同日
午前五時十三分
同室内にて

遮光カーテンの隙間から、うっすらとした朝の気配が零れ落ちている室内。
ふとした弾みで目を覚ました神威は、体内時計で今現在の時刻を確認した。
枕元に設置してある時計には、一瞥すらくれる事もなかった。

五時過ぎ……少し寝すぎたか…

日の出と共に起き出す神威にとって、この季節の五時過ぎとは充分に『寝坊』に値する時間だった。
本来であれば今から朝食の下準備をし、日課の修練に励み、汗を流し、朝食を食べ、身支度をし、遅刻しないように学園へと向かわなければならないのである。
今日がいわゆる『平日』ではない事に、神威はほんの少しだけ安堵した。

寝坊の原因として考えられるのは、恐らくは昨日の激務。
具体的に言うと、『王者の風』の二十連続発動の余波だろうと思われた。
いくら本業として修めた能力だとは言え、ああも乱発していたのでは精神が疲弊するのも当然の帰結である。
『本業能力の使用回数に上限が無い』と云うのは、あくまで事実を突き詰めた先の極論でしかない。
実際それは『個々人の精神力の限界がそのまま使用限界に結びつく』と解釈するのが妥当な意味でもっての、『上限が無い』と言う説明なのであった。
加えて、昨日は色々と考える事が多すぎた。
否、それは今日の方がより深刻であるかもしれない。
そこまで考えた所で神威は、これならまだ時間に追われて遅刻の危機に晒されている『日常』の方が余程マシであったと思い直し、憂いの色が濃い溜息を吐いた。
こんな任務、早く終わってしまえばいいのに。

神威の性質を端的に表現しようとする時、人は彼を『単純な人間だ』と言う。
しかしこれは悪意から発せられた言葉ではなく、あえて置き換えるとすれば『純粋』でも構わないと云うくらいの意味合いで使われる単語であった。
神威は、自分の人生に意味合いを持たせようとなどとはしない。
あえて成し遂げなければならない何かがあるとすれば、それは幼馴染である流の『盾』となる事でしかない。
最終目的が決まっている神威だからこそ、それ以外の部分に関しては非常に即物的であり、至極単純な二元論で割り切りながらの日々を生きる事が許されているのであった。
美味しい食べ物が好き、空腹に苛まれるのは嫌い。
弱い者虐めをするのは悪、困っている人を助けるのは善。
守るべき存在は人間、討伐すべき存在はゴースト。
単純とは時に迷いを生まぬ強固な意志と同一の意味であり、戦闘時における神威の強さとはまさに、この『迷いの無さ』に端を発する物であった。

だが。

神威は今、悩んでいた。
二日前からずっと続いている『自分が蚊帳の外に置かれている』と云う感覚に、酷く精神を揺さぶられていた。
無論、最終的な結論は既に決まっている。
それは十年以上も前から決定されていた、神威の生きている理由とも言うべき不変の価値観。
『藤咲神威は、水里流を護り抜く』
その為であれば血泥に塗れる事も、手足を失う事も厭わない。
たとえこの身が滅びようとも、流の事だけは守り抜くと心に強く誓っていた。

――はず、だったのに。

流を起こさないように忍び足でベッドから抜け出し、バスルームと一体化している洗面台の前に立つ。
蛇口を捻って冷水を出し、このままでは服が濡れると云う事に気付き、寝巻きとしていたシャツを脱ぎ捨てる。
そのまま無造作に頭から冷水を被り、顔を洗い、髪をかき上げ、深く息を吐く。
そして、透明な雫の滴る鏡の中の自分に向かって、神威は真剣な眼差しで一つの問いを投げかけた。

お前は、あの女の娘を殺せるか?

確か、草薙桜と名乗っていた。
芯の強そうな眼をしていた。
長く綺麗な睫毛(まつげ)をしていた。
笑顔のよく似合う娘だった、不思議と心地良い声で話す娘だった、瞬きの仕草すら今もなお鮮明に思い出せると云うのに。

俺はこの拳で、彼女の顔を殴るのか?
肉を潰し、眼窩の骨を砕き、脳髄を揺らす一撃を叩きこめるのか。
もしも草薙が「ヤメテ」と泣いて懇願してきたとしたら。
もしも草薙が「痛いイタイ」と苦痛に喘ぐ姿を目の当たりにしたら。
あの顔で、あの声で、あの瞳で「どうしてこんな事をするの?」と真正面から見詰められたとしたら――

強く握り締めた自分の拳を見詰めても、答えは降って沸いたりしてこなかった。
悩み多き瞳で鏡を見やれば、境界線の『向こう側』に居る自分は、酷く蔑んだ表情で『こちら側』の自分を嘲笑っていた。

自分が傷付く覚悟ならば、できていた。
眼前に立ちはだかる者は、全て撃退すれば良いと考えていた。
そのために神威は、日々己の力を磨いていた。
何者をも打ち砕く力と自分の身を捨てる覚悟さえあれば、世界はそう困難に満ち溢れてはいないと、神威はそう信じて疑わずに今までの人生を過ごしてきた。
過ごしてこられた。

しかし今、神威に必要なのは『自分が傷付く覚悟』ではなかった。
近い将来に待ち受けているだろう艱難を打破する為には、『他者を傷付ける覚悟』こそが必要とされていた。
誰かを守るために手にした力で、誰かを傷付けなければいけない。
自分の守りたい人のために、他の誰かを犠牲にしなくてはならない。
単純なる勧善懲悪の図式を好む神威にとって、それは信じられないくらいの精神的負荷加重であった。

相手がゴーストだと言い切れるならば、まだ良い。
世界の理から外れているモノを元の環に還してやる行為には、純然たる正義の御旗がはためいている。
だが、今回の任務はどうだ。
あんなにも『人』として笑い、呼吸をし、親しく言葉を交わした相手が標的だと言うではないか。
流は言っていた。
『お前の目の前で白いマスクを取り外そうとしたあの瞬間まで、草薙の口は大きく裂けていたんだ』と言っていた。
なるほど、それなら構わない。
あの場で草薙の口が大きく裂けていて、鋭利な鎌でもって自分に襲い掛かって来てくれていたなら、それはそれで全く構わなかった。
むしろそうであってくれた方が、どれほどまでに楽な任務であったか判らないと言う程なのに。

ハイ-スレイブ・オブ・リビングデッド。
上意が憑着していない状況であれば、彼女はどこまでも『人間』と相違ない。
ならば、上意が憑着して『口裂け女』となってしまった彼女を、自分がこの手で殴り殺した場合。
『彼女』は、一体どうなってしまうのか。
神威にはそれが、全く想像できなかった。
通常のリビング・デッドなら、魔力によって形を保たれていた『肉体』が崩れ落ちる。
既に存在限界であった体組織構成要素は一瞬にして灰燼と化し、一陣の風が吹けばその後には何も残らない。
それが『世界の理』から外れていたモノ達の辿る、一様にして絶対なる世界結界の恒常化機能であった。
だが、彼女の『肉体』は紛れも無く『生者』のそれだ。
少なくとも今現在は『世界の理』から外れる事無く、酸素を取り込み、栄養を摂取し、脈動を重ね、細胞を逐次再生産し続けている『生き物』として存在している。
であるならば、上意が霧散した後も彼女の『肉体』は『世界の理』通り、抜け殻としてその場に在り続けるのではないだろうか。
殴られ、抉られ、醜く拉(ひしゃ)げた凄惨な骸(むくろ)を、晩春の野に晒さなければならないのではないだろうか。
そしてそれは、傍目には単なる殺人と何ら相違なく映るのではないだろうか。
錆びた鉄の臭いが鼻につく陰惨な未来予想図を前に、神威の背筋に氷のような怖気が走った。

ヒトが、ヒトを、殺す。
それは流が口に出す事すら躊躇した、社会的動物としての最低な行為であった。
しかし今、自分はそれを求められようとしている。
抗う事のできない不本意な時流の渦が、否応なしに自分を飲み込もうとしている。
腕力では抗う事のできない不条理な『それ』が迫りくる感覚に、神威には唇の端を血が滲むほどに強く噛み締めた。
ヒトを殺してなお、自分はそれまでの自分と同一の存在でいられるだろうか。
幼馴染が本能的に忌み嫌う行為を犯してでもなお、自分は彼女の傍に立っていられるのだろうか。

俺はこの拳で、エゴイズムの塊のような『命』の取捨選択をしなければならないと言うのか――

「――神威?」
「っ!? なっ……なんだ?」
「いや、人の動く気配がしたものでな。 朝風呂か?」

未だ勢いよく蛇口から流れ続ける冷水と、それを止め処なく飲み込んでいく排水溝の唸り声。
バスルーム兼洗面所から聞こえてくる水音を、バスタブにお湯でも張っているのものだと勘違いしたのだろう。
まだ少しだけ眠気の残るほわんとした流の声が、ドアの向こう側から遠慮がちに響いてきた。

「あ、ああ。 ……目が覚めたら無性に湯に浸かりたくなってな」
「うん。 ではお前が上がっても、お湯は抜かないでおいてくれ。 私も今日は朝風呂に入りたい気分だ」
「……湯ぐらい張り直せばいいだろう。 何も朝から二番風呂など」
「ダメだ、そんなのは勿体無いだろう。 いいか神威、節水は一人一人の心がけが大事なんだぞ」

それはまるで、懐かしい風景の中に居るような錯覚だった。
伊草の薫りのする畳の上に座り、欄間と障子によって四角く区切られた世界の中に、広葉樹の蒼く生い茂る山々を遠く見る。
薄いドア越しに聞こえてくる流の声は、本人を目の前にしていないからこそ余計に、その背後に在る様々な情景を神威に観せてくれていた。
地方に名立たる旧家に生まれついたくせに、こんな小さなバスタブに張るお湯ですら「勿体無い」なんて言ってしまう。
ドアの向こうでお姉さんぶって人差し指を立ててる姿が、やたらと鮮明に思い描けてしまう。
そんな流が可笑しくて、こんな状況なのに神威はつい声を殺して、くつくつと笑ってしまっていた。
見知らぬ街でも。
無機質で狭いシャワールームの中でも。
気乗りのしない任務の最中であっても、自分の存在を見失いそうになった時でも、流が居てくれるだけで全てが瑣末な事へと変化を遂げる。
『帰りたいと思える日常』が一個の存在に凝縮されて傍に居てくれる事の奇跡に、神威は今更ながら自らの置かれた境遇を『幸せな物だ』と再確認した。
そして、それを失わないために自分ができる事の限界にも、朧気ながらに辿り着いた。

自分は神ではない。
名前にその字を配してくれた両親には悪いが、自分にはどうやっても全ての命を平等に扱う事はできそうになかった。
人が人であるためには、他者を思い遣る心が大切だと世間一般ではよく言われている。
だけど俺は、人として何よりも護りたい日常があるが故に、人に在らざる決意をしなくてはならなかった。
命につける序列。
存在に貼り付けられた優先順位。
およそ人として褒められた類の思考ではないと判っていながらも、神威の決意は揺らぐ事は無かった。

この世界でただ一人、流さえ居てくれればそれでいい。

そのためならば俺は、ただ一振りの剣になろう。
罪も罰も受け付けず、ただ振り下ろされるだけの白刃となろう。
思い悩んで切れ味を鈍くする事も、自分の意志で切っ先を曲げる事も決してしない。
うず高く積み重ねられた屍の山に埋没して、たとえ何時の日か『自分』の存在が判らなくなってしまっても。
堕ちて穢れて気が狂って、護るべき存在にすら忌み嫌われる眼差しを投げ掛けられたとしても。

平和より。
自由より。
正しさより。
流が無事ならば、それでいい。
彼女がこの世界に存在する限り、全ての可能性は潰える事のないはずだから――



俺は、『ヒト』ですら殺すモノとなろう