松原宗司。
 
知る人ぞ知る、『アルセーヌ・ルパン』のオーナー兼バーテンである。
 
なかなかに凛々しい名前を持つにも関わらず、彼の呼称は今でも相変わらず『マスター』だった。
 
もっとも、彼をそう呼んでいるのは唯一のバイト人員である相沢祐一だけなのだが。
 
それでも『マスター』と呼ぶのを咎めない所を見ると、本人もそう呼ばれる事にまんざらでも無い様子である。
 
 
自称『永遠の独身貴族』であるマスターは、相当に格好良い外観とは裏腹に今の今まで浮いた話が一度も無い。
 
少なくとも、祐一の知る限り。
 
そんなバカなと常々祐一は思っているのだが、祐一が思う思わないに関わらず実際マスターには女の影など欠片も無い。
 
と言うよりも、何処か意図的に女性を寄せ付けまいとするかのような雰囲気すら見せる折があった。
 
故に、過去に酷い失恋でもしたのだろうかと邪推した事も幾度かある。
 
絶対に口に出したりはしなかったが。
 
もし、それが本当だったらマスターの心の傷を抉る事になる。
 
それだけはやっちゃいけない事だ。
 
などと言う祐一の思いなどはつゆ知らず、今日も今日とてマスターは独り身を貫いている。
 
曰く、気楽なのだそうだ。
 
『全てが己の責であり己の自由である生活を今更捨てる気は無い。
 それに、俺は生来の無責任男だからな。
 他の誰かの分まで背負うなんて出来ないし、したくもない』
 
愛飲のJOKERに火を点けながら、朝靄の中でマスターはそう言った。
 
珍しく朝まで店にいた祐一と共に、誰も居ない白い街を歩いた記憶。
 
あれは確か、とても暑い日の事だった。
 
 
夜行性の生活を常としている為、マスターはあまり人と関わらない人生を歩んできた。
 
それを楽と言えば確かに楽だったし、淋しいと感じた事は一度も無かった。
 
変なバイトを雇い入れるまでは。
 
ほんの気紛れだったのか、それともその狼のような目に何かを感じたのか。
 
今となってはどうでもいい理由だし、それ以前にそんな昔の事を覚えているほどマスターはヒマじゃなかった。
 
いや、店自体はヒマなのだが。
 
兎に角、祐一がバイトに入るようになってから確かに何かが変わった。
 
少なくとも、以前のマスターなら店に自分以外の誰も居ない状況を『静かだ』と思う事は無かっただろう。
 
自分の横に誰かがいる事を『普通だ』と思う事も無かっただろう。
 
まったく、どうしたもんだか。
 
 
暗い店内。
 
今日も客は来ない。
 
だけど、アイツはもうすぐやって来る。
 
 
その思考を蔑む様に、そして愛しむ様に。
 
苦笑を深くしたマスターは、手持ち無沙汰に氷を割ってグラスに放りこんだ。
 
白桃蜜を薫り付けにほんの少し注ぎ、さくらんぼのリキュールと梅酒を2:1で混ぜる。
 
甘くなりすぎたから、炭酸水も少し。
 
注がれた桜色の液体をもう少し華やかにしてみたくなって、塩漬けの八重桜を湯で戻して沿えてみた。
 
何とも乙女チックになった。
 
腕組みをし、にこりともせずにマスターは思う。
 
暗い店内で、しかも男が独りで創るカクテルじゃないな。
 
味は保証するが、如何せん自分には合わなすぎるだろうと。
 
こんな乙女チックなカクテルと対峙している所を祐一に見られたら一体どんな反応が返って来る事やら。
 
少なくとも、マスターにとってはあまり面白くない想像が頭に浮かんだ。
 
是非とも、回避したい。
 
祐一が来る前に飲み干してしまおうとして、グラスを手にとって口に運ぼうとしたその時。
 
 
「ちーす」
 
「ちょっ、ホントにこんな凄そうな場所なの?」
 
「………お待ちしておりました、お嬢さん」
 
 
カウンターに置かれ、淡い光を反射したカクテルグラスが宝石の様に輝いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第七幕 「酔った所為だと言う事に」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「お、お嬢さん?」
 
 
目を丸くして自分を指差す桜。
 
店に入る事すら戸惑いながらだったのに、入ったらいきなりカクテルを差し出されるなんて桜もそりゃびっくりだろう。
 
って言うか俺だってびっくりだ。
 
何故にマスターは桜が来る事を知っていたんだ?
 
しかもカクテルまで創って。
 
よく見れば全体的に桜色をしているし、上に飾られているのは八重桜だ。
 
まさか桜の名前まで知ってたんじゃないだろうな。
 
 
「『春』 試作だから金は取らん。 安心して飲んでくれ」
 
「だ、そうだぞ桜」
 
「へ? えぇ?」
 
 
桜は未だに状況を把握しきれずに、俺の顔とマスターの顔を交互に見比べている。
 
ま、無理もないかな。
 
安心して飲めとは言われても、そもそも桜は未成年だし。
 
それ以前に、初見のバーテンにカクテルを勧められて戸惑わない訳が無い。
 
取り敢えず簡単に説明しといてやるか。
 
 
「ここが俺のバイト場。 この人は雇い主で呼び名はマスター。 そのカクテルがどう言う経緯で創られたかは知らんが、毒は入ってない」
 
「毒はお前が飲むヤツにしか入れん」
 
「……はー」
 
「それより、お前はいったい何人の女をここに連れてくれば気が済むんだ?」
 
「マスター、人聞きの悪い事を言わないで下さい」
 
 
それじゃまるで俺が無節操に女の娘をこの店に連れ込んでるみたいじゃないか。
 
自慢じゃないが、俺だって私生活と仕事(バイトだが)の時間の区別ぐらい付けてる。
 
何の理由も無しに友人を店に連れ込むような真似は絶対にしない。
 
勿論今日だってそう。
 
バイト場に連れていって欲しいと願ったのが桜じゃなければ、屋上で桜の背負った寂しさに気付いていなければ、連れて来るつもりは無かった。
 
俺が店に誰かを連れてくるのはつまり、そういう時。
 
どうしようもない、絶対的な理由がある時。
 
それをマスターも理解しているのだろう、俺が偶に誰かを店に連れてきても咎めたりはしない。
 
軽口を叩くくらいはするが。
 
 
「で? 始めて見る顔だが」
 
「は、初めましてっ。 えっと、そのわ、私」
 
 
急に話しを振られてしどろもどろになる桜を横目で見ながら、少し笑った。
 
いつだって良くも悪くも超然としている桜が取り乱すのは、俺が知る限りでは相当に珍しい。
 
出来ればもう少し見て居たかったが、時間的に今の俺は仕事モードに入っていなくてはいけない状態だった。
 
服を着替える為に奥の小部屋へと向かいつつ、すれ違いざまにマスターに向かってボソッと一言残す。
 
勿論、桜がより戸惑うような言葉を。
 
 
「マスターの顔が恐いから桜が脅えてます」
 
「ゆ、祐一っ」
 
「面白い冗談だ。 度胸試しにもう一回言ってみる気はあるか?」
 
「死ぬほど丁重にお断りします」
 
 
逃げる様に小部屋に入り、最速で店着に着替えた。
 
最後に普段は下ろしている髪をワックスで無造作に掻き上げ、鑑で自分の姿を確認する。
 
うむ、よし。
 
とは言うものの、俺には髪形の良し悪しなんてさっぱりと判らなかった。
 
極端に変な頭じゃなきゃそれで良いと思ってるし、マスターも『取り敢えず前髪が上がってりゃそれで良い』と言ってくれている。
 
無頓着バンザイだ。
 
 
店に戻ると、桜は未だカクテルに手も付けずに固まっていた。
 
さっきは面白がっていたが、流石にそこまで緊張されるとこっちも困る。
 
出来れば落ち着ける居場所であって欲しいと思って連れて来たのに。
 
緊張で動けないなんて、まったく……らしくないな、お前。
 
 
「なに固まってんだよ。 少しはくつろげって」
 
「無理に決まってんで……」
 
「ん? どした?」
 
 
『で』の口のまま、まるでビデオの一時停止の様に桜の動きが止まる。
 
目の前でぴこぴこ手を振ってもそのままだった。
 
まったくもって不思議な行動する奴だ。
 
 
「おーい、桜ー」
 
「祐一……カッコイイ」
 
 
何を言い始めるかと思えば、またバカな事を。
 
悪いが、お前の言う『カッコイイ』は最早聞き飽きた。
 
 
「知ってる」
 
「いやマジで」
 
「ありがとよ。 お前も可愛いぞ」
 
「知ってるよ」
 
「あー、ラブコメ中悪いんだがちょっと良いか?」
 
 
その言葉に横を向くと、マスターが呆れ顔で酒を呑んでいた。
 
カウンターに肘をつき、優雅にグラスを揺らす。
 
踊る液体は白く澄んで……ってかその酒って『シャルトン=コルルマーニュ』の77年っ!
 
店のワインの中でも相当に高価なヤツを、アンタ何してんですか。
 
ま、実際に『何してんですか』って言っても返ってくる答えは一つしかないんだけど。
 
 
「マスター。 何してんですか店の酒を」
 
「俺の店の酒を俺が飲んで何が悪い」
 
 
ほらやっぱり。
 
あまりにも予想通りの答えに溜息が漏れた。
 
恐らくだが意図的に俺の溜息を無視し、マスターが話しを進める。
 
俺もこれ以上の追求が無駄だと判っているので、マスターの問い掛けに話しを合わせる事にした。
 
 
「この娘が誰だか、俺は訊いても良いのか?」
 
「何だ桜、まだ自己紹介もしてなかったのか?」
 
「お前を待ってる最中、一言も喋ってくれなかった。 どうやら俺の顔は相当に恐いと見える」
 
「ち、違います。 えっと、その」
 
「非道い奴だな桜。 マスターはこう見えても繊細な心の持ち主なんだぞ」
 
「取り敢えず祐一黙る!」
 
「はい」
 
 
怒られてしまった。
 
 
「恐かった訳じゃないんです。 ただ、こんなトコ初めてだから緊張して……」
 
 
そんな事は見てれば判る。
 
多分、マスターも判ってる。
 
ただ、そっから先の対応が俺とは違うだけだ。
 
俺は相手の緊張を無理にでも解きほぐそうとしてアレコレ徒労するけど、マスターはじっと待つだけ。
 
強要も、誘導も、問い掛けも癒しもしない。
 
一見すると冷淡な様にも思えるけど、何も言わずに待っていてもらえるだけで不思議と落ち着けるものがあるのも事実だった。
 
時間が止まっているような錯覚すら受けるこの店の中なら尚更の事。
 
慌てずとも、氷が溶けるようにゆっくりと緊張を溶かしていけば良い。
 
そして、マスターは決まってこう言うのだ。
 
見計らうでもなく、だけど最高のタイミングでぼそっと一言。
 
 
「飲みな。 少しは気分も落ち着くだろう」
 
 
そう言って『春』をスッと滑らせる。
 
揺れる桜色を見詰め、それから桜はゆっくりとマスターの顔を見やった。
 
その顔には確かに安心の色が見える。
 
対するマスターは目線も合わせようとしないし、余計な言葉も喋ろうとしない。
 
あくまで無表情のまま。
 
だけど、何処か優しい無表情だった。
 
ちくしょう、カッコイイ。
 
判るか桜、カッコイイってのはこう言う事を言うんだぞ。
 
 
「……いただきます」
 
 
特に誰に聴かせるつもりも無いのだろう、桜は小さく呟いてカクテルグラスを手に取った。
 
唇を湿らす程度に一口。
 
それからもう少しだけグラスを傾けて、こくりと『春』を喉に流し込んだ。
 
 
「さくらんぼですか?」
 
「ああ、君の名前が桜だとは知らなかったが、まぁそう言う事も偶にはあるだろう」
 
「凄い……美味しいです」
 
「そりゃ良かった」
 
 
それだけ言うと、マスターは口の端だけで小さく笑った。
 
深く、渋い笑みだった。
 
ただそれが俺には見せた事の無い種類の微笑みだった事は、この際置いておく。
 
 
「申し遅れました。 私は草薙桜って言います」
 
「俺の名前は松原宗司だ。 上でも下でも『マスター』とでも、好きな様に呼ぶと良い」
 
「じゃあ……マスターさん、で。 私は桜で良いですよ」
 
 
そう言って、にこっと笑う。
 
どうやら緊張とやらは何処かに吹き飛んでいった様だ。
 
 
「さて、と。 客もいないし、俺は少し奥で寝る」
 
「……迷惑かけます、マスター」
 
「謝られる意味が俺には判らんな。 じゃ、お休み」
 
「?」
 
 
頭を下げる俺に見向きもせず、マスターは奥の小部屋へと消えていった。
 
その手に『LAPHROAIG』の十五年ものを持って。
 
それ、めっちゃくちゃ高価いんですからね。
 
さりげなく持っていったつもりでしょうけど、そもそもグラスを持って寝に行く人なんて居ませんよ。
 
 
「ね、祐一」
 
「どした?」
 
「何でさっき、奥で寝るって言ったマスターさんに謝ったの?」
 
 
しきりに首を傾げる桜。
 
確かに、話の流れから行ってもあそこで俺がマスターに謝る理由が見当たらないだろう。
 
バイトに店を任せて奥で酒を飲むと言うマスターを咎めこそすれど、謝るなんて普通ならしない。
 
だが、俺とマスターは良い意味でも悪い意味でも普通じゃないのだ。
 
判らないだろうな、初めて会った桜には。
 
 
「普通はバイト場に友達なんか連れて来ないだろ?」
 
「ぅ」
 
 
小さく呟き、申し訳無さそうな顔を見せる。
 
そして、何処か遠慮がちにグラスを置いた。
 
そんなに素直な反応をされると、何やら俺が悪い事をしているみたいな気になってくる。
 
 
「いや、お前を責めてる訳じゃないんだ。 ただ、一応な」
 
「それは……うん、私も判ってる」
 
「責めてる訳じゃないって言っただろ。 沈むな」
 
「いえっさ」
 
「で、それなのにお前を連れて来たって事は、普通じゃないって事になるな」
 
「うん」
 
「手っ取り早く言っちまうと、マスターは席を外してくれたんだよ。 俺とお前の為に」
 
 
客が来ないから寝る―――何て言うのは、勿論嘘に決まってる。
 
俺……って言うか桜に気を使わせないようにする為の嘘だ。
 
その嘘を今こうやって俺が桜に説明する事だって、恐らくはマスターの予想の範疇だろう。
 
だからこそ、半ば逃げるように酒を持って奥に下がったのだ。
 
人に素直に感謝されるって言うのが苦手な人だからな。
 
 
「マスターさんに……迷惑かけちゃったかな」
 
「そう言わせたくないから嘘ついたんだろ。 何も気付かない振りしてろ。 それがマスターの望みだ」
 
「じゃさ、後で『ありがとうございました』って言っておいてちょうだい」
 
「ああ、任せとけ」
 
 
どうせ、知らない振りされるんだろうけどな。
 
その様子が目に浮かぶような気がして、俺は小さく笑った。
 
 
「さて……何から訊けば良いのやら」
 
「何から話せば良いのやら」
 
 
お互いに腕を組んで暫し固まる。
 
訊く事が多すぎて、頭の中には様々な疑問が浮かんでは引っ込んでいった。
 
ま、夜は長いし。
 
一つずつ訊いていっても良いだろう。
 
ゆっくりと、時間をかけてな。
 
っと、その前に。
 
 
「桜。 ちょっと待ってろな」
 
「あい」
 
 
流石に勤務中に酒を呑むのはマズイので、ロックグラスにクラック・アイスをぶち込んで水割り用の地下水を注ぐ。
 
純度の高い氷が割れる音が店内に響き、桜が小さく「ほぅ」と呟いた。
 
そのままグラスを顔の高さまで挙げ、透明なグラス越しに揺れる桜の顔を見詰める。
 
 
「なに?」
 
「………何にするべきだろうな」
 
「ふぇ?」
 
 
困惑する桜をさて置き、俺はそのままの姿勢で考え込んだ。
 
ふーむ、この街に初めてやって来た桜に対するのに『お帰り』は変だし、『久し振り』で乾杯するんじゃありきたり過ぎる。
 
それじゃあ……
 
 
「俺達の変わらぬ友情に?」
 
「何で疑問系なのさ」
 
 
と、言いつつも俺が何をしたいのか悟ったのだろう、桜も俺と同様にグラスを掲げた。
 
揺れる光に目を細め、グラスが触れ合うか触れ合わないかの位置で桜が笑う。
 
本当に、楽しそうに。
 
 
「友情からいつか愛情に変わる物語に」
 
「違う」
 
「じゃあ、高校生のくせに夜の呑み屋で仲睦まじくしている背徳的な二人に」
 
「それも違う」
 
「ふぅ、祐一は今も昔も我侭だ」
 
 
一度グラスをカウンターに置き、肩でため息をつく桜。
 
独りだけでグラスを掲げているのも変なので、俺もいったんグラスを置いた。
 
だが、それも束の間。
 
今度は桜の方が先にグラスを目線の高さまで上げ、その桜色の中から俺を見詰める。
 
可愛いと言うよりも、綺麗だと思った。
 
まったく唐突に、だけど何の違和感も無く。
 
桜の唇から紡がれた乾杯の理由は、俺が言いたかった事と見事に重なっていたような気がした。
 
 
「私と祐一が今、同じ場所に居られる幸せに」
 
「……乾杯」
 
 
グラスが重なり、高い音が店内に響いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「で? いつからこっちの街に居たんだ?」
 
「えーっと……ひーふーみーの……五日ぐらい前かな」
 
「そんな前から居たのか。 なら商店街辺りで一回ぐらいすれ違っても良かったのにな」
 
「しょうがないよ。 私は込み合う時間帯を避けて買い物とかしてたから」
 
「俺も最近は直帰が続いてたからな。 ほら、みんな課外授業受けてて帰りが遅いから一人で商店街に行ってもヒマでさ」
 
「そりゃ、この時期の高校三年生なら課外授業も真剣に受けるでしょ」
 
 
確かに。
 
進路の決まっていない高校三年生なら必死に勉強して然るべき時期なのだろう。
 
仮にもウチの学校は進学校らしいし。
 
加えて、俺のクラスは国公立系進学コースらしい。
 
みんな真面目に勉強するのも、ある意味ではそれが普通の事なのかもしれない。
 
ただ、休み時間にまで教科書や問題集を開いているような雰囲気は勘弁してもらいたいものだ。
 
窒息する。
 
 
「そう言うお前はどうなんだ?」
 
「何が?」
 
「進路。 俺と同じクラスって事は国公立系進学コースだろ? なのに課外授業を当然の如くサボってたようだが」
 
「ぅ」
 
「俺の知ってる桜は偏差値52付近をウロウロしてるような女だった筈だ。 俺の知らない間に急激にレベルアップでもしたか?」
 
 
そう、桜は大して頭が良い訳じゃない。
 
かと言って悪い訳でもないのだが。
 
良くも悪くも平均辺りをウロウロしているような偏差値だったのだ。
 
俺が知っている限りでは。
 
文系の教科には強いが、その反面理系の教科になるとてんでダメ。
 
プラスマイナスで、ややプラスが勝っているのが常だった。
 
定期テストの前なんか、よく勉強を教えてやったもんだっけ。
 
 
「レベルアップなんて……してないよ」
 
「じゃあ」
 
「そもそも私が国公立の……ううん、国公立ですら、かな。 でも、大学になんて入れると思う?」
 
 
ふと、沈んだ声を出す。
 
その言葉の意味が俺には良く判らなかった。
 
一般的には国公立大学の方が私立よりもレベルが高い。
 
都会の方や有名私大などはそうでもないのだろうが、俺の認識としてはあくまでも国公立大学の方がレベルが上だ。
 
だからこそ、桜の言葉の意味が判らなかった。
 
国公立『ですら』、大学になんて。
 
結局は都会と呼べる街から来た桜の言葉だからと安易に納得し、俺は見当違いの返事を返した。
 
この時期の受験生特有の、軽い自嘲気味の謙遜だと思って。
 
 
「お前の偏差値だろ? 高望みしなきゃ国公立だって入れる所はいくらでも」
 
 
その言葉に、桜は小さく首を振った。
 
瞳に浮かぶ様々な色が、俺を動揺させる。
 
深く、悲しく、寂しく。
 
それ以上に一種の諦めの念が見て取れる事が、何よりも辛かった。
 
受け入れつつあるのだ。
 
自分の置かれている状況が、全て現実のものだと。
 
 
「頭の事じゃない。 もちろん、頭の事だってあるけど……」
 
「………」
 
「ねぇ、誰が入学金とか授業料を払ってくれるの?」
 
「っ―――」
 
「親権も放棄したがるような両親が学費を出してくれると思うほど、私だって楽観的に生きてる訳じゃないよ。
 そりゃ大学に行きたくないって言ったら嘘になるけど、だからと言って『あの人達』のお金で大学に行かせてもらうのなんて絶対にイヤ」
 
 
そうは言うものの、割り切っていてもやはり辛いのだろう。
 
気丈に放った言葉の語尾が、ほんの少しだけ震えていた。
 
 
「……悪い事、訊いたか?」
 
「ううん。 むしろ訊いてもらわなきゃいけない事だった」
 
「へ?」
 
「変だと思わない? 大学に行けないって言ってる私が祐一と同じクラスに編入してきたの」
 
「む、そう言われれば」
 
「それ以前に、私がこの街で一人暮しをしているのだってよーく考えたらおかしいよね」
 
「それは俺も思った。 だが、面と向かって聴くのも気が引けたから訊かなかった」
 
「多分だけどね、祐一の抱いてる疑問の九割はこの人の名前を出せば解決すると思う」
 
「この人?」
 
 
そこまで言うと、桜は小さく深呼吸をした。
 
控え目だがある事にはある胸が上下し、後れ毛が肩の上で揺れている。
 
それからたっぷり三秒後、桜は大きな決意をしたかの様に俺の目をじっと見据えて口を開いた。
 
 
「相沢誠一郎さん。 祐一のお父さんだよ」
 
「……は?」
 
 
桜の言った言葉の意味が、一瞬判らなかった。
 
相沢誠一郎。
 
うむ、確かにソイツは俺の親父の名前だ。
 
知らない間に改名とかしてなきゃの話だが。
 
ちなみに爺ちゃんの名前は相沢宗一郎だ、ヨロシク。
 
いやいや、それはこの際どうでもいい。
 
無様にも混乱しきった思考を一時強制的に遮断して、もう一度ゆっくりと桜の言葉を反芻した。
 
親父が?
 
桜と?
 
それ以前に、何処をどうすれば親父と桜が繋がるって言うんだ?
 
 
「転校の手続きをしてくれたのも、あのマンションを借りてくれたのも、私をこの街に連れてきてくれたのも」
 
「……全部親父がやったって言うのか?」
 
「イエス。 さながら愛の逃避行でした」
 
 
ぶいっとピースサインをする桜。
 
対する俺は、少しの頭痛と共にこめかみを抑えた。
 
どうも『桜フィルター』を通ると全てがのほほんとした空気を帯びてくる。
 
実際にはとんでもない事になってると思うのだが。
 
無理が通れば道理が引っ込むなんてのは所詮ことわざでしかない。
 
何故なら、現実の『道理』ってのはそんな簡単に振り切れるような代物ではないのだから。
 
 
「あー……すまんがイチから説明願う」
 
「長くなるかもよ」
 
「気にするな。 お前が思うより夜はもっと長い」
 
 
言いながら空になった桜のグラスを下げ、新しく冷えたグラスを用意する。
 
桜が相手なので、普段よりもチェリーブランデーの割合を多くしつつ、ブランデーを適量。
 
オレンジキュラソーとレモンジュースを1/6ずつ入れ、グレナデンシロップを少々。
 
それらを軽くシェイクし、マラスキーノチェリーを沈めたカクテルグラスに注いだ。
 
暗い照明が紅の液体を通り、赤く染まってテーブルを照らす。
 
マスターの『春』を受けて桜に相応しいカクテルを考えた結果、なんの捻りも無いがコイツになった。
 
『桜の花』と言う意味を持つこのカクテルが、これ以上なく桜の為に在るような気がしたから。
 
 
「『Cherry Blossom』 お前の為のカクテルだ、桜」
 
「あ、ありがと」
 
「聴かせてもらおうか。 愛の逃避行と言うヤツを」
 
「妬かないと誓えるなら」
 
「全宇宙の法則に誓って」
 
「……少しは妬きなさいよ」
 
「努力するよ」
 
 
苦笑しながら壁に背中を預け、腕を組んで話を聞く体勢を整える。
 
今日だけは、客が独りも来ない事を願って。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「――――――と、言う訳で私は今こうやってここに居るのでありました、まる」
 
「……なるほど」
 
 
以外と短かったなオイ。
 
時計を見ると、話し始めてから一時間も経過していなかった。
 
桜が事の顛末を端折り過ぎなのか、それとも実際にそんな大した事じゃなかったのか。
 
少なくとも、後者は完全に否定する事が出来るだろう。
 
大事を大事と思わせないだけの力を親父が有しているだけの事であって、事態そのものの規模が小さい訳じゃない。
 
 
「要約すると、俺の親父は家を飛び出した桜を拉致ってこの街に監禁してる、と」
 
「拉致でも監禁でもないんだけど……」
 
 
判りやすいように話を纏めると、こう言う事だった。
 
離婚に際し、両親のどちらもが親権を放棄したがっている事を知った桜は悲しみのうちに家を飛び出し、途方に暮れていた。
 
帰る場所も無く、お金も無く、頼れる人も居なく、途方に暮れていた桜が思い出したのはある一人の男の携帯番号。
 
全世界でも数人しか知らないであろう、『あの』相沢誠一郎直通のプライベートコール。
 
俺が昔自殺を図った時に、親父が桜に教えてたらしい。
 
とにかく、その番号に掛けたら本当に親父が出て、桜の為に日本にすっ飛んできたと言う事だ。
 
そして二人で秘密裏に荷物を纏め、転校や不動産の手続きを親父の職権乱用で簡単に済まし、現在に至る、と。
 
 
「親父が……そんな事を……」
 
「祐一が誠一郎さんにどう言う感情を抱いているのかは知らないけど、取り敢えず私はここに居るよ?」
 
「いや、確かにそう言う事をやりそうな奴ではあるんだがな」
 
 
そう言う事。
 
常識とか社会通念とかを一切無視して、考えた事をそのまま行動に移す事。
 
俺も大概常識破りだとは言われるが、親父ほどではないと痛感した。
 
単純に持っている『力』が違うと言う事もあるけれど、何より覚悟の程が違っている。
 
法律や倫理が何と言おうと、親父は自分の決めた『正しい道』を進む事に一切の疑念を抱かない。
 
故に、その意志は驚くほど頑強で揺ぎ無いものになる。
 
 
「………」
 
 
負けた。
 
勝ち負けの問題じゃないって事は重々承知しているが、それでもこの思いは消せない。
 
力も、想いも、何もかも。
 
俺は、未だ親父には遠く及ばない。
 
 
「祐一?」
 
「ダメだな、俺は」
 
「何が?」
 
「手紙を書くどころか、お前に連絡先を教える事すらしなかった」
 
「それはしょうがないよ。 祐一は祐一で忙しかったんだし」
 
「でも……お前が遠くで泣いていたのに」
 
「………」
 
「親父が居なきゃ、お前はずっと泣いたままだった。 俺はそんなお前に気付く事すら出来なかった。
 遠くに居たなんて言い訳にもなりゃしない。 お前が泣いている時には誰よりも力になってやりたかったはずなのに……」
 
 
そう、親父が居なかったら今も桜はあの街で泣いていた。
 
誰に頼る事も出来ずに、独りでずっと。
 
『居場所』を失うのはとても痛い。
 
今までがどうであれ、確かに家族と言うものは其処に在って、桜が帰れる場所は其処にしかなかったのだから。
 
それが突然に、根底から覆された。
 
誰が思う事が出来ただろう。
 
『家族』に自分を否定されるなどと。
 
この世界で一番信頼し得る存在が、自分の存在を否定するなどと。
 
それなのに俺は……手を差し伸べられなかっただけじゃない。
 
知らなかったと言う理由だけで、桜が泣いているその間も安穏とした生活を送っていた。
 
笑いながら日々を過ごしていた。
 
『今』だけが全てみたいな気になっていた。
 
どれだけ桜に救われて今の俺が在るかなんて計り知れないほどなのに。
 
 
「……ごめん」
 
「ばーか」
 
「ああ……俺は本当にむがっ」
 
 
うなだれる俺の頭が、桜の手によってカウンターの向こう側にひっぱり出される。
 
そしてそのまま、何か柔らかいものに埋められた。
 
 
「ばーか」
 
 
真っ暗な視界の上方から響いてくる声と漂う甘い薫りから、自分が桜の胸に抱かれているのだと言う事に気付いた。
 
そんな大きい訳じゃない、だけど何処までも沈み往くかのように柔らかい感触。
 
同い年の女にされていると言うのに、俺はその体勢に恥ずかしさも戸惑いも無かった。
 
ただ、されるがままに。
 
薄く目を閉じ、呼吸を落ち着かせ、だけど罪悪感は消えはしなかった。
 
 
「あんたはバカだよ、祐一」
 
 
知ってるよ。
 
イヤって言うほどな。
 
 
「何でこうも……私を泣かせるような事ばっか言うかなぁ……」
 
「さ、桜?」
 
「動くなっ。 黙って抱かれてなさい」
 
「むがっ」
 
 
さっきまでよりも強く抱きこまれる。
 
微かに感じる呼吸とは違う揺れのリズムから、桜が泣いている事に気付いた。
 
 
「何で……泣いて……」
 
「……嬉しい」
 
「嬉しい?」
 
「私はまだ……誰かに必要として貰えてるって……思えたから」
 
 
世界にたった二人だけの両親からの拒絶。
 
自分と言う存在を、文字通り産み出した者からの全否定。
 
小さい頃は、恐らくだが愛情を注がれていたのだろうに。
 
要らないと。
 
残りの人生の中に、桜の存在する余地は無いと。
 
言われたか、それとも聴いてしまったのか。
 
どっちにしても桜の受けた傷の深さは変わらないだろう。
 
俺にも、覚えがある。
 
忘れはしない。
 
拒絶される事は、とても痛いのだ。
 
それまでが親しければ、親しいほどに。
 
まして、それが親から受けた拒絶ならば尚更。
 
……させたくない、泣くなんて、出来れば二度と。
 
 
「……少なくとも、俺にはお前が必要だ。 これからも、多分、ずっと」
 
「祐一も誠一郎さんも………二人揃って優しさで私を泣かせるなんて反則だよ」
 
 
親父が桜に何をしたかは知らない。
 
気にならないと言えば嘘になるが、今は知らなくても良いと思った。
 
その記憶が、桜の心を癒すなら。
 
 
「……俺はいつまで抱かれてりゃ良い?」
 
「ゴメンね……泣き顔は……あんま見せたくないんだ」
 
 
と、言う事は当分俺の頭は桜の胸から解放されないのだろう。
 
涙を見せる事を拒む桜が泣いてしまっていると言う事実が、俺の予想を明確に裏付けしていた。
 
ったく、いつもお前は限界まで溜めるんだからな。
 
あんまさ、強がるなよ。
 
泣くのは悪い事じゃないって、昔俺に教えてくれたのはお前だろ、桜。
 
 
「……桜は泣き上戸だからな」
 
「ふぇ?」
 
「酒が入ると涙もろくなるんだよな」
 
「あ……うんっ」
 
「酒に酔った所為じゃしょうがない。 好きなだけ泣け。 そして素面に戻った時には全部忘れてろ」
 
「ぅ……っく……うんっ」
 
 
ぎゅーっと。
 
俺を胸に抱く手に、さっきまでよりも力が篭る。
 
こんな時に客が入ってきたら大変だろうなーとか考えながら、然りとてどうしようとも思わなかった。
 
秒針が刻む音と二人分の呼吸だけが、然程広くない店内に在る唯一の音。
 
まるで恋人同士の様な格好のまま、俺達は息を潜めていた。
 
 
桜の涙が止まるまで。
 
俺の罪悪感が薄らぐまで。
 
 
ぎゅーっと、ぎゅーっと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued………
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