四月二十三日、水曜日
午後五時四十五分
南関東千葉県船橋市、船橋駅近郊にて

「ここが死体発見現場だな」

綿貫雅蔭から不可解な依頼を受けた翌日。
藤咲神威と水里流の二人は、『口裂き事件』のあった千葉県船橋市に到着していた。
ちなみに移動手段は電車であったが、神威が自動改札に行く手を阻まれて立ち往生していたのは、二人だけの秘密であった。
ゴースト討伐に携わる者として長距離の移動は半ば生業(なりわい)のような物なのだが、それとこれとは話が別だったらしい。
「スイカ(Suica)とは食べ物の名だとばかり思っていた」とは、首を傾げながらの神威の弁であった。

千葉県船橋市。
関東地方、千葉県の北西部に位置する船橋市は、人口五十八万人を誇る全国有数の都市である。
市を代表する樹木は山茶花(さざんか)、市を象徴する花は向日葵とカザグルマ。
東京のベッドタウンとして空洞化した人口を密かに抱えるこの街は、中心部以外では夕暮れ時になると極端に人の姿が見えなくなる。
人の姿があったとしてもまた、それは互いの顔すら認識し合わずに擦れ違うだけの、虚ろな肉の容器でしかなかった。

労働者は電車と言う箱の中。
主婦は団地と言う箱の中。
子供は自室と言う箱の中。
誰も彼もが四角い檻の中に閉じ込められたその隙間を縫うように、ヒトにあらざるモノが黄昏の街を悠々自適に蠢き回る。
あまりにも容易にその光景を思い浮かべる事ができた流は、『街』と言う人口の密集地帯に対して驚くほどの恐怖心を覚えた。
自分以外の全てが『ソレ』であった時の事を考えて、背筋が凍るような思いを抱いた。
そして同時に、自分の隣に立っているのが無条件に信頼できる幼馴染の神威である事に、心の底から安堵した。

「では始めよう。 神威、周囲の警戒を」
「了解」

前衛担当である神威の守護の元、霊媒師である流の本業能力、『断末魔の瞳』が発動される。
ゴーストに人が殺された場合にのみ発動可能なこの能力は、被害者が最後に網膜に焼き付けた映像をダイレクトに共有する事ができる。
逆に、流の精神が被害者の断末魔を感知する事ができなければ、『これはゴースト事件ではない』と言う結論に達する事ができるのである。
不確定情報ばかりの胡散臭いこの事件において、まずは追っている対象がゴーストか否かの判別だけはしておく必要がある。
通常であればこうして事件現場にノコノコと面を出す事自体が既に危険極まりない行為なのだが、そこはそれ、背に腹は代えられないと言うヤツであった。
まったくもって難儀な仕事であると、神威は周囲を警戒しながら一人ごちた。

「……赤い…コート……黒い髪……マスク……っ!!」
「見えたのか?」
「……ああ……鮮明に見えた。 間違いなくゴーストの仕業だ」

吐き捨てるように呟く流の表情は、いつになく厳しい色で染め上げられていた。
『断末魔の瞳』に限らず、人間がある種の映像を認識する時、必要とされるのは『眼』ではなく『脳』である。
究極的に言えば、網膜や水晶体などと言った入力端末など存在しなくても外部情報の取得は可能であり、まさにその一例こそが『断末魔の瞳』による映像再生であった。
能力名こそ『瞳』と言う文字を用いているが、実際の所は『現場に堆積している生命の残滓を自らの精神に取り込んで情報を共有している』と言うのがが正解であり、そこには視神経とか眼底視野とかが介在する余地は欠片も無い。
つまり、流はこの能力の発動と同時に『擬似的な死』を精神に刻まれているのであり、それは言わば『幾度も死を体験している』と表現しても過言ではない事柄であった。
その精神的な疲弊度は、霊媒師以外の能力者ではとても分かち合えないほど過酷なものである。
だが、それを知っていてもなお、神威は流の青ざめた表情に微細な違和を感じていた。
何故なら、これまで数限りないゴースト事件に関与してきた中で、流がそんな顔をした事は今まで一度もなかったからである。
水里流は、見た目にはか弱い女の子である。
しかし神威の知っている水里流とは、いかに凄惨なゴースト事件であろうとも、眉根をひそめる程度で片付けてしまう強さを持った少女でもあるはずだった。

「一体、何が見えたのだ?」
「……人だ」
「ひと?」
「リビング・デッドなんて生易しいモノではない。 『アレ』は紛う事無く人間だ。 其処彼処に溢れている、何の変哲も無い人間の中の一人が『アレ』なのだ……!」

どうにも要領を得ない、と神威は思った。
流が口にした「アレ」とは恐らく、今回の事件の主犯である『口裂け女』の事なのだろう。
だが、判らない。
ここ船橋で起こった『口裂き事件』が人間の仕業だとしたら、『断末魔の瞳』では何も感知する事ができないはずなのだ。
感知できたと言うのであれば、これはゴースト事件に間違いないはずである。
だのに流はその『瞳』に映った犯人を指して、「アレは人間だ」と強張った顔で主張する。
あまり難しい事を考えるのが得意ではない神威は、どうにも概要把握が面倒になってきたので、状況を大雑把に二分割する事にした。

「情報を整理しよう。 敵はゴーストか? それとも人間なのか?」
「……ゴーストだ。 私の『眼』に断末魔が映った以上、そうと捉えるべきなのだろう」
「なら、俺はソイツを倒してしまっても構わないのだな?」
「……構わない」

歯切れは悪いが、兎にも角にも交戦の了承は得た。
思考回路までが根っからの前衛戦闘職である神威は、ようやっとの事で胸のつかえが解消された気分になっていた。
何しろ刹那の判断を二重三重に求められる前衛職にとって、精神に迷いを抱いたままの戦闘は即座に死に繋がる。
無論、後方支援の流にも迷いを捨て去ってもらわねば困るのだが、それが自分の口出しできる管轄ではない事を、神威は昔からの経験でよく知っていた。
だから今回の場合でも、流の浮かない表情に関して言及する事はしなかった。
この判断が正しいか否かは、今の段階ではまだ判らなかった。

「では、ゴーストの外見を教えてくれ。 できるだけ詳しく」
「その前に、いったん此処を離れよう……どこで『奴』に見られているかも判らない」

有無を言わせぬ口調で踵を返す流。
妙に性急な足取りで現場を離れる華奢な背中を追いながら、神威はこの事件が一筋縄ではいかなさそうであると感じていた。