水瀬名雪。
 
陸上部部長の権限は既に後輩の『神埼 篠(かんざき しの)』に引継ぎ、今は受験生として勉強街道を爆走中である。
 
元々覚えは悪くないし、集中力もある。
 
夏の終わりからめきめきと力を付け、今では学年の成績上位五十名に常連として名を連ねるまでになった。
 
勿論、睡眠時間は維持したままで。
 
周囲の学生から見れば、好きなだけ寝ながらも成績を伸ばしていく彼女の姿は、ある意味驚異的でもあった。
 
多少の妬みも、もちろんあった。
 
だが、生来の人柄と柔和な笑顔はその悉くを受け流し、あまつさえ好意すら抱かせるに十分だった。
 
 
そう、名雪には現在、大多数の男子からの好意が向けられている。
 
激励会で、体育祭で、毎朝のダッシュ登校で。
 
ロングヘアーを靡かせながら走る名雪の姿には、狂信的とも言えるファンすら存在していた。
 
その一端は、昨秋の文化祭で行われた『ミス華音』の結果から見ても明らかである。
 
『彼女にしたい女の娘グランプリ』と『結婚したい女の娘グランプリ』で堂々の二冠を達成した名雪。
 
残念ながら、『綺麗だと思う女の娘グランプリ』は親友である美坂香里に軍配が上がった。
 
香里本人は自分が値踏みされる事をいたく嫌っていたのだが、それはそれ。
 
とにかく、名雪は自分が思っている以上に異性から好意を持たれていた。
 
勿論、本人はその事にまったく気付いてはいないのだが。
 
ちなみに、『華雪祭』史上三冠を達成したのは、昨年の覇者である倉田佐祐理その人だけである。
 
しかも三年連続だったとか。
 
 
他の相沢祐一に想いを寄せる女性陣から見れば、羨ましいとしか言えない生活環境に彼女は居た。
 
同じ家で同じ空気を吸い、望む時にはいつでも祐一に会える。
 
文字通り、朝から晩まで。
 
「おはよう」も「いただきます」も「ただいま」も「おかえり」も「おやすみなさい」も、全て照れる事無く祐一に言える距離。
 
羨やまれるのも無理は無い。
 
しかし、それだけに彼女の苦悩もまた大きかった。
 
近しいからこそ、手が届かない痛みも他より大きい。
 
近しいからこそ、それを失う事を考えた時の怖さも他の人とは比べ物にならない。
 
生来ののんびりした性格を除いても、名雪はその手の事に関しては非常に臆病にならざるを得なかった。
 
 
恋に、勉強に、悩める受験生、水瀬名雪。
 
多様な意味で辛く苦しい十七歳の冬を、彼女は今日も走り続けている。
 
ゴールは、未だ見えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第5幕 『独りは寒いとキミが泣く』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ところで、草薙さんは祐一さんとどういう関係なんですか?」
 
 
重箱弁当の五段目にきっちり敷き詰められていたバニラアイスを食べながら栞が尋ねた。
 
小さな木製のスプーンを咥えている姿は可愛いが、如何せん抱えている箱の容量に問題がありすぎる。
 
保冷の効果が云々とか言う前にアレだろ、それ業務用のでっかい奴だろ。
 
 
「私? だから祐一の―――」
 
「『彼女だ』とか言うボケは聞き飽きたからな、桜」
 
「む」
 
 
先手を打たれたのが悔しいのか、さも『不満あります』と言わんばかりの顔で俺を睨む桜。
 
って言うかまだ言うつもりだったのか、同じボケを。
 
 
「同級生だよ。 前の街での、な」
 
「むぅ」
 
 
さっきとは違う、今度は少し怒ったような唸り声。
 
隣の桜を見ると、何か言いたげな瞳を向けられた。
 
何だ?
 
俺は何か悪い事言ったのか?
 
 
「何だ?」
 
「……別に」
 
 
ふいっと横を向かれた。
 
気にはなるものの、深く詮索するのもどうかと思ったので放っておく事にした。
 
 
「って言う事は、この街に来る前の祐一の事も知ってるんだよね」
 
「そりゃ……ねぇ」
 
「ね、ね、どんな人だったの?」
 
「あ、それ俺も興味ある」
 
「私も、興味が無いと言ったら嘘になりますね」
 
「………」
 
「………」
 
 
美坂姉妹以外、全員が俺と桜の方を向く。
 
なんて言うか、ある意味では予想していた通りの展開だった。
 
そして、その場に立った時の俺の感情も、予想通りだ。
 
 
「ね、祐一って前の街ではどんなだったの?」
 
 
単純な好奇心だけだろう。
 
名雪に悪意が無いってのは誰よりも俺が一番良く判っている。
 
だけど今は、その質問だけは………頼むから止めてくれ。
 
『前の街』を思い起こす事は、まだ俺にとっては――――――――
 
名雪の何気ないその言葉が、まるで丸い刃の様にめりめりと俺の心を酷く抉る。
 
痛い。
 
とても、痛い。
 
その痛み故に名雪を嫌悪してしまいそうなほどに。
 
 
「昔の祐一ねぇ」
 
 
負の方向で堂々巡りをする思考の片隅に、桜の声が聞こえた。
 
瞬間的に意識が戻る。
 
言うな!
 
叫ぼうと思った。
 
だが、一度話し始めた桜の口を強引に閉じさせる訳にもいかなかった。
 
そんなのはあからさますぎる。
 
かと言って、『昔』の話をされるのは正直止めて欲しい。
 
どうして良いのか判らず、俺はただ桜のことを見ているしかなかった。
 
 
「前の街での話、祐一はしてくれなかったの?」
 
「え? う、うん」
 
「じゃあ、私が勝手に話して良い事じゃないんじゃないカナ?」
 
 
そう言って俺を見る。
 
多分、俺の感情を全て判った上で。
 
 
「ねっ」
 
「……あぁ、昔の話なんてしたって面白くないしな」
 
「ま、相沢が言いたくないってんならしゃーないわな」
 
 
軽い口調でそう言って、深く事情は知らないはずの北川も助け舟を出してくれた。
 
結局はその一言が閉めとなり、『昔』の話は流れる事となった。
 
助かった……って言うべきなのかな。
 
本当はそんな事思っちゃいけないはずなのにな。
 
一体何時になったら、俺は『あの頃』とまともに付き合えるのか。
 
 
まともに
 
 
自分の思考に、ふと疑念を抱いた。
 
痛みを伴わずに『あの頃』を思い出す事が、本当に『まともに』と呼べるのだろうか、と。
 
もしそれが『まともに』と呼ばれる類いだとしたら、俺はそんなものは欲しくない。
 
痛みを伴うってのは、俺の中で唯が消えてない証拠だと思うから。
 
色褪せてないって、何よりも確かな証拠だと思うから。
 
忘れる事と乗り越える事は違うって昔言われたから、その違いは判ってる。
 
だけど、乗り越える事と痛みを失う事もまた、別なんじゃないかと思う。
 
少なくとも今の俺は、この痛みを失いたくないと思ってる。
 
痛みと言うからには確かに痛いし、痛みそのものは辛いのだけれども。
 
それでもやっぱり、この痛みは今の俺に必要なモノだと思う。
 
 
自虐的な思考か、それとも自傷行為に恍惚としているナルチシズムか。
 
どちらにせよ、人に言えるもんじゃないと思った。
 
だから、今は誰にも言えない。
 
言葉にしたら、全てが薄っぺらなものに変わってしまうような気がするから。
 
悪いな……名雪。
 
 
何も、今は言えない。
 
痛みは、未だ癒えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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五時間目 現代国語
 
 
受験生にとって最も軽視されがちなのがこの授業だろう。
 
何しろ、国語なのだ。
 
国語。
 
国の言語。
 
日本語。
 
生まれた時から日本語を読み書き話してきた俺に、この上何を教えようと言うのか。
 
自慢じゃないが、現代国語なんぞ勉強しなくたって九割以上は得点できる。
 
模試だろうが、定期試験だろうがだ。
 
日本語が読めれば答えが出ると言うこの教科に関する限り、日々の勉強などは無意味と言っても良いだろう。
 
要はアレだ、感性がモノを言う教科って事だな。
 
いくら勉強しても本を読んでも文法を覚えても、『チロヌップのキツネ』を読んで泣けない人間には国語は無意味だ。
 
 
「はい、授業始めますよ」
 
 
そんな俺の思考とは別次元で今日も授業は始められるようで、教卓の前では現国教師の片倉さんが楽しそうに手を叩いていた。
 
生徒である俺の方に授業を受ける気は皆無だと言うのに。
 
そろそろ高校の授業制度も変えないと日本の未来は危ないな。
 
 
「せんせー」
 
「はい、えーと……草薙さんですね? 何ですか?」
 
「教科書がまだ届いてないんですけど」
 
「それじゃあ隣の人に見せてもらってくださいね」
 
「はーい」
 
 
そう、例えば大学のような授業選択制度を高校の時点で採用するのだ。
 
中学を卒業した時点で義務教育は終わるのだから、高校では専門的な知識を学べるようにしても何の問題も無いはずなのだ。
 
むしろ高校卒業を前提としているような社会、つまり高校を義務教育の延長として捉えているのが間違いなのだ。
 
社会に出ていく上での最低限の教育は中学までで終わっているのだから、高校で選科制を用いても良いではないか。
 
うむ、今度の学会でこの議案を提出してみよう。
 
 
「ちょい、祐一。 教科書は?」
 
「俺は国語なんかを勉強するほど暇人では……って、何やってんだお前」
 
 
多少ぶっ飛び気味な思考から我に帰ると、何故か俺の机の横に桜の机がぴったりとくっ付いていた。
 
そしてその席には桜がちょいんと座っている。
 
 
「教科書がまだ届いてないの。 はい、見せて」
 
「ずいぶんと偉そうだなお前」
 
「癖」
 
「ヤな癖だなオイ」
 
 
苦笑しながら机の中に手を突っ込み、ガサゴソと教科書を捜す。
 
む、無い。
 
そう言えばここ数ヶ月ほど国語の教科書を開いた覚えが無いぞ。
 
 
「……ひょっとしてロッカーに置きっぱなしか?」
 
「いや、私に訊かれても」
 
「残念だが、教科書は諦めろ。 なに、無くたって死にはしない」
 
 
ぎゅー
 
 
「いたっ、いたたたたた」
 
 
無言で足を踏まれた。
 
何をするのかコイツ、と文句を言おうとして桜の顔を睨んだら、逆に睨み返された。
 
 
「教科書、見たいなー」
 
「それはアレか? 俺にロッカーまで教科書を取りに行けと言いたいのか?」
 
「祐一だって使うんでしょ? 教科書」
 
「いや、使わん。 これっぽっちも」
 
「なんでっ」
 
「俺は相沢祐一だぞ? 国語を真面目に受けるなんて俺の名が穢れるわい」
 
「じゃ、私の為に。 教科書」
 
「……そんなに見たいのか?」
 
「見なきゃ授業になんないもん」
 
「相沢」
 
「んあ?」
 
 
殆ど真横を向いていた身体を正面に向けると、北川が頭越しに教科書を放ってきた。
 
先生の手前、せめてもう少し遠慮がちに手渡した方が良いと思うのだが。
 
 
「おっと」
 
「使え」
 
「お前は?」
 
「愚問だな。 俺に国語を真面目に受けろと?」
 
「なるほど、流石はマイ・フレンド」
 
 
ありがたく受け取り、その教科書を改めてよく見てみた。
 
表裏と表紙を眺め、ついでにパラパラとページも捲って見た。
 
こいつの事だ、きっと俺を楽しませてくれるような落書きか異様な程の完成度を誇るパラパラマンガを描いていてくれるに違いない。
 
 
「……北川」
 
「ん?」
 
「落書きどころか折り目すらついてないぞ、この教科書」
 
「そりゃ、使ってないからな」
 
「この街の学生は不真面目なのばっかだよー」
 
 
隣で桜が呆れ顔をしている。
 
む、『ばっか』とはなんだ『ばっか』とは。
 
それじゃまるで俺まで不真面目学生みたいじゃないか。
 
否定はできないが。
 
 
「せっかく北川が自分を犠牲にして貸してくれたんだ。 この教科書を使って一生懸命勉学に励めよ」
 
「いやなに、俺の事は心配しなくても良いんだぞ草薙さん。 君に使われた方がその教科書も幸せだろう」
 
「えっと、うん、ありがとね」
 
 
気にするも何も、ついさっき使わないって言ったばっかじゃないか。
 
そんな俺の思考を他所に、ぺこっと頭を下げた桜の手に教科書が譲渡された。
 
十一月も末だと云うのに、それにしても本当に綺麗だな、この教科書。
 
 
「185ページ、185ページっと」
 
「ところで桜」
 
「ん?」
 
「何時まで机をくっつけてるつもりだ」
 
「へ? どゆこと?」
 
「お前はめでたく教科書を手に入れたんだ。 俺の机にくっついてる理由が無いだろ」
 
 
隣の俺に教科書を見せてもらうって言う名目で机をくっつけてたんだから。
 
 
「……邪魔って言いたいのかな?」
 
「ちがっ、別にそう言う意味じゃなくて―――」
 
「そっか、祐一も私の事邪魔だって言うんだ」
 
 
そう言ってガタガタと机を元の位置に戻す桜。
 
何だか目がマジだった。
 
マジで、寂しそうな目をしていた。
 
何だか判らないけど、俺の所為で桜にそんな目をさせたくは無い。
 
俺の所為じゃなくても、させたくない。
 
 
がたがた
 
 
今度は俺の方から机ごと移動して、桜の机にくっつける。
 
何をしているのかとクラスの視線が痛かったが、当然の如く無視してやった。
 
 
「………」
 
「急に真面目に勉強したくなった。 教科書、見せてくれ」
 
「ヤダ」
 
 
俺の視線から逃れる様にふいっと横を向く。
 
ポニーテールが揺れた。
 
 
「桜」
 
「ヤダ」
 
 
取り付くしまも無い。
 
何がこんなに桜を意固地にさせているのだろうか。
 
脳細胞をフル稼働させて考えてみたが、一向に判らなかった。
 
 
「さーくーら」
 
「………」
 
「俺、そんなに怒らせるような事言ったか?」
 
「別に怒ってない」
 
「じゃあこっち向けよ」
 
「……あと五分経ったらね」
 
「何だそりゃ?」
 
「……教えない」
 
 
結局、桜がこっちを振り向いたのは本当に五分経ってからの事だった。
 
振り向いた顔は普段通りだった。
 
普段通りを桜が装っていたから、そう思う事にした。
 
 
「さってと。 祐一、真面目に授業受けよーねー」
 
「……ヤダ」
 
 
ヤダって言っているにも関わらず、教科書を二人の机の真中に配置する桜。
 
それを除きこむ様に、自然と桜の身体もこっちに寄り掛かって来る形になる。
 
避ける理由も無いので黙っていたら、遂には肩が触れ合う位置にまでなっていた。
 
流れるボディーソープの薫りは、昔とちっとも変わっていなかった。
 
甘く、優しく。
 
そしてボディーソープの『それ』だけじゃなく、桜自身の薫りも同時に俺を包み込んだ。
 
それはやっぱり昔とちっとも変わっていなくて、何故だか妙に心が和んだ。
 
ふと気になって目だけで横を見ると、こっちを見ていたのだろう桜の視線とバッチリ出くわす。
 
強さ五割、優しさ三割、脆さ一割、その他一割。
 
思っていた以上に綺麗な目に、一瞬見惚れた。
 
一瞬も目を逸らずに、じーっと俺の顔を見詰め続ける桜。
 
視線からその感情を推し量る事は出来なかったが、少なくとも見られている分には不快ではなかった。
 
だから、俺も目を逸らさずに見詰め続けた。
 
ひょっとして授業が終わるまでこのまんまになるんじゃないかと思ったとき、桜の口が小さく開いた。
 
 
「何?」
 
 
何、と訊かれてもこっちも困る。
 
俺がお前の方を向いた時にバッチリと目が合ったんだから、先に俺の顔を見ていたのはお前の方だろう。
 
って言おうと思ったけど、なんだか気が進まなかったので止めておいた。
 
代わりに、さっきまでちょっと思ってた事を言ってみた。
 
 
「お前の顔が近い」
 
「ん、わざと」
 
「何故」
 
「何だか祐一にくっつきたかった」
 
 
一ミリも遠回りをしない、完全直球勝負な回答。
 
もう少し捻くれた答えが返って来るものだとばっかり思っていたから、咄嗟に反応しきれなかった。
 
だとするとやっぱり、口を突いて出た言葉は俺の本音だったんだろう。
 
 
「好きにしろ。 相手がお前なら俺はイヤじゃない」
 
 
そう言って、視線から逃れるように黒板を直視する。
 
さっきよりも肩に強く感じる桜の重みを感じながら。
 
勿論、国語の授業なんかこれっぽっちも聞いてなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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放課後。
 
名目上こそ放課後だが、この時期の高校三年生に放課後なる概念などは存在しないと言っても良かった。
 
そう、忌むべき悪魔の名前は『課外授業』。
 
何の因果か知らないが六時間がっちりと授業をやった後、更に二時間ほど特別授業が組まれているのだ。
 
まったく、教師陣もご苦労なこった。
 
俺?
 
俺は帰る。
 
どうせ出席したって大半を寝て過ごすのだ。
 
それならばいっその事きっぱりと家に帰って、自分のペースで勉強した方がよっぽどマシだ。
 
勿論自分で勉強するなんて事は滅多に無いんだがな。
 
ま、気分の問題だろう。
 
そんな事を思いつつ鞄を肩に掛けて席から立った所で、桜が不思議そうな顔で俺の方を見ている事に気付いた。
 
 
「あれ? 祐一は課外授業受けてないんだっけか」
 
「おう。 てか朝に言っただろう」
 
「忘れた」
 
 
即答かい。
 
しかも自身満々に。
 
 
「お前は? 課外受けるのか?」
 
「ご冗談を。 そこまで時間を浪費する趣味は無くってよ」
 
「何故にバロック調な話し方かは置いておいて、それじゃあ直帰か」
 
「ん………もう少し学校の中を見てから帰ろうかなって思ってる」
 
「付き合うか?」
 
「一人で大丈夫。 まさか迷いはしないと思うから」
 
「そっか。 んじゃな」
 
「また明日っ」
 
 
笑って手を振る桜。
 
後ろ手で返し、そのまま教室を出た。
 
その笑顔に妙な違和感を感じながら。
 
 
久し振りに会った所為だろうか、桜の時折見せる表情がどうも気になった。
 
ともすれば見逃しそうな、むしろ俺じゃないと気付けないような微妙な変化。
 
だからこそ俺の目にはよく映ったし、目にした時はとても不可思議な気持ちになった。
 
何でだ。
 
何でそんなに悲しそうな表情をする。
 
 
「………ふぅ」
 
 
考えたって判る訳が無かった。
 
何しろ俺はエスパーじゃない。
 
自分の無力さに少し歯噛みをしながらポケットに手を突っ込み、昇降口を出る。
 
どうも釈然としない思いを胸に、なんとなく空を見上げた。
 
夕焼け。
 
冬の硬質な空気にはなりきれていないが、それでも澄んでいると形容してもおかしくない空に、はっきりと赤く。
 
平常心で夕焼けを見つめれるようになった事に思いを馳せるでもなく、単純に綺麗だと思うことも無く。
 
俺の視線は、屋上に佇む一人の女子生徒にしか向けられていなかった。
 
 
「………桜?」
 
 
そのまま、俺も立ち止まる。
 
屋上の桜は俺に気付く様子も無く、ただひたすらに夕焼けに見入っていた。
 
いや、そもそも桜の見ている物が夕焼けかどうかも判らなかった。
 
ただ、向いている方向が夕焼けだったというだけかもしれない。
 
それほどまでに遠目に見た桜の顔からは生気が感じられなかった。
 
 
校内を見て回ると言っていた桜。
 
笑ったその表情に、違和感を感じた。
 
気の所為だと思った。
 
思おうとした。
 
自分が相談されていないのならば、即ち自分が首を突っ込んで良い問題じゃないと思っていた。
 
だけど今、屋上で、独り。
 
お世辞にも景色を楽しんでいる様子は見えない。
 
今すぐにでも屋上に向かって駆け出したいと思う本心。
 
だけど、余計な御節介かもしれないと走り出す事を躊躇する理性。
 
結局俺は昇降口で桜が出てくるのを待つ事にして、花壇の淵の煉瓦に腰掛けた。
 
制服越しに感じた煉瓦は、とても冷たかった。
 
 
初めに桜に気付いてから、既に二十分以上経っただろう。
 
それでもまだ、桜は屋上から動こうとはしなかった。
 
夕焼けは既にその姿を消し、風は刻一刻とその冷たさを増してきている。
 
本当はここで昇降口から出てくる桜を待っているつもりだったが、作戦変更。
 
寒さで少し硬くなった身体を突き動かし、俺は再び校内へと戻った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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電気が消えた廊下。
 
喧騒の消えた教室。
 
三年が課外を受けている階以外は、校舎の中から全ての生き物の気配が消えていた。
 
ただひたすらに静かな空気に、リノリウムの床が古くなった中靴に踏まれてぺたぺたと鳴る音だけが響く。
 
そんな中をゆっくりと歩き、俺は屋上へと足を進めていた。
 
既に日の落ちてしまった外は闇に紛れ、窓から見える風景は最早黒一色。
 
全てを飲み込んでいきそうな闇に、言い知れぬ何かを感じた。
 
そのまま急ぎもせずに屋上へと続く階段を上る。
 
朝に蹴り破ったドアノブは直される事も無く、依然としてその所在無さげな風体を晒していた。
 
むぅ、スマン。
 
心の中で謝りながら、ゆっくりとドアを開けた。
 
 
ギィ
 
 
小さく軋むドア。
 
風の強い屋上にはそれほど大きく響かなかっただろうが、無音の中に居た桜が気付くには十分だったのだろう。
 
 
「あっ、ごめんなさい。 今帰りますから」
 
 
俺の事を用務員か何かと勘違いしてか。
 
俯いて小走りに、小さく謝りながら俺の横をすり抜けようとする桜。
 
その声は、涙に揺れていた。
 
 
「桜。 俺だ」
 
「っ!? ゆ、祐一?」
 
「おう、祐一だ」
 
「な、なん、で? 帰ったんじゃ?」
 
「妙な電波が届いたんだ。 桜が屋上で寂しそうにしてるって」
 
「………ばか」
 
「ぬ? 何を失礼な」
 
「……ば、かぁ」
 
 
それっきり、桜は無言になった。
 
周囲が暗い上に俯いているので、その表情は見えない。
 
察する事も十分に出来たが、無理に聞き出したり邪推をする事はしたくなかった。
 
話したくなければ話さなくても良い。
 
ただ、話してくれた時には全力で相談に乗る。
 
思えばそれは俺の尊敬するマスターの生き方によく似ていた。
 
 
「取り敢えず、俺は少しだけ屋上で風に吹かれていこうと思う」
 
「………」
 
「邪魔ならそう言えよ。 直ぐに帰るから」
 
 
そう言ってフェンスまで歩いていき、ゆったりと背を預けた。
 
カシャンと小さく音を立て、歪む。
 
背中に感じる鉄の網の感触を不快に思う事も無く、さりとて深奥からは何の感傷も引き出される事も無く。
 
ひたすらに止む事なく吹きつける風は、季節柄その全てが冷たいものばかりだった。
 
こんな冷たい風に、ただ黙って身を切られていた桜。
 
一体何が――――――
 
 
「……ね」
 
 
小さく。
 
吹き付ける風に掻き消されてしまいそうなほどに小さく。
 
ぽつぽつとだが、桜の口が動いた。
 
 
「ん?」
 
「何で私がこの街に来たか、判る?」
 
「そりゃ……引越ししたからだろ」
 
「違う。 その引越しの理由」
 
「………判らん」
 
 
何処までも深く沈んで行きそうな桜の口調から察するに、あまり良い理由からではないのは確かだった。
 
だがそれでも、だからこそ曖昧な推測でモノを言ってはいけないような気がした。
 
そこからまた暫くの沈黙。
 
乱れる後れ毛を押さえようともせずに、風に身を任せている桜。
 
そんな桜を、庇う事も出来ずに佇む俺。
 
体温を容赦無く奪う北風だけが、フェンスを鳴らしていた。
 
 
「ウチの両親がさ、離婚したん、だ」
 
「………そっか」
 
 
前の街にいた時に、数回だが聴いた事はあった。
 
桜の両親の仲は、あまり良くない。
 
話題が話題だけにあまり深くまでは訊かなかったのだが、まさか離婚するところまでいっていたとは知らなかった。
 
 
「で? こっちには親父とお袋さん、どっちと一緒に来てるんだ?」
 
「………わたし、独り、だよ」
 
「っ!?」
 
 
そんな馬鹿な。
 
だって、だってそんな………
 
普通は離婚したって、娘の事は両親のどちらもが手放したくないって争うもんだろ。
 
この街に来たのだって、親父かお袋さんかどっちかの実家が在るからって、そういう事じゃないのか?
 
それなのに、桜独りって事は――――――
 
 
「私の事、お父さんもお母さんも要らないんだってさ。 あはは、要らないだって。 笑っちゃうよね」
 
 
笑う桜が、痛い。
 
精一杯の『造った笑顔』で強がって、涙を流す事を必至に拒んで。
 
そんな桜に何か言葉を掛けてやりたかったが、それすらも桜を傷つけてしまいそうで。
 
 
「非道いと思わない? 勝手に産んでさ、そんで自分たちが別れる事になったらどっちも私の事なんか要らないって。 じゃ、邪魔だって」
 
「桜……」
 
 
自分で言った言葉に、更に傷つく。
 
悲しい過去を笑い飛ばしてしまえれば、どれだけ救われるか判らない。
 
『過去』だって言えれば、どれだけ楽になれるか判らない。
 
だけど笑い飛ばせるほど『それ』は過去ではなかったし、笑い飛ばせるほど『それ』は些細な事じゃなかった。
 
遂には笑顔の仮面が剥れ、どうしようもないほどの嗚咽と涙が桜の言の葉を千々に引き裂く。
 
それでも桜は、その顔が涙でぐしゃぐしゃになりながらも、まるで話し続けるしか出来ないかの様に。
 
必死に、必死に。
 
涙を止めようとして、でも出来なくて。
 
 
「だっ、て、そん、な、こと言われたって、わた、わたしだ、って邪魔に、なりたくて、生まれ、れてきたんじゃ、ないの、に
 おと、さ、もっ、おかぁさんも、じゃまっ、て、要らないって、それじゃ、わた、し、生まれ、て、こなきゃ、良かたっ、て思っ、て」
 
 
これ以上、何も言わせたくなかった。
 
制服の裾を握り締めているその白い手を取り、有無を言わさず胸の中に引きこむ。
 
想像以上にその身体は細く、それ故に酷く儚げに思えた。
 
胸の中から解き放てば、すぐにでも消え去ってしまうかのように。
 
胸に、桜の涙と熱い吐息を感じる。
 
何か気の利いた言葉を掛けたくて、だけどやっぱりどんな言葉も薄っぺらに終わるような気がして。
 
たった一言だけ。
 
俺は、陳腐な台詞を言うしか出来なかった。
 
 
「胸、貸す」
 
「う、ぅう………うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 
 
心臓まで直に響くような泣き声に、何故だか俺も涙ぐんだ。
 
小さく揺れるポニーテール。
 
柔らかく素直な髪をそっと撫で、ただひたすらに抱きしめ続けた。
 
風が、酷く冷たかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「……ごめん」
 
「謝られる覚えは無い」
 
「………じゃあ、ありがと」
 
「感謝される覚えも無いんだがな。 ま、いっか」
 
 
どれくらいそうしていただろうか。
 
次第に小さくなる嗚咽が完全に収束する少し前、桜が腕の中で小さく呟いた。
 
「もう、いい」、と。
 
俺の腕から解かれた桜は、目をごしごしと擦って無理矢理いつもの自分に戻ろうとしが、あまり巧くはいかなかった。
 
それを指摘するほど野暮じゃないので、そこからまた暫しの時間が流れた。
 
 
「寒いなら、上着、貸すか?」
 
 
どちらも動こうとしないので、寒風だけがその場を吹きぬけていく。
 
スカートの桜には厳しいだろう。
 
事実、さっきからしきりに寒そうにしているし。
 
 
「ほんと、こっちは寒いよね」
 
「ん? あぁ、向こうではこの時期ならまだロンTで十分だからな」
 
「もうストーブつけなきゃやってらんないもんね」
 
「確かに。 出す時期を間違えると凍死しかねんぞ」
 
「ふふっ、それは言い過ぎだよ」
 
「あながちそうとも言いきれないんだがなー」
 
 
それは俺が寒さに弱いだけだろうか。
 
首を捻る俺を一頻り笑った後で、桜は不意にその笑顔を消した。
 
 
「部屋に帰ってさ……」
 
「ん?」
 
「暗く冷え切った部屋に帰ってさ、ストーブを点けて、それから一人分のご飯を作って」
 
「………」
 
「テレビを点けても、物悲しい笑い声が響くだけだから、点けなくて」
 
 
桜の口から聴く様子は、『あの頃』の俺の生活と同じだった。
 
家に帰っても誰も居ない。
 
自分以外に生き物の気配のしない家で、自分だけが動いていて。
 
ふとした時に『独り』を実感して。
 
俺はまだ良かった。
 
独りを望んでいた時期でもあったし、何より『それ』を普通の事として来れたのだから。
 
でも桜は――――――
 
 
「ね、祐一。 家に、来てくれないかな」
 
 
ぎこちなくも『家庭』だった場所から切り離され、いきなり放り出された独りの空間。

望んだ訳じゃない。
 
本当に、放り出されたのだ。
 
冷たい空気、暗い部屋。
 
その辛さは、とても耐えられるものじゃないだろう。
 
少なくとも、今の桜では。
 
 
「この街は……独りは……寒いからさぁ」
 
 
俺の制服の裾を掴み、今にも泣きそうな顔になる桜。
 
そう言えば、俺を独りから救い出してくれたのはコイツでもあるんだよな。
 
それなのに世間体がどうとかくだらない事を気にして。
 
アホか俺は。
 
桜が俺を必要としてくれる時は、何時だって手を差し伸べるはずだろ。
 
『あの頃』の俺の『居場所』は桜だった。
 
なら、俺だって桜の『居場所』になってやれるはずだ。
 
 
「……判った」
 
「ふぇ?」
 
「行こうぜ、お前の家」
 
「あ……うん、うんっ」
 
 
涙を拭いて、桜が笑った。
 
それだけで嬉しかった。
 
 
それだけで十分だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued........
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