同日
午前一時十分
東横イン船橋3F、ツインルーム内にて


「さて流。 さっきのはどう云う事だか、一から説明してもらおうか?」
「ん?」

任務中の宿として学園側が手配してくれた、事件現場に程近いビジネスホテルの一室。
室内に入ってドアの鍵を閉めるや否や、神威は険しい顔つきで流に詰め寄った。
一応は追跡者の有無を確認してから話に入りたかったのだろうが、それにしたって忙しない事この上ない。
せめてシャワーでも浴びて疲れを癒してからでも良いのにと、せっかちな幼馴染を見ながら流はそう思った。

「草薙を仲間に加えようとした事だ。 それに、先程の不自然なほど尊大な態度も解せない。 そもそもあの女に任務内容を教えた事だって――」
「わかった、分かったから少し落ち着け、な。 ちょ、かむ、ちかっ、ああもう、顔が近いと云うのに!」

様々な「納得いかない」が積み重なってパンク寸前の神威が、涼しい顔をした流に鼻息も荒く強引に押し迫る。
対する流は多少戸惑いながらも、それを寸での所で明後日の方向にいなす。
まるで芸者遊びの様なその光景は、仮にも年頃の男女が密室の片隅で繰り広げる展開としては、いささか教育に宜しくないような絵格好であった。
もっとも、この二人にそのような展開を期待するのは時間の無駄と云う物なのだが、それはさておき。

「一問一答だ、神威。 そうでなくては私は何も話さないぞ」
「む……」

ベッドの上にちょこんと座り、取り乱した先程を恥じるかの様に毅然とした態度を見せる流。
対する神威もそれに釣られたのか、落ち着いた佇まいを取り戻してその場に座り込んだ。
ちなみにこの場合の『その場』とは床の事なのだが、何故に神威がベッドではなく床に腰を落ち着けたのかは、誰にも判らなかった。

「では、第一の質問をしよう。 あの女……草薙を仲間に引き入れようとしたのは、一体何故だ?」
「仲間にしようとした覚えなど、ない」
「……は?」

一問一答のはずなのに、早くも理解不能だった。

「待て待て待て、流。 お前は確かに先程、草薙を仲間にしようとしていたではないか」
「変な事を言うな。 『ゴースト討伐に関われ』とは言ったが、『仲間になれ』等とは一言も口にしていない」
「だが、協力者になれと言っていただろう」
「ゴースト討伐任務を成功させる為の協力者にはなってもらうつもりだが、草薙にゴースト討伐をしてもらう気は欠片もない」

仲間にするつもりなどない。
だが、討伐任務には協力してもらう気でいる。
しかしだからと言って、彼女に討伐自体をしてもらうつもりはない。
流の言っているのは、つまりそう云う事だった。

「……駄目だ、さっぱり判らん」
「ん……そんなに難しい事を言っているつもりはないのだが」
「物は試しだ。 ちょっと結論から言ってみてはくれないか?」
「あの女は恐らく、口裂け女だ」

あまりにも唐突に告げられた衝撃的な結論に、神威の思考回路は再びショートした。

「あー……すまん。 俺が悪かった。 頼むから、順序良く説明してくれ」
「だから一問一答でいこうと言ったのだ」

心底呆れたような流の溜息が、動きの少ない室内の空気を穏やかに揺らした。
二人分の吐息しか音のない空間の中で、それは不思議と優しい残響となって暫く留まっていた。
もっとも、神威の心にだけは大分優しくなかったのだが――

「草薙が口裂け女だと?」
「確信はないが、疑ってはいる」
「根拠は?」
「三つばかり」
「全て聞かせてくれ」
「うむ」

そう言うと流は、息を大きく吸い込んだ。

「運命予報士の真意がどうであれ、ここ船橋で奇怪な殺人事件が起こったのは事実。
 その被害者が最後に見た光景が、『口の大きく裂けた女の顔面である』と云うのも事実。
 そして私の『眼』がそれを視た以上、この口の大きく裂けた女がゴーストであると云うのも動かしがたい事実だ。
 赤いコート、白く大きなマスク、肩口より少し長い黒髪、痩身。
 私が視たビジョンはお前にも伝えていたはずだが、最後にもう一つだけ付け加えておく事があったな。
 犯人像を狭めるかもしれないと云う理由で口にしていなかったが、草薙と出会って確信したよ……」

あの時。
『断末魔の瞳』で、擬似的な死を自分の中に迎え入れた瞬間。
流の視界一杯に広がっていたのは、怖気のするような赤黒い肉の裂け目だった。
耳まで開いた口がゲタゲタと哂い、狂った瞳が自分を凝視している。
常識の範疇に収まりきらない異形の体に、生理的な嫌悪感すら覚える。
だが、何よりも流の精神をぐちゃぐちゃに揺さぶったのは、『それ』が紛れもなく『人間』の仕業であったと云う事であった。
喉元に触れていた手の温もりも、裂けた口から零れ落ちる吐息も。
目の前にある肌の瑞々しさも、頬にさらさらと降りかかる髪の滑らかさも、それは間違いなく『生きている人間』の物であった。

ゴーストが人を殺すのは、普通の事。
能力者がゴーストを屠る事も、自分が生きている世界の中では普通の事。
しかし人間が人間を殺すと云う行為に関しては、流が今までに経験した事のない圧倒的な『禁忌』足る代物であった。
存在の根源から否定されるような気がした。
ヒトが為し得る行為の中で、最もしてはならない行為だと直感した。
背後にゴーストの存在があると判っていてもなお、それは全身から血の気が引くぐらい気分の悪い『経験』だった。
何故なら、自分が視たビジョンに映っていた存在とは。
目の前で醜悪な裂け目を存分にひけらかしていた存在とは、本来であれば自分達が庇護して然るべき――

「口裂け女は、中学生くらいの女だった。 まだ面立ちに幼さを残した、本来であれば無邪気に笑っていられるような、中学生の女の娘だったんだ」
「……断言できるのか?」
「同性の目から見れば、髪や肌の質感で大体の所は予測できる」
「しかしそれならば――」
「まあ待て、まだ話は途中だ。 脇道に逸れてばかりでは、先に進まないだろう」

それもそうだと、神威は納得して口を閉ざした。
何しろ今の段階ですら、『どうして草薙をゴースト討伐に引き込んだのか』と云う問いから派生した、『どうして草薙を口裂け女だと思っているのか』と云う説明の途中なのである。
これ以上の分岐は恐らく、自分の思考回路の処理限界を超えるだろう。
分を弁える事は美徳であると偉い人が言っていたような気がするので、神威は沈黙で先を促す事にした。
その意を汲み取り、流は続きを口にし始めた。

「口裂け女の外見を把握する事に成功した私達は、次に網を張る事にしたな。
 二日後に事件が起こるとされている現場での、手当たり次第の尋問のような物だ。
 神威には悪いが、正直に言えばあんな手段で口裂け女に遭遇できるとは思っていなかった。
 だってそうだろう?
 口裂け女が現れるとすれば、それは即ち次の被害者が出る事と等式で結ばれるはずだ。
 しかし運命予報士は、そんな未来を予言してはいない。
 次の被害者が出るのが二日後の夕暮れ時である以上、口裂け女もまた二日後の夕暮れ時まで姿を見せるはずがない。
 だから、あれは半ば『未来の事件現場の空気の中で思考に臨みたい』と考えていた、私の咄嗟の方便だったんだ」

な、なんだってー!?
涼しげな顔で「アレは嘘でした」と言う流に、抗議の意を込めて叫び出しそうになったのを、神威は鋼鉄の精神力で押し留めた。
こうして彼の忍耐力は、日々向上を続けているのである。

「実際、口裂け女は現れなかった。
 十九回も『王者の風』を発動させて済まなかったが、収穫ゼロと云うのも、アレはアレで私の想定の範囲内だったんだ。
 後はホテルに戻り、明日以降の対策を考え、必要ならば前言撤回も止むなしで学園に援軍を要請するつもりで、今日一日の作戦行動を終わりにしようとしていた」

恐らく嘘ではないだろう。
神威は正直にそう思った。
多分に負けず嫌いの気が強い流ではあるが、何事かに意固地になって致命的なミスを犯した事例など、今までの任務においてただの一度も存在しないのである。
常に『最悪』を回避する一手を考えておき、例えばそれが不本意な手段であったならば、ギリギリまで自分が納得するやり方で貫き通す。
どうやっても事態に収拾をつけられそうにないのであれば、渋々ではあるが最後の一手を用い、全てを終わらせる。
まだ若干十六歳と言う年齢でありながら、自分の感情と物事の優先順位を自分の中で完全に分断して考える事のできる、流はそれだけ優秀な能力者だった。

だから今回のケースだって、いよいよとなったら流が他者の介入を認めるだろう事は、神威にも充分に判っていた。
それが流にとって不本意な決定になると判っているからこそ、神威は『そう』ならないように精一杯の尽力を果たした。
そしてだからこそ、流が唐突に桜を介入させた事が、神威にはどうしても理解できなかったのであった。
今はまだ切羽詰った最後の時でもなければ、彼女が全てを解決できるような万能の能力者だと云う訳でもない。
だのにそれまでの意向を全て破棄してまでも、流は桜を協力者に仕立て上げようとしている。
謎は、いまだに謎のままであった。

「だが、そんな時だ。
 何も得られなくて当然だと考えていた私の前に、『彼女』が現れた。
 赤いコート、白く大きなマスク、華奢な体躯、結ってこそいるが、解けば間違いなく肩口より少し長い程度の黒髪。
 そして何よりも、あの女はお前の『王者の風』を難なく擦り抜けて、まるで散歩でもしているかの様にこちらに歩いてきていたな」

流の言葉は間違ってはいない。
確かにあの時、全ての状況証拠は草薙桜を口裂け女として扱うように揃えられていた。
だが、『王者の風』が効力を示さなかったのは、彼女もまた自分たちと同じ能力者だったからだと云う理由で納得したはずだった。
制止の声に耳を貸さなかった件も、携帯型MP3プレーヤーで音楽を聴いていたからだと、本人の口から聞かせてもらって納得した。
赤いコートは流行ってるから着ていただけだと言っていた。
大きなマスクは花粉症対策だと言っていた。
中学生が黒髪である事は何も不思議ではないし、出るとこ出てない貧相な体躯に至っては言及する事すら困難であったが、総じて彼女に怪しい所なんて――

「全てが、胡散臭すぎる」
「……そうか?」
「私たちが運命予報士の依頼を受けてこの地に辿り着いたその日に。
 私たちが捜し求めている『口裂け女』と全く同様の風体をした女が。
 それも、ただの女じゃなくて能力者が、わざわざ向こうから歩いてきたんだぞ?」
「口裂け女と同じ風体をしていると云うのは何も珍しい事ではないと、寿司屋でお前が言っていたが」
「一般人を街中で見かける分には通用するが、『能力者』と『計ったようなタイミングでの登場』と云う条件が揃えば話は別だ」
「だが現に、あの女の口は裂けていなかった。 これはどう説明する?」
「今回のケースがハイ・スレイブの一環だとすれば、事は簡単だ」

ハイ・スレイブ・オブ・リビングデッド。
上位概念に精神を隷属させられた、リビング・デッドの亜種。
通常のリビング・デッドが『生ける屍』であるのに対し、ハイ・スレイブは『死せる生者』であると言われている。
そしてそれは、この任務に初期段階から付きまとっている様々な不可解要素を解き放つ鍵でもあった。

「要するに、お前の目の前で白いマスクを取り外そうとしたあの瞬間まで、草薙の口は大きく裂けていたんだ」
「なん…だと…?」
「あるいは逆かもしれないが、兎も角。 もしもあの時、私達が戦闘態勢を取らず、『彼女』に直前までの接近を許していたとしたら、きっとお前はこう訊かれていたはずだ」
「………」
「ワタシ、キレイ? とな」

怖気がした。
空調の整えられているホテルの一室であるはずなのに、背中に氷柱を押し付けられたような感覚が神威を襲った。
無意識の内に後ろを振り返り、そこに敵がいない事を確認してしまう。
勿論そこには誰も居なかったのだが、嫌な雰囲気だけはいつまでも神威の背後に残り続けた。

「偶然にも口裂け女と同じ格好をした能力者が現れたのではなく、口裂け女だからこそ赤いコートと大きなマスクをしていたのだと私は考えている」
「では音楽を聴いていたと言うのも?」
「恐らく、嘘だ。 音楽を聴いていようがいまいが、あの女はお前の声を無視して接近しようとしていただろう」

そう言えば綿貫の情報では、口裂け女は近接攻撃の手段しか持っていないはずだった。
それに、草薙があの場で見せたのは、重力無視に近い効果を得られるほど強力な風力制御の能力だった。
あの能力を持ってすれば、口裂け女の特異行動である『100mを3秒で駆ける』と云う機動性も確保できるだろう。
次々と組み合わさっていくパズルのピースが、今宵の情景を見事なまでに描き出していく。
それは何一つとして違和感を差し挟む余地のない、完璧な理論として構築されていった。

「草薙が口裂け女ではないかと疑った理由、まず第一段階はここまでだ」
「異常なまでのタイミングの良さ、不審なまでに一致している口裂け女との外見、加えて能力者であると云う最大に稀有な要因。 確かに、偶然とは思えないな」
「理解してくれて嬉しいぞ。 では、最初の質問の答えに戻ろうか」

最初の質問。
即ち、『草薙を仲間に引き入れようとしたのは何故か』と云う問い。
ここに至ればようやく、流石の神威にも流の言っていた事の意味が判りかけてきていた。
流は草薙を口裂け女ではないかと疑っているのだから、仲間にしようとなどするはずがない。
仲間になんかはしたくもないが――

「少なくとも、野放しにはしておきたくなかった。 奴が能力者だと言い張るのであれば、それを利用するまでだ」
「監視下に置く、と云う訳か?」
「何時如何なるタイミングで口裂け女に変貌するかもしれない要員を、街に解き放っておく訳にはいかないだろう」
「その割には随分な扱いだったな。 あのように挑発的な物言いでは、反発を買う危険性の方が高かったのではないか?」

神威の疑問その二。
桜をこちら側に引き込もうとしていた時の、不可解なほど横柄な態度。
しかし流はその反応を予測しきっていたかのように、平然と言い放つのであった。

「自分にメリットのない提案を、初対面の人間に上からの目線で突き付けられる。 それは、一体どれだけ不愉快な事柄なのだろうな」
「……まさか」
「当然、私ならそんな案件は論外だ。 心の中で相手を悪し様に罵り、軽蔑した視線を投げかけ、憤然と席を立つだろう」

ああ、確かにお前ならやりかねない。
神威は心の底からそう思った。
それを見透かしているかのように流がギロリと冷たい視線を叩きつけ、神威は急いで目を逸らした。
晩春とは言え、妙に肌寒い室内であった。

「だが、彼女は承諾したな。 不承不承の体は取りながらも、事件に関与すると云う立ち位置からは決して降りようとはしなかった」
「……確かに、あれは不可解だったな」

神威の脳裏に、マクドナルドでの一件が鮮やかに甦る。
それはポテトとナゲットを口腔内の許容限界ギリギリまで詰め込まれて、息も絶え絶えになりながらコーラを飲み干した次の瞬間の事だった。
難しい顔をしていた桜が一転、場違いなほど爽やかな笑顔で『ゴースト討伐への積極的協力』を快諾。
余りあるリスクと引き換えに、口裂け女に関する僅かばかりの情報を手に入れる事を選んだのだった。

「何か弱みを握られているとか誠心誠意頼み込まれたと云う訳でもなく、ましてあのような態度をとられていたと云うのに、ハイリスクノーリターンの選択をするとは」
「それは、私たちの視点からの見解だ」
「む?」
「少なくとも草薙にとっては、『口裂け女を討伐しようとしている組織の情報』と云うのは千金に値する代物だった。 素直に解釈すれば、あの態度はそう云う事になるだろう」

だからこそ、どんな態度を取られようとも情報にしがみ付いてきた。
だからこそ、『口裂け女に関わる人間の傍にいる』と云うポジションに居続けようとした。
普通の人間には、メリットとして認識されないその事項。
例え能力者であったとしても、リスクを背負い込むまでには至らない情報。
得なくてはいけないのは誰か。
それを手に入れる事を最大限に自分の利益とする事のできる存在とは、一体何者か。

「私は確信していたよ。 どんなに不利な条件を突きつけられようとも、草薙はこの事件の中心に程近い場所から決して離れようとしないだろう、と」
「それであの、近年稀に見る尊大な態度か」
「主導権はあくまで私たちが有しておくべきだ。 それとも神威、まさかあの女の指示の下で動きたかったのか?」

ホテルに戻ってから十数分。
ようやく戦場の空気から解放されたのか、流の口から軽い冗談が零れ落ちた。
怜悧な表情の裏に隠された、年齢相応の柔和な空気。
ごく親しい者にしか向けられる事のないそれは、神威にとって何よりも好ましい物の一つであった。

「さて、と。 神威、先にシャワー浴びるか?」
「いや、俺はこのまま寝る。 どうせ明日の朝にも一汗かく予定だし、今から浴びるのは少々めんど――」
「駄目だ。 お前はそう言ってきっと、明日の朝も面倒臭がるに違いない」
「こ、子供じゃないのだ、そんな事は――」
「ダ、メ、だ。 四の五の言わずに入らないと、私が手ずから洗い上げるぞ」

この幼馴染、本気で言っている!
瞳に宿る気配にただならぬ信念を感じた神威は、諸手を挙げて降参の意を示した。
満足げに頷いた流が「では順番はジャンケンで決めよう」と提案し、断ると云う選択肢のない神威がそれを承諾する。
結果的に二番手となった神威は、水の撥ねる音が薄く聞こえる室内で正座したまま、何でこんな事になっているのだろうと思った。
それは奇しくも小一時間ほど前に抱いた心境と、全く同じ物だった。

センセイ、幼馴染がよく判りません。