、そしてまた、ひとり、取り残されて。

嫌だ。

イヤだ。

一人はイヤだ、失うのはイヤだ、寒いのはイヤだ、寂しいのはイヤだ、お前が傍に居てくれなくちゃ俺は――!!


「っ、あ――!」

「大丈夫。 大丈夫だよ、祐一君」


後悔と羨望が吐き気を催すほどごちゃ混ぜになった思考の中。

半ば悲鳴にも似た声を出しながら、目の前の少女に縋り付こうとしたその瞬間。

彼女は、まるで『お母さん』の様に微笑みながら、俺の事を優しく抱き留めてくれていた。


しん――と鎮まった冬の空気の中。

二人分の密かな吐息だけが、世界に存在する全ての音となる。

抱かれた胸からじんわりと染み出してくるような温もり。

耳元でそっと囁かれる、『あの頃』と何も変わらないような、蕩けるほどの甘い声。

大丈夫。

大丈夫だよ。

俺の頭を強く抱きしめながら、あゆは何度もそう言ってくれた。

それはまるで、俺と云う存在を丸ごと肯定してくれているかの様な響きだった。


とく、とく、とく、とく。

規則正しく刻まれる脈動が、俺の心に奇妙な安心感を齎す。

つつましくも柔らかな胸の感触が、否が応にも『抱きしめられている』と云う実感に拍車をかける。

確かな存在感。

それに抱かれる事による、相対的な自己の確立。

どこまでも抗いがたい温もりに埋没する事で、全ての不安が取り除かれようとした、まさにその瞬間。


俺の脳裏には、『あの日』の屋上がフラッシュバックしていた


場違いなほどに穏やかな風。

指に食い込む緑色のフェンス。

もう二度と声を聞く事も叶わない、最愛の人との最悪の離別。

感情は徹底的に破壊しつくされて。

精神は緩慢に朽ちていくのを待つだけで。

幾重にも靄がかかった様なセカイの中、脳裏に浮かぶのはただ一つの疑問だけ。

何故、俺は生きているのだろうか。

本当に純粋に、単純に、あの時の俺にはその意味が判らなかった。

だって、ここはアイツが居ないセカイなのに。

どんなに強く願ったって、このセカイではアイツはもう微笑んでくれたりしないのに。

どうして自分はこんな所に居て。

どうして俺は何もできずにいて。

周囲の皆に忌み嫌われ、迫害され、必要とされず、愛されもせず。

そんな俺の事を唯一必要としてくれたアイツさえ、今はもう居なくなってしまったセカイの中なのに。

どうして。

俺は、こうして。


――こうしてまた、『誰か』に抱きしめられているのだろうか


「……あ、ゆ…?」


殆ど無意識的に唇から零れ落ちた、涙の代わりの小さな単音節。

何を思うでもなく疑問符が付いてしまった呼びかけ。

だけど、言葉にならない確かな『応え』がどうしても欲しくて。

むずがる様にして抱きすくめられた状態から頭だけを動かして、俺はあゆの顔を縋るように一心に見詰め続けた。

まさかそこまで情けない顔で見詰められるとは思っていなかったのだろう、あゆの表情が一瞬だけ戸惑いに曇る。

だけど、更にその次の瞬間に見せてくれたのは、『あの日』のココアよりも甘くとろける様な優しい微笑みだった。


――だいじょうぶ、だよ


何も言わず、だけど確かな『応え』を俺に与えてくれながら、あゆはそっとミトンの手袋をはずした。

雪景色の中においてもまだ白く、驚くほどしなやかなその指先。

まだ温もりの残る両の掌が、すっかり温度を無くしてしまった俺の頬を、とても優しく包み込んだ。


視線がゆるりと絡み合う。

吐息が蕩けて混ざり合う。

そして、切り株に座ったまま情けなく彼女を見上げる俺に。

俺よりも遙かに小さな少女が、まるで子供にするように前屈みになって。


「ん――」

「――っ!?」


それから、そっと、口付けをした。




















To be continued……
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