同日
午後四時五分
同座標にて

流には、現状が全く判らなかった。
どうして神威が絶対優位の布陣を捨てたのかも、どうしてあんなに無防備に『敵』に歩み寄って行ったのかも、何一つとして理解ができなかった。
自身を取り巻く情報だけは、視聴覚を通じて半ば強制的に収集されている。
しかし混乱しきった脳髄は、その情報に『意味』を付加して還元してくれなかった。
血が流れている。
それは判る。
あれは神威の血だ。
それも判る。
だけど、壊滅的なまでに『何故』が解消されてくれない。
どうして血が、どうして神威が、どうして自分から離れるように歩いていって、どうして、どうして、どうして――

「水月! 貴様は流を守護する事のみに身命を注げ!」
「も、もきゅっ!?」
「絶対だ! 絶対だぞ! 掠り傷一つ負わす事すら許さんからな!」
「もきゅいっ!」

臓腑を揺るがすかのような渾身の叫び。
声が、『音』
と云うのが空気の振動であると云う事実を直接的に叩き付けるかの様な神威の咆哮は、呆けていた流の精神を一気に覚醒へと導いた。

「神威! それは一体――」
「問答無用!」
「――っ!」

神威の頬からは、今も滴々(したした)と血が流れ続けていた。
恐らくは口裂け女の固有武装である『鋭利な鎌』で切り裂かれたのだろう、出血の具合から見ても浅い傷ではない事がよく判る。
だが、致命傷ではない。
今後の戦闘に支障を来すほどの重傷でもない。
したがって、布陣を崩してまで回復に走る緊急性は無い。
常ならぬ幼馴染の大喝で理性を取り戻したのだろう、流の思考はようやっとの事で戦闘モードへと切り替わった。
戦時下で必要なのは、他者の行動に意味を求める事ではない。
自らの行動に、意味を持たせる事だ。
神威もそれを判っているだろうと信じているからこそ、流の次の行動に迷いは無かった。

天(あま)照らす神の威光に満ち溢れし、神仙なる我が豊葦原瑞穂国の土壌。
国土草木塵芥、遥けき天地(あめつち)の一片に至るまで、御霊(みたま)の宿らぬ物は無し。
形為さず、漂泊し、無辜にて不順(まつろわぬ)辺縁の『彼等』は、産霊(むすび)塊(かたま)りては魂(たま)となる。
澱(おり)て凝(こご)りては鬼となる。
如何様にも変幻せしめる数多の雑霊を、霊を媒介として外法を繰る穢れた力で統括し、把ね編み上げ弾(たま)と為す。
黄泉比良坂の麓にて息を吐く、『霊媒師』の本懐たる特殊能力。
それが、『雑霊弾』である。

神威がその気なら――

中距離直接火力支援を担当する流にとって、現状はほぼ最悪としか表現し得ないものである。
何故ならこのポジショニングの仕事とは『前衛が戦闘に入るまで』に終えていなくてはならないものであり、決して乱戦の最中に機能するものではないからである。
味方を擦り抜けて敵にだけぶち当たる援護射撃などと云う都合の良いものは、少なくともこの世界の中距離火力支援武器としては存在しない。
事実、援護射撃に背中を打ち抜かれた兵士【フレンドリ・ファイア】の話などには、枚挙に暇が無い。
発射されるのが鉛の弾丸か雑霊を束ねた物かの違いはあれども、本質的な部分では今の流の置かれている状況と何も変わりはしない。
要するに前衛がガチの殴り合いを展開してしまっている以上、本来であれば流には何もする事がないと云う事なのであった。

だが。
編み上げた雑霊弾を手持ちの武器に纏わせて、流は全神経を射手(いて)のソレだけに集中した。
近接攻撃は勿論、移動や回避の選択肢すらも放棄して、ただひたすらに前方空間の一点だけを睨み付けた。
一度でも外せば、次からは警戒される。
二度目の機会など存在しない。
そしてそれ以前に、人知を超えた速度で応酬される拳撃と剣閃の嵐に割り込んで敵だけを穿つ機会など、恐らくはただの一度しか訪れないだろう。
愛用の戦槍を強く握り締め、千載一遇の機を虎視眈々と待ち受ける。
綿貫の奇怪な依頼から始まった今回の任務の中において、流の眼が『狩人』のそれへと変貌した、これが初めての瞬間だった。

口裂け女の鎌による横薙ぎの一閃が、神威の顔面を躊躇無く襲う。
上体を反らす事で何とか攻撃を回避はしたものの、逃げ遅れた前髪が無残にも中空に舞い散る事となった。
はらはらと宙に浮かぶ髪の切れ端。
視界に映っていたその中の一本が、不意に漂う向きを変えた。
不自然な風の動き。
それはつまり、攻撃の第二波が来る事を指し示している。
驚くほど静かにその事実を受け入れた神威は、反らした上体に勢いをつけて後方に転回することにした。
横薙ぎの一閃から続けざまに追撃を試みるのであれば、初段の勢いを利用した回転性の攻撃に他ならない。
そしてこちらが上体反らしで一撃目を回避している以上、それを討たんとする二撃目の軌道は縦に展開する物でなくては意味がない。
振り下ろされる鋭利な鎌に対し、避ける事も起き上がる事も不可能。
ならばこちらも回避運動の勢いをそのまま利用し、あわよくば敵の腕を蹴り上げる目的を持って後方転回すべし。
強く振り上げた脚に『何か』を蹴った感触が伝わり、神威はそこで自分の読みが全て的中していた事を察した。

右手に持った鎌での回し刻みを避けられた瞬間。
口裂け女は、空振りの勢いを殺さずに半回転し、そこから上半身を捻じるようにして左手で持った鎌を振り下ろしていた。
神威が一つでも判断を間違っていれば、あるいは一瞬でも決断を下すのが遅かったなら、その一撃は確実に致命傷となっていただろう。
遠目に見ていた流ですら背筋に冷たいものを感じる、口裂け女の攻撃はそれくらい、『人を殺すため』だけに特化されていた。

――強い

動揺を気取られぬように鉄面皮を装いながら、先程の回避で若干ぶれた身体の軸を元に戻す神威。
戦闘開始と同時に負った頬の裂傷が、存在を主張するかの様にじくじくと痛んでいた。
全ての行動を読み切り、読み勝ち、軽微ながら反撃までをも喰らわせたと云うのに、精神的な劣勢が覆せない。
自分が彼女に打ち勝っている姿が、不思議なくらいに想像できない。
それは、『
恐怖』や『萎縮』と云った感情とは全く次元の違う、今までに感じた事のない不可解な強迫観念だった。

「……これも、お前の仕業なのか?」

意図せず、その問いはまるで友人に語りかけるような調子となった。
しかし口裂け女と成り果てた桜からの返答は、ただの一言も無い。
分かり切っていたはずの状況に、それでも神威は少なからずの寂しさを覚えた。
言葉が返ってくる事に少しでも期待していた自分を、酷く恥じた。
「誰かこの情けない俺を引っ叩いてくれ」と思うのと、口裂け女が神速で突撃してくるのとは、刹那の間を置いてほぼ同時の出来事だった。

「――っ!!」

まず、神威の視界から口裂け女の姿が消えた。
次に、首筋の辺りに絶対的な『死』を予感させる怖気が走った。
それは神威の本能に、生物としての根本に関わる危機の到来として認識された。
思考の介在する余地のない逼迫した状況は、日々の鍛錬による研ぎ澄まされた回避行動なんて悠長なモノに出る幕を与えない。
極限まで追い込まれた時に行動として発露されるのは、いつだって『人』と云う種が生まれながらに持っている固有の反射行動でしかなかった。
脳髄、頚椎、頚動脈、呼吸器官と言った『生命維持に関わる重要部位』を、『失っても構わない末端部位』である腕で防御する。
迫り来る『何か』に怯えた子供がよく見せる、首を竦めて両腕を耳の横に持ち上げるあの仕草。
前衛戦闘職として腕一本を失う事は戦力としての死を意味するにも関わらず、神威が取った姿勢もまた怯えた子供と同じ物でしかなかった。
それは『武人としての生』よりも『人間としての命』を優先させる行為であり、僅かでも神威に意志決定権があったなら、決して取らない行動であった。
しかし――

ガ、ギィッ!

金属同士がぶつかり合う耳障りな音が鼓膜を揺らしはしたものの、神威の受けた被害はたったそれだけで完結する程度のモノでしかなかった。
本人すら事態の把握に一拍の間を必要とするほど、『それ』は欠片も意図されていなかった事柄であった。
人の一生を左右するのが造物主の気まぐれだとしたら、今の神威は間違いなく天上に座する何者かに強烈に愛されているに違いない。
口裂け女の斬撃が左外側からの軌道だった事も。
神威の固有武装が右手の肘までを覆う特殊鋼鉄の手甲だった事も。
人外の速度で強襲され、下手に反撃や回避の手段を考える隙がなかった事すらも、全てが神威にとって有利になるように働いていた。

『口裂け女は、脅威的な脚力によって異常なまでの高機動性を誇っている』

それは、神威が把握している口裂け女についての情報の一つだった。
噂では『100mを3秒フラットで駆け抜ける』とされており、これは時速換算すると実に120kmもの速度になる。
自動車の感覚で捉えると大した事がないように思えるこの速度だが、口裂け女の最大の脅威は、初速から33m/secだと言う部分である。
徐々に加速してその数値を叩き出すのではなく、棒立ちの状態から踏み出した一足、方向転換をしたその瞬間から、彼女の移動速度は台風の風速を上回る。
当然、移動の最中に繰り出される攻撃はこの加速を更に上乗せされた代物であり、普通の人間であれば認識する事すら困難であるに違いなかった。

だが、神威は『普通の人間』ではない。
戦時下においては弾丸すら見切ると言われている『能力者』の、それも徹底した近接戦闘タイプである。
いかに予備動作を必要とせずに発現する神速の移動とは言え、亜音速で飛来する鉛弾の方が速度としては圧倒的に上のはず。
加えて、移動する物体の大きさまでをも考慮に入れた場合、高々100m/sec程度の動きで『能力者』の眼を振り切る事など、できる道理が無いはずであった。
しかし実際に、神威は口裂け女を見失った。
見失うどころか直接的な攻撃まで加えられ、しかもそれに対しては本能的な反射行動しか取る事を許してもらえなかった。
歪みが、少しずつ大きくなり始めていた。

未だ痺れている右腕を見やりながら、神威は『訪れなかったもう一つの結末』を思う。
腕と首とを同時に刎ね飛ばされ、鮮血の中に閉ざされる自分の命の事を思う。
神威の認識では、それは『結果』として訪れなかっただけの事であり、『可能性』としては『今』と同等以上に存在しているモノであった。
岩をも砕く龍手甲越しですら、口裂け女の一撃は腕の神経を麻痺寸前にまで追い込んでいる。
これがもし生身の腕であったなら、肉は勿論橈骨(とうこつ)も尺骨も枯れ木の様に両断されて、首まで一気に切断されていただろう。
だが、自分は今、『そう』なってはいない。
九割九分までもが『死』に傾いていたはずなのに、自分は今こうして五体満足に敵を見据えている。
不思議なものだ、と神威は思った。
同時に、自分の命は自分ですら好き勝手に扱えない物なのだなと、何やら悟ったような事まで思い始めていた。

生死が交錯したあの瞬間。
究極的に言えば、自分の命はこの右手に装備した龍手甲によって生かされた事になるのだった。
では、何故自分は龍手甲を装備しているかと言えば、それは『戦う力を欲するがため』と云う言葉で説明がつけられる。
それでは、『一体自分は何のために戦う力を欲したのか』と云う問いに対しては、今更過ぎて言葉にするのも馬鹿らしくなるくらいだった。
俺は、幼馴染の流を護るために力を欲した。
流を護る為に力を欲し、龍手甲を右腕に嵌め、それによって命を救われた。
つまり廻り廻って考えれば、自分は流に命を救われたも同様なのではないか。
何とも不思議な思考ルーチンを辿りながら、神威の考えはそんな結論に辿り着いた。

自分の命は、自分の好き勝手に扱えない。
それは護るべき人に守られた命であり、護るべき人を護るための命だからである。
自分の人生の行く末を委ねる事が出来る人が居ると云う事実は、ただそれだけで人をもの凄く安心させる。
自分の運命を他者が掌握していると云う事実は、その相手が信頼に値する存在であった場合、精神の枷を無制限に取り払う事すら可能にするのだった。

「おいそれと死ぬ訳にはいかぬな……」

拳を強く握り締め、前を見据える。
そこには先程と全く同じ様にして、こちらに正対する桜がいた。
彼女の立ち居振る舞いに、武術の基本とも言える形式的な『構え』は存在しない。
攻撃に移る際の呼吸の乱れも、それを予感させる脚の動きも一切無い。
それでいて、いざ移動するとなれば一足目から神速にて地を駆け巡り、その攻撃は一切の慈悲無く峻烈を極めるのだった。
静と動を極限まで二極化し、更に二分化する事に成功している桜の戦闘スタイル。
かなり異質ではあるものの、それは『武』の追い求める究極形の一つでもあった。

対する神威は王道実直。
古流と呼ばれる武術の流れを根底に組み込み、泰山の如き不動の構えを礎とする超実戦的な戦闘スタイルである。
大地を踏み締め、脚の先から始まる回転運動を拳に集約し、乾坤一擲の打撃を容赦なく叩き込む。
奇を衒ったり意表を突いたりするような動きこそできないが、伝統に裏打ちされた磐石の戦闘姿勢は、相手に付け入る隙を与えない物として完成されていた。

そして、それが仇となった戦闘は、今回が初めてのケースだった。

誰かを護る為に身につけた武術は、本質的な部分で『自分から攻める事』を禁忌とする傾向にある。
何故なら攻めと守りは相反する物であり、攻めの一手を進める際には、必ずと言っても良いほど守りの一手が疎かになるからである。
神威の武術もまた然り。
突進して敵を薙ぎ倒す行動はあくまでも付属的な物であり、彼の戦闘における絶対的な総則とは、自身の後方に設定した『境界線』を守り抜く事なのである。

だが、桜にはそれが通じなかった。
認識する事すら困難な彼女の神速移動は、神威に反撃の糸口はおろか、武人としての行動すら許してはくれなかった。
彼女にもしその気があったなら、棒立ちしている神威の横を易々と擦り抜けて、流の喉元に喰い付く事すら可能だっただろう。
それは神威にとって、初めての体験であった。
『守るつもりでは護り切れない』と云う、彼我の戦力差による不条理を叩き付けられた、これが最初の瞬間だった。

前に進む事が必要だ。
それもしくじったら無様に転んでしまうくらいの、徹底した前傾姿勢が必要だ。
後ろを気にかける余裕も無い。
今まで培ってきた思考の根幹を覆さなくてはならない。
護りたいからこそ見捨てなくてはならないと云う、それぐらいの覚悟を持った突撃でなくては意味が無いのだ。

神威は、重心を踵から爪先へと移行した。
それと同時に、自らが背負ってきた全ての物を思考回路から叩き出した。
使命も、任務も、もう知らない。
人で在るための下らない思い煩いも、培ってきた武術の理念とかも、一切合財がどうでもいい。
目的は殲滅。
手段は殴殺。
それだけで良い。
考える事は、後にも先にもそれだけで良かったのだ。

「要するに、貴様を屠れば全て終わるのだろう?」

神威の呟いたその一言には、最早『人』としての情感は残されていなかった。