こんなにも俺が戸惑っているのは、別に疚しい考えがあるからじゃない。
 
完全に、まったく、これっぽっちも無いって言ったらそりゃ嘘になるが、それでも桜に対して『そんな』感情を抱くところにまでには到らない。
 
俺はそんな人間じゃない。
 
多分、いや恐らく、むしろ絶対に。
 
こんな事ぐらいで吹っ飛ぶような理性なら、とうの昔に俺は水瀬家を追放されているに決まってる。
 
罪状は、夜這いで。
 
そうなっていないと云う事はつまり、俺は世間一般的な野郎よりも理性的で理知的でクールなナイスガイだと云う事だ。
 
だけど、だからと言って、こんな状況を『ハイそうですか』と二つ返事で受け入れられるほど俺は人間できちゃいない。
 
良くも悪くも俺は健全なイチ男子高校生なのだ。
 
そこんとこ、ヨロシク。
 
 
数時間振りに帰ってきた『雪見大福』の最上階、594号室。
 
桜は今まで繋いでいた手を離し、ポケットから取り出した鍵を挿し込んで自室の扉を開けた。
 
キィ、と小さく音を立てて開く玄関。
 
その先に広がる、漆黒の空間。
 
誰も居ない部屋から流れ出す空気は、やっぱり外よりも冷たい気がした。
 
 
「ただいまー」
 
「………」
 
「たっだいまー」
 
「………」
 
「たっだっいっまぁぁぁぁぁ」
 
「……おかえり」
 
「うんっ」
 
 
恐らく、俺が『おかえり』って言うまで続けるつもりだったのだろう。
 
目の前で、それこそ背後に『にぱっ』ってな感じの効果音が現れそうなくらいの笑顔を見せる親友がそこには居た。
 
警戒心とかの感情はブラックホールに捨てて来ましたと言わんばかりの勢いで。
 
いや、そりゃ俺だって警戒されても困るのだが。
 
だからと言って破顔一笑で家の中に引っ張り込まれても困る。
 
そう、俺が困っている理由も桜に対して『おかえり』を即座に言ってやれなかった理由も、突き詰めればそこに在るのだ。
 
何にそんなに困っているかって?
 
 
一人暮ししている同い年の女の娘に、『家には誰も居なくて寂しいから泊まってってよー』とか言われたら、そりゃ困るだろう。
 
なあ、此処には居ないが同士北川よ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Stay by My Side
 
 
第9幕 『東海道中膝栗毛 IN シャワールームにて』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「さて、そんじゃな。 また明日」
 
 
名前も知らない公園で冷めたコンビニ弁当を食べて、その後も二人でゆっくりと歩いて、『雪見大福』の前まで着いた時には三時を回っていた。
 
俺は兎も角、転入したての桜は気疲れなどもあったのだろう、道中で何度も眠そうなあくびを連発していたものだ。
 
名雪じゃないので、流石に歩きながら寝るような事は無かったが。
 
それでも少しだけふらふらしていたような気もする。
 
さっさと寝せないと、明日が大変だろう。
 
個人の眠気云々とはまったくの別次元で学校と言うものは動いているのだから。
 
そう思った俺は、なるべく簡素に挨拶をして『雪見大福』を後にすることにした。
 
おやすみ、桜。
 
 
「ぅ? うん。 またあひたー」
 
 
ぽわぽわしながらぴよぴよと手を振るその様子が微笑ましくて、少し笑った。
 
どうやら半分以上寝ている様だ。
 
あんなんでホントに最上階まで行けるのか?
 
何だか微妙に心配だったが、結局は二度目になる『名雪じゃあるまいし』の言葉でカタをつけた。
 
便利だな、この言葉。
 
 
「……ふぅ」
 
 
無事に桜を送り届けた安堵からかどうかは知らないが、俺は『雪見大福』に背を向けて少し歩いた所で大きく深呼吸をした。
 
白く吐き出された吐息には若干の疲れの色が混じっていて、その事に自分でも少し驚いた。
 
桜の事を何だかんだ言っといて、結局は俺も相当に疲れているようだ。
 
手持ち無沙汰に首を捻ってゴキゴキと骨を鳴らし、ついでに背伸びもする。
 
物音一つしない深夜の街に骨の音だけが鳴り響くというのも、なかなかにシュールな情景だ。
 
そう思って何気なしに空を見上げると、今朝方もちらついていた白い破片が空から落ちてくるのが見えた。
 
 
「………今年も、雪の季節になったのか」
 
 
雪の降らない『あの街』からこっちに越して来て。
 
初めの内は、それこそ心の奥底の方から雪を嫌っていた。
 
雪は冷たいから。
 
雪は、悲しいから。
 
だけど、二月を過ぎる頃にはその蟠りも消え去った。
 
雪を、雪として見れるようになった。
 
他に何の意味合いも持たない、ただ純粋なる『雪』として。
 
そう考えると、俺が季節の初めに降る雪を見るのは実に八年ぶりの事となる。
 
去年の、この街に来た頃の俺が雪をちゃんと見ていられたと言う保証は何処にも無い。
 
ただその弱さの分だけ、今の俺が雪を懐かしく思える事を過去の自分に誇れるような気がした。
 
 
「久し振りだな。 元気してたか?」
 
 
答えを返すはずも無い無機物に向かって呟く俺の姿は、傍から見たら酷く滑稽なものだろう。
 
何よりも、雪に感情や意志が無いなんて事は朝に俺が自ら思っていた事。
 
ならば何故、今この場所で雪に語り掛けてしまったのか。
 
それは自分にすら判らない謎だった。
 
そのまま暫く目を閉じ、上を向いたままで雪を肌で感じる。
 
一瞬だけ俺に零下を齎し、次の瞬間にはさらりと消え往く。
 
その欠片の一つ一つが身体に染み入るような感じがして、それが今はとても心地良くて。
 
はらはらと円舞曲【ロンド】を踊る雪の中、俺はもう少しだけその場に佇もうと思った。
 
と、その時。
 
不意に背後から迫る人の気配を感じた。
 
少し荒いでいる吐息を不審に思って振り向くと、そこには肩で息をしている桜が立っていた。
 
恐らくは『雪見大福』から走ってきたのだろう、吐き出す白い息が大きく揺れる。
 
視線が射抜くように俺を貫く。
 
そして、俺達は互いの白い息が重なるくらいの距離まで近付いた。
 
 
「……なんで黙って居なくなるのさ」
 
 
焦燥と不満がありありと見て取れる様相で桜がぽつりと漏らす。
 
『なんで』と問う割に、その言葉は疑問系ではない。
 
それは質問と云うよりもむしろ俺を咎めるかのような色合いを濃く含んでいた。
 
一言で言うと、おっかなかった。
 
 
「俺はちゃんと『じゃあな』って言ったはずだ」
 
「ウソだ」
 
「嘘じゃないって……」
 
 
俺の言葉を聞いてないのはお前が寝ぼけていただけだ。
 
言おうとしたけど、不機嫌になってる桜に何を言っても無駄っぽいので止めた。
 
だがそれが良くなかったのだろうか、桜はますます不貞腐れた顔をして俺を睨み始めた。
 
 
「祐一はウソツキだ」
 
「だから嘘なんかついてないって」
 
「……祐一は『家に来てくれる』って言ったもん」
 
「うむ。 だからちゃんと行っただろ」
 
 
少なくとも嘘は言っていない。
 
時間は短かったとは言え、俺は桜の家にお邪魔したはずだ。
 
その時の桜は確かに笑ってくれていた。
 
まさかあの一連の流れ全てが俺の妄想だったとかそう云う事は無いだろう。
 
 
「私は朝までのつもりで言ったの」
 
「………はい?」
 
 
朝まで?
 
朝までって言ったか?
 
って事はつまり、えーと、その。
 
 
「泊まってって。 独りで寝るのはもうイヤだよ……」
 
 
俺の袖をきゅっと握りながら、表情を見られぬように俯きながら。
 
必至で強がる、だけどいとも簡単に読み取れてしまう、独りの心細さ。
 
そんな悲しい強さに、俺が用意していた定型の断り文句は全て意味を成さなくなってしまった。
 
それこそ一瞬で。
 
………やれやれ、ここまで来たらご休憩だろうが一泊だろうが一緒か。
 
多分に諦めの色が強い上に暴走気味な自分の思考に危機感を覚えながら、今度は俺の方から桜の手を握りしめた。
 
 
「明日も学校だからな。 お前の家に行ったら速攻で寝るぞ。 判ったか」
 
「いいのっ?」
 
「えっちはしないからな」
 
「………それ、私のセリフだと思う」
 
「言いたきゃ言っても良いぞ」
 
「けふん、えーと……えっちはしないからねっ」
 
「するかバカ」
 
 
げしっ!
 
 
「……もとい、俺が桜を襲うような奴に見えるのか?」
 
「いやほら、私ってばセクシーダイナマイトだから」
 
「……………」
 
「ああっ、ひどっ。 何で無言なわけー?」
 
「ダイナマイトに失礼だ。 ノーベルに謝れ」
 
「しかも突っ込み所はソコっ?」
 
 
さっきまでの沈んだ雰囲気は、霧散した。
 
霧散、させた。
 
すっかりいつも通りに戻った桜に苦笑しつつ、そしてそれを嬉しく思いながら、俺はたった今来た道を引き返し歩き始めた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「お邪魔します」
 
「やり直し」
 
「邪魔はしないけどお邪魔します」
 
「ダメ。 もっかい」
 
「邪だの魔だのってやたら負のイメージの強い単語だけど一応言わせてもらうぜお邪魔します」
 
「テイクフォー」
 
「………ただいま」
 
 
お互いに意地を張ってたら朝までループしそうだったので、しょうがなく俺の方が折れる事にした。
 
お前はアレか、『世界を救ってくれるか』の問いに『ハイ』で答えないと城から出してくれないドラクエの王様か。
 
 
「お帰りなさいアナタ。 お風呂にします? ご飯にします? それとも、ア タ シ?」
 
「寝る」
 
「ね、寝るっ? そんな直接的なっ」
 
「…………」
 
 
もの凄く激しい頭痛がした。
 
テンション高いな、お前。
 
取り敢えず真夜中過ぎで決まっちゃってる風味な桜を捨て置き、ずかずかと廊下を歩いてリビングへと向かう。
 
勝手知ったる他人の家だ。
 
メインの照明を点け、改めて見渡すとそのリビングはやっぱり広かった。
 
LDKを持つマンションなんて、どう考えたって女子高生が一人で住むような間取りじゃないと思う。
 
まったく………息子にもこれくらい投資してみろ馬鹿親父。
 
等と心の中で悪態をつきながら、三人掛け用のソファーにどっかと腰を下ろす。
 
水瀬家のソファーより、心なしか柔らかい気がした。
 
 
「じゃ、私はシャワーを浴びてきます」
 
「んな事いちいち報告しなくてもいい」
 
「ね、覗く?」
 
「着替えの時と言い今回と言い………お前はそんなに覗いて欲しいのか?」
 
 
その貧相な身体で。
 
とは、さすがに言えなかった。
 
多分だけど、言ったら俺の身体の方がとんでもなく面白くない事になってしまうだろう。
 
具体的に言うとロメロ・スペシャルとかで。
 
本能的な危機回避能力で禁句を回避した俺の苦労をつゆ知らず、桜はバスタオルを身体に巻きながらうふふっと笑った。
 
無邪気とはお世辞にも言えない、含みのある笑い方だった。
 
 
「後で祐一のシャワーシーンも覗いて良いなら」
 
「徹頭徹尾断固拒否だバカ。 さっさと行け」
 
「はーい。 あ、冷蔵庫の中の物は好きに飲んだりして良いからね」
 
「空だろ、冷蔵庫」
 
「麦茶くらい入ってるもん。 じゃ」
 
 
そう言ってぱたぱたとシャワールームへと向かう桜。
 
右に左に揺れるポニーテールを見ながら、俺の心にふと悪戯心が沸いてきた。
 
題して、『シャワーを浴びてたらいきなり電気が消えちゃいました大作戦』
 
内容は、まぁ作戦名を読んでの如くだ。
 
手っ取り早く言えば、シャワールームの電気を消す。
 
くっくっく、暗闇の中で俺に懺悔するが良い。
 
この相沢祐一をからかいっぱなしと言うのは、何人たりとて許されないのだよ。
 
覚悟しろ、桜!
 
 
この時の俺は桜の事を言えないくらいナチュラルハイになっていたのだと云う事に気付くのは、それはもう相当後になってからの事だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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現在時刻、委細不明。
 
特殊強襲部隊SAT(スペシャル相沢チーム)、準備完了ですサー。
 
よしまずは、整列!
 
 
「点呼、イチ、よし!」
 
 
一瞬で終わる点呼。
 
何やら少しだけ虚しくなったが、そんな事では今の俺は止まらない。
 
抜き足差し足でリビングの扉まで近付き、廊下の気配をそーっと覗う。
 
どうやら対象は既にシャワールームに入っているようで、廊下に人の気配は無かった。
 
ゆっくりと壁から身体を離し、玄関まで直通している廊下エリアに踏み込む。
 
間取りから察するに、シャワー室は廊下の左側にある扉のどちらかだろう。
 
……どっちだ。
 
ここで部屋を間違えたからと云って計画の遂行に支障を来す訳ではないが、そこはそれ。
 
途中にただ一つの失敗すら許されないのが実戦であり、また俺の意地でもある。
 
研ぎ澄ませ。
 
この場には俺と桜以外の気配など存在しないんだ。
 
しかも距離までが特定できている。
 
後は方向だけだ。
 
判らない訳が無いだろう。
 
 
目を閉じ、呼吸を限界まで潜め、味、視、嗅、触覚を閉ざす。
 
その恩恵とばかりに高められる、聴覚。
 
そして、形容する術を持たない不思議な感覚、即ち『第六感』とか呼ばれている感覚をも高める。
 
情報を半径五メートル以内にのみ集中させ、微かな物音すらも逃さぬ様にと身構えたその時。
 
 
「………こっちか」
 
 
二重の扉に閉ざされて消えかかってはいたが、俺の聴覚はハッキリとシャワーの音を捉えた。
 
ふっ、その程度で俺から逃げ遂せたつもりか? 桜。
 
ちなみに、誰も逃げちゃいないとか言うツッコミは禁止する。
 
 
次に問題となったのは、電気のスイッチの位置だった。
 
脱衣所の中にスイッチがあるとすれば、それは実に大きな障害となる。
 
まず、脱衣所に進入した時点で俺の存在が桜にばれる危険性が非常に高い。
 
いくらシャワー中でしかもにぶちんの桜でも、さすがにそこまで接近すれば気付くだろう。
 
擦りガラスとは言え、人の存在が判らないほど不透明な訳でもないし。
 
それ以上に、その、脱衣所に忍び込むってのは、ほら、あの、下…ぎ…とか。
 
色々問題がある訳だよ、なぁ北川。
 
俺の問い掛けに遠くで頷いてくれている事を勝手に期待して、俺はスイッチの捜索を再開した。
 
 
と、その時。
 
何の前触れも無く、この家の中の全ての灯りが消えた。
 
廊下、リビング、そして恐らくは目の前の脱衣所およびシャワー室の電灯も、一瞬で。
 
全てがのっぺりとした闇の中へと叩き込まれた家の中、静かに驚く俺とは対称的な桜の怒声とも悲鳴ともつかぬ叫び声が高く響いた。
 
 
「ちょっ! こらぁっ! 祐一!」

 
俺じゃねえ。
 
シャワー室の中で案の定パニック状態になっている桜の声に、心の中で反応を返した。
 
って言うか停電とかの疑いまったく無しに直で俺を疑うのかよ。
 
俺と桜の間に形成された信頼関係って言うのはその程度だったのか?
 
いや、確かに悪戯しようとは思ってたんだけどな。
 
ある意味では俺の事を充分に理解しているとも言える。
 
やるな。
 
 
「ばかー! 早く電気点けないと怒るよー! ぶつよー! ………は、早く電気点けてよぉー」
 
「俺の悪戯じゃない。 リビングとかの電気も一気に消えてた」
 
「ぶ、ブレーカーなの?」
 
「使われてる電気の総量から見てそれは無いな。 恐らくはマンション自体のメンテか何かだろ」
 
 
腕時計をしない主義だからよくは判らないが、時刻は恐らく四時ジャスト。
 
明け方の限定的な時間を使っての電気系統調整か何かだろう。
 
そう云うのは回覧板とか下の掲示板とかでお知らせされるんだが……読んでないんだろうな、絶対。
 
 
「ゆ、祐一ってばー」
 
「何だ」
 
「ちょっと来なさい! いいから早く!」
 
 
何も言わない内から反論及び疑問を挟む事を否定された。
 
凄いスキルだとか思ったり思わなかったり。
 
てか、俺に脱衣所にまで入って行けと?
 
 
「あのー、桜?」
 
「早くっ!」
 
「サーイエッサー」
 
 
試しに挑んでみたが、やっぱり反論及び疑問を挟む余地は皆無だった。
 
恐ろしい上官だ。
 
命令無視をすると後が恐いので、言われるままに脱衣所に侵入する。
 
そこは意外に広くスペースを取ってあり、どうやら洗面所と一緒になっているようだった。
 
洗面台の横に置いてあるのは洗濯機と、その直下には脱衣カゴ。
 
なるべくカゴの中を見ないように視線を逸らし、その視線がシャワールームの擦りガラスを映して。
 
俺は叫んだ。
 
 
「なっ! 何やってんだお前!」
 
 
ドアに身体を密着させている為、擦りガラス越しとは言え桜の身体の線が丸見えだった。
 
細い肩、小さな手、折れそうな腰、然程大きくない胸。
 
華奢なんだけど柔らかく丸みを帯びている、『女の娘』の身体が。
 
思考が吹っ飛んだ一瞬の硬直の後、首が折れ曲がるくらい思いっきり視線を逸らした。
 
ぐきっとか言う音が聞こえたが、気の所為だと思う事にした。
 
首が痛いのも、気の所為だと思う事にした。
 
 
「アホか! 見えるぞ!」
 
「だって恐いんだもん!」
 
「我慢しろ!」
 
「無理!」
 
「男は度胸だ!」
 
「私は女っ!」
 
 
このままじゃ埒があかないので、俺は桜に背中を向けてその場に座りこんだ。
 
これなら桜が何をどうしようと問題は無い。
 
さて、と。
 
この人為的な停電はどうしたものか。
 
四時と言えば起き出している人もいる時間帯ではないか。
 
早い家なんかでは朝飯の準備をし始める人達もいるだろう。
 
もう少し時間的に何とかならなかったものか。
 
 
とは言うものの、普段の俺なら寝ている時間なだけに一概に時間帯が悪いとも言い切れない所がある。
 
早けりゃ早いで夜更かししてる人たちから文句が来るだろうし。
 
何より電気会社の人も頑張ってるんだろう。
 
うん、これはまぁ人災ではなく天災だと思って諦めるしか……
 
 
「ゆ、祐一?」
 
「………」
 
「ちょー! 祐一ってばー! 何処ー?」
 
「喧しい。 此処に居るっての」
 
「黙ってないでなんか喋ってよー。 落語とか小噺とか東海道中膝栗毛とかっ」
 
「……お前は俺を何だと思ってやがる」
 
 
楽さんじゃあるまいし、即興で小噺なんか出来るか阿呆。
 
しかも東海道中膝栗毛って。
 
俺にヤジキタ道中記を面白おかしく話せと言うのか?
 
………天野なら出来そうだな。
 
何しろ源氏物語を暗唱できるとか云うスキルを持ってるからな。
 
よし、今度お願いしてみよう。
 
多分絶対やってくれないだろうけど。
 
 
「また黙るー!」
 
「判った判った! それじゃあ楽しくほのぼのしたお話をしてやろう」
 
「どんなの?」
 
「お婆さんの真っ赤なシチューの話だ」
 
「何それ、スプーンおばさんの親戚?」
 
「むかーし昔、って言うか平成九年頃」
 
「近っ」
 
「黙って聴いてろ。 えーと、平成九年頃―――――――
 

某県木更津に、ある風呂好きのお婆さんが住んでいました。

そのお婆さんは木更津生まれの木更津育ちのくせに何故か江戸っ子で、熱い風呂が大好きでした。

その日も、一日の疲れを取ろうとして湯船に使っていました。

肩まで湯船に浸かり、ほっと一息つくお婆さん。
 
のんびりしたところで、もう少しお湯を熱くしようとしました。
 
その頃の風呂にはしっかりと追い炊き機能がついていたので、お婆さんは迷わず『高温』のスイッチを押しました。
 
江戸っ子は熱いお湯が大好きなのです(お婆さんは木更津っ子)
 
ぐんぐん熱くなっていくお湯。
 
もうそろそろ良い加減かと思ったその時、突然お婆さんは金縛りに遭ってしまいました。
 
身体を動かそうとしても、ぴくりとも動けません。
 
声も出せません。
 
湯船の温度はぐんぐん上がっていきます。
 
ぐらぐら煮立っていきます。
 
ぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつ………………
 
 
三日後。
 
いつも挨拶をするお婆さんを最近見かけないと言う事で、近所の人がお婆さんの家を尋ねてみました。
 
玄関の鍵は開いています。
 
容易に入る事が出来ました。
 
居間、台所、寝室、トイレ。
 
何処を探してもお婆さんは居ません。
 
まさかと思い、近所の人は風呂場を見に行きました。
 
そこに在ったのは――――――――
 
 
「断末魔の表情と上半身だけが湯船にがっしりと捕まり、下半身はぐらぐら煮立つお湯にぐちゃぐちゃに溶けたお婆さんの姿。
 さながらそれは、『お婆さんの真っ赤なシチュー』の様でした…………っと、こんなお話だ。
 ひょっとしたらお前の直ぐ横に在る湯船の中にも―――――――」
 
「ひいぃぃぃやあぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
 
 
バタン!
 
ごちん!
 
げしっ!
 
べちゃっ!
 
むくっ!
 
ひしっ!
 

ちなみに、上から順に説明していくと次の様になる。
 
いきなりシャワールームのドアが開いた音。
 
それに拠りかかっていた俺が後方に倒れて、縁に後頭部を思いっきりぶつけた音。
 
シャワールームから飛び出してきた桜が俺の頭に蹴躓いた音。
 
蹴躓いて桜がこけた音。
 
んで、その桜が起きあがった音と俺に抱き着いてきた音だ。
 
 
「な、なななななな!」
 
 
死ぬほど取り乱す俺。
 
って言うか誰だって取り乱すだろう。
 
誰かこんな事態を予測できると言うのだ。
 
いや、桜が『こう云った話』に弱いってのは知っていたんだが、まさかここまで取り乱すとは思ってもみなかった。
 
お前、歳いくつだよ。
 
 
「ばかばかばかばかばかばかばかばかぁ!」
 
「おお、確かに俺はバカだ。 だがお前はもっとバカだ。 速く風呂場に戻れスカタン!」
 
「絶っっっっっ対イヤだっ! お婆さんが出てくるっ!」
 
「出るかボケ!」
 
「出るもんっ!」
 
 
断言しやがった。
 
俺の胸板に顔を埋め、両手でしっかりと抱き付いて絶対に動こうとしない桜。
 
それに対する俺は、桜の肌に触れないように両手をバンザイの形にして目もしっかり瞑っていると云う何ともヘンテコな格好になっていた。
 
だが、それでもどうしようもないものがある。
 
例えば間近から薫るシャンプーの匂いとか、胸板で感じる柔らかさとかだ。
 
桜の衣服が無いと云うただそれだけで、普段抱き付かれて感じている柔らかさとは段違いの感触が俺には与えられていた。
 
知らなかった。
 
『本当』の桜がこんなにも、細くて柔らかくて良い薫りだなんて。
 
ただ、出来ればこんな状況で知りたくはなかった気がする。
 
こんなの反則だ。
 
 
「自分の状況よく考えろ! 裸だぞお前!」
 
「真っ赤なお婆さんより裸の方がマシっ!」
 
 
そこまで真っ赤なお婆さんを嫌うか、桜。
 
そこはかとなくお婆さんが可哀想になってきた。
 
不慮の事故でシチューになってしまっただけなのに、人々に怖がられ忌み嫌われるとはどう云う事だ。
 
いや、そうじゃなくて。
 
 
「ええい、お前が退かないなら俺が退く!」
 
「ぅあっ」
 
 
必死にしがみつく桜をぽいっと捨て、神速でシャワールームに飛び込んでドアに鍵を掛けた。
 
桜が恐がっているのは湯船から出て来るかもしれない真っ赤なお婆さんであって、暗闇ではないはず。
 
脱衣所は湯船じゃない。
 
お婆さんは湯船から出てくる(出て来ないけど)
 
つまりそこにはお婆さんは出て来ない。
 
うむ、完璧な三段論法だ。
 
これで万事解決。
 
 
「うわーん! あーけーてーよー!」
 
 
ドンドンドンドンドン!!
 
 
全然解決してなかった。
 
それどころか微妙に悪化している気がする。
 
半泣きって言うかむしろ全開泣きモードでドアを乱打する桜に、オバケとか妖怪の類には動じない俺も流石に驚いた。
 
放っておいたらドアが叩き壊されてしまう。
 
 
「落ちつけ桜! そこには風呂桶は無い! したがってお婆さんも出て来ない!」
 
「ヤダぁ! おね、お願いだから開けてー! ここ開けてよー!」
 
 
パニックに陥っている人には、三段論法もクソもない。
 
恐慌状態の人民には説得力などと云うものは何の意味も成さず、ただ命を繋ぐ物のみが存在を肯定され得る。
 
ここに到って、俺はまた一つの人生における真理を獲得する事となった。
 
勿論ちっとも嬉しくなかった。
 
 
「せめて服を着ろ! そしたら開けてやる!」
 
「き、着てる間にお婆さん出て来ない?」
 
「だから出ないと言っている」
 
「判った、着る、でもその間に逃げないでね!」
 
 
この明り取りの窓すらない風呂場から、俺に一体何処へ逃げろと言うのだ。
 
瞼を開けても閉じても真っ黒しか見えない中、俺はそんな事を思った。
 
まさか排水溝から出ていけと言うのか?
 
それじゃまるっきりホラー映画じゃないか。
 
しかも三流の。
 
もしくはルパン三世。
 
うむ、『三』繋がりと言う点では即興ながら中々―――
 
 
「着たよっ! 開けてっ!」
 
「ホントか?」
 
「インディアンはウソつかないもんっ!」
 
 
誰がインディアンか。
 
思わず突っ込んでしまいそうになったが、どうせ突っ込んでも無意味なんだろう。
 
真理を悟った為と言うかむしろ諦めの意味合いが強かったが、取り敢えず服も着たと言う事だったのでドアの鍵を外してやった。
 
服さえ着てれば、抱き付かれるのはある意味でいつも通りだから然したる問題も無い。
 
そう思ったからこそ、俺は鍵を開けたのだ。
 
まさかそれからたったの二秒で後悔するとは、この時の俺は知る由も無かった訳で。
 
姉さん、大変な事になりました。
 
 
「っとに、お前は一体小学何年せぐはっ!」
 
 
鍵を開けた瞬間に桜がドアを思いっきり開き、そのドアに鋭い一撃を入れられた俺は再び後方に転倒して頭をしこたま打った。
 
そして、それを痛いと思う暇すらなく再び抱き付かれる。
 
確信した。
 
桜の前世は絶対にダッコちゃん人形だ。
 
今では人種差別だとか言われて二度と復刻されないだろうダッコちゃん人形だ。
 
そんなくだらない事を思ってしまうほど、今日の桜は抱き付きまくりだった。
 
勿論現在進行形で。
 
 
「お婆さんが……お婆さんがー……」
 
「……….」
 
 
だから出て来ないって言ってんだろ。
 
言おうとしたが、やっぱり無駄に終わるだろうと思ってやめた。
 
最近の俺は飲みこむ言葉が多すぎるんじゃないか、とも思いながら。
 
依然として闇の只中に放り出されている俺達二人。
 
ずきずきと痛む頭とびしょ濡れになってしまった服を憂いながら、俺は小さくため息をついた。
 
やれやれ、何がどうしてこうなったんだっけ。
 
原因を究極まで突き詰めれば結局は俺が悪いと云う事になるので、意図的にその思考を中断する。
 
そうだ、これは人災ではなく天災なのだ。
 
誰の所為でもありゃしない。
 
非常に自分勝手な思考の代わりと言ってはなんだが、他にやる事も無いので桜の頭を撫でてやった。
 
 
「落ち着け桜。 お婆さんは出て来ない。 たとえ出て来たとしても俺がやっつける」
 
 
シチューのお婆さんに物理的攻撃が効くかは甚だ疑問だが。
 
ひょっとしたら『ポマード』って三回言えば逃げてくれるかもしれないし。
 
大丈夫だ、と思うぞ。
 
 
「ホント?」
 
「インディアン、嘘、つかない」
 
「祐一、インディアン?」
 
「日本人だ」
 
「………」
 
「………」
 
 
鉄の固まりのような沈黙が浴室を支配し、再び桜がお婆さんに脅え始めるかと思ったその時。
 
ジジっと言う小さな音の後、『雪見大福』に明かりが戻った。
 
暗闇に目が慣れ始めていた俺の網膜に白い光りが突き刺さり、瞬間的に何も見えなくなる。
 
真夜中にいきなり電気を点けて叩き起こされた時に似ている。
 
等と思いながらも時間と共に俺の視力は回復を遂げていき、最終的には何度か目を瞬いた段階で完全回復した。
 
 
「ほら桜。 灯りが点いたぞ。 これでお婆さんも……で、てこ、な」
 
 
Tシャツ。
 
桜が身に着けている衣服は、何処をどう見てもそれ一枚きりだった。
 
幻覚だと思って数回瞬きをしたらやっぱり俺の目の錯覚で実はちゃんと上下衣服を着用していた、とか云う事は勿論無かった。
 
出掛けに見た、前開きの中に着ていた白いTシャツ。
 
飾り気の無い白いシャツは桜の髪から滴る雫に濡れ、凹凸の少ない肌にぴったりと張り付いて。
 
露骨なまでに身体のラインを写し出していた。
 
浮かび上がる鎖骨や控え目な胸の隆起だけではなく、その先端にある桜色の突起までをも明確に。
 
だが、衝撃的な光景はそれだけじゃなかった。
 
自分の身体のサイズに合わせて買っているだろうからには、当然その丈は腰よりも少し下くらいまで。
 
俺に正面から抱き付いている状態の為に前こそ見えなかったものの、背中からお尻にかけてのラインは丸見えだった。
 
折れそうなほど細い腰から緩やかな曲線を描き、見た目にも柔らかそうな『そこ』に到る。
 
上質の餅のようなその艶やかな肌は水を珠にして弾き―――――
 
 
「――――――っ!」
 
 
再度、ぐきっと音がするほど首を明後日の方向に捻じ曲げた。
 
もの凄く痛かったが、気の所為だと思う事にした。
 
残念ながら無理だった。
 
 
「桜。 五秒以内に此処から退室しろ。 さもないと俺の首が持たん」
 
「え、あ、ご、ごめんっ」
 
 
ぱっと俺から離れ、予想以上の素直さで浴室から出ていく桜。
 
流石に明るい電気の下では恥しかったのだろうが、そのくらいの羞恥心があるのなら暗闇の中でも理性的に行動して欲しかった。
 
少なくとも、今見てしまった映像はそう簡単に消去できるような代物ではない。
 
桜の。
 
性別なんか度外視し、『親友』としてしか見てこなかった桜の――――――
 
 
「う、うがあぁぁぁぁぁ!!」
 
「ど、どしたのっ?」
 
「いや、な、何でも無い。 気にするな」
 
「そう?」
 
 
擦りガラスの向こうで身体を拭いているシルエットを見ながら、俺は深く考えこむ。
 
女………なんだよな。
 
別に知らなかった訳じゃないけど、再確認するまでもないと思ってた。
 
そこに深い意味なんか無いと思ってた。
 
性別が違うって云うただそれだけの事は、ただそれだけの事だと思っていた。
 
 
「………やっぱ泊まるってのはまずかったかなー」
 
 
額に手を当て、天井を仰ぎながらぼそっと呟く。
 
それは反響性の高い風呂場の壁にすら響かないほど小さな声だったが、俺の内部では異常なほどに響き渡っていた。
 
何も桜の半裸を見た俺が野獣化するとかそう云う事ではない。
 
そんな事よりももっと本質的で、尚且つ俗説に満ちた陳腐な不安だ。
 
即ち、どうして世間一般的に『一人暮しの女の家に男が泊まりに行く』って事が騒がれるかが、今になってようやく判ったから。
 
だから俺は、こんなにも後悔しているのだ。
 
 
男と女。
 
世界にはその二つの性別しか存在しておらず、故に種の保存法則として性交を持つ事もなんら不思議ではない。
 
それどころか『正しい事』ですらあるのだ。
 
あくまで『生物』としては、だが。
 
ぶっちゃけて言えば、人間は『動物』じゃないとも言える。
 
種を残す為の行動を快楽目的にすり替え、あまつさえ年齢やモラル等と言った不確かなもので規制をかける。
 
これは『生物』として既に失格だ。
 
ある学者はこんな言葉を残している。
 
『種は種を保存する為にのみ存在している。 存続が存在目的なのだ』
 
だとすると相当に意味の無い人生になりそうだが、それはやっぱり人間だけが考える事でしかない。
 
生きる事に意味を求める奇怪な生物なんて、人間以外には無いだろう。
 
一定年齢に達すれば後は一生涯発情期と云う特殊な能力のおかげで、幸か不幸か『人間』の個体数は増加の一方を辿っている。
 
そして、『生物』としての危機を乗り越えた人間は、大多数の存在がそうである様に、堕落する。
 
精神に贅肉が付く。
 
腐れた考えしか持てなくなる。
 
例えば、一定年齢に達した男と女が居ればヤる事は一つしかないと思い始めるように。
 
 
むしろ今日(厳密には昨日だが)、学校でその腐れた考えを聞かされたばかりだ。
 
あの時の俺も『それ』に少なからず同意したし、同意した以上はその意味も少しは理解していたつもりだった。
 
ドラマや本の受け売りとしての、浅はかなガキの認識で。
 
だからこそ『それはマズイ』とか『世間体が』とか間の抜けた返事しか返さなかった。
 
『本当』はもっと、とんでもない事だった。
 
 
ずっと『親友』として付き合ってきた桜を、例え一瞬だけだったとしても、『女』として見てしまった。
 
 
『誰か』に対する言い訳ならいくらでも出来る。
 
だが、自分を納得させられる言い訳なんかこれっぽっちも思い浮かばなかった。
 
自分を納得させられないのならば、言い訳として考え得る言葉の羅列は何の意味も持たない。
 
言の葉と云うにも足りない、腐葉。
 
その後に残るのは、膨大な質量の自己嫌悪。
 
聖書に拠れば、視姦と強姦は同罪として扱われているはずだ。
 
読んだ当時は『んなバカな話があるかよ』とか言っていた気がするが、今は身を持って理解してしまった。
 
誰かが裁く『罪』ではなく、自分自身が心に背負う『罪』としての重さは、どちらも同じだと云う事を。
 
桜に対して。
 
唯に対して。
 
また一つ、許されざる罪を背負ったと云う事実に。
 
勿論口には出せないが、俺は心の中で深く深く懺悔した。
 
 
「祐一も、せっかくだからシャワー浴びなよ」
 
 
バスタオルを頭に巻いてパジャマ姿になった桜が、ドアを少しだけ開けて顔を覗かせた。
 
ぐるぐると思考の渦の中に居た俺はその声でふと我に帰り、そのままじーっと桜の顔を見詰める。
 
何の警戒心も疑いも無く俺を見詰める、そのあどけない顔。
 
笑っても泣いてもとぼけても、その顔は贔屓目無しに可愛いと思った。
 
 
「ん?」
 
「いや……停電騒ぎで身体冷えただろ。 俺より先にお前がもっかい浴びろ」
 
「あ……うん。 ありがと。 祐一、優しい」
 
「バカ言え。 大本の責任は俺だろ」
 
「はいはい。 そう言う事にしときましょ」
 
 
こんな時、桜は俺の非を笑いながら受け入れてくれる。
 
『私の方が―――』とか言わずに、さらっと流してくれる。
 
判ってくれていると云う安心感が、たまらなく、心地良い。
 
 
「早くしろよ。 俺もこのままじゃ風邪をひきかねん」
 
「安心して。 バカはひかないよ」
 
「面白い。 お前はこの俺に喧嘩を売ってるんだな」
 
「あ、そうだ。 早く出てかないと私、脱ぎ始めるよ?」
 
 
言うが早いか、パジャマの第一ボタンに手をかけ始める。
 
どう考えても俺の方が形勢不利だった。
 
少なくとも、今の俺が『出来るもんならやってみろ』と言えるとは思えない。
 
様々な意味で、今の俺には余裕が足りない。
 
ここは戦略的撤退だ。
 
 
「祐一」
 
「ん?」
 
 
脱衣所から立ち去ろうとしている俺の背中に掛けられる、独り言のような呟き。
 
桜の、優しさ。
 
 
「出来るだけ早くあがるからね」
 
「……期待しないで待ってるよ」
 
 
水瀬家での仕返しとばかりに言ってやった。
 
振り向かずに、声だけを返す。
 
背中の桜は、恐らく笑っていた。
 
自己嫌悪故に、俺は振り向けなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
To be continued………