同日
午後六時
JR船橋駅構内にて

身長は160cm前後。
性別は女。
肩より少し長い程度の黒髪。
痩身で肩幅は小さめ。
赤いコートに黒のローファー、中に着ている服までは不明。
目鼻立ちは整っているが、口元は大きなマスクで覆われている。
そして、そのマスクを外した下に潜んでいるのは――

「口の両端が、耳まで届くほど大きく裂けていた。 なるほど、『口裂け女』とはよく言ったものだ。 あれでは他に形容の仕様がない」

ずずいと粉末の緑茶を飲みながら、今しがたビジョンとして視た『口裂け女』の風体を口頭で伝える流。
事件現場を離れて多少は心が安らいだのだろうか、その口振りは普段よりも多少饒舌になっていた。

今の二人が居る場所は、JR船橋駅構内、回転寿司店『播磨灘』の店内である。
カウンターの中では二日後に惨殺される予定の寿司職人が、何も知らない呑気な顔で稲荷寿司を作っていた。
知らぬが仏とは、よく言ったものである。

「古い文献に拠れば、『口裂け』とは狐狗狸(こくり)憑きの異名でもあるそうだ。 もしやあの男は、自分の運命に引きずられて稲荷寿司を作っているのかも知れぬな」
「……すまん、『こくり』とは何だ?」
「低級の動物霊の総称だ。 狐、狗、狸でこ、く、り。 人間に憑依して悪さを働くしか能がないが、それでも普通の人間にとっては充分に恐怖の対象となる代物だ」

厳密に言えば、稲荷信仰におけるお狐様と雑霊である狐狗狸(野狐の類)を同列に扱うのはとんでもない間違いである。
無論、流はその辺の知識をしっかり把握した上で狐同士を絡ませる言葉遊びしているのだが、どうやら神威には話の前提事態が通じなかったらしい。
どうにもこの幼馴染は、名立たる霊媒師の分家と言う身分に生まれ着いておきながら、そっち方面の知識が空っきしである。
学園に帰ったら耳を引っ張って図書館に連行してやろうと思いつつ、流は話の軸を元の『口裂け女』に戻す事にした。

「私が見たビジョンでは、『奴』は完全に人間としての体を保っていた。 この『眼』で確認した今でも、あれがゴーストだとは思えない」
「リビング・デッドとはそう云うモノだろう? 生きている人間の様に振舞う擬態は、奴等の習性のような物だと学園では教わったが」
「そんなレベルではないんだ。 例えば、私の斜向かいに座っている女だ。 神威にはあれが、ゴーストに見えるか?」
「見えないな」
「当然だな、私にもそうは見えない。 疑いすら持てない。 仮に彼女が『ソレ』だったとしても、恐らく首を掴まれて口を大きく切り裂かれるまで、私はゴーストだと気付けないだろう」
「……そこまでか?」
「そこまでだ」
「……厄介だな」
「厄介だ。 厄介極まりない」

溜息を吐き、渋い表情を見せる流。
『外見では判断できない敵性固体をいかにして判別するか』と言う問題は、彼女の頭脳を多いに疲弊させる要因となっていた。
まさか似たような風体の女性を手当たり次第に攻撃する訳にもいくまい。
かと言って刃物を武器とする相手に一定距離以上の接近を許せば、こちらの命がデンジャラスである。
先手は絶対に譲れない。
少なくとも『彼女』と対峙する瞬間までには、覚悟を完了させておく必要がある。
今から攻撃を仕掛ける相手は紛れもないゴーストであり、殺傷までをも視野に入れた渾身の一撃を叩き込んで良い相手だと言う、その確証を得ておく必要があるのだった。

「しかし、赤いコートに大きなマスクだろう? 外見的判断要素として見れば、決して小さくはない特徴だと思うのだが」

なるほど確かに、神威の言葉は正鵠を得ていた。
ここが日本ではなく、季節が春ではなく、神威がファッションなどに気を遣う人間であったならば、その主張は大いに評価されるべき正論だっただろう。
だが。

「今年の春のトレンドは、赤いコートだそうだ」
「春の…トレード?」

はて、口裂け女と野球に何の関係があるのだろう。
非常に残念な事ながら、神威は本気でそう思っていた。
今年も巨人の金銭トレードは目に余る、そんな感じの事までも。

「ト、レ、ン、ド。 流行と言ってもいい。 ためしに外のロータリーを歩いてみろ。 赤いコートの女だらけで辟易するぞ」
「……流行っているのか?」
「猫も杓子もだ」
「……」
「ん? どうした?」
「いや、猫も杓子も着ているのに、お前は赤いコートを着ないのだなと思ってな」
「……私には暖色の服など似合わない」
「そうか? そんな事もないと思うが――」
「ぇ、ええい、うるさい! 私にコートが似合うとか似合わないとか、そんな事は今はどうでも良いだろう!」

すわ、何を怒っているのだこの幼馴染は。
僅かに頬を赤くしながらテーブルをぺしぺしと叩き、俄かに声を荒げる流の姿に、神威は「これ以上余計な事は言わないでおこう」と心に誓った。
多分恐らく五分以内にケロッと忘れてしまうだろうが、それでも一応心に誓った。

「では、コートで見分ける事は不可能だとしよう。 だがマスクはどうだ? こちらの特徴なら――」
「神威」
「おう?」
「花粉症、と云う言葉を耳にした事はないか?」

花粉症。
それは現代人の頭を悩ませる、春風の贈り物。
スギ花粉などにより体内のレセプターが過剰反応を起こし、花粉排出のためにくしゃみや鼻水を総動員させる、非常に厄介なアレルギーの一種。
頭の中で知識だけをもにゅもにゅと復唱し、神威は得意満面に「知っている」と答えた。
その結果、答える前よりも更に呆れた様な目で見られる事となった。
神威は思った、コレは何事だ。

「お前はもう少し、その、なんだ、視野を広げて生きた方がいい」
「む、これでも視力は良い方なんだが」

真面目な顔で言う神威を前にして、流のこめかみを鈍い痛みが駆け抜けた。
決めた、この事件が終わったら絶対にお説教だ。
固い決意を胸に秘め、流は努めて冷静に先を続ける事にした。

「面倒になってきたから結論だけ言おう。 外には花粉症対策のマスクをした人間が大勢歩いていて、既に特徴とも言えない状況になっていると云う事だ」

初めから結論だけを言ってくれればいいのに。
思うだけにして声にしなかった神威は、前衛戦闘職として非常に優れた危機回避能力を持っているらしかった。
もしもその言葉を口に出していたならば、今回の任務における最初の被害報告は、『神威が寿司屋で幼馴染に殴られた』になってしまうところだっただろう。
外にはマスクをした人がいっぱい居る。
神威、覚えた。

「赤いコートも、大きなマスクも、少なくともここ千葉県船橋市においては目立った外見的特徴とは呼べない。 だから私は先程から頭を抱えているのだ」
「なるほど、確かにそいつは厄介だな」
「これが普通のリビング・デッドなら問題はなかったのだが……」

『普通』のリビング・デッド。
いわゆる『ナイトウォーカー』と呼ばれる類のリビング・デッドであれば、その正体の看破は実に容易い事柄であった。
神威であれば自身の攻撃半径に相手が踏み込んだ瞬間、流に至っては対象を肉眼で確認した段階で、ゴーストか否かを見抜く事が可能である。
判別要素は漠然と、その者が纏う空気に入り込んだ微細な違和だとか、ふとした時の表情筋の動きがぎこちないだとか。
一つ一つを論(あげつら)えば塵芥にも等しい違和感だが、彼等が息をしている『日常』と呼ばれる空間は、その紙一重を察知できるかできないかで生死が決まる世界なのであった。
職業固有のアビリティとか生まれながらの特殊能力とかに依存したモノではなく、生き抜くための必然として彼らが習得していく、最初にして最強のレアスキル。
究極のところ、能力者としての生存能力の高さとは、この『危機感知能力』の高さと等式で結ばれる事となる。
逸早(いちはや)く敵の存在を察知する能力に比べれば、攻撃力や機動力なんてステータスは、言ってしまえばゴミにも等しい価値しか持っていないのであった。

「なあ、流」
「ん?」
「この依頼、妙だとは思わないか?」
「何を今更」

「キミは本当に馬鹿だな」とでも言わんばかりの勢いで、流が会話をぶった切る。
別に今さっき気付いたと言う訳でもないのだけれど、神威はあえて流の発言をスルーする事にした。
罵倒される事に慣れ過ぎているとか、呆れられる事は日常茶飯事だとか、そんな情けない理由も勿論幾許かは存在しているのだが。
それ以上に今は、自己弁護に費やす僅かな時間ですら千金に値すると判断した上での事だった。

「運命予報士の能力は、『世界結界による理の歪みを感知する』と言う、ただそれだけのはずだ」
「……そうだな」
「だがあの男、確か綿貫とか言ったな。 あの男は確かにこう言った。 『ひょっとしたら頭のおかしいただの人間の犯行かもしれないし、そうじゃないかもしれない』、と」

そう、よくよく考えれば前提からしておかしな話だった。
運命予報士が感知できるのは『人が死ぬ』と言う事柄ではなく、それの事件に『世界結界が干渉したか否か』と言う事柄である。
そして世界結界が干渉する必要性のある事件とは、ゴースト由来の物に限られる。
つまり運命予報士が何らかの異変を感知した時点で、それは問答無用でゴースト被害だと断定できるはずなのであった。

だが、綿貫雅蔭はそれを断言する事はしなかった。
そればかりか、人的災害であるやもしれないと言う偽りまでをも口にした。
これは、神威や流の通う銀誓館における『常識』の範囲内では、まったく想定のできない事態であった。

『運命予報士とは、無条件に能力者を手助けする存在である』

誰も彼もがこの曖昧なルールを妄信しており、そこに疑いを差し挟む事さえしない。
運命予報氏は全て善性の人間であり、能力者は全て彼らから全幅の信頼を賜っており、嘘の情報を教えられる事なんて天地が逆さになってもありえないと信じきっている。
命を賭してゴーストと戦う事を『日常』と定めた能力者たちにとって、この注意力の欠如はあまりにも愚鈍であると言わざるをえなかった。
苛烈な任務に身を窶す戦士達に休息を齎す、『学園』と言う名の庇護の檻。
外部に対しては強固なる盾の役割を持つこの施設は、しかしその内側に居る者に対しては、未熟なる精神を堕落の方向へと引き寄せる役割をも同時に果たしていた。

神威と流がその範疇に収まり切らなかった事は、果たして幸運な事だったのだろうか。
そしてまた、彼らが『運命予報士を疑う』と言う結論に達した事は、『綿貫がそもそも胡散臭かった』と言う偶然の産物によるものだったのだろうか。
世界は今日も何も語らず、時は静かに流れていくのみだった。

「お前の『眼』でも確認した以上、今回の件は間違いなくゴーストの仕業だろう。 だとすればやはり、あの男は俺達を騙したのだと云う事になる」
「だが、メリットがないな」
「……む?」
「人が人を騙す時、そこには何か理由があって然るべきだ。 誰も利する事のない嘘など、余程破滅的な思考を持っている人間でなければ吐こうとしないだろう」
「あの綿貫と言う男が、破滅的な思考の持ち主だったとしたら?」
「ありえない。 アレは私が最も嫌いなタイプの人間、つまり自分の損得勘定でしか動かないような人間だ」
「なら、俺たちを騙す事で奴が手にする利益とは一体?」
「そんなもの、私が判る訳ないだろう。 霊媒師とエスパーを一緒にするな」

またしても会話をバッサリ切り捨てられる。
しかし神威は少しも凹んだりしない。
これを『根性がある』と取るか『イヌ属性である』と受け取るかは、各個人の自由である。

「いずれにせよ、今の私達がするべきなのは、あの男が嘘を吐いているかどうかを暴く事ではない」
「まさか流、このまま任務を続行する気か?」
「何か問題が?」

大有りだ。
叫び出しそうになるのをようやっとの事で堪えて、神威は冷静に言葉を選んだ。

「相手がゴーストだと確認できた以上、二人きりで討伐に当たるのは危険だ」
「……それは私が頼りないと?」

しかし選びに選んだはずの言葉は、見事なまでに流の変なスイッチを押してしまったみたいだった。

「ち、違う。 これまでの経験則から導き出した一般論だ」
「背中を預かるのが私ではそんなに不安だと?」
「そ、そう言う訳ではなくだな――」
「そんなに……私と二人きりは嫌か?」

卑怯だ、と神威は思った。
普段なら絶対にそんな事は言わないじゃないか、とも神威は思った。
どうせこれは負けん気の強さに端を発した、流なりの権謀術数に違いない。
『運命予報士に謀れた上に援軍を要請しなければ事態を収拾させられないのか』と言う、居もしない誰かが囁く言葉への敵愾心に違いない。
感情に流されてはダメだ。
戦場において冷静な判断力の欠如は死を招く。
例え長年のパートナーである流が今まで目にした事のないくらい可愛げな仕草と脳髄までとろける様な甘い声音で他者の介入を拒んだとしても――

「イヤ……か?」
「……別に……嫌と言う訳ではない」
「よし、言質は取った。 これ以降、今の話を蒸し返すのは禁止だからな」

至極あっさりと『二人きりがいいよぅ…』な仮面を脱ぎ捨てて、いつもの涼しげな態度に戻る流。
あまりに清々しいまでの豹変っぷりに、神威は鈍い頭痛を覚えながら自虐も含めて小さく呟いた。
女は、魔物だ。

(いい加減、一皿ぐらい手に取ってくれないだろうか)

二日後に惨殺される予定の寿司職人は、難しい顔で相談を続ける一組の男女を見ながらそう思っていた。