同日
午後三時五十五分
船橋駅近郊の繁華街にて

どんよりとした雰囲気の神威が、自動販売機に数枚の硬貨を投入し、ペットボトル入りのお茶を購入する。
ズガボンと間抜けな音を発しながら転がり落ちてきたそれは、飲み物としての役割を果たす前に、まずは神威の目頭に押し当てられるハメとなっていた。
瞼が痙攣する。
眉間に鈍痛が鎮座している。
頭蓋に篭った知恵熱が、脳髄をぐらぐらと煮立てているようだ。
ゴーストと対峙している時よりも激しい疲労の体を見せる幼馴染に、流は小さな罪悪感と大きな諦観を抱きながら、暮れ行く空に向けて深遠なる溜息を吐いた。
何も書物に対して、そこまで拒否反応を示さなくてもよかろうに。

大学の図書館で得た知識は、流にとって非常に有用な物であった。
ムラ社会とかゲマインシャフトとかの文句は旧家に生まれた流にはとても身近に感じられる物であったし、都市伝説成立の過程は純粋に好奇心の見地から非常に為になった。
何より、神威と二人で顔を突き合わせて読んでいた論文には、現状を的確に示していると思われる語句がハッキリと書き出されていたのだった。

『都市伝説=ウイルス説』
親日家であり民俗学の権威でもあるA・D・ブロンクス=サミュエル博士の論文に拠れば、都市伝説とはウイルスのような物であると定義されていた。
人を媒介とし、人間の心に寄生し、時代によって数多に姿を変え、人間社会の恒常性に著しい被害を与える。
流はこの論文を読んだ時、今回の事件の概要がようやく見えてきたような感覚を受けた。
それは今までに担当してきたゴースト討伐任務との違いが、『ウイルス』と云う単語によって如実に浮かび上がってきた結果でもあった。

口裂け女は、伝染する

そうでなくてはおかしいと云う根拠もあった。
まず第一に、口裂け女の伝説は今から30年前の1978年に産声を上げたと云う点である。
当時の社会情勢などはこの際どうでも良く、問題とするべきなのは『その当時に出没した口裂け女の年齢』である。
数々の文献に拠れば、若くとも20歳ぐらいが妥当であったとされており、間違っても中学生の体であったとは記されていない。
もし仮に中学生ぐらいだったとしても、そこには第二の問題点が大きな壁として存在しているのであった。

第二の問題点。
それは、口裂け女の伝説がある時期を境にぷっつりと姿を消してしまっている点である。
ゴーストとは世界結界の歪みの狭間にしか存在を許されないモノであり、世界結界が歪むためには人々の常識が揺らぐ必要がある。
つまり、人々の関心が口裂け女に向けられなくなった世相の中では、彼女はその存在すら保っていられないと云う事である。
もっとも、口裂け女事件の報道が一般化したのが岐阜の地方紙からだという事なので、銀誓館の前身に当たる能力者組織がこれの討伐に赴いたのかもしれない。
討伐が成功した結果として、口裂け女は姿を消したのかもしれない。
その辺りは推測の域を出ないし、断言する必要も無いので、捨て置く事にする。
どちらにせよ重要なのは、1978年に姿を現した口裂け女が、その後数年の内に忽然と姿を消したと云う事実である。
これらを総合して考えた場合、2008年現在の千葉県に出没している口裂け女は、1978年当時の口裂け女とは別の個体であると云う結論に達する事ができるのであった。

言わずもがな、『口裂け女』とはゴーストの種類を定義する言葉ではない。
また、種目を定義する言葉でもなければ、分類として用いられる用語でもない。
例えばこれが『狼男』だとすれば、銀誓館では次の様に系統付けられる。
種類は『妖獣』。
種目は『獣人』。
分類が『狼男』で、最後に個体名として『銀色の〜』とか『連銭葦毛の〜』言う文句が付随する事となる。
このような場合であれば、『狼男』が百匹現れようが三十年前にも存在していようが、全く問題は無いと云う事になる。
何故なら『ゴースト』と云う括りの中での『狼男』とは、『人間』と云う括りの中での『日本人』と同程度の意味しか持っていないからである。

しかし『口裂け女』とは、言ってしまえば1978年当時に暴れまくった当該固体ただ一匹にのみ名付けられた、『彼女』その物の個体名である。
これをあえて前段の様に系統付けるとすれば、以下の通りになるだろう。
種類は『リビング・デッド』。
種目は『人型』。
分類は『ハイ・スレイブ』。
そして個体名が、『口裂け女』と云う訳である。
過去の事例を紐解いてみても『口裂け女が複数体で出没した』と云う情報は残っておらず、巷に蔓延っている噂の中ですら複数存在説は囁かれてはいない。
実際、流と神威が聞き込みをした2008年現在でも、人々の間に複数存在説は流布されていなかった。

無論、そう考えると様々な矛盾点が存在する。
例えば、1978年製(以降、『初代』とのみ記述する)の口裂け女は、一個のゴーストとしては明らかに行動範囲が広すぎた節がある。
また、当時の犯行の軌跡を地図上で追っていった場合、それぞれの距離が100km以上離れた場所において、ほぼ同時に殺害事件が起こっていると云うケースが見られる。
これは当該個体が純正の『単一存在』では為し得ない犯行であり、流もこの件に関しては明確な答えを持っていなかった。
30年越しに同一ゴーストが復活すると云う件に関しても同様。
『伝説級』あるいは『神話級』と呼ばれる超高位概念が過去に引き起こした数件の例外を除けば、完全に消滅したゴーストが同一存在として復活する事は有り得ないとされていた。

だが、『口裂け女は伝染する』と云う仮定を根幹に据えるだけで、事態の様相はがらりと変貌する。
ただしここで言う『伝染』とは、通常の病原菌の様に感染拡大していくタイプの物ではない。
一般的な概念としては『寄生』、もしくは『憑依』と呼んだ方が正しいだろう。
何の変哲も無く暮らしていた人間が、ある日突然に『口裂け女』となって凶行に及ぶ。
しかしその次の瞬間には遠く離れた別の地で別の『口裂け女』が出現し、全く同じ手口で人を惨殺する。
『それ』は遂には時をも越えて、元号すら新たになったこの平成の夜に姿を現す始末であった。

当時の世相と現代のソレに如何様な共通点があるのかは、人文社会学の教授辺りが喜び勇んで語り尽してくれるだろう。
民衆の深層心理に存在する『恐怖』のイメージと『口裂け女』がどう符合しているのかは、民俗学の権威辺りが一昼夜を通して語り明かしてくれるだろう。
だが、どれだけ深く『それ』の存在理由を推理しても、どんなに判り易い言葉で『それ』を系統付けても、全ての努力は徒労に終わるしかなかった。
為す術無く人は殺され、殺され続け、不可思議なモノを定義付けて安心する言葉は、ただの恐怖を増幅させる呪詛の役割しか果たさなくなった。
官憲の手では捕らえられないはずである。
ヒトの手では捕まえられなかったはずである。
何故なら『口裂け女』とは鋭利な鎌を手に人々を殺害していく存在ではなく、人と人との間を漂泊するカタチ無き概念その物だったのだから。

「来たぞ、神威」

約束の時刻、午後四時。
薄暗い路地の向こうに桜の姿を認めた瞬間、流は無詠唱でイグニッションカードを起動した。
神威を呼ぶ声に籠められた裂帛の気合も、既に臨戦状態のソレと何ら遜色の無い物であった。
そして、だからこそ神威には、そんな風にしか桜を出迎えられない自分達が、たまらなく醜い存在の様にも感じられた。

昨日の夜。
厳密に言えば、『今日』になってから小一時間ばかりが経過した頃。
神威の見ている目の前で、流と桜は一つの約束を交わしていた。

「共に戦う意志有らば、明日の午後四時、件の路地裏にて再会しよう」

そう口にした流の表情には、『桜が断るはずが無い』と云う、信頼にもよく似た色が見て取れた。
桜は桜で、そこに仮定の表現を用いる事が野暮に過ぎると言わんばかりの笑顔を浮かべ、再びの邂逅を約束した。
目に映る物のみを真実とする神威の目にそれは、新たなる協力者の誕生を意味する儀式にしか映っていなかった。
純粋とは、時に物事の裏を見抜く事の出来ない悪癖である。

――笑顔で交わされた約束のはずだ

神威は憤っていた。
誰に対すると云う訳でもなく、強いて言うなれば全ての結果として『今』を迎える事しか出来なかった自分に、猛烈に苛立っていた。

――だから俺も、笑顔で迎えるはずだった

自分の不甲斐無さが腹立たしかった。
『力』さえ鍛えていれば全ての困難が片付くと思っていた自分の浅墓さに、吐き気がするほどの嫌悪感を抱いていた。

――俺が迎えるのは、共にゴーストを殲滅せんとする『仲間』のはずだったのに!

初対面で見抜けていたら。
ゴースト察知に秀でた特殊能力を修得していたら。
もっと各方面に精通した知識を持ってさえいれば。
こんな後味の悪い任務になると最初から判っていたならば――

「……イグニッション」

暗鬱な気分で囁くように詠唱起動する神威の前方。
相対距離にして30m弱。
桜が歩いてくる。
否、『桜だったモノ』が歩いてくる。
どれだけ認めたくないと神威が願ってみた所で、眼前に展開されている現実は決して覆ったりはしなかった。

昨日までとは明らかに違う、ヒトである事を捨てた瞳。
意思無く動く足の運び、妙に整った呼吸のリズム。
『それ』は、まるで神威の苦悩を嘲笑うかの様な、完璧なまでのリビング・デッドの所作だった。

「そこで止まれ、草薙」

聞き入れられないと判っていても、神威にはそれを口にする事しかできなかった。
そしてやはり思った通り、桜はその歩みを止めなかった。
空の色も、風の匂いも、自分が抱く感情も、全ては想定の範囲内。
否、『それ』は神威が想像していたよりも、圧倒的な精度で『想像通り』だった。
まるで何かのシナリオに沿って世界が動いているような錯覚を覚える。
自分が誰かの掌の上で都合よく踊らされているような、そんな疑念すら胸に抱いてしまう。
『重傷だ』と自重する暇もあればこそ、当然の如く今の神威にそんな余裕は残されていなかった。

神威を基点として、後方10mの地点に流、5mの地点に水月(召還獣)を配置。
これは流の射撃アビリティの有効射程20mを活かし、神威の前方10mに一方的な攻撃範囲を展開する布陣である。
神威と水月が前方で堅固な盾となり、後方からの射撃で一方的に射殺す事もよし。
槍と盾に役割を分担し、攻撃力を強化するもよし。
槍と刀と矢の三枚立てとなり、途切れぬ波状攻撃を仕掛ける事もまたよしとする。
前面に存在する単一の敵に対して無双の強さを誇るこの布陣は、俗に『早贄(はやにえ)』と呼ばれていた。

「頼む。 止まってくれ、草薙」

それは既に命令ではなく、嘆願であった。
流がこの布陣を選択した以上、後手に回るなどと云う状況は有り得ない。
恐らくは桜が有効射程に入った瞬間、有無を言わさず一気に片をつける気なのだろう。
長年の経験上、神威にはそれが痛いほど理解できてしまっていた。
桜が正常な判断をし得る状態であれば、昨日の一件を根拠に「余裕で避けるだろうと思っていた」とでも言えば良い。
そして正気ではない状態、つまり『口裂け女』と成り果てている場合であれば、撃ち抜く事に何の問題も生じない。
むしろ後者の場合であれば、想定し得る限り最高の形で先手を取れる事となるのであった。
戦術上のデメリットは、どこにも無い。
流の選択は、全くもって正しい。
しかし神威はついに最後まで、その『正しさ』に身を任せる事ができなかった。

「……神威? 何をしている?」

神威の背に、戸惑う流の声が聞こえる。
当たり前だ、と神威は自嘲する。
何故なら自分は今、ゴーストと相対する能力者として、明らかに『間違っている事』をしているのだから。

此方に向けてゆったりとした歩調で近付いてくる桜。
流の有効射程ラインまで、残り5m。
しかし神威は彼女の到達を待たず、それどころか逆に自分からそのラインを踏み越えようかと云う勢いで、『境界線』に向けて歩き出していた。

「神威! 戻れ!」

幼馴染の声が聞こえる。
とてもとても心地良い、郷愁を誘う響きが後ろ髪を鷲掴みにする。
魂ごと後方に引き寄せられる感覚を味わいながら、しかし自分は『それ』をこそ護る為に進むのだと、神威は必死で心を押し留めた。
「戻って来い」と甘く囁く声に釣られ、『其処』に立ち戻る事ができたなら、それはどれだけ幸せな事だろう。
そして『其処』に居られた今までは、どれだけ幸せな日々だったのだろう。
鉛の如く鈍重になった両の足を無理矢理前へと進めながら、神威は奥歯をぎちりと噛み潰した。

「……許してくれとは言わん」

戻ってこい、か。
ああ、出来得る事ならば、死ぬまで『其方側』に居たかった。
何も思い悩まず、自らを完全無欠の正義と信じ込み、他人(ひと)に恥じる事など何一つ無いと胸を張って生きていたかった。
だが、戻る訳にはいかない。
この『境界線』は、俺が自分の足で踏破しなくてはならない。
だって、『覚悟』の引き金まで草薙に背負わせてしまうだなんてのは、そんなのは余りに可哀相過ぎるではないか。

「ただ、一つだけ約束をしよう」

『境界線』を挟んで、ふたり。
まるで示し合わせたかのように、ぴたりと其処で立ち止まる。
声は聞こえているだろうか。
意味は理解できているだろうか。
昨日とは変わり果てた瞳に、神威は問うた。
その問いに意味が無い事は、既に判り切っていると云うのに。
問わずにはいられなかった。
願わずにはいられなかった。
これから口にする事に嘘偽りなど存在しないと、せめて最後に届いてほしかった。

「俺は、お前を忘れない」
「……ネ、エ…」
「お前の事を生涯忘れずに生きていくと、今此処に強く誓おう」
「…ワ タ シ……キ レ イ ?」

『その言葉』を口にする事は、桜から『人で在ること』を完全に奪い去る事となる。
理性、意識、尊厳、命。
人として在るために必要な全てを奪うどころか、人として死ぬ権利すら粉々に打ち砕く結果となる。
だが、神威はもう迷わなかった。
戦闘の烽火(のろし)を上げ、開幕の拍子木を打ち鳴らし、殺戮のトリガーを自らの手で引き倒す事に、最早何の躊躇いも無かった。
誰の所為でもない。
誰が悪い訳でもない。
まして草薙が背負うべき業など、この世界に一片足りとて存在して良い道理が無いはずだから――
だからこれは、俺の罪だ。
お前が殺そうとするのは俺の欺瞞であり、お前を殺すのは俺の殺意だ。
此の世の全ては前にしか進まない。
前にしか進めないのが、生きている物としての絶対の定めだから。

「……綺麗だ」

今、俺の目の前にはお前がいる。
悲しくなるぐらいに変貌を遂げていくお前がいる。
既に原形は留めていない。
どこからどう見ても異形のバケモノその物でしかない。
だが、お前は確かに『人』だった。
ほんの二十時間ぐらい前までは、お前は確かに『人』だった。
朧な月の下で凶暴な風を身に纏い、蒼く澄んだ気の強い瞳でこちらを睨みつけていたその姿。
忘れない。
嘘ではない。
こんな状況に陥らなかったら恐らく、一生口にする事もなかっただろうが――

「お前は、綺麗だ。 草薙桜」
「…キレイ? ソウ? ……コ、レ、デ、モォオオォオオオオオオオオオオオ!!??」
「神威ぃいいっ!」

晩春の黄昏に、鮮血が舞った。
それはあたかも時節に追われ、散り急ぐ桜花の様でもあった。