美坂栞。
 
ニ年C組所属。
 
出席日数の圧倒的な不足によって、進級を断念せざるを得なかった、はずだった。
 
なのに今は平然と、高校二年生としてのハイスクールライフを送っている。
 
不思議と言えば不思議過ぎる状況。
 
もっとも、本人はそんな事には気付かず―――『ラッキー』位には思っているかもしれないが―――安穏とした高校生活を送っている。
 
クラス内、ひいては第ニ学年内で『可愛い女の娘アンケート』を取ったら間違い無く上位に入賞するであろうその容姿。
 
元来人懐こくて笑顔に屈託の無い彼女は、学業復帰と同時に大多数の男子を虜にした。
 
透けるような色白の肌と、時折8マイルほど斜め上方に吹っ飛ぶユーモレスクな言動。
 
ありがちな女性陣の嫉妬も、そんな彼女の魅力の前には消え失せるしか術を持っていなかった。
 
美坂栞は、現在最高学年で成績トップを誇っている彼女の姉と同様、第ニ学年のアイドルであった。
 
 
天野美汐。
 
同じくニ年C組所属。
 
何時頃からか、彼女はクラス内で微笑むようになっていた。
 
と、言っても、それを目にする確率はとんでもなく低いのだが。
 
それが明確に何時からか、そして誰のおかげによるかは不明である。
 
しかし、今までが今までであっただけに、彼女の微笑む姿は多くの男子学生をこれまた虜にした。
 
第ニ学年『可愛い女の娘アンケート』を取ったら、間違い無く上位に入賞するであろう。
 
慎み深い態度。
 
年齢不相応なほどに選び抜かれて発せられる言葉。
 
同学年には求められない魅力と、同学年にしか持てない魅力を兼ね備えた彼女。
 
彼女もまた、第ニ学年のアイドル的存在であった。
 
 
そして、二人とも相沢祐一が好きだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第四幕 『怒られるのは俺だけで』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その日、ニ時間目の授業は古典だった。
 
大抵どこの学校でも古典の授業と言うのは睡眠時間に当てられるものであり、この学校でもそれは例外無く実行されている。
 
まだニ時間目だと言うにも関わらず、過半数の生徒が机に突っ伏し、またある者は教科書を読むふりをしながら寝ていた。
 
天下泰平である。
 
そんな中、自称『真面目な生徒』である栞は教科書を開きつつ、源氏物語の一説を斜め読みしていた。
 
物語は、源氏が葵上や三条の君の間で揺れている場面。
 
元々が古典が好きな訳でもなく、加えてこんな一生涯の内に複数の女性と関係を持つような男の話なんて興味も無かった。
 
だから、読むのを止めた。
 
教科書から顔を上げ、黒板を見やる。
 
そろそろ初老であろうかと言う古典教師が、さながら古典の世界から抜け出してきたような文字を黒板に書き連ねていた。
 
あれは読めない。
 
早々に板書を諦めて、本当にやる事が無くなってしまった。
 
時計を見ると、授業時間はまだ半分も残っている。
 
そんな馬鹿な。
 
授業中の時間の経過速度は明らかにおかしい。
 
今度学会で報告してみよう。
 
そんな事を思った。
 
何処で開かれている学会に、どんな理論をどの様に証明して発表に望むのかは定かではない。
 
本人にもヒマが高じて考えただけの、本当にくだらないただの妄想に過ぎない事は良く判っていた。
 
小さくあくびをし、暇潰しを考えようと腰をひねり、廊下を歩いている人影を見つけて、美坂栞は即座に挙手をした。
 
 
「先生っ」
 
「はい、何ですか美坂さん」
 
「気分が悪いので保健室に行ってきますっ」
 
「ずいぶんと元気そうに見えますが、まぁ体調の事は本人にしか判らないものがありますからね。 いってらっしゃい」
 
「はいっ!」
 
 
言うが早いか、栞は風になって教室を後にした。
 
気分が悪い人はあんな軽快な動きは出来ないだろう、と誰もがそう思った。
 
もっとも、古典の授業を真面目に受けて意識が覚醒している生徒だけだったが。
 
 
もちろん、天野美汐も起きていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「あっちは?」
 
「あー、あっちは学食だ。 安いし量も多い。 まさに学食オブ学食だ」
 
「ほー。 ね、今日のお昼は学食?」
 
「いや。 弁当だけど」
 
「お弁当? 祐一、自分でお弁当なんか作ってるの?」
 
「話せば長くなるんだがな……まぁ、なんて言うか……」
 
「祐一さんっ! 私と言うものが在りながら他の女性と、しかも授業中に校内デートとはどういう事ですかっ!」
 
「……こう言う事だ」
 
 
嘆息混じりに苦笑した。
 
と言うか何故に栞が?
 
俺の認識が正しければ、今は授業中のはずだ。
 
横に居る桜も同じ事を思ったのか、少し困惑した表情を見せる。
 
 
「あなたは? 祐一の知り合いなのかな?」
 
「良くぞ訊いてくれました。 私は自他共に認める祐一さんの彼女、美坂栞その人ですっ」
 
 
えっへんと胸を張る栞。
 
ちょっとだけ頭痛がした。
 
『自』も『他』も認めているかもしれないが、少なくとも俺は認めていない。
 
 
「ね、こんな事言ってるけど?」
 
「気にするな。 ちょっと妄想癖の激しい娘なんだ」
 
「も、妄想とは何ですかっ」
 
「ほー、そうなんだ」
 
「納得しないで下さいっ。 その前にあなたは一体誰なんですかっ」
 
「私? 私は草薙桜。 祐一の彼女だよ」
 
「なっ……」
 
 
さらっと言い放つ桜。
 
絶句する栞。
 
って言うかちょっと待て。
 
 
「おい桜」
 
「ん? どしたのカナ?」
 
「『カナ』じゃない。 何時の間に俺の彼女がお前になったんだ」
 
「えー? ダメ?」
 
「ダメとか……そう言う問題じゃないだろ」
 
「じゃあマブダチ」
 
「ずいぶん古い言い方だな。 んー、まぁそれなら別に間違ってはいないな」
 
「じゃ、そゆ事で。 またね、栞ちゃん」
 
「はい、また」
 
 
笑顔で手を振って別れる桜と栞。
 
うん、何とか一段落―――
 
 
「じゃなくって!」
 
 
ついてなかった。
 
 
「まだ説明が足りないのか? 俺としてはこれ以上の説明は不可能だと思うんだが」
 
「私も無理だと思う」
 
「満場一致で本案は議決されました。 以上、国会を閉廷します」
 
 
踵を返し、栞に背を向ける。
 
オプションで背中越しに手をひらひらとしてやった。
 
 
「じ、上訴しますっ」
 
「却下」
 
「じゃあ私も同じく却下」
 
 
振り返り、1秒で却下してやる。
 
桜も、俺が栞をからかっている事に気付いているのだろうか、調子を合わせてくれた。
 
うむ、言葉少ない意思疎通と言うものは素晴らしい。
 
 
「み、右に倣えの日本人的気質での議案決定には納得できませんっ。 上告を申請しますっ」
 
「不可」
 
「右に同じ」
 
「えぅー」
 
「相沢さん、少しいじめ過ぎですよ」
 
「ん?」
 
 
不意に掛けられた声に振り向く。
 
さっきまで誰も居なかったはずなのに、何時の間にか天野がそこには立っていた。
 
眉間を指で抑え、きっちりニ秒間ほど考える姿勢を見せてから、桜の腕をとって袖をまくって時計を見る。
 
短針は10、長針は30を指していた。
 
つまりは十時半。
 
世間一般的な高校では、通称『ニ時間目』の真っ最中だと思うのだが。
 
 
「あー、天野。 一つ訊いても良いか?」
 
「何故授業中だと言うのにこんな所に居るか、と言う質問以外ならご自由にどうぞ」
 
「……何でも無い」
 
 
思考を先読みされて項垂れる俺に、天野は口元に手を当ててくすくすと軽く微笑んだ。
 
 
「美坂さんが授業中だと言うのにいきなり席を立って走り去ったものですから、つい気になって」
 
「は?」
 
「自称真面目な生徒の美坂さんがそこまでするとなると、原因は相沢さんが関与しているとしか思えませんでした」
 
「じ、自称って何ですか」
 
 
不満顔の栞。
 
だが、その不満顔も声も完全無視で天野は先を続ける。
 
 
「相沢さんが関与しているとなると、これはもう私も動くしかないと思いまして」
 
「天野………お前がそんな不真面目な生徒だとは思ってなかったぞ」
 
「意外ですね。 誰が何時、私が真面目な生徒だなんて言ったんですか?」
 
 
そう言って、ころころと笑う。
 
最近では見なれた天野の笑顔。
 
そこはかとなく落ち着きがあって柔らかくて、それなりに好印象だった。
 
 
「それに、古典の授業よりはこっちの方が私の人生に有益だと思いました」
 
「古典を蔑ろにするな。 先生が可哀想だろ」
 
「大丈夫ですよ。 源氏物語なら暗唱できるほど慣れ親しんでますから」
 
「………」
 
 
それは一女子高生の規格からは完全に逸していると思うのだが?
 
やはり笑顔を見せるようになっても天野は天野か。
 
古典を得意分野としているなんて、おばさん臭いを通り越しているぞ。
 
 
「ねー、また登場人物が増えたけど、ダレ?」
 
「私は天野美汐と言って、相沢さんの後輩にあたります。 どうぞ宜しく」
 
「いえ、こちらこそ」
 
「……相沢さんには言ってません」
 
「軽いジョークだ、気にするな」
 
「えっと、私は草薙桜。 祐一の彼女だよ」
 
 
にこっと笑って爽やかに告げる桜。
 
さっきよりも多少強めに引っ叩いてやった。
 
 
「いたっ」
 
「同じボケを二度も繰り返すなアホ! 学習能力は無いのか?」
 
「同じボケを二回繰り返すのはお笑いの常識じゃんかー」
 
「誰が漫才をしろと言った誰が!」
 
「少なくとも俺がリクエストした訳では無いな」
 
 
ぎくっ。
 
まったく予期せぬ方向から発せられた威圧的な声に、背筋がびくっと跳ねた。
 
油の切れたような動きで声のした方を振り向く。
 
出来れば空耳である事を願って。
 
 
「………誰かと思えば、朝会等で何時も何時も怒鳴り散らす、校内不人気度ナンバー1で有名な全校生徒指導担当の荒川先生じゃないですか」
 
「ご丁寧且つ俺の心境を逆撫でする説明をしてくれたありがとうな、相沢」
 
 
ぎゅー。
 
容赦とか手加減とか言う感情を一切排除したかの様な力の入れ様で、耳が思いっきり上に引っ張られた。
 
 
「いだだだだだだ! 取れる取れる! 耳無し法一になってしまう!」
 
「お前達も来い」
 
 
厳格且つ高圧的な声で言い放ち、俺の耳を引っ張りながら生徒指導室へと向かう荒川。
 
どうでもいいが、そろそろこの手は離して欲しいと思った。
 
耳無し法一になっても、残念ながら俺は琵琶を弾けない。
 
加えて平家物語も覚えてない。
 
やれやれこれじゃあやっぱり琵琶法師にはなれないなー、とか何とか余計な事を思っていた矢先。
 
 
びしっ!
 
 
「……何をする!」
 
「逃げも隠れもしませんから、祐一の耳から手を離してください!」
 
 
桜が荒川の腕にチョップをかましていた。
 
栞も、天野も、俺ですらその行動には呆気に取られた。
 
まさかこの状況で怒りを身に纏う生徒指導教師にチョップをかますとは思わなかった。
 
俺が呆けていると、荒川がその怒りの矛先を桜に向け始めた。
 
 
「授業中に校舎内をウロウロしているような生徒が偉そうな口を聞くな!」
 
「それとこれとは話が別ですっ!」
 
「見た事の無い顔だな。 転入生か?」
 
「だったら何ですか」
 
「郷に入っては郷に従えと云う言葉を知らないのか?」
 
「言われなく耳を引っ張られるような郷には従いたくありません」
 
「ったく………さすがは相沢の知り合いだな。 非常識さまで類は友を呼ぶのか」
 
 
その言葉に、少し腹が立った。
 
俺が非常識かどうかは兎も角として、桜はただ俺の耳を案じてくれただけではないか。
 
それを非常識云々と言うのはおかしい。
 
 
「ちょっ! 何ですかその言い方は!」
 
「転入生のくせに先生に食って掛かるその態度が非常識じゃなくて何なんだ!」
 
 
見る見るエスカレートして行く、桜と荒川の言い合い。
 
このままじゃまずいな。
 
 
「桜。 いいから」
 
「だって祐一が非常識だってこの先生が」
 
「いいから」
 
「それに祐一の耳をあんなに引っ張って祐一痛そうで」
 
「桜」
 
「………」
 
「大丈夫だから。 耳なんてまた生やせばいい事だろ?」
 
 
まぁ普通は生えて来ないと思うが。
 
 
「それじゃ先生、生徒指導室行きましょか」
 
「む、むぅ」
 
「それと、行くのは俺一人でいいでしょ。 二年生の二人は保健室に行く途中だったのを俺が引き止めてただけですから」
 
「そんな嘘が通じるとでも思ってるのか?」
 
「先生こそ、知らないんですか? 体調不良で長期欠席してた美坂栞って女の娘の事を」
 
「……この娘がか?」
 
「横にいるのは同じクラスで、一人で保健室に行かせるのは心許ないと言って付き添いを買って出てくれた生徒です」
 
「判った。 そこの二人は保健室に行きなさい」
 
「ゆ、祐一さん」
 
「早く行けよ。 天野、頼んだぞ」
 
「でも……」
 
「早く」
 
「は、はい」
 
 
まだ何か言いたそうだったが、俺の目を見て納得したのか、天野が栞を促す形で二人は保健室の方へと消えていった。
 
 
「で、コイツは転入生だって事は先生もさっき言ってましたよね」
 
「ああ」
 
「校舎内で迷っていたのを俺が探してたんです。 偶然ここで見つけた訳で」
 
「校舎内で迷う? 馬鹿も休み休み言え」
 
「コイツがまだ誰にも校舎内を案内されていないと云う事実は、職員室で石橋先生にでも訊けば明らかになりますよ」
 
「だとしてもだなぁ……」
 
「いくら学校内とは言え、見ず知らずの似たような教室が建ち並ぶ場所を案内無しで動き回るのは難しいんじゃないですか?」
 
「………判った。 そこのお前も教室に戻って良いぞ」
 
 
渋々ながらも俺の言葉に納得した荒川が、桜に教室に戻るよう命ずる。
 
だが、
 
 
「イヤです」
 
 
桜はそれを一言の元に却下した。
 
それも、キッパリハッキリと。
 
 
「桜ぁー。 頼むからこれ以上話をややこしくしないでくれ」
 
「何で祐一に全部責任押し付けなきゃいけないのさ。 そんな事するくらいだったら私が一人で怒られる方がマシだよ」
 
 
その目から、嘘や冗談を言っているのではない事はよく判る。
 
よく判るが、それを承諾するかどうかはまったくの別問題だった。
 
先生からの心象が悪いと云う事が学校生活においてどれだけのマイナス要素であるかは、自分でイヤと言うほど実感している。
 
そう、イヤと言うほど。
 
 
「俺がそんな事を受諾するような奴に見えるのか?」
 
「思わない。 だから二人で行こうって言ってるの」
 
「……この状況で俺がお前を説得する術は有るか?」
 
「考え得る限り、無いね」
 
 
またもキッパリハッキリ言われてしまった。
 
こうなった桜はテコでも動かない。
 
非常に厄介だが、それもまた桜。
 
半ば諦観の意を込めたため息を一つつき、俺は荒川の方に向き直った。
 
 
「だ、そうです」
 
「もういい、教室に戻れ」
 
 
面倒くさそうに荒川が言う。
 
その真意が読み取れずその場に呆けている俺に、荒川の何処か揶揄するような声が飛んだ。
 
 
「これじゃまるで俺が悪者みたいではないか。 もういいからさっさと教室に戻れ」
 
「はぁ、先生がそう言うのなら帰りますが」
 
「校舎内を案内する事を咎めはせんが、せめて授業中以外の時間にしろ」
 
「はいな」
 
「ほいな」
 
「桜、真似をするな」
 
「はーい」
 
 
まったく。
 
桜の態度云々は別としても、荒川の意外な一面を見た気がした。
 
卒業式の後で御礼参りをされているような場面に出くわしたら、渋々ながら助けてあげよう。
 
そんな事を思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「てな事で、今日はこんな大所帯になっている訳だが」
 
「端折らないでちゃんと説明してくれないかしら?」
 

呆れ顔の香里が突っ込む。
 
いや、そんな呆れた顔をされたってこっちだって困るのだが。
 

今は昼。
 
無事に四時間目までを勤め上げてハラペコな俺は、早速飯を食うべく学食へと行こうとした。
 
が、走り出そうとした瞬間に桜に制服の袖を掴んで止められた。
 

「コラ、袖が伸びるから止めれ」
 
「何所行くの?」
 
「四時間目終了後にダッシュする理由なんて学食しかないだろ」
 
「ちょっと待ってよ、私も行くから」
 
「なぁ相沢、俺も同行して良いか?」
 
「別に断りを入れる必要も無かろうに。 って言うかいい加減放せ」
 

腕をぶんぶんと振って桜の腕を解く。
 
ぱしっと弾かれて、不満顔の桜がこっちを睨んでいた。
 
何で睨まれるのかは判らないが、とりあえず怖いので無視しておいた。
 
これは英断だったと思う。
 
桜も席を立ち、いざ戦場へと走り出そうとした矢先に、今度は名雪に袖を掴まれた。
 

「何だ?」
 
「学食、行くの?」
 
「聞くまでも無く。 むしろお前も学食だろうに」
 
「私も行くからちょっと待ってて」
 
「速くしろ、席が無くなってしまう」
 
「う、うん」
 

焦っているような口調の割に、行動はのんびりしている。
 
まぁこれも名雪の特徴だからしょうがないとは思うものの、せめて学食戦争の間際にはもう少し急いで欲しい。
 
早くしないと立ち食いどころか食券そのものが売切れてしまう。
 
かと言って、購買戦争の残りカスみたいなパン(菓子パンやら得体の知れないパンやら)で昼食は終えたくない。
 
残りカスのパン、略すと残パンってか?
 
まぁ、それで糊口を凌ぎたくないと言う点では同じ様なものかもしれないが。
 

「お待たせ。 行こうか」
 
「相当に出遅れてしまったぞ。 急げ名雪」
 
「うんっ」
 

今度こそ、と思って走り出し、教室のドアをくぐった時点で、今度は栞に袖を掴んで引止められた。
 
絶対に今日は、袖の厄日だ。
 
 
「どこ行くんですか?」
 
「学食。 じゃ」
 
 
何処へ行くかとの問いに、出来得る限り明瞭簡潔に答えてやった。
 
タイム・イズ・マネーの現代社会に相応しい対応だったと言えよう。
 
だが、俺の対応に何の不満があるのか、栞は頑として俺の袖を離そうとしなかった。
 
 
「コラ、何故に俺の学食戦線参加を防ごうとする。 お前は俺の敵か?」
 
「敵じゃありません。 むしろお弁当を持ってきたんだから味方ですっ」
 
 
水戸黄門の印籠の如く、重箱弁当をどーんと見せる。
 
毎度の事ながら、美坂家のエンゲル係数を心配せずには居られない様相だった。
 
凶器とするにはもってこいだろう。
 
 
「あー、残念ながら今日は学食デーなんだ」
 
「わ、私のお弁当を食べてくれないと言うんですか?」
 
 
大袈裟に額に手を当て、ふらっと床に座り込む栞。
 
バックにはガビーンの白文字が見えそうなくらいだった。
 
一応突っ込むが、演技過剰だぞ。
 
 
「あなた変わりは無いですかー。 日毎寒さが募りますー。 食べては貰えぬこの弁当、想いを込めて作りますー」
 
「そこ、変な歌を歌うな」
 
「今の私の心境を見事に表す歌です。 哀れに思うなら手を差し伸べてください」
 
「名雪も学食。 北川も学食。 桜も学食なんだ。 この3人を戦争の只中に置いて、一人だけのうのうと弁当を食うなど俺にはできん」
 
「それならみんなで食べれば良いじゃないですか」
 
「いや、いくら栞の『分量という概念は夢の島に捨て置いてきました弁当』でも六人ではさすがに足りないだろう」
 
「なっ、私の愛の結晶になんて不名誉な冠詞を付けるんですかっ」
 
「とにかくそう言う事だ。 その弁当は香里と仲良く処分しろ」
 
 
しゅたっと右手を挙げて、その場を立ち去る爽やか青年、相沢祐一。
 
空腹と焦燥が大腿筋を刺激し、今なら世界新だって狙えそうな気がした。
 
中靴のゴムが焼けそうなほどの摩擦で廊下を蹴り、学食戦線へと風になろうとした。
 
瞬間、今度は袖ではなく首根っこを捕まれた。
 
 
「くはっ!」
 
 
勢いのついた身体と、その場に止まろうとする制服(無論制服に意思などないが)
 
必然的に首を絞められる体勢となり、俺は小さく息を吐いた。
 
 
「なっ、誰……だ」
 
 
振り返った先には鬼が居た。
 
片手で俺の制服を掴み、もう片方の手は腰に当てている我等がリーダー美坂香里。
 
更にその後ろには『お姉ちゃんに援軍を頼んじゃいました、えへへ』、な顔をした栞が笑っていたりもした。
 
 
「そんなに栞の好意を無下にして楽しい?」
 
「メッソウモゴザイマセン」
 
 
逆らったら殺される。
 
最早本能レベルで警鐘が鳴らされた。
 
 
「いや、栞の弁当を食べたいのは山々だが、俺には友人を捨て置く事など出来なくてだな」
 
「でしたら手遅れですよ、相沢さん」
 
「む?」
 
 
声のした方を振り返った先には、またもや天野。
 
あれか、最近はそういう登場のしかたがブームなのか?
 
 
「授業終了のベルから10分が経ちました。 この時間帯からでは、最早学食に行っても無駄です」
 
「……そうなのか?」
 
「ええ。 統計学的には」
 
 
何の統計学だ、とは突っ込まなかった。
 
むしろ突っ込む気力が無かった。
 
がっくりと肩を落し、北川の方に向き直る。
 
 
「すまん、我が部隊は最前線に参加する事無く帰還する事となった」
 
「俺に謝るな。 謝るのならば戦地で散った戦友(トモ)に詫びろ」
 
「そうだった……本当にすまない……謝っても謝りきれるものではないが……」
 
「何で私のお弁当を食べる事にそんな悲観的なんですかっ!」
 
 
ノリの良い北川と俺がコントを展開していると、栞が大声を上げて不満を爆発させた。
 
いや、弁当を食べる事には悲観的にはなっていないのだが。
 
 
「さっきも言っただろう。 量が足りるかどうかと」
 
「あー、それなら大丈夫。 私は1食くらい抜いても平気だし」
 
「駄目ですよ草薙さん。 成長期に食事を抜くのは身体の発育にとって一番よくない事なのです」
 
「大丈夫。 桜の成長はもう止まっ―――
 
 
がすっ!
 
桜は脛蹴りを行った。
 
かいしんのいちげき!
 
祐一は相当なダメージを受けた!
 
 
 ―――駄目だぞ桜。 成長期なんだからメシはちゃんと食べなきゃ」
 
「相沢? 別に俺は一人で学食に行っても平気だぞ」
 
 
見かねた北川が自己犠牲案を出す。
 
だが、その案も残念ながら却下だ。
 
 
「さっき天野が言ってただろ。 今から学食に行っても手遅れだ」
 
「あ、そっか」
 
「それでしたら相沢さん、私のお弁当も半分食べますか?」
 
「いいのか?」
 
「ええ、元々小食ですし。 それに、お腹を空かせた子犬のような眼をしている相沢さんを見ているのは忍びないもので」
 
「……どんな顔をしてるんだ俺は」
 
 
非常に鏡が見たかったが、残念ながら俺は鏡を持ち歩いていない。
 
しょうがないので顔をぺたぺたと触っていると、天野がくすっと笑った。
 
 
「冗談ですよ」
 
「……騙された。 いや、謀られたと言うべきか」
 
 
どっちでも良かった。
 
とにかくどうするかが決まったので、早速動く事にする。
 
 
「こんな人数で教室ってのもどうかと思うし、屋上前の踊り場に行くか」
 
「とにかく俺は腹が減ったぞ、相沢」
 
「大丈夫、俺もだ」
 
「うん、私もだ」
 
「私も……お腹…ぺこぺこ……だよ?」
 
 
久しぶりに名雪が喋った。
 
って言うか寝てただろ、お前。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued……