四月二十二日 火曜日
午前十時
私立銀誓館学園高等部校舎、屋上にて

「次の被害者は同じく千葉県JR船橋駅構内の寿司屋で働く若い男、犯行時刻は三日後の夕暮れ時。
 現場となるのは駅の脇にある飲み屋が連なった吹き溜まりのような路地だ。
 この辺りは朝から晩まで人の目が絶えない、つまり深夜の内に型にはめちまえって事だ。
 任務内容の説明は以上、ここまでで何か質問は?」
「質問は、じゃないだろう」

風の強く吹く屋上。
人気の無い授業中を狙ったのであろう、白い陽射しが瞼を透過する午前の一時。
急に呼び出された挙句に怒涛の任務説明をぶつけられた事が不満なのか、銀誓館学園高等部二年の藤咲神威は、鋭い眼差しでもって眼前の男を睨み付けた。
自称、綿貫雅蔭。
自称、運命予報士。
能力者としての直感も去る事ながら、まずは彼が口にした言葉に対する『理』の部分に信用がおけないと、神威は心の中で警戒の色を強くした。

「話を聞く限りでは、それは人間の仕業だろう。 凶悪犯の退治は警察の仕事だ。 俺たち【能力者】が狩り出される筋合いが何処にある」
「全くだ。 愚昧な官憲の尻拭いなら断らせてもらおう。 私はそこまで暇ではない」

神威と共に呼び出されていた黒髪の少女、水里流も同様の見解を口にした。
その口調はどこまでも冷たく、その視線は恐ろしく醒めている。
それは幼馴染である神威ですら、隣で聞いていて「こりゃ手厳しい」と思ってしまうぐらいであった。
だが、そんな流の態度にも、綿貫は一向に動じなかった。
それどころかむしろ、挑発するような言葉で切り替えしてきた。

「ゴーストの仕業かそうでないかは、霊媒師であるキミが判断するべきだ。 違うかい?」
「なるほど、運命予報士と言う肩書きは飾りなのか?」
「起こり得る事件についての情報は与えたはずだ」
「あんな穴だらけの情報でよくも胸を張れるものだな。 私を便利屋か何かと勘違いして――」

チリチリと青白い炎が見えたり見えなかったりするような遣り取りの最中、神威は天を仰いで大いに嘆息した。
しかし空が事のほか青く澄んでいたので、神威は再び地に眼を伏した。
神は天にいまし、全て世は事も”あり”。
迷える子羊を顧みず、自分だけ天上の座でのんびり茶菓子を喰っている神なんぞ、いっそ死んじゃえばいいんだと神威は思った。
そして信じてもいない神様の死を願う傍らで、神威はふと思いついた事を口に出していた。

「もしや、ハイ・スレイブ・オブ・リビングデッドか?」

ポツリと呟かれただけのその言葉は、喧々諤々な流と綿貫の言葉を断ち切り、場に静寂を齎した。
記憶の糸を手繰るかのようにして心許なく発せられただけのその言葉は、しかし流の心情を多いにかき乱した。
Hi-Slave。
高位意志従属型ゴースト。

「神威、それは…」
「朧な記憶だが、何処かで聞いた事がある。 脈動する肉体を持ち、暖かな血液をその身に流しながらも、ココロは既に狂気の辺縁に取り込まれているモノの事を」
「正解。 か、どうかはまだ不明だがな」

綿貫が思わせぶりに口を挟む。
流には、そのもったいぶった態度がどうしても不快で仕方なかった。

「口裂け女は当初、実在する人間の犯罪者として扱われていた。 丁度今から30年前、1978年当時の事だ。
 だが、度重なる犯行の軌跡や続々寄せられる目撃情報をいくら照合してみても、一向に『彼女』の足取りを警察は掴む事が出来なかった。
 あまりに異様な風体と犯行手口から、民衆は徐々にこの奇怪な事件を『都市伝説』、つまり『実際には起こり得ないただの噂話だ』として精神の均衡を保つ事にした。
 かくして事件は闇に葬られ、人々はこれをただの噂話だと認識し、これを実際にあった事件だと口にする事は殆ど禁句(タブー )扱いにまでされてしまった。
 だがもし、もしもの話と仮定してだが――事件の犯人が実在していた人間だったとしたら、どうなる?
 自分はちゃんとこの世界にいるのに、世界の全てが自分の存在を『単なる噂』としてしか認識してくれなかったとしたら?」

問いの形式を取っておきながら、綿貫の口調は『答え』を求めてはいなかった。
神威は単純に理解不能なので口を閉ざし、流は『お前の態度が気に喰わない』と云う一点でこれまた口を開かなかった。
こんなにも雰囲気の悪い任務依頼の情景など、他の能力者が見たら内戦の一種であると勘違いしてしまうに違いない。
しかし、綿貫は動じなかった。
この張り詰めた空気が自分を阻害する類のモノであると確実に把握しておきながらも、態度も口調も一片たりとて改めなかった。
それを不遜と取るか信念の賜物であると感じるかは、人それぞれである。

「人が、自分の存在を確かめる方法は二つしかない。
 一つは他者を傷付ける事、そしてもう一つは自分で自分を傷付ける事だ。
 自分が痛いのは誰だって御免だ。
 いや、ひょっとしたら『彼女』の口が裂けているのは『それ』を試した末の事なのかも知れないが、それはさて置き。
 『彼女』は、人を殺してみた。
 だがそれでも、世界は『彼女』を見止めてくれなかった。
 私は何処?
 ワタシは誰?
 ワタシハ…ナニ?
 自我境界線の喪失に迷える魂に対して、数百、数千万の声はこう答えた。
 一つ一つの声に明確な力は無くても、束ね束ねて編み上げられた集団の総意は、圧倒的な呪術的縛鎖となって彼女の身体に降りかかった。
 あいつは赤いコートを着ている。
 あいつは長い黒髪を垂れ流している。
 あいつは口が耳まで裂けている――アイツは、口裂け女だ、と」

流も、神威も、表面上の戦闘能力こそ周囲と大差は無いが、潜在能力的には非常に将来が有望視されている人物である。
だからこそ、綿貫雅蔭の口にした事件の推移に、反論を差し挟む糸口が見つけられなかった。
優れた術者だからこそ、人の念の強さを知っている。
ましてそれが邪な意図を介在させない純粋な『願い』の類で、しかも数千万単位の人間が同時期に同様の念として『それ』を抱いてしまっていたのだとしたら。
ありえない話ではない。
人が、人を、生きたまま化物に変容させてしまう事ですら、決してありえない話とは言い切れなかった。
ハイ・スレイブ・オブ・リビングデッド。
より高位の概念により精神を隷属させられ、本当の意味で『生きながらに死んでいるモノ』。
扱いに困ると言った意味では、単純なリビングデッドの比ではなかった。

「対象の武器は鋭利な刃物。 最も広域に流布した噂の形状としては、どうやら鎌を用いているらしい。
 遠距離武器を携帯していたと言う噂は耳にした事がないから、心配しなくてもいいだろう。
 ただ、口裂け女は100mを3秒、時速換算すれば120kmオーバーで動き回れる敏捷性を持っているらしい。
 この脚力を活かせばエアライダー以上の機動性を確保できるだろうし、その気になれば遠距離射程から一気に接近して直接攻撃を仕掛けられかねないぞ」
「待て」
「ん?」

再び始められた任務内容の説明に、流が口を挟む。
幾許かの納得を経た上であるとは言え、その口調はやはり冷徹な物であった。

「さっきから聞いていれば『らしい』だの、噂だの。 口にするのは確たる情報だけにしてほしいのだが」
「しょうがないだろ。 コイツは噂によって作り出されたモノだ。 つまり、噂として流された全ての言の葉が『彼女』の能力の限界値と言っても過言じゃない」
「……そうか。 なら、続けてくれ」

不承不承、と言った体で先を促す流。
やはりどうにも綿貫の事が気に食わなくて仕方がない様だった。

「了解、説明を続ける。
 口裂け女は三人姉妹だったと言う噂もある。
 これは100km以上離れた場所で同時に目撃情報が上がった事から発生した噂らしいが、その後の尾ひれによって確定的と言えるほどにまで浸透している。
 姉妹ならではのコンビネーションも抜群なようだから、相対する時は充分な注意が必要だろう。
 総じて、相手の特殊な能力は異常な脚力のみ、攻撃方法は直接近接のみだが、何しろ刃物が相手だ、油断はするな。
 嫌いな物はポマード、好きな食べ物はベッコウ飴……ああ、これは別に無視しても構わないな。
 以上だ、健闘を祈る」
「待て」

説明を終えて帰ろうとする綿貫の肩を、神威がガシッと掴む。
綿貫が「またか」と言わんばかりのしかめ面を見せたのは、恐らく気のせいではなかっただろう。

「俺たち以外のメンバーは何処にいる」
「ん、今回の任務はお前等二人だけの編成だ」
「馬鹿を言うな。 どんな低級ゴーストだろうと、最低八人が討伐の基本単位だろう」
「討伐の相手がゴーストなら、だろ?」

綿貫雅蔭の言葉に、神威が低く唸った。
そう、今回の任務内容は、この段階になってすら未だ不確定のままなのである。

「俺の目に映ったビジョンは、『JR船橋駅脇の雑多な路地裏で女が男を惨殺する』、だ。
 それ以上でもそれ以下でもない。
 ひょっとしたら頭のおかしいただの人間の犯行かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 そしてもし『そうじゃなかった』場合、平和な街に最低八人分の詠唱銀が持ち込まれ、その余波を振りまくだけ振りまいて帰ってくるって事態になる訳だ。
 それじゃあ意味が無い。 銀誓館の立つ瀬が無い。 厄災の種を植えてそれが充分育った頃に狩りに行くだなんて、まるで出来の悪いマッチポンプだからな。
 だからこそ、『眼』のお嬢さんと『腕』のアンタって言うツーマンセルなんだ。
 状況によって任務内容は逐次変化するが、アンタ等がそれに対応できない愚図だとは思っていない。
 ゴーストなら殺せ。
 『人』なら捨て置け。
 人数は最小限、効果は最大限ってな。
 『月下の戦姫』と『暁の修羅』の異名持ちがコンビを組んでるって事は、黄昏から明け方にかけては無敵なんだろう?
 それじゃ、30年ぶりに甦りし現代日本の闇ってヤツを見事に打ち砕いてきてくれ」

そう言うと綿貫は、今度こそ自分の役目は終わったと言わんばかりにその場を後にした。
残された二人の間に漂う空気は、お世辞にも愉快とか痛快とかの言葉で表される類の物ではなかった。

「……私は、あの男が好きではない」
「好き嫌いで仕事をする訳でもないだろう?」

言葉の上ではたしなめ、しかし態度では明らかに流の感情を肯定する神威。
基本的に他人に関心の薄い流が感情を表に出すなど珍しいと思いつつ、しかし神威はそれを口に出す事はしなかった。
ともあれ。
銀誓館に通う幼馴染二人はこうして、今までに類を見ない奇怪な事件を請け負う事となったのだった。