『SNOW LOOK BIG HAPPY』
 
雪の振る街にある、どちらかと言えば高級な方のマンションの名前がそれだった。
 
駅から徒歩十分。
 
三人家族で住むにも十分耐えうる2LDK。
 
居間は十二畳あり、各部屋も八畳ずつの広さを誇る。
 
シャワー、トイレは当然完備。
 
玄関を入ってすぐ右がトイレで、少し行って左が浴室、突き当りが居間と言う造りになっていた。
 
冷暖房は残念ながら自己負担。
 
一階部分がオートロックになっていて、鍵を持っているか住民に開けてもらうかしないと入れない構造になっていた。
 
入居者の傾向としては、大学生が二人以上で借りるもしくは老夫婦が息子達に家から追い出されての入居と言ったケースが非常に多い。
 
基本的に上の階に行くほど景色は良くなっているが、値段も高くなっている。
 
老人世代は地面に近い所に住みたがるし、学生は安さが一番という事でやっぱり地面に近い所に住みたがる。
 
結果として、上層階は過疎化が進む一方だった。
 
 
つまり、高校生の女の娘が最上階にたった一人で住むようなマンションでは、絶対にないのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第六幕 「おかえりなさいは後ろから」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「雪……見…大福?」
 
「何が?」
 
「いや、このマンションの名前がさ」
 
「……あ、ホントだ」
 
 
創った奴は一体何を考えてるんだ。
 
まぁ、ある意味では愉快なジョークだとも取れるが。
 
 
今の時間は午後七時四十三分。
 
俺は桜が住んでいると言うマンション、『SNOW LOOK BIG HAPPY』ああもう面倒臭い、『雪見大福』の前に立っていた。
 
結構大きな建物だが普段の俺の行動範囲から大幅に外れた位置に建っているため、こんな建物は今まで見た事も無かった。
 
 
「結構でかいな」
 
「うん。 私もびっくりした」
 
「びっくりしたって、お前が決めたんじゃないのか? ココ」
 
「んー、まぁそこら辺には色々あってさ。 まずは中に入ってからにしよ」
 
「それは構わんが」
 
 
桜がオートロックを外すのをぼんやりと見ながら、ふと新たな疑問が浮かんだ。
 
そう言えば未成年が不動産の賃貸契約を結ぶ時って言うのは親の承諾が必要になるんじゃなかったのか?
 
いや、それ以前にこんなデカイとこ借りるの、よく親が許可したよな。
 
無駄だと言われれば確かにこのマンションを借りる費用は無駄と言えるだろう。
 
高校生の女の娘が一人で住むなら、1LDKでも十分なくらいだ。
 
 
「祐一? 行こうよ」
 
「ん、ああ」
 
 
ぼんやりしていた俺の袖を掴み、桜がぐいぐいと中に引っ張る。
 
その顔は屋上とは打って変わって、やたらと笑顔だった。
 
何故にそんなに嬉しそうなのだお前は。
 
 
「私の家に初めて入った男の人、祐一に決定だね」
 
「他人が聴いたら思い切り誤解しそうな言い方は止めれ」
 
「ふっふっふ、あながち誤解じゃなくなるかもよ?」
 
「『ふっふっふ』とか言ってる時点でムード無さ過ぎだ阿呆」
 
「む」
 
 
指摘するまでもなく、雰囲気そのものが冗談にしか取れなかった。
 
ま、俺と桜ってのはそんなもんだしな。
 
今更ムードを創れって言う方が難しい。
 
 
チーンとか言う普遍的な音と共にエレベーターが降りてきたので、二人してそれに乗り込む。

何回に住んでいるのか判らないのでぼけっとしていると、桜がなんの迷いもなく最上階のボタンを押した。
 
 
「最上階? 何でまた一番高価な場所を」
 
「それも、部屋に行ったら話すよ」
 
「やれやれ。 お前の行動は理解不能な点が多すぎる」
 
「お互い様。 私だって祐一の行動の九割は理解できないよ」
 
「いや、それは多過ぎだろ」
 
「いやいや、マジで」
 
 
本気な顔で手をぱたぱたされた。
 
マジなのか?
 
 
「………ま、知っちゃったら終わっちゃうしね」
 
「んあ?」
 
「何でも無い。 こっちの話し」
 
「ま、言いたくなきゃ良いけどな」
 
「うん、そゆとこが祐一好き」
 
「へいへい」
 
 
何気なく『好き』って言える関係。
 
それが俺と桜の関係を表す全てなんだろうとか、そんな事をぼんやりと思った。
 
朝にも名雪に言われたが、あっちにはふざけながらじゃないと返せなかった。
 
真顔では、応えられなかった。
 
名雪の言う『好き』と、桜の言う『好き』はまったくの別物。
 
そして今、俺が日々の生活の中で必要としてるのは桜の言う『好き』なんだろうと思った。
 
お互いに『好き』を確認しあっても、何も変わらない日常を送れるような、そんな『好き』を。
 
と、そんな事を考えていた所で到着を知らせる機械音が鳴り、目の前の扉が音も無く開いた。
 
 
「さー、どーぞ」
 
「おわっ。 だから引っ張るなってのに」
 
「はやくはやくー」
 
 
子供みたいにはしゃぐ桜に引き摺られて廊下を歩く。
 
苦笑しながらも、不思議とそのペースが心地良かった。
 
そう言えば久し振りだな。
 
誰かのペースで動くなんて。
 
 
「ここだよっ」
 
「594か。 面白みの無い数字だな」
 
「じゃあどんなのが良かったのさ」
 
「ダミアンの666とか、確変の1.3.5.7.9のゾロ目とか」
 
「……確変はともかく、ダミアンはヤだよ」
 
「うむ、俺も嫌だ」
 
 
いきなり夢の中でエクソシストが上映されるなんて嫌過ぎる。
 
目の前で誰かの首が180°回転するとこなんて見たらショック死してしまう。
 
 
「……始に言葉があった。 神は言葉と共にあった。 言葉は神であった」
 
「はい?」
 
「いや、一応悪魔払いの儀式をな。 ヨハネによる福音書だ」
 
「……やっぱ祐一のやる事は意味不明だよ」
 
 
呆れたような(多分実際呆れていたんだと思うが)顔した桜が鍵を開け、その後に続いて俺も玄関に入る。
 
何故だろうか、外よりも空気が冷たい気がした。
 
一つとして靴の無い玄関。
 
電気の点いていない廊下。
 
誰も居ない部屋。
 
やたら広い空間がその寂しさを更に強調していた。
 
そりゃ帰りたくないよな、こんな部屋に。
 
 
「たーだいまー」
 
 
誰も居ない中に向かって、桜が呼びかける。
 
やけに明るいその声は、半分演技、半分本気だろう。
 
返って来る筈が無い事は判りきっているのに、それでもちょっとした奇跡を望んだりして。
 
それでもやっぱり声は返ってこなくて。
 
そんな事を、桜は何度繰り返したのだろう。
 
音すらもしない闇に向かって、幾度『ただいま』を告げたのだろう。
 
例え数回だったとしても、その痛みは俺の想像の範疇になど存在しないように思えた。
 
出来れば二度とそんな思いはしてほしくない。
 
だから。
 
 
「おかえり」
 
 
俺はほぼ無意識に喋っていた。
 
驚いて、弾かれた様に後ろを振り返る桜。
 
数瞬の後、俺の意図しているところが判ったのだろう、その顔が綻んだ。
 
 
「あははっ。 お帰りの声が後ろから聞こえて来るなんてヘンだよ祐一」
 
「む、そう言えばそうだな」
 
「でも、嬉しい。 ありがとね、祐一」
 
 
泣きそうな笑顔が俺に向けられる。
 
その笑顔を、素直に可愛いと思えた。
 
 
「祐一も、おかえりなさい」
 
「いや、俺は違うだろ」
 
「いいのっ。 『おかえりなさい』なのっ」
 
「ただいま………って言わなきゃ駄目か?」
 
「言わなきゃ入れない」
 
「……じゃ、お元気で」
 
 
初めて入った家で『ただいま』なんて言えるか。
 
踵を返し、ドアに向き直り、ドアに手を掛けた。
 
……はて、そう言えば水瀬家の時はどうだったっけか。
 
忘れちまったな。
 
 
「あぁっ、ちょ、いじわるー」
 
 
慌てた声で走りより、しっかと右手を掴まれて部屋の中に引きこまれる。
 
これはある意味拉致ではないだろうかと思ったりした。
 
 
「ただいまって言ってくれるくらい良いじゃんかー」
 
「宗教上ちょっとな」
 
「……何教なのさ」
 
「………ゾロアスター教?」
 
「いや訊かれても」
 
「………」
 
「………」
 
 
小さな沈黙が俺達を支配する。
 
互いの間にあった時間的断裂が、何時の間にか無くなっている事を感じながら。
 
何だか笑みが零れてきたりもした。
 
 
「さて、と。 ………『ただいま』、桜」
 
「え、あ? ふぇ?」
 
 
唐突に告げる、『ただいま』
 
その言葉に呆ける桜を置いて、俺は勝手に居間へと続く廊下を歩いた。
 
冷たい感触を足の裏に感じながら、願わくば俺が居る事によって少しでもこの部屋が暖かくなれば良い、とか思いながら。
 
と、次の瞬間。
 
 
「おかえりなさいっ」
 
「ぐあっ」
 
 
後ろから思いきり抱き着かれた。
 
しかも助走をつけてジャンプまでして。
 
首に絡む腕。
 
頬を擽る後れ毛。
 
背中に感じる柔らかい感触と、桜の存在を何よりも確かに感じさせる体温。
 
それら全てが何よりも大切で、だけど少しだけ気恥ずかしくて。
 
 
「こら、離れんかっ!」
 
「ぜったいヤっ」
 
「……絶対まで付けて否定するなよ」
 
「それよりも、おなか空いた。 早くご飯ー」
 
「なにっ? 俺が作るのか?」
 
「一緒に作ろ?」
 
「………ったく、しゃーねーな」
 
「うんっ」
 
 
背中に桜をくっつけたまま、ずりずりと廊下を歩く。
 
主導権を握ろうとした俺の目論見は見事に失敗したみたいだった。
 
だけど、全然ちっとも不快じゃなかった。















 
 

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「で、何故にカラなのだね? 桜クン」
 
「ふっふっふ、良い質問だねアケチくん」
 
「………」
 
 
桜の家の冷蔵庫の中には、見事なほどに何も無かった。
 
英語で言うとナッシング。
 
いや、別に梨の現在進行形ではない。
 
てか梨は名詞だから現在進行形にはなり得ない、いやまてよ動名詞と言う手も。
 
 
「……そんな深刻な顔して怒らなくても良いじゃんか」
 
「んあ? いや怒ってた訳じゃないんだが」
 
 
さて、どうしたもんかと思案する。
 
実際問題として、今から商店街に行って食材を買ってきて調理すると言うのはかなり面倒臭かった。
 
かと言って何も食わないで居られるほど、俺は経済的には出来ていない。
 
さりとて外食で住ませようと言う案が容易に出てくるほど不経済的にも出来ていない。
 
俺の希望としては、桜の家でまったり夕飯を食べながら雑談にでも興じようと思っていた次第なのだが、この状況ではどうしようもなかった。
 
 
「どうしよっか……」
 
「ふむ、さりげなく困ったな」
 
「私にとっては全然さりげなくないんだけど」
 
「しかも今頃になって気付いた事が二つばかしあるぞ」
 
「一つは?」
 
「水瀬家、俺が居候している家に電話してなかった。 秋子さんに余計な心配をかけてるかもしれん」
 
「も一つは?」
 
「俺、九時辺りからバイトなんだわ。 あと三十分くらいしたら出なきゃならん」
 
「え? うそっ。 何で?」
 
 
俺が居なくなると言った瞬間、今までの様子が一変した。
 
ぐぐっと真正面から見詰められる、と言うか睨まれる。
 
その瞳に映るのは不満と………動揺。
 
 
「いや何でって訊かれても」
 
「ダメダメダメっ。 今日は祐一は私と一緒にいるの!」
 
「あのなぁ……」
 
「ダメダメダメダメダメダメっ!」
 
 
俺の袖を掴み、聞く耳を持たずに『ダメダメ』言い続ける桜。
 
それほどまでに独りは嫌なのだろうと思うと、どうもこの掴まれた袖を振る訳にはいかないんじゃないかと云う気にもなった。
 
 
「……って言ってもなぁ」
 
 
まず、何よりも今の俺は制服のままだった。
 
さすがに夜の呑み屋街を制服のままウロウロはしたくない。
 
しかも女連れで。
 
補導員もしくはウチの学校の教師に見つかったら弁解の余地が無いぞ。
 
 
「う――――――!」
 
「……そんな睨むなよ」
 
 
俺が考えている事を敏感に感じ取ったのか、桜が上目で思いっきり睨んできた。
 
怖いからやめてくれ。
 
 
「取り敢えず俺は水瀬家に行って私服に着替えて、そっからバイト場に行こうとか思ってるんだが?」
 
「ふんふん」
 
「お前のお守りは水瀬家の住人に任せて」
 
「却下」
 
 
速っ。
 
 
「何で見ず知らずの家に一人放置されなきゃいけないのさ!」
 
「見ず知らずじゃないだろ? 少なくとも昼飯の時に名雪とは会ったはずだ」
 
「水瀬名雪さんでしょ。 知ってるよ」
 
「なら」
 
「ゴメン。 無理」
 
「………判った」
 
 
不可解なほどに態度を硬化させる桜。
 
その様子に少し違和感を感じたが、よく考えてみれば俺が桜の立場でも申し出を断るかもしれないと思った。
 
その場に俺が居るなら兎も角、居なくなっちまうんだからな。
 
 
「だまってバイト場に連れてってよ。 迷惑かけないからさ」
 
「迷惑かけないって、そもそも何のバイトしてるか知らないだろお前」
 
「今の時間から出てくようなバイトなんて居酒屋か日雇い土方かくらいでしょ?」
 
「まぁ半分正解だが……」
 
「ね、ね、お願いだからー。 邪魔しないからー」
 
 
顔の前で両手を合わせ、覗き込むように俺の顔を見る桜。
 
ったく、そんな顔されたら断るモンも断れないじゃないか。
 
 
「判ったよ。 それじゃ私服に着替えて来い。 さすがに制服の女を連れていけるような場所じゃない」
 
「ひゃっほー」
 
「判ってると思うけど、遊びに行くんじゃないからな」
 
「判ってる判ってるー」
 
 
ぱたぱたと走り、恐らくは私服があるであろう部屋に入っていく。
 
ぱたんと扉が閉まる音がし、辺りがまた無音に支配された。
 
自分の呼吸しか聞こえない静寂の中、薄い扉の向こうから衣擦れの音がする。
 
音だけと言うのが妙に想像力を喚起させ、いやいや、俺は桜に対して何を考えて―――
 
 
「あー、そうそう」
 
「っ!?」
 
 
いきなり扉が半開きになり、桜が上半身だけ出してこっちを見た。
 
肩を露わにし、胸の所で制服を押さえただけの格好で。
 
 
「覗きたい時はちゃんと言ってね。 こっちにも心の準備ってものがあるんだから」
 
「ばっ! なっ!」
 
「あはは、祐一かわいい」
 
「ふざけてないで早く着替えやがれ阿呆! 見捨てて出てくぞ!」
 
「はーい」
 
 
くすくす笑いながら、再び扉が閉められる。
 
一人で心臓をバクバクさせている自分が妙に情け無くなり、所在無くため息をついてみたりした。
 
無論、何も変わらなかった。
 
こんな時、タバコが吸える奴だったら一服して間を持たせるんだろうけどな。
 
残念ながら俺には喫煙の習慣は無かった。
 
……今度禁煙パイポでも買ってみるかな。
 
 
「おーまたー」
 
 
そんな無意味にハイテンションな台詞と共に、桜が部屋から出てきた。
 
黒いツーピースズボンと、白シャツに黒い襟付きの前開きを重ねた服装。
 
更にその上には踝まであるような長い漆黒のロングコートを羽織っていた。
 
上下黒ってカラスかお前は。
 
 
「どう? かわゆい?」
 
「黒いな」
 
 
げすっ!
 
 
「……シックな感じも似合ってるぞ、キュートだな桜」
 
「ありがと。 祐一の服装も決まってるよ」
 
「こりゃ制服だ」
 
「ああ、よく見たら」
 
 
ぽんっと手を叩く桜。
 
よく見るも何も、朝にお前と会った時からずっとこの格好だろうが。
 
おちょくってんのか固羅。
 
 
「てかそのロングコート、やたら大きくないか?」
 
「まー、小さくはないよね」
 
 
そう言って桜は自分の尻尾にじゃれる子犬のような感じでコートの長さを再確認した。
 
肩越しに背中を見たり、裾をついっと摘み上げて見たり。
 
その様子から察するに、恐らくは最近手に入れたのだろう。
 
何処となくだが、まだ桜の身体に馴染んでいない感があった。
 
 
「向こうじゃそんなのが流行ってるのか?」
 
「んーん。 これはね、ちょっとした訳ありのコートなの」
 
「訳あり?」
 
「バイト場に行ったらゆっくり話したげる。 それじゃあレッツゴー」
 
「へいへい」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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水瀬家。
 
祐一を除けば、その住人は全員が女性で構成されていた。
 
それ故に(それだけが理由でもないが)この家の中での祐一の存在感は非常に大きい。
 
防犯的な見地から言っても、精神的な支柱として見てもである。
 
その彼が、何故か帰って来ない。
 
現在の時間は午後八時過ぎ。
 
何の連絡も無しに夕食の席を外すなど、普段の祐一の行動からすれば少々稀有な状況だった。
 
 
「祐一君、どうしたのかな」
 
 
先に夕食を終えてしまって、その事に微弱ながらも罪悪感らしきものを感じたあゆがぽつりと呟く。
 
今日の夕食はいつも通り美味しかった。
 
だが、だからこそ祐一が居ないと言う事が気懸かりでしょうがなかった。
 
 
「そうね……ご飯はみんなで食べた方が美味しいものね」
 
 
そういう事を言っているのではない。
 
まぁ恐らくは判って言っているのであろう、温和な秋子さんの声がリビングを流れた。
 
テレビでは『のみさん』がココアの素晴らしさを熱心に語っている。
 
きっと明日のスーパーは大変な事になるだろう。
 
そんな事を考えながら、やっぱり秋子さんも心の何所かで祐一の事が心配だった。
 
 
「………」
 
 
なんとなくだけど、祐一が何所に居るか判るような気がする。
 
そろそろ自分の背後に迫りつつある睡魔と格闘しながら、名雪は思った。
 
キーワードはこれ以上無く明確。
 
『前の街での知り合い』
 
ふと、昼休みの遣り取りが思い起こされた。
 
 
『前の街での話、祐一はしてくれなかったの?』
 
『え? う、うん』
 
『じゃあ、私が勝手に話して良い事じゃないんじゃないカナ?』
 
 
はっきりとした壁を感じた。
 
自分と、あの娘の間に。
 
自分が知らない祐一の姿を、あの娘はいっぱい知っている。
 
いや、問題はそこじゃない。
 
そう言う観点で言ったら、自分だってあの娘の知らない祐一をたくさん知っている。
 
あの娘の知らない時間を過ごしてきた。
 
あの娘よりも近い位置で祐一と過ごしてきた。
 
その事だけには誰にも負けないという自負がある。
 
だけど。
 
自分の言う『距離』が本当にただの『距離』の意味、言ってしまえば物理的な距離でしかない事が露呈された。
 
少なくともあの時においては、自分よりもあの娘の方が『近かった』
 
前の街での事は、きっと祐一にとって触れて欲しくない部分だったのだろう。
 
自分はそれに気付けなかった。
 
こんな時、本当に自分が嫌いになる。
 
悪気が有った、無いは基本的に意味を成さない。
 
傷つけたか否か、それだけが問題であり、自分は間違い無く祐一を傷つけたのだ。
 
 
「私、部屋に戻るね」
 
 
不安を感じた時、人は睡眠を欲する。
 
心身が疲れてしまう所為か、それともただの現実逃避か。
 
学者でもなく教授でもなく、加えて言ってしまえば今現在睡魔に襲われている名雪にとってはどちらでも良い事だった。
 
 
「……別にそんな大層な事じゃないと思うんだけどな」
 
 
傍目に見ても様子がおかしい名雪を尻目に、ただ一人だけ、祐一が帰って来ない事を本当に大した事じゃないと思っている真琴が居たりした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「ここが?」
 
「おう。 俺が居候してる水瀬家だ」
 
「ふーん。 住んでる人数にしたらずいぶん広いんだね」
 
「ん、一年前までだったらな」
 
「へ?」
 
「後で説明するよ」
 
 
そう言って、水瀬家のドアを開ける。
 
中からは明るい光と、人の居る暖かさが俺を迎えてくれた。
 
それを強く感じたのは、普段より帰ってくる時間が遅い所為もあるが、それよりも桜の家に拠った後だからと言う所為が強いだろう。
 
何時の間にか当たり前だと思ってたな、そう言えば。
 
 
「ただいま」
 
「………むぅ」
 
「ん? どした?」
 
「……何でも無い」
 
 
そんな不満そうな顔で『何でも無い』って言われても困るんだが。
 
で、その不満そうな顔の桜は何故か家の中に入ろうとしなかった。
 
まるでそれが当然の事の様に。
 
 
「何やってんだ?」
 
「ここで待ってるからさ、早く着替えてきなよ」
 
「中に入って待てばいいだろ」
 
「ヤダ」
 
「……さっきから訳判らんぞお前」
 
「言葉でハッキリ言って欲しい?」
 
「………」
 
「目の前で温かい家庭の談笑を見るのがイヤ。 どう? これでいい?」
 
 
さらっと言い放たれた、重すぎる言葉。
 
平然とした顔をしているが、その内情はどれほどのものだろうか。
 
こんな言葉を言わせなきゃ気付けないなんて………
 
 
「……わり」
 
「祐一は悪くないよ。 悪いのはウチの馬鹿親」
 
「いや、それを思い出させたのは俺の配慮が足りなかったから―――」
 
「何やってんの? 帰って来たんならさっさと入りなさいよ」
 
 
玄関の向こうから真琴の声。
 
振り帰ると、パジャマ姿の真琴がとてとてと歩いて来る所だった。
 
その手には真琴愛用のマグカップが握られている。
 
少し上気した肌と頭に巻かれたバスタオルから、大方風呂上がりに牛乳でも飲もうとしている所だろう。
 
まったく、タイミングが良いんだか悪いんだか。
 
 
「お前な。 空気を読め空気を」
 
「はいはいオジャマサマ………って、引き下がりたいところだけど」
 
 
そこでいったん言葉を切り、真琴は少しキツめの目付きになった。
 
怖い。
 
 
「真琴は置いといても、他のみんなに心配かけといて玄関先で立ち入り禁止の雰囲気創るのはどうかと思うよ」
 
「む……スマン」
 
「謝るのは真琴にじゃなくて、家の中で祐一の帰りを待ってる秋子さん達にしてね。 じゃ」
 
 
言うだけ言って踵を返し、またとてとてと廊下を戻る。
 
その背中には、確かに怒りのオーラらしきものが見えていた。
 
 
「………ん〜〜〜〜〜〜、それとっ」
 
「はいっ?」
 
 
突然振りかえり、怒声に近い声をあげる。
 
思わず背筋がピンとなった。
 
 
「帰りが遅い事は怒らないけど、真琴の目の前で知らない女と和んでんのはやっぱ腹立つからね! 判った!?」
 
「ご、ごめんなさい」
 
 
即座に謝ってしまった。
 
多分、脊髄反射の域にまで達していたと思われる。
 
ここで逆らうような選択肢を取る愚か者は命を落とすだろうと確信するに足るほど、何て言うか要は恐かった。
 
 
「ね、あの娘は?」
 
 
既に真琴の姿が見えなくなっているにも関わらず、ひそひそ声で話す桜。
 
やはり桜も怒りのオーラをありありと感じていたようだった。
 
 
「居候その2、沢渡真琴だ」
 
「沢渡真琴? それって『あの』沢渡真琴さん?」
 
「それも後で話す。 取り敢えずは違うと言っておくがな」
 
 
兎も角、これ以上玄関先で時間を費やすのは得策じゃない。
 
何よりも先程の真琴の様子がそれを如実に物語っていた。
 
 
「そんじゃ、出来るだけ早く戻ってくるから」
 
「期待しないで待ってるよーん」
 
 
ポケットに手を突っ込んだまま、へらっと笑う桜。
 
絶対速攻で戻って来ようと心に決めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「すいません秋子さん。 連絡も無しに遅くなって」
 
 
ぺこりと頭を下げながら、リビングであゆの耳かきをしていた秋子さんに謝罪する。
 
耳空内を傷付けないようにと真剣だった表情が、俺の顔を見てゆっくりと笑顔になっていった。

その過程は見ているこっちが動揺するほど優しげで、かつ美しかった。
 
それとあゆ、人に耳かきをしてもらっている最中に頭を動かそうとするのは危ないから止めとけな。
 
刺さるぞ。
 
 
「家に帰って来た時は『ただいま』ですよ、祐一さん」
 
「あ、はい。 えっと、ただいまです」
 
「はい、おかえりなさい」
 
 
何も訊かずに、ただ笑顔で迎えてくれる秋子さんの寛容さがありがたかった。
 
遅くなった理由は、軽々しく人に話して良い話じゃないし、何より俺が話したくない。
 
秋子さんならきっと、真剣に桜の境遇を憂いてくれるだろうから。
 
だから、話したくはなかった。
 
 
「よかった、事故とかじゃなかったんだね」
 
 
秋子さんの膝から起きあがったあゆが、俺の顔を見て安心したように言う。
 
って言うかまだ八時なんだけどな。
 
そんなに俺は定時に帰るような奴だったのか?
 
 
「事故に遭ったら警察から電話が来る。 安心しろ」
 
「うぐぅ……それ、安心できない」
 
「おっと、和んでるヒマ無かったんだ。 じゃあな」
 
「バイト?」
 
「ああ」
 
「頑張ってね」
 
「頑張れるほど客が来れば良いけどな」
 
 
いやマジで。
 
断言しても良い。
 
今日の客数も絶対に一桁だ。
 
あんなんで、よくもまぁ俺をバイトとして雇えるもんだ。
 
 
階段を上り、自分の部屋に入る途中で、名雪がもう寝ている事に気付いた。
 
居間の時計を思い出してみると、時間はまだ八時を少し回ったところ。
 
ここまでくると名雪が本当に高校三年生だかどうだか疑いたくなってくる。
 
これだけ早く寝てもまた明日は遅刻寸前なんだろうなとか思うと、知らず知らずのうちにため息が漏れていた。
 
 
鞄をベッドに放り投げ、制服も脱ぎ捨てる。
 
クローゼットに収納されている、然程多くも無い私服の中から適当に着ていく服を選び出す。
 
黒いデニムのズボンと、白T×黒ロンTの重ね着。
 
その上にちょい厚手で大き目の黒いYを羽織った。
 
あー、何か桜と同じっぽい服装だな。
 
ま、良いか。
 
でででっと階段を駆け下り、リビングに居る三人に挨拶をして、家を出た。
 
 
「待たせたか?」
 
「淋しくて死にそうになるくらい」
 
 
にっこり笑いながらさくっと言い放つ桜。
 
今のお前が言うには冗談に聞こえないから止めれ。
 
 
「そりゃ悪かったな」
 
「祐一だから特別に許してあげる。 じゃ、行こ」
 
 
そう言うと、桜はぎゅっと俺の手を引き寄せた。
 
そのまま俗に言う『腕を組む』状態に持っていき、しかも手は握ったままに。
 
一瞬だけ握られた手の冷たさにびっくりし、次に俺はその行為にびっくりした。
 
 
「この手は何だ、この手は」
 
「草薙桜の右手と左手。 触手じゃない事は確か」
 
「そう云う事を訊いてるんじゃないんだが」
 
「……イヤ?」
 
「全然」
 
「じゃあ良しっ」
 
「……なんだかなー」
 
 
苦笑しつつも、その手は離さない。
 
むしろ、強く。
 
ぎゅっとぎゅっと、強く。
 
冷たかった桜の指が、次第に暖かさを取り戻すのを感じながら。
 
出来ればいつまでも繋いで居たいとさえ思った。
 
それを桜が望むのならば、ずっと。
 
 
吐き出す息が白い、十一月末の夜。
 
俺は確かにそう願っていた。
 
本当にそう願っていた。
 
 
何があっても、この手を――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued.........
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