「ねぇ香里?」
 
「何?」
 
「祐一、帰ってこないね」
 
「そうね」
 
「そうねって、香里は心配じゃないの?」
 
「心配ってあなた。 この学校内でどんな事件が起こるって言うの?」
 
「事件とかじゃなくて……『あの娘』も一緒に居なくなった事が少し気になって……」
 
「ああ、そう言う事」
 
 
あたしは小さくため息をつき、本来相沢君が居るべき席を見た。
 
誰も居なかった。
 
相沢君が石橋先生に言われて転入生の席を取りに行って、かれこれ30分以上が経つ。
 
その間に転入生の女の娘―――確か草薙桜とか言う名前だった―――も出て行き、さらに北川君も出ていった。
 
そして、誰も帰って来ていない。
 
異常と言えば異常な事態だが、そもそも相沢君と北川君自体が尋常ではない。
 
ならばあの二人が揃った時点で通常を期待するほうが無理だろう。
 
もう一度小さくため息をつき、再び前を向く。
 
 
「うー、私も探しに行こうかな」
 
 
妙にそわそわした様子の名雪が居た。
 
やれやれ、あたしの言う『心配』と名雪の言う『心配』は、どうやら次元が違うらしい。
 
転入生の女の娘。
 
その行動と相沢君の態度を見る限り、二人が知り合いである事は間違い無い。
 
問題は、その深さ。
 
友達、親友、恋人。
 
教室内と言う限定された空間での遣り取りを見ても、どれが当て嵌まるかなんて判断のしようが無い。
 
だから当然、名雪もどれが当て嵌まるのかを知らない。
 
知らないからこそ、こうやって落ち着きを無くしているのだろう。
 
 
判らない訳じゃない。
 
名雪の気持ちも、そこから来る不安も。
 
恋い慕う従兄弟の前に現れた女の娘。
 
自分の知らない時間を相沢君と共にしてきた女の娘。
 
現在この学校で最も引く手数多の相沢君が、それでも誰とも付き合おうとしていない理由もそこに在るかもしれない。
 
そう、気にならない訳が無いのだ。
 
だけど……
 
 
「止めておきなさい。 次の授業、始まるわよ」
 
 
そんな名雪をあたしは止めた。
 
だって―――――あたしは知っている。
 
転入してきた彼女が相沢君の『彼女』ではない事を。
 
彼女である筈が無いという事を。
 
そして、それに纏わる相沢君の苦悩も、真実も知ってしまっている。
 
だから。
 
 
 
 
 
 
 
あたしには何も言えなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第三幕 『教室はかくも騒がしく』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二時間目、数学。
 
ついさっきまで教卓の前に立っていた数学教師、『佐島 智佐子(さじまちさこ』、三十路過ぎ、女性、独身の姿は、今は無い。
 
代わりに、黒板には途中まで書かれたメネラウスの定理が所在無さげにその体を投げ出している。
 
ついでに床には数分前まではチョークだったものが散乱している。
 
そして現在の状況は、自習。
 
何が起こったかを説明する前に、一言だけ言っておこう。
 
数学教師は悪くない。
 
多分。
 
 
二時間目が始まる数秒前、まず北川がギリギリで教室に入ってきた。
 
入ってきたかと思いきや、教科書をロッカーに置き忘れたとか言ってまた出ていった。
 
多分、これだけだったら数学教師もそれほど不機嫌にはならなかっただろう。
 
授業に臨む態度が多少悪いとは言え、それでも目くじらを立てるほどの事でもないのだから。
 
 
だが。
 
今日の3−Bは喧しかった。
 
落ち着きが無かった。
 
何より配慮が足りなかった。
 
数学教師の額に張りついた青筋にも気付かないほどに。
 
仕方が無いと言えば仕方が無い。
 
可愛い転入生が入ってきて、そうかと思えば居なくなって、加えて言えばその転入生と旧知の間柄だと思われる祐一も一緒に居なくなっている。
 
これは怪しい。
 
ひょっとしたらあの二人は前の街で一緒の学校に通っていて、既にあんな事やこんな事をする関係なのではないか。
 
妄想は暴走し、悶々とした煩悩に移り変わる。
 
ここまでで、数学教師の怒りメーターは大体50パーセントまで溜まっていたものと思われる。
 
まだ、許容範囲内だった。
 
 
まだ、この時点では。
 
 
授業が始まって5分くらいが経った頃、廊下をぱたぱたと走る音が聞こえてきた。
 
ついでに軽く何事かを言い合う声も。
 
軽快に、和やかに、仲睦まじく言葉を交し合う。
 
疑う余地も無く、祐一と桜だった。
 
クラス中が期待と嫉妬で一気に騒がしくなる。
 
怒りを堪えて数学教師が震え出す。
 
その強い筆圧に耐えかねて、白いチョークがバキバキ言った。
 
そんな様子を傍目に見ながら、最前列の久瀬と沙紀はノートの切れ端でこんなやり取りをしていた。
 
 
『ねぇねぇ、ちょっとヤバくない?』
 
『何が』
 
『先生。 尋常じゃない感情を壇上の表情から感じるんだけど』
 
『無駄に韻を踏まなくてもいい』
 
『頑張って考えたんだから少しは誉めてよ』
 
『あー、偉い偉い』
 
 
キッと沙紀が久瀬を睨む。
 
久瀬はそ知らぬ顔で黒板と先生を交互に眺める。
 
先生は憤怒をその顔面から滲ませながら教室のドアを睨みつける。
 
そして、そんな事は露知らず、祐一は勢いよく教室のドアを開けた。
 
 
「すいません! 桜の奴が急に気持ち悪くなったって言うもんですから保健室に連れてって甲斐甲斐しく看護の一手を施しまくってたら」
 
「うそっ? 私の方が気持ち悪くなった事になってんの?」
 
「え? ああ、それじゃ配役を逆にしようか?」
 
「うん。 えっと、祐一が具合が悪いって言うから保健室に連れてって甲斐甲斐しく介護の一手を施しまくってたら遅れちゃいました」
 
「おかげさまで今はもう治りました。 元気いっぱいです。 ありがとうございました」
 
「いえいえこちらこそ、お大事に」
 
 
そこまで言った時点で、数学教師が理解不能な怒りの奇声を発した。
 
出席簿と黒板消しとチョークが空を乱れ飛ぶ。
 
祐一も桜も全てそれを避け、代わりに二人の後ろに居たボランティア部の竹中が可哀想にも全てを喰らった。
 
他のクラスの先生が駆け付け、数学教師を宥めつつ教室から連れだし、そして授業は自習になった。
 
 
以上、説明終わり。
 
 
弓道部の荒井は後にこう語る。
 
「あれは授業態度がどうのこうのじゃなく、自分がまだ独身だってのに目の前でいちゃつかれたからキレたんだな。
 しかも俺の情報筋によると、彼女は通算十五回目になるお見合いを失敗したらしいんですわ。
 ま、有り体に言えば、若い二人への嫉妬ってヤツですか? おおー、怖い怖い。 ああはなりたくないもんですねぇ」
 
言い終わって、後ろに殺気を感じて振り向いた先には、件の数学教師が文字通り鬼のような形相で立っていた。
 
彼の三期の数学の評定値は2だったらしい。
 
テストでは八割以上得点していたにも関わらず、である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「………」
 
「不機嫌そうだね、キミ」
 
「ああ」
 
「心身の健康は相互に繋がるもの。 あんまり不健康な心情は体調にも悪影響だよ?」
 
「この喧しい教室の中で平常心を保てと?」
 
「キミもこの状況を楽しめば良いじゃない。 あの輪の中に突貫してさ」
 
「結構だ」
 
「ふぅ、意外と我侭だね」
 
 
両手を肩の上まで持ち上げ、ヤレヤレと言ったジェスチャーをする沙紀。
 
沙紀のその尊大な態度に突っ込む事もせず、『キミ』こと久瀬はさも不快げに後ろを振り返った。
 
 
「趣味は? 趣味とか有るのかな?」
 
「えーと……ねぇ、私の趣味って何だろ?」
 
「無差別通り魔的攻撃」
 
「ちょっ、誰がよー」
 
「お前以外に誰がいるんだ、姓は『草』名は『薙』、字は『桜』」
 
「三国志みたいな紹介しないでっ」
 
「以外と我侭だな、お前」
 
「しゃらーっぷ」
 
 
げしっ!
 
何かが蹴られたような音がして、遠くの席で祐一が苦悶の表情を見せていた。
 
蹴られたのだろう、恐らくは思いきり。
 
 
「そこまで騒ぐほどかね……」
 
 
確かに可愛くはあろう。
 
揺れるポニーテールも綺麗なうなじも透き通る声も、どれも賞賛されるだけのものはある。
 
久瀬も一人の男である限り、そこは否定できなかった。
 
だが、それでも今の教室の狂乱ぶりはちょっとやりすぎだと思う。
 
何故そこまで騒ぐのだろうか。
 
不快以上に不可解だったが、それを解決しようとは思わなかった。
 
前を向き、机の中から取り出した冊子に目を落とす。
 
その表紙には、『これでバッチリ! センター試験頻出順問題ベスト500 数学編』と書かれていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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蹴られた脛が痛い。
 
目の前でクラスの連中から質問攻めに遭っている桜を見ながら、ぼんやりとそんな事を考えた。
 
矢継ぎ早に浴びせられる質問に、少々困りながらも何とか答えていく。
 
そこまではまぁ普通の転入生と同じなのだが、桜は何故か事有る毎に俺に話を振る。
 
質問を受けているのはお前だっての。
 
 
「好きな歌手とかって居る?」
 
「んー、どうかなぁ?」
 
 
そう言って俺を見る。
 
だから何故そこで俺を見るか。
 
知らんぞ? お前の好きな歌手なんぞ。
 
好きな食べ物がたこ焼きだって事は知ってるが。
 
 
「好きな歌手って言うか……歌の巧い人なら。 ね、祐一」
 
 
何処か含みを持たせた言い方をして、それはもう小悪魔的な微笑を向ける。
 
なんか嫌な予感がした。
 
 
「何が言いたい?」
 
「別にー? ただもう一回祐一とカラオケに行ってみたいなぁとか思っただけ」
 
「それが今の話とどういう繋がりが……」
 
「えー? 相沢君とカラオケ行った事有るの?」
 
「ね、どんなだった? 上手だった?」
 
「わ、わー!」
 
 
ざざっと桜の周りにクラスの女子が集まり、その重圧(プレッシャー)に負けた桜が奇怪な声を発して潰された。
 
なんだ? そんなに俺が歌を歌うのが珍しいのか?
 
すぐ横の席で描き出されている狂乱から逃れる為に少し窓際に寄り、前の席の北川に声をかけた。
 
 
「なぁ北川。 俺が歌を歌うのはそんなに珍しいの事なのか?」
 
「えっ、あ、ああ。 うん? イエスイエス」
 
 
キリストか?
 
 
「おい、お前何をそんなに……」
 
「な、何でも無いぞ。 俺は何も見てないぞ。 相沢が屋上で転入生のスカートの中に顔を」
 
 
ズビシッ!!
 
何か危険な事を叫びかねない北川の喉に地獄突き。
 
取り敢えず黙らせておいてから、そのアンテナを引っ掴んで顔を寄せる。
 
 
「良いか。 俺と桜はお前の考えているような事は一切していない」
 
「誰がどう見ても『そんな事』をしているようにしか見えなかったぞ」
 
「だからそれは――――」
 
「き、北川君。 今、何て言ったんだい?」
 
 
声のした方を見ると、口喧嘩部(正式名称は口頭弁論部)の勝俣が近年稀に見る形相で俺達の席に詰め寄ってきていた。
 
分厚いメガネの奥に光る目がやたら血走っているのが凄く恐い。
 
一歩間違ったら呪い殺されそうだ。
 
 
「スカートの中に顔をって言ったよねスカートの中に顔をって言ったよねスカートの中に顔をって言ったよね!」
 
「ちょ、ちょっと待て勝俣!」
 
「一目見た時から運命を感じた僕の女神様のスカートの中に?
 聖なる光を発しながら神々しく飛翔するかのように優雅に棚引く天女が纏う天の羽衣も斯くやと言わんばかりの
 ザ・桜さんスカートの中に相沢君の欲望に塗れた下劣な顔をげぶっ!!」


20mm鉄鋼弾速射砲の如く喋りまくる口を止める為、思わず蹴ってしまった。

大丈夫、加減はした。
 
そう言う問題でもないが、取り敢えず良しとしておこう。
 
ついでに、糸が切れた操り人形みたいな格好で机に突っ伏している勝俣の事も見なかった事にしておこう。
 
全てはお前が悪い。
 
いや、冗談抜きで。
 
さっきも屋上で思った事だが、不必要に俺と桜の事を勘繰ったり揶揄されたりするのは何故か許せない気持ちになる。
 
例えそれが軽い気持ちから発せられた言葉でも。
 
勝俣には勝俣なりの理由(運命の女神云々)があったんだろうが、それでも、だ。
 
少しでもあの頃を思い出してしまった以上、今日の俺はそんなに優しくは無い。
 
ま、普段から無責任な噂話とかは嫌いだからな。
 
 
それともう一つ。
 
桜はお前のじゃない。
 
 
「……勝俣。 次は無いぞ?」
 
 
薄ぼんやりと目を開けている勝俣に、にこっと笑いながら言ってやった。
 
我ながら会心の笑みだったと思う。
 
勝俣も快く了解してくれた―――と、勝手に思う事にする―――様で、しきりにこくこくと頷いていた。
 
相互理解とは素晴らしい。
 
幸い、既に教室内が相当な騒ぎになっていたおかげで勝俣の問題発言はそれほどの物議を醸し出すまでには至らなかった。
 
後は北川だな。
 
 
「イイか北川。 屋上での体勢を客観的に見ればそんな感じだっただろう。 だが、真実は違う。 完結に言うと三角絞めなんだ。 しかも前三角」
 
「んー? 前三角?」
 
 
頭に?を浮かべる北川。
 
どうやら前三角がピンと来ないらしい。
 
 
「おーい、柔道部の山下ー」
 
「どうした?」
 
「ちょっと俺に前三角をかけてみてくれ」
 
「別に良いが?」
 
 
そう言うと即座に俺の腕を引いて床に倒し、一気に足を首に絡めて頚動脈を絞める。
 
さすが柔道部。
 
桜のとは根本的にパワーが違……くはっっ!
 
 
「ぎ、ギブギブ! もういい」
 
「ん? そうか」
 
「ああ、サンキュな」
 
 
何がしたかったのかよく判らないと言った表情で自分の席に帰っていく山下。
 
言っておくが、俺はMじゃないからな。
 
 
「と、まぁこう言う事だ」
 
「……何で転入生と屋上で三角絞めなんだ」
 
「複雑なようでそうでもない事情があるんだよ」
 
「納得はしてないが、信用はする。 どうせお前の事だからな」
 
「うむ」
 
 
誉められているのか貶されているのか判らないが、どうやら誤解は解けたようだ。
 
山下君ありがとう。
 
 
「でさ、俺が歌を歌うのはそんなに珍しい事か?」
 
「歌?」
 
「ああ。 桜が俺とカラオケに行ったって言う話をしたら……ほら、あんな風に急に騒ぎ出してな」
 
「なるほど?」
 
「俺が歌を歌うと言うのはそんなに珍しい事なのか?」
 
「それだけで騒いでいると思えないけど……まぁ珍しい事も確かだな」
 
「そうか?」
 
「俺だってお前とカラオケなんか行った事無いだろ」
 
「ああ、言われてみれば確かに」
 
 
なるほど、そう言う事だったのか。
 
こっちの街に来てからはカラオケなんか行った事無かったな。
 
ってか前の街でもそんなに頻繁に行っていた訳じゃない。
 
誘われたから行っただけだ。
 
……そう言えばあの時俺は何を歌ったんだっけな。
 
どうでも良い疑問だったが何だか無性に気になって、俺は人垣を掻き分けながら桜の真横についた。
 
 
「なぁ桜」
 
「ん?」
 
「前に行った時って、俺は何を歌ったけ」
 
「んー……祐一が自主的に歌ったのは殆ど無かった気がする。 私達のリクエストでなら色々歌ってくれたけど」
 
「そうだったか? 逆にお前が歌った曲なら覚えてるんだけどな」
 
「『ONE』とか?」
 
「そうそう。 男ボーカルの曲なのにお前が歌うとやたら合ってるんだもんな」
 
「ふっふっふ、ありがと。 祐一の曲も巧かったぞ」
 
「そーだなー、近いうちに行くか?」
 
「カラオケ?」
 
「ああ。 って言ってもこっちの街の何処にあるのか知らないけどな」
 
「じゃさ、後で探してみよっか」
 
「ああ、俺は課外とか受けてないから放課後は何時でもフリーだぞ」
 
 
そう、俺は受験生の忌まわしき枷である課外授業を受けていない。
 
理由は単純『面倒くさい』
 
何が悲しくて事業が終わった後まで勉強をせねばならんのだ。
 
 
「えー、課外受けてないの?」
 
「何だ? お前は受ける気でいるのか」
 
「いや別に課外を受けたい訳じゃないけど」
 
「だろ。 勉強なんかやりたい奴がやれば良いんだ」
 
 
それは頭が良い奴の戯言だ。
 
クラスの大半がそう思った。
 
 
「やりたい人はいないと思うんだけどなー」
 
「俺もそう思う」
 
「そっか……祐一は放課後フリーか」
 
「ん?」
 
 
桜は少しだけ考えるような素振りをして、それから数秒後。
 
凄い名案でも思いついたとでも言うようにぱっと顔を明るくして。
 
 
「ねっ、だったら今日さ、ウチ来ない?」
 
 
そんな事を言った。
 
桜の発言に、教室が一瞬静まり返る。
 
それもそのはず。
 
高校生の女の娘が家に異性を招き入れるという事が、どんな意味合いを裏に含んでいるか何て事は言わずもがなである。
 
静まり返った教室はその後、ある種の反発作用が働いたかのように一気に騒がしくなった。
 
そんな好奇の視線が注がれる中、さすがに周囲の雰囲気に気付いたのか、桜は慌てて弁解を始めた。
 
 
「ち、ちがうよっ。 別に両親に紹介とかじゃないよっ。 だって今ウチには私しか居ないしっ……」
 
 
自爆なんてもんじゃない。
 
対戦車用地雷の上でブレイクダンスを踊りやがった。
 
誰も居ない家に異性を招き入れる。
 
それはもう好意が有るとかそう言う次元じゃなく、めくるめく情事の世界が以下省略。
 
 
「少し落ち着けこの馬鹿っ」
 
 
すぺんっ
 
放っておくとどんどん変な方向に進みそうなので、頭を撫でる様に引っ叩いた。
 
軽快な音と共にようやく正気に戻った桜が俺を非難の目付きで睨む。
 
いや、睨まれても困るんだが。
 
 
「祐一が変な意味に取るからー」
 
「誰が何時何処で変な意味に取ったかっ」
 
「理屈っぽい男は嫌いだよっ」
 
「……このアマ」
 
「む? 女の娘に向かって手を上げる気?」
 
「くっ」
 
 
ダメだ。
 
おとなしく負けを認めないと、俺の尊厳がどんどん削られていく。
 
例えるならばダルマ落としの様に。
 
 
「判った。 俺が悪かった。 ゴメンナサイ」
 
「判れば良いんだけどね」
 
 
やたらと偉そうに頷く桜。
 
何やら泣きたくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「ところでさ、今この時間って自習なんだよね」
 
「教師が居ない以上はそうなるだろうな」
 
「んー……ヒマだなー」
 
「そりゃおめでとう」
 
 
気の無い返事をしてやる。
 
すると、予想通り不満に頬を膨らませた状態で俺に詰め寄ってくる。
 
行動パターンが読み易いったらありゃしない。
 
小動物かお前は。
 
 
「女の娘がヒマだって言ってるのに何さその態度っ」
 
「お前がヒマだって言い始めるとろくな事がない」
 
「ぅ」
 
 
思い当たる節がありすぎるらしい。
 
大袈裟なほどにのけぞり、額に汗マークを浮かべている。
 
かと思うと、今度は急にしなを造り始めた。
 
艶っぽい声を出しながら、俺の首筋を指でなぞる。
 
遊郭の女郎も真っ青だった。
 
 
「ねぇねぇ、祐一」
 
「何だ」
 
「ひ・ま・だ・なー」
 
「そりゃよかった」
 
 
どげしっ!
 
 
「いたっ!」
 
「フンだもう良いよばーか! こうなったら見ず知らずの校舎内を探検して道に迷って飢えて死んでやるー」
 
 
一息に叫ぶと、わざとらしい泣き真似をしながら廊下へと飛び出していく。
 
どうやっても校舎内で飢え死にはしないと思うぞ、桜。
 
 
「ったく……」
 
 
小さくため息をつき、俺も席を立つ。
 
そんな俺を横目で見ながら、北川が茶化すように言った。
 
 
「校舎内で迷っても死なないと思うぞ、相沢」
 
「ああ、知ってるよ」
 
「ま、それでも行く辺りがお前らしいけどな」
 
「ほっとけ」
 
 
転入生を泣かせた鬼畜だの甲斐性無しだのでザワザワ騒がしいクラス中の視線を背中に受けながら、廊下へと向かう。
 
ちょっとムカッと来てたのも事実だが、まだ許容範囲内だと冷静に自分を諌める。
 
うん、大丈夫。
 
カルシウムは足りてるぞ、俺。
 
とか思いながら廊下に出ようとした所で、廊下側の一番端に座っている名雪と目が合った。
 
 
「んじゃ、行って来ます」
 
「あ、う、うん」
 
「???」
 
 
なんか微妙な返事だったが、今はそれを気にしているヒマはない。
 
早く探しに出ないと、いくら校舎内とは言え一人の人間を探してうろつくには広すぎる。
 
それだけならまだしも、今は仮にも授業中だ。
 
ウロウロしている所を他のクラスの先生に咎められでもしたら厄介な事になるだろう。
 
って言っても桜が多少怒られるくらいなもんだけどな。
 
転入初日から授業中にうろつく不審人物。
 
まったく、人の事を不良少年とか言っておきながら自分も堂々とサボりかい。
 
 
小さく一息つき、授業中の閑静な廊下を独りで歩く。
 
窓の外を眺めると、季節はずれ(少なくとも俺の感覚では)の雪は既に止み、代わりに穏やかな陽光が辺りを包んでいた。
 
風が当たらない校舎内から見ると、その光景は未だ春の只中に居るような錯覚すら起こさせる。
 
そして、それに不思議な安堵を覚えている自分が居る。
 
冬は………嫌いだ。
 
寒いのは嫌いだし、雪で滑って転ぶのも嫌だ。
 
多分、それだけだ……と思う。
 
去年(厳密に言うと今年の事だが)の冬の間に起こった全ての事には全て決着は付いている。
 
そして、それが齎した結果は計り知れないほど大きく、何物にも変えがたい大切なものだ。
 
厭う理由など何処にも無い。
 
何処にも無いからこそ素直に、気分次第で冬を嫌いだと言えるのだろう。
 
 
「……どうでもいいか」
 
 
ただ少し、妙な胸騒ぎはするけども。
 
桜が転入してきた所為だと勝手に決めつけよう。
 
うん、そうしよう。
 
 
「で、そこの不審人物。 隠れているのは良いが、影が伸びてるぞ」
 
「ぎくっ」
 
「出てきたくないなら別に良いぞ。 俺はこのまま教室に帰るから」
 
「……いじわる」
 
 
『拗ねてます』と言わんばかりの表情で曲がり角から出てくる桜。
 
一体何がしたいんだお前は。
 
 
「いくら自習だからと言って勝手に抜け出すな」
 
「だーってー」
 
「転入初日に教師に目を付けられてどうする。 やり難くなるだけだぞ」
 
「だーってだーってー」
 
「オラ、さっさと行くぞ」
 
「祐一? 教室そっちじゃないよ?」
 
「……教室に居たくないなら、校内案内して欲しいなら始めからそう言え」
 
「え、あ、へ?」
 
「お前の教室を出て行く態度が不自然過ぎだ。 追っかけて来てくれる事を期待しているようにしか見えん」
 
「そ、それは……その」
 
「どうせ俺もあんな感じの教室は嫌だし、真面目に自習する気も無いしな。 付き合ってやるよ」
 
「………なーんか釈然としないなー」
 
「何が?」
 
「全部見透かされてるような気がするって事。 久しぶりに会ったのに何でも判ってるような顔しちゃってさ」
 
「そうか?」
 
「うん。 なんかズルい」
 
「ズルいってお前なぁ」
 
「私だけ祐一の事知らないもん」
 
「俺だってお前の事を知らん」
 
「じゃあさ……やっぱり今日、私の家においでよ」
 
「何故そうなる」
 
「色々と積る話もあるだろうしさ。 再会を祝ってぱーっと」
 
「あー、その話はまた今度な」
 
「えー? 何でさー」
 
 
コイツは本気で判ってないのか?
 
『それ』がどれだけ重要な意味を持っているのかを。
 
……いや、多分違うな。
 
桜は単純に、俺に対して異性を感じていないんだろう。
 
って事は桜に対して異性を考えている俺の方が変なのか?
 
 
「理由は多々あるが、一番妥当な理由としては『世間体』かな」
 
「………あそ」
 
 
少しだけ、また少しだけ寂しそうな顔を覗かせる。
 
気の無い返事をして平静を装っているが、それでも俺には判る。
 
だが、それも一瞬の事。
 
俺が理由を訊こうかどうか思案をした一瞬の隙に、桜の顔からは寂しさの色なんか微塵も見えなくなっていた。
 
だから、訊かなかった。
 
 
「それじゃー校舎内探検にごー!」
 
 
気の所為だと思う事にした。

気の所為じゃないと気付いていながらも。
 
 
 
 
気の所為だと、思う事にした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
to be continued........
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