この街は平和だ。
 
バイトを終え、桜と二人で深夜の商店街を歩きながらそんな事を思った。
 
なにしろ十二時を過ぎれば大抵の店のシャッターが閉まり、それに比例して人の影も見えなくなる。
 
唯一と言っても良いコンビニの明かりにすら、群がってくる小僧どもが居ない。
 
向こうの街じゃ考えられない事だった。
 
向こうで一番の繁華街、『神明大通り』には四六時中ガキどもがタムロっていたし、そもそも十二時で店が閉まる事も無い。
 
何時でもネオンが光り、客引きの外人やおねーちゃん系の人が絶えず通行人に声をかけているような街だった。
 
一つ裏の通りに入れば、そこはもう完全なる無法地帯。
 
誰かの血が流れなかった日なんて無いんじゃないかとさえ思う。
 
何時だって誰かの血と、折れた歯と、悲鳴が飛び交っていた。
 
その中に、確かに俺も居た。
 
 
「平和って良いもんだな」
 
「へ?」
 
 
ふと口に出した言葉に、桜が怪訝な顔をする。
 
そりゃ俺だって隣を歩いている桜がいきなり『平和って良いね』とか言い始めたらその思考回路を疑うが。
 
 
「この街は平和だ」
 
 
駅を挟んだ『向こう側』はそうでもないと、北川は言う。
 
何でも不良な人々が一杯居る高校があったりするらしい。
 
そして、学校同士の抗争とかも頻繁に起こっているらしい。
 
じゃあ何でこっちの学校にそれが飛び火して来ないかと言うと、理由は簡単。
 
俺等の学校が『お坊ちゃん学校』だからだ。
 
言ってしまえば、まったく相手にされていないのだ。
 
確かにウチの学校で不良を見る確率は極めて低い。
 
校内で問題が起こる事も少ない。
 
それ故に些細な事に過剰反応しすぎる嫌いもあるのだが、概ね学校は平和だと言えるだろう。
 
で、その毒にも薬にもならない学校なんかを制圧しようとする学校も、傘下に居れようとする学校も無いと言う訳だ。
 
 
「祐一は、平和、好き?」
 
 
バイトに行く時と同じように、手を繋ぎながら腕を組んでいる桜が俺の顔を覗き込みながら言う。
 
辺りに音がまったく無い為、その声はやたらはっきりと聞こえた。
 
 
「当たり前だ。 何処に争いを好む奴が居る」
 
 
喧嘩ばっかりしてた頃の俺だって、自分から喧嘩を売った事は無い。
 
と、思う。
 
例外として、カツアゲとか弱い者イジメとか人様に迷惑を掛けるような奴に関しては鉄拳を持って接していたが。
 
基本的に俺は平和主義者なのだ。
 
 
「じゃ、さ………平和じゃなかった『あの街』は……嫌い?」
 
 
その問い掛けに少なからず動揺を覚え、桜の方を見る。
 
そして、何処か不安そうな視線とぶつかった。
 
あの街。
 
少しでも思いを馳せれば、今でも容易に街並みを思い出す事が出来る。
 
間違い無く、俺の人生の中で一番長く暮らしてきた街。
 
公園、駄菓子屋、神社、学校。
 
三人で笑った、二人で立ち寄った、祭りを楽しんだ、生活の全てだった。
 
だけど今は。
 
 
「………街に好きも嫌いもあるか」
 
 
俺の言葉に、繋いでいた桜の手がびくっと震えた。
 
同時にとてつもなく悲しそうな顔になる。
 
それも当然の事。
 
『あの街』を否定する事は、少なくとも俺がする分には通常とはまったく異なる意味合いを持つのだから。
 
 
「ごめん……ヤな事訊いた」
 
 
俯いて視線を外し、ぼそっと呟く。
 
その声は俺に謝ると言うよりも、むしろ自分に言い聞かせる意味合いが強かった様に思えた。
 
多分だが、俺があの街を否定した事は悲しみ故にだと思ったのだろう。
 
あの街を思えば心が痛むから、だからあの街について語るのを止めたのだと。
 
確かに、その思いがまったく無いと言えば嘘になる。
 
だが、それだけが全てって訳でもない。
 
 
「今あの街に戻っても、誰も居ないからな」
 
「……どゆ事?」
 
「唯もお前も居ない街に好きも嫌いも無いだろ?
 大切なのは場所じゃなくて、そこで誰とどんな風に過ごせたかって事なんだから」
 
 
例えば俺達が出会ったのがあの街じゃなくても。
 
きっと変わらない、楽しい時間を過ごせたと確信している。
 
一緒に居るだけで幸せだったから。
 
他には何も要らなかったから。
 
 
「あの街に思い出は沢山あるが、だからと言って街自体を神聖化するんじゃ芸が無いからな。
 それよりも、お前等と一緒に居れた時間があったって言う事を、胸張って好きだって言いたい」
 
「そっか……」
 
「街自体のレベルで言ったら最低ランクだぞ? 治安は悪いし、物価は高いし、警察はやたら多いし」
 
「治安の悪化には祐一も一枚噛んでる。
 物価が高いのはファッションとかに無頓着な祐一には関係無い。
 お巡りさんが多い事を非難するのは、それこそ不良な祐一の勝手な言い分」
 
「……キツイな、お前」
 
「私は生粋のあの街っ子だからね。 弁護ぐらいはするよ」
 
 
言いながら、表情に笑みが戻る。
 
どうやら俺が言いたい事は理解してもらえた様だ。
 
 
「それと、さ」
 
「ん?」
 
「祐一が何と言おうと、私はあの街で過ごした時間や創った思い出が好き。
 それはあの街以外の場所じゃ別な物になってたんじゃないかな。
 ……ひょっとしたらそっちの方が楽しかったのかもしれないけど。
 でも、現実に私が暮らしてきた日々はあの街以外には無いから、だからやっぱり私はあの街じゃなきゃダメだったんだと思う。
 ダメ? 説明になってない?」
 
 
一気に捲し立てた後、やっぱり何処か不安そうに俺の表情を覗く。
 
何と言うか、可愛かった。
 
否定されたくないんだろうな、きっと。
 
過ごしてきた時間の、ほんの一欠片すらも。
 
今の桜が頼れるものは、『今』じゃなくて『あの頃』だから。
 
現実はいつも残酷だから。
 
想い出はいつも優しいから。
 
それはただの逃避だと非難されるかもしれないけど、今は許してあげたい。
 
世の中には時間でしか解決できない問題だってある。
 
だからせめて、その時間の中だけでも楽しかった『思い出』に縋る事を選んでも良いと思う。
 
桜が笑っていてくれるなら。
 
 
「そうだな。 俺も、嫌いじゃないよ」
 
「好きだって言ってよー」
 
「はいはい、大好きだよ」
 
「えっ、私の事が?」
 
「言ってろ」
 
 
桜が俺の元に来たのも、『想い出』に縋る行為かもしれない。
 
俺と共に居る事で、『想い出』の世界に戻ったような錯覚を得る為に。
 
それならそれでも構わない。
 
だが、それよりも俺は『今』に桜の居場所を創ってやりたい。
 
その為に、『あの頃』と『今』の両方に俺が居るのだから。
 
最終的に桜が何処に『居場所』を見出すかは判らないが、せめてそれまでの間だけでも、俺が桜の『居場所』になってやりたい。
 
雨から、風から、桜を傷付けようとする全ての事から、守ってあげる事が出来たなら。
 
 
「それにしても……店が開いてないな」
 
「コンビニなのに十二時で閉めるってどーなのさ。 どっこも『便利』じゃないじゃん」
 
「いや俺に訊かれても」
 
「……私はやっぱりあの街の方が好きだな」
 
「今だけは、俺も同感だ」
 
 
昼飯以来、酒しか胃に入れていない桜のお腹がくーと鳴った。
 
何だか顔を赤くしていたので、聞こえない振りをした。
 
夜が、音も無く更けていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第八幕 「アナタが傍に居る限り」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
腹が減っては戦は出来ぬ。
 
多分この言葉を創った人は相当に腹が減っていたんだろう。
 
それこそ餓死寸前ってなくらいに。
 
少なくとも満腹状態よりは多少の飢餓状態の方が動きは俊敏になる。
 
加えて、腹が減っていると攻撃性も増す。
 
社会生活を営む上ではあまり良い印象が与えられないが、戦と云う場においては好まれるだろう。
 
理性の箍を外して戦わねばならぬ戦場で、攻撃性の上昇と云うのは指揮官にとって都合の良い展開だ。
 
勿論過ぎればフラストレーションとなって自らの身に降り掛かるが、そこら辺の機微を巧くやるのが上官と云うものだろう。
 
うむ、やはり腹が減っていても戦は出来る。
 
出来るんだぞ。
 
 
何でこんな事を語っているかと言うと、それは三十分ほど前に話が遡る。
 
 
お腹が空いててこのままじゃ死ぬって桜が五月蝿いから、しょうがなく二十四時間営業のコンビニを探す事になった。
 
だが、俺の知っている限りでは商店街にそんな店は存在しない。
 
在ったら誰よりもまず俺が重宝している。
 
 
次に、駅の方面に行く事を桜が提案した。
 
反対しても無駄だと思ったし、俺も腹が減っていたので同意した。
 
 
結局駅に着くまでにも二十四時間営業の店は見付からなかった。
 
ここまで来たら半ば女の意地だと言う事なので、駅の向こう側に行こうと桜が提案した。
 
治安が悪いらしいと忠告したのだが、そもそもこの街よりも数段治安の悪い街から来ている桜は聴く耳を持っていなかった。
 
ここで強く説得していたら……いや、もう何も言うまい。
 
 
二十四時間営業のコンビニはすぐに見付かった。
 
遠くからでもはっきりと『それ』と判るような看板が立っていたからだ。
 
お互いに「良かったねー」等と言いつつ、歩調を少しだけ速めた。
 
近付くにつれ、その店の前に集まっている数人の野郎の姿が視界に入った。
 
ヒマを持て余しているのであろう、ガラの悪い人々はみんな揃ってこっちを見ていた。
 
 
「ひょっとして見られてる?」
 
「目を合わせるな。 合わせたら負けだ」
 
 
面倒事は嫌いなので、なるべく火種となるような行為は避けるようにと桜に言った。
 
判ったのか判らなかったのか、桜は「ほい」と変な返事をした。
 
とっても不安だった。
 
 
案の定、絡まれた。
 
夜中に手を繋いで歩いている男女なんて、格好の餌でしかない。
 
そこの所を重々承知していたので、俺は目を合わせていないし、桜にも目を合わせないように言ったはずだ。
 
だのに、選りにも選ってイチャモンを付ける理由が『ガン飛ばした』は無いんじゃないかと思う。
 
コレでは俺の苦労が台無しだ。
 
なぁ、桜。
 
 
「だってこの人がジロジロ見るんだもん」
 
 
この馬鹿。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
____________________________________________________________
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「いや、ガン飛ばしてなんか………」
 
「飛ばしてるっつったら飛ばしてんだよ」
 
 
どんな理屈だそれは。
 
まるで『上官がそう言ったからカラスは白いんだ』の理論じゃないか。
 
強引にも程があるぞ。
 
って言うかその程度の短絡的思考しか持ち合わせてないのか?
 
そんな事を言おうとして、更に波風が立つと思って言うのを止めた。
 
冷静だな、俺。
 
 
「どんな理論? ソレ。 馬鹿じゃないの?」
 
 
桜、お前は何か俺に恨みでもあるのか?
 
俺が心の中に推し留めていた事を平然と言ってのけやがって。
 
しかも正論だから余計性質が悪い。
 
これには当然、因縁をつけてきた人達もご立腹の様だった。
 
 
「黙れクソアマ。 犯すぞ」
 
「………五月蝿い童貞」
 
「なっ!」
 
「相手してくれる女の娘が居なくて寂しいなら、おとなしくレンタルビデオ屋に行ってえっちなビデオでも借りてくれば?」
 
 
精神的ダメージ、致死量です。
 
恐らくは図星なのだろう、帽子を被った男が怒りと羞恥で真っ赤になっていた。
 
ヤバイ。
 
ああ云う輩はキレたら女にすら平然と手を上げるタイプだ。
 
咄嗟の判断で桜の手を引き、半ば駆け足でコンビニの中に入りこんだ。
 
まさか店の中にまで入ってきて続きをしようとするほど馬鹿じゃないだろうと思いながら。
 
案の定、不良な人々は店の外で固まっているだけで中に入ってくる気配は無かった。
 
取り敢えずはこれで一安心だな。
 
後は………
 
 
「コラ桜。 お前はアイツ等に何か恨みでもあるのか? それとも怨みがあるのはこの俺か?」
 
「不良は嫌いだって、昔言わなかったっけ?」
 
「だからってなぁ……」
 
「本能レベルでイヤなの。
 人の気持ちとか状況とか考えないで無神経な言葉を投げかけてくる神経も、無駄に好戦的なトコも、群れなきゃ動けないトコも」
 
 
少なくとも、この場においては桜の方が好戦的な気もする。
 
勿論、口には出さなかったけど。
 
 
「それに……あの人たちは私の前じゃ一番言っちゃいけない事を言った」
 
 
その目には、怒りの炎と悲しみの海が同居していた。
 
キーワードは、『犯す』
 
暴力的な男の性の立場から一方的に発言されるそれは、確かに嫌悪を誘うのに十分な言葉だ。
 
女を欲望の捌け口としか見ないその愚劣さも。
 
だが、それだけで桜がここまでの眼をする訳が無い。
 
そこに込められた、桜と俺だけに通じるもう一つの禁忌【タブー】。
 
理由なんて最早挙げるまでもなかった。
 
 
「判ってる、お前の言いたい事は。 だがな、だからと言ってアイツ等に好戦的な態度を取るのは違うだろ?」
 
「………ごめん」
 
「いいよ。 どうせ暫く店内で時間潰してれば諦めて帰るだろ」
 
 
ぽんぽんと桜の頭を軽く叩く。
 
奴等が諦めて帰るってのは、前向き過ぎる希望的観測に過ぎない。
 
だがそれでも、このまま桜に沈んだ顔をさせとくよりは良いだろう。
 
 
「それよりも俺は腹が減った。 食材を買うのはまた今度って事で、今すぐ食べられる物にしようぜ」
 
「うん、賛成」
 
 
夜中だと言うのに異常に明るい照明の中、俺達は弁当やらお惣菜のコーナーやらを見て回った。
 
所詮はコンビニなので在り来りの物しかなかったが、空腹に喘ぐ俺の目にはどれも美味そうに見える。
 
『ネギ塩カルビ焼き弁当』にしようか、それとも『オムそば飯』にしようか。
 
うーむ、迷う迷う。
 
 
「ね、祐一。 コレは?」
 
 
じゃーん、と見せられる弁当。
 
『アントニオ猪木の闘魂ダッシャー弁当 卍固め風味』、と書いてあった。
 
何味だよ、それ。
 
 
「食った後、眠れなくなりそうだからヤだ」
 
「私もそう思う」
 
「なら選ぶなよ……」
 
「何か一つネタが欲しかったの」
 
 
笑顔で陳列棚に戻す桜。
 
猪木弁当は完全にネタ扱いだった。
 
こりゃカンジも浮かばれないな。
 
死んでないけど。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
____________________________________________________________
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ね」
 
「ん?」
 
「なんか、増えてる気がするんだけど」
 
 
そう言って桜が見たのは、コンビニの出口付近。
 
さっきまでは不良な人々は三人だったのが、何時の間にか五人に増えていた。
 
細胞分裂でもしたか?
 
流石、単細胞生物。
 
ま、普通に考えれば仲間を呼んだってトコだろうけど。
 
………そこまでするかな。
 
こっちは男一人の女一人だぞ?
 
そんなのに三人で絡む事自体が恥だと言うのに、更に人数を増やして一体何をどうするつもりだよ。
 
 
「警察、呼ぶ?」
 
「それは得策じゃないな。 何しろ俺達も未成年だ」
 
「ぅ」
 
「かと言って朝までここに居たくもない。 さて、どうしたもんか」
 
 
腕組みをし、思案する。
 
出来るだけ平和的な解決方法を。
 
目線を合わせない様にして通り過ぎる―――ってのは来る時にその無能性が遺憾なく発揮されたから没。
 
警察を呼ぶ―――ってのもさっき言った通り却下。
 
アイツ等が居なくなるまで待つ―――ってのも、仲間を呼んだ事から判断して帰る気は無さそうだ。
 
困ったな……
 
残る解決法方が一つしか考えつかないぞ。
 
 
「アメリカ的に行こうか?」
 
「……俺が最後まで封印してた選択肢をあっさり持ち出すんじゃない」
 
 
最終手段、武力行使。
 
絶対に選びたくない選択肢だった。
 
世間的に不良と呼ばれる人々は、そもそもの原因が自分に在るにも関わらず、喧嘩に負けた場合は必ずと言っても良いほど復讐を企てる。
 
その殆どが、数にモノを言わせる形で。
 
そんな事態は前の街に居た時に嫌って言うほど味わってるから、出来ればそんな事はしたくない。
 
結果が最悪の事態を招きかねないから。
 
俺はともかく、桜まで危険な目に晒す事など出来ようはずも無い。
 
ならば、二度と反抗する気も起らない程に痛めつけると言う手段も在る。
 
骨を砕き、歯を折り、関節を外し、腱を断ち、それこそ人間が生命活動を辛うじて行えるラインのギリギリまで痛めつける方法も。
 
無論、警察沙汰になるだろうが。
 
 
「祐一が危惧している状況を回避する為の方法が、身体的ダメージだけって訳でもないよ?」
 
「………そんなに判りやすい顔をしてるか? 俺は」
 
「長い付き合いだからね。 大体どんな事を考えてるかくらいは判るよ」
 
「精神的にか………試す価値はありそうだな」
 
「選択肢が他に無い以上、やるしかないんじゃない?」
 
「それにしても………何でお前はそんなに冷静なんだ? この状況はどう考えたって普通じゃないぞ」
 
 
コンビニの出口を複数人の不良に囲まれている状況。
 
世間一般的な女子高生のお嬢さんなら、深夜徘徊での補導覚悟で警察を呼ぶだろう。
 
呼ばないで居るリスクの方が遥かに大きいのだから。
 
少なくとも、こんなにのほほんとしている場合ではない筈だ。
 
 
「答えは簡単。 『私も普通じゃないから』 おーけー?」
 
「……『も』ってなんだ、『も』って」
 
「何呆けた事言ってんの? 祐一、あんた自分が普通だとでも思ってる?」
 
 
何やら心に突き刺さる言葉だった。
 
くそう、『こっち』に来てからの俺は比較的普通の高校生だったはずなのに。
 
あくまで俺の主観だが。
 
 
「勿論暴力は好きじゃない。 でも、そんなのは『殺人は何時如何なる時でも許されざる犯罪だ』って言ってる馬鹿と同じじゃん」
 
「お前は、それで良いと思うのか?」
 
「CASE by CASE、だよ。 この世界の殆どが不規則に出来てるんだもん、呼応しなきゃ」
 
「ったく。 お前と居ると、どんどん『戻っちまう』よ」
 
「……それは困る事?」
 
「……さあね。 じゃ、行ってくる」
 
「怪我、気をつけてね」
 
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ?」
 
「いやだから、相手の怪我」
 
「……俺の心配も少しはしろよ」
 
「心配だよ。 傷害致死で警察に捕まったりしないかどうか」
 
 
完璧に、まったく、これっぽっちも俺を心配してくれない桜。
 
もう少しこう……なぁ。
 
自分の為に死地に赴こうとしている男に対する言葉とか態度ってモンがあるだろうに。
 
 
「それとね……」
 
「ん?」
 
「さっきの『何でそんなに冷静なんだ』って言う答えの続き」
 
「ああ」
 
「信用してるんだよ? これでも。 祐一の事」
 
 
こんな状況なのに、やっぱり柔らかに笑いながら桜が語る。
 
不思議だな。
 
桜の言葉は、全部俺の力になる。
 
今も、昔も。
 
多分、これからも。
 
 
「だからね。 私は平気なの。 恐くないし、脅えもしない。 少なくとも、祐一が傍に居る限り」
 
 
頼りにしてるぞって、そう言いながら俺の胸に軽いパンチを入れる桜。
 
ぽふっと言う軽い音と共に、俺の中に強い何かが宿った気がした。
 
そうだな………
 
 
「俺も、お前が傍に居る限りは誰にも負けない気がするよ」
 
 
おでこをこつっと手の甲で叩き、そのまま桜に背を向ける。
 
この背中が、出来るだけ大きな安心をあげられていれば良いなとか思いながら。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
____________________________________________________________
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
って、よく考えたらそんなにほのぼのした状況じゃなかったんだった。
 
俺も相当に物忘れの激しい奴だな。
 
あー、そう言えば国語の教科書、本当にロッカーに入ってんのかな。
 
ひょっとしたら定期試験の時に万が一を考えて家に持って帰ってたかもしれないな。
 
んー、だとすると探し出すのに少し骨だぞ。
 
何しろ探し物と言うものは、必要な時には何時も神隠しに遭っていると言う法則が存在するからな。
 
いやホント、びっくりするほど見付からないんだわ。
 
それなのに必要無くなったらひょっこり出てくるし。
 
これはもう、なくされた物が意志を持って隠れているとしか思えないな。
 
 
「……と、言う事でだな。 出来れば何事も無く帰りたいんだが」
 
「何が『と、言う事』だボケ。 意味判んね―んだよ」
 
 
俺の平和的解決案が一蹴されてしまった。
 
せっかくフレンドリーな笑みまで浮かべてやったと言うのに。
 
 
「じゃあお前等は何をどうしたいんだ。 言っとくが金はそんなに持ってないぞ?」
 
「女が居るじゃねーか。 彼女、めちゃくちゃ可愛いじゃん?」
 
「まぁ、可愛い事は否定しないけどな」
 
「黙ってあの女置いて帰れ。 そしたらイジメないでやるよ」
 
 
ボーズと帽子とチャパツと金髪とヒゲゴリラ。
 
こいつ等の仲間意識云々は抜きにしても、恐らくこの中で一番喧嘩馴れしてるのはヒゲゴリラだろう。
 
成る程、確かに体格は良い。
 
あの上背と筋肉だったら、大した技術など無くてもガキ共の群れで粋がるのには十分だろう。
 
見た目も恐いし。
 
そんなに睨むなよ、俺にはそっちの気は無いぞ。
 
 
「もう一回だけ訊くけど、本当に何事も無く帰してくれるつもりは無いのか?」
 
「………」
 
 
今までヤンキー座りしてたヒゲゴリラが、無言で立ちあがった。
 
うわ、でか。
 
ガタイが良い所為か、実際の身長よりも大きく見える。
 
俺が呆けながらその威風を眺めていると、ヒゲゴリラはまったく無表情のままに右腕を振った。
 
俺から見て、左斜め下からのフック。
 
油断しすぎていた。
 
避けられない!
 
 
がっ!
 
 
ずいぶんと久し振りになる、誰かに殴られる感触。
 
一瞬の麻痺の後、じわじわと頬に熱さが込み上げてきた。
 
だが、その一撃は避けられなかった代わりに一発で意識を失う類いのものではなかった。
 
いや、痛い事は痛いのだが。
 
一撃で決めようと云う気が入っていない分だけ、察知するのが遅れてしまった。
 
要するに今のパンチは警告だな。
 
これ以上グダグダ言ってると本当にシメるぞって意味合いの。
 
ふーん……
 
口先だけの小僧かと思えば、なかなかどうして判ってるじゃないか。
 
喋る前に殴れってのは、喧嘩の鉄則だからな。
 
問答無用で殴られる事によって、相手は戦意を失う。
 
気の弱い奴ならキレる事すら出来なくなるだろうな。
 
気の弱い奴ならな………
 
 
「ヒゲゴリラ。 自慢の腕力はその程度か?」
 
「……んだと?」
 
 
目付きをさっきまでよりも凶悪にして、ヒゲゴリラが俺を睨みつける。
 
そして無言で俺の胸倉を掴んだ。
 
強暴な腕力でギリギリと締め上げ、半ば宙吊り状態にされる。
 
 
馬鹿が。
 
 
俺を持ち上げたが為に死角となっているヒゲゴリラの胸骨に、一本拳を突き立ててやった。
 
慣性での打撃力ではなく、密着させた状態から抉る様に胸骨を圧迫。
 
痛みで俺への攻撃を躊躇った瞬間、胸倉を掴んでいる手の親指を捻り上げた。
 
ヒゲゴリラの握力がいかに凄まじかろうが、腕力と握力では勝負にならない。
 
折れる寸前まで親指を捻られ、右腕を上に挙げながら奇妙な体勢になっているヒゲゴリラ。
 
間髪入れずに持ち上がっている腕を逆関節に決め、一気に肩の関節を外す。
 
ごきり、とお世辞にも愉快とは言えない音が響き、ヒゲゴリラの肩がブランと垂れ下がった。
 
 
「が、あぁあああああぁぁぁぁ!!!」
 
 
脱臼。
 
それは時として、骨折よりも壮絶な痛みを伴う。
 
その事実は何よりも、先ほどまで無愛想を通していたヒゲゴリラが叫び狂っている事からも判るであろう。
 
 
「おい、ヒゲゴリラ。 お前の名前は?」
 
「はぁっ! ぐあぁっ!」
 
「俺が訊いてるんだ。 答えろ」
 
「き、聴いてどうし―――ぎゃあぁぁぁっ!!」
 
 
答えようとしないヒゲゴリラに再度攻撃を加えた。
 
まったくの容赦無しに、脱臼した個所に肘を落とす。
 
骨と言う支えを無くした肉の感触は、想像以上にぐにゃりとしていた。
 
悪いが筋肉や靭帯を傷付けないように関節を外せるほど俺は達人じゃない。
 
それに、自分に危害を成そうとしている人間に情けを掛けようとするほど善人でもない。
 
さあ、存分に痛みにのた打ち回ってくれ。
 
 
「答えろ」
 
「ひいっ! ゆ、許しっ」
 
「………今度は折るか」
 
「そ、そいつの名前は鍵山だよ! 鍵山篤(かぎやまあつし)だ!」
 
「お前には訊いてない」
 
 
仲間の悲鳴に怖気づいたのだろう、帽子が勝手に喋り始めた。
 
どうせ勝手に動くのなら、俺に全員で立ち向かえば良いものを。
 
誰か一人の悲鳴で戦意を失うようなガキが、身分も弁えずにこの俺にコナを掛けてきやがったのか。
 
成る程。
 
それならばキッチリ教えてやろうじゃないか。
 
お前等がやっている事に対するリスクって奴を。
 
 
「五秒以内に答えろ。 名前は?」
 
「か、鍵山あつ、しです」
 
「高校は」
 
「月……ヶ岡高校、で、す」
 
「住所は」
 
「深雪市……月ヶ岡、二丁目、3の…5です」
 
「本当か」
 
「は、はい……」
 
 
痛みの所為か、恐怖の所為か。
 
ヒゲゴリラは涙を流していた。
 
これは……折れたな。
 
骨ではなく、心が。
 
一度心が折れた者は、その後に余程の事がない限り折れた心を修復できない。
 
折れた心をそのままに、自らの根底で常に自分を否定しながら生きる事になる。
 
……かつての俺がそうだったように。
 
流石に高校生の小僧にやるにはキツイ仕打ちだったか?
 
いや、この位やらないと後になってから煩いからな。
 
 
「鍵山篤。 月ヶ岡高校。 月ヶ岡二丁目、三の五だな」
 
「……ふっ…ふぅっ」
 
「返事は」
 
「い、ぎぃっ! は、はいっ!」
 
 
放心状態のヒゲゴリラの鎖骨に指を掛け、力を篭める。
 
何時でも簡単に折れる体勢だ。
 
現に今、少し力を込めただけでもヒゲゴリラには激痛が走っただろう。
 
本当に久し振りだ。
 
折らないにしろ、『鎖骨貫』を使うなんてな。
 
 
「この次、例え昼間でも俺の視界に入ってみろ。 
 学校に逃げても、家に閉じこもっても、どれだけ仲間集めても関係無い。
 殺してやる。 生まれてきた事すら後悔するような方法で殺してやるからな。 判ったか」
 
 
前にこれだけの威圧感を込めて人を睨んだのは、果たして何時だっただろうか。
 
少しだけ思案したが、思い出したら思い出したで不快になりそうなシュチュエーションなので考えるのを止めた。
 
 
「判ったら早く消えろ。 俺が自分の理性を保っている間に」
 
 
夜の街に重く響く声は、まるで自分の声じゃないみたいに冷たく聞こえた。
 
脅えつつ走り去る不良の背中を眺めながら、自然と拳が硬く握られる。
 
本当に、無意識の内に。
 
『イイノカ?』
 
そして、突然にソイツはやって来た。
 
胸の奥から首を擡げてくる黒い感情。
 
粘ついた攻撃衝動。
 
『アンナヌルイヤリカタデイイノカ?』
 
もしも俺に力が無かったら。
 
もしも桜が一人だったら。
 
あいつ等はきっと、桜を――――
 
『モットダロ』
 
そうだよな。
 
あいつ等はそれ相応の事をしたんだ。
 
もっと悲惨な目に遭っても自業自得だろ。
 
『タリナイダロ』
 
ああ、あんなもんじゃ全然だ。
 
全然足りない。
 
涙が、叫びが、苦痛が、後悔が、懺悔が。
 
足りな過ぎる。
 
『 「 死ぬほどのシヌホドノ絶望とゼツボウト後悔をコウカイヲあの虫けら共にアノムシケラドモニ灼き付けてやろうヤキツケテヤロウ 」 』
 
 
「ふぃ? 終わった?」
 
「っ!?」
 
「な、何でそんなにびっくりするかな」
 
「いや……何でも無い」
 
「そ?」
 
「ああ……ちょっと久し振りの喧嘩だったから緊張してただけだ」
 
 
ぎこちない笑いを張りつけ、桜に向き合う。
 
明らかに緊張の所為ではなく動悸を速くしながら、俺は心の奥底で激しい自問自答を繰り返していた。
 
何を。
 
何を考えていた?
 
桜に声を掛けられる直前まで、お前は一体何を考えていた?
 
握っていた拳をそっと開き、じっとりと汗ばんだ掌を夜風に晒す。
 
気化熱を奪いながら急激に冷えていく掌の温度と共に、俺は自分の中に在った黒い感情の収束を急がせた。
 
それは、圧倒的な質量を持った暴力性。
 
内奥に明確に存在する、『あの頃』の俺。
 
自分の事だからよく判っていた筈だった。
 
平和な生活の中で必要とされなかった『それ』は、眠ってはいたものの決して消えた訳ではないと言う事は。
 
むしろ、鬱積されていた分だけ捌け口を見つけた時に溢れ出る奔流がとてつもないものになるであろう事は。
 
判っていた筈だった。
 
だが、判っていたからこそ自分を保つ自信があった。
 
どんな時でも『相沢祐一』で居られると思っていた。
 
なのに………
 
今の俺はどうだった?
 
もっともらしい理由を付けながら、既に戦意を失っている奴等に何をしようとしていた?
 
 
「うーん、それにしても」
 
「………どした?」
 
「やっぱ祐一、変わってないなーって。 そう思った」
 
「変わって……ない?」
 
 
その言葉に、唖然とした。
 
黒い衝動に突き動かされそうになっていた俺が、自分自身を見失っていた俺が、変わっていないだと?
 
上の空の俺の返事が意外だったのだろうか、桜は少し困惑した顔を見せた。
 
だが、次の瞬間には笑顔になって。
 
 
「本気になった時の祐一の目。 私が知ってる頃のまんまだったよ?」
 
 
嬉しそうに。
 
何故かとても嬉しそうに桜はそう言った。
 
こんなにもどす黒い感情を内包している俺を、全て許容するかのように。
 
 
「そんなに不安そうな顔しないでよ。 ひょっとして私が祐一の事を恐がるとでも思った?」
 
「あ……いや……」
 
 
そうだ。
 
俺は人を傷付けるのが恐くて『力』を封印していたんじゃなかった。
 
そんな殊勝なもんじゃない。
 
俺は、『力』を使う事によって周りから異端視される事が恐かったんだ。
 
以前の様に疎まれたり避けられたりする事が恐かったんだ。
 
たった一度だけ片鱗を見せた事はあったが、あの時は俺の意識が飛んでいた。
 
名雪たちはきっと『無意識の俺』の行為だと思って自分を納得させたんだろう。
 
『いつもの』俺がそんな事をする訳が無い、と。
 
だが、実際はそうじゃない。
 
俺は、俺の意志でも出来るのだ。
 
何の躊躇いも無く骨を折る事も、横たわる相手の顔面を思いきり蹴り上げる事も、涙を流して懇願する相手の鼻に拳を叩き込む事も。
 
だけど、俺はそんな自分を隠して暮らしてきた。
 
手に入れてしまったから。
 
暖かいものを俺は手にしてしまったから、それを失う事を恐れていた。
 
『どっちも』が自分自身だと言うのに。
 
俺は自分ですら自分を否定していたんだ。
 
気付かないうちに、しかし確実に。
 
 
「だいじょーぶだよ。 私は、ずっと祐一と一緒だから。 昔、約束したじゃんか」
 
 
誰かを傷付け、涙と悲鳴すら踏み躙り、脅える姿にすら攻撃を加えようとする。
 
曝け出された俺の醜悪な一面を見て、それでも桜は赦してくれると言う。
 
こんな俺と、一緒に居てくれると言う。
 
何処にも消え往かない事を約束してくれる。
 
 
「失うのは恐いよね。 今の祐一はあったかい人達に包まれてるから、尚更に失うのは嫌だよね」
 
「……今みたいな俺を見せたら……嫌われるかな」
 
「私には判んない。 でも、そんな祐一を見せなきゃいけないような事態に陥らなかった事は幸せな事。 そこだけは否定しないで」
 
「……ああ」
 
「そんで今が幸せだって認識したら、そしたらね……」
 
 
はにかみながら、詠う様に柔らかく。
 
コンビニの強い照明に照らし出された桜の姿は、とてもとても優しかった。
 
 
「私にだけは、『どっちの』祐一でも、見せて良いんだよ」
 
 
コンビニ袋をぶら下げて、ロングコートに身を包んだ真っ黒の服装で、ムードの欠片も無いくせに。
 
こんなにも優しく、強く、可愛く、笑う。
 
咄嗟に感じた涙の気配に、俺は月を見上げる事で対応した。
 
そうでもしないと、多分、零れていたと思うから。
 
桜が齎す絶対的な安心感に、俺の一番弱い所を揺さぶられて。
 
 
「………弁当、何処で食うかな」
 
「少し歩こう? 何だか歩きたい気分になっちゃった」
 
「賛成」
 
 
ポケットに両手を突っ込み、先に立って歩き出す。
 
二、三歩だけてててっと走り、桜もすぐに俺の横にくっ付いた。
 
そして、ポケットに入ってる俺の手を握る。
 
初めは戸惑ったその行為にも、最早馴れた。
 
細くしなやかな指が俺の指と絡み合い、次第に二人の体温が同化する。
 
掌を通して一つになったような錯覚を受けながら、俺と桜は歩いた。
 
時には会話を。
 
時には意味のある沈黙を楽しみながら。
 
電灯も疎らな深夜の街並みを、必要以上の時間を掛けて。
 
ゆっくりと、歩いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued………