同日
<狂気の辺縁>

同日
午後四時十七分
同座標にて


この世界に住まう人間の中で誰が最も神威の戦い方に詳しいかと問えば、その答えは水里流をおいて他には無い。
単純に神威の交友関係が狭い事もあるだろうが、それ以前の段階で、神威の武とは流の為に存在している物なのである。
必然、流の目の前で戦う機会は多くなるし、流が曲がりなりにも戦う力を手にした後は、パートナーとして同一任務に赴く事も多くなった。
そしてゴースト討伐任務のその最中にあっても、後衛である流はその立場上、常に神威の背中を見る機会に恵まれていた。
時間と、関係。
まるで空を往く者の両翼の如くに互いは共鳴し合い、二人の間にある理解をより濃密な物に仕立て上げていった。
そして、誰よりも神威の戦い方を識っている流だからこそ、現状の異質さに鳥肌が立つのを抑え切れなかった。

「う、お、おおおおおおおおおお!!」
「ゲ、ゲゲゲ、ゲゲゲゲゲタゲゲタゲタゲタゲタゲタゲタ」

神威の咆哮と、口裂け女の奇笑。
流の眼には、その両方ともが同一の存在にしか映らなかった。
遠目にすら攻撃の全てを補足する事が困難なほど密度を高められた、神威の高速連撃。
超近接間合いながらその全てを紙一重で避け、毛筋ほどの僅かな隙に致命の一撃を捻じ込んでくる口裂け女。
戦闘スタイルはまたしても両極端な物であったが、本質的な部分で共鳴し合う今の彼らに、明確な差異など何一つ存在していなかった。

殺すために。
ただひたすら、相手の命を簒奪する為に。
慈悲とか躊躇いとかそんな次元ではなく、作戦行動としての捕獲や行動不能等と言った完遂目的すらも眼中に無く。
己の欲望を満たす為に、自分自身が『そう』したいからと云う理由の上で、殺す、殺す、壊す、殺す。

鋭利な鎌に肉を切らせる事を厭わず、ただし生臭い鮮血が身体を濡らしたその分だけ、相手に有効打を叩き込んでいく神威。
消耗戦と呼ぶ事すら躊躇われる、それは傍目には完全なる自傷行為の類であった。
事実、神威の口元は愉悦に歪んでいる。
峻烈な剣閃を薄皮一枚の差で回避する度、相手の身体に拳が突き刺さり肉の潰れる音がする度。
そして自らの肉が切り裂かれて鮮やかな紅が黄昏に飛散する度に、神威の口角は悦に浸って醜くひしゃげる度合いを強めていった。

何が歯車を狂わせた。
いや、そもそも現状を『狂っている』と断じてしまって良いものか。
狂っているとした、それは『何』が?
それとも『誰』が?
判らない。
今はもう、何もかもが判らない。


余りに変わり果てた神威の『武』は、流の心に酷く錆び付いた楔を打ち込んだ。
繰り出される連撃の幾許かが口裂け女の身体を捉える度に、楔は深く沈み込んで行くかのようだった。
人気の無い薄暮の路地裏は残酷なくらい心許なく、覚束(おぼつか)ぬ現状に揺蕩(たゆた)う流の精神を散々に打ちのめした。
一度(ひとたび)楔を穿たれたココロは、些細な不安にすらみぢみぢと不快な音を立てて引き裂かれていった。
いつも隣に居てくれた幼馴染の背中が、何故だか今は酷く遠くに見える。
否、”自分自身が幼馴染を遠くに見てしまっている”。
裏切りにも等しい自らの思考に、流は声も無く愕然とした。

涙で視界が滲む。
孤独の恐怖に膝がガクガクと震えている。
形の良い眉は情けなく下がり、喉の奥には強烈な涙の気配が込み上げてきている。
だがそれでも、流は決して眼を伏せたりしなかった。
駆け出して神威の腕に縋りつく事も、声を出して現状に歯止めをかける事もしなかった。

――信じるから
――きっと最後まで、お前の事を信じきってみせるから

前衛戦闘職がフルバーストで戦っている範囲内に、自分の仕事はない。
迂闊に手を出せば怪我をして終わりだろうし、軽率に声を掛ければ神威の集中力を削ぐだけの結果に終わる。
判ってはいた。
納得もしていた。
全ては戦時下における理(ことわり)の範疇で整理できる事だったが、それでも流は自分の不甲斐無さに、強く歯噛みをせずにはいられなかった。
せめて神威の流す血の半分でも引き受けられたら。
せめて神威が受ける苦痛の半分でも、この役にも立たない身体に引き受ける事ができたなら――

いつか誰かが褒めていた、細くしなやかな指先を見やる。
本人に褒める気があったかどうかも判らないが、遠い昔に神威が「白磁のようだ」と評してくれた、無骨さの欠片もない華奢な上腕を眼の端に据える。
痕(きずあと)になるような怪我など負った例がなかった。
誇りに思った事こそ無かったが、他人から『綺麗だ』と褒められて嫌な気分がしていた訳でもなかった。
まさか、痕の無い自分の身体を恥じる日が来るだなんて。
傷を負わずに生きてきた日々を苦痛に思う時が来るだなんて、流は欠片も予期していなかった。

だけど。
どんなに悔しく思ってみても、流はその場を動けなかった。
動かずにいる事が唯一神威の役に立てる術だと判っているから、流は一歩も動かなかった。
意志を籠めて強く瞬きをし、薄靄の様にかかっていた涙のヴェールを力技で引き剥がす。
指先から血の気が失せるほど獲物をきつく握り締め、僅か20m先の戦闘区域を万里の彼方であるかのように遥けく見据える。
気弱な色に閉ざされていた少女の瞳は、再び狩人のそれに立ち戻った。

そして、意外なほど唐突に、『その』瞬間は訪れた――

下方から打ち上げられた神威の左拳が口裂け女の右脇に突き刺さり、彼女の身体がくの字に折れ曲がった。
それを決着の機と捉えた神威が半歩だけ後ろに下がり、全身を傾斜させるほどの膂力を込め、右の拳を彼女の後頭部に向けて振り下ろした。
直撃したならば如何なる存在とて此の世に形を保てはしないだろう、物理的破壊力と霊的干渉力を高次元で兼ね備えた乾坤一擲の打撃。
速度も角度も完璧のはずだったその一撃は、しかし、口裂け女の異常な行動によって空を切るハメとなった。

くの字に折れ曲がった上体をそのまま地面にまで到達させ、同時に両膝をも地面に着く。
俗に言う、四つ這いの姿勢。
およそ戦闘時に『人間』が取り得る行動の範疇ではないその姿勢を取る事で、彼女は神威の打撃を完全に無効化した。
腹部への一撃が意識を刈り取るまでに至らないと云う事は、誰よりも神威が一番よく知っていた。
だからこそ神威は次なる一撃を選択し、その拳において決着をつけるつもりだった。
彼の今までの経験では、戦闘時において何かしらの強力な打撃を加えられた時、人は例外なく『その場に留まろう』とするものだった。
押されたのであれば踏み止まり。
吹き飛ばされたのであれば着地し。
地面に崩れ落ちようとするのであれば、笑う膝に手を付いてでも立ち上がろうとするものであった。
人の常識をゴーストに当てはめたのが悪いと言われれば、確かにその通りなのだろう。
しかし神威はそんな事も忘れてしまうぐらい、『彼女』を人として扱っていた。
桜を、人間として扱ってしまっていた。
だから当然、『人』が四つ這いの姿勢で蠢いている姿に、本能的な恐怖を感じた。

そして、次の瞬間。

うつ伏せであった彼女が、全身を痙攣させるようにして仰向けになり。
打ち下ろしの姿勢のまま真下を向いていた神威と、超至近距離で濁った眼を合わせ。
赤黒く裂けた口を耳元まで大きく広げ、喉が鉤裂きにされているかの様な声で愉快そうにゲタゲタと狂い哂った。

恐怖。

生命の危機や幼馴染の喪失に怯えるのとは全く異なった次元の恐怖が、神威の心臓を握り潰した。
誰かの言葉で百万回も耳にした事のある『狂気』と云う単語が、全て稚拙な飾り言葉でしかなかった事を思い知らされた。
狂った瞳で見詰められるだけで、言い様のない不安が込み上げてくる。
相手が自分を認識していると云うただそれだけの事ですら、逃げ出したくなるような恐怖心が芽生えてしまう。
指先で触れる事すら全身全霊で拒みたくなるような、穢れの概念にも似た不気味な生理的嫌悪感だけが理性を超えて増幅し続ける。
現にこの国でも、昭和前期までは『気狂いは伝染する』と信じられていた。
人が狂うとは、それ程までに忌み嫌われるべき事態だった。
もしも神威が全く平常な精神のままに戦闘に突入し、数秒前の体勢に行き着き、鼻先数十センチの場所から狂い死にに至るほどの強烈な『それ』を叩き付けられていたならば――

人の心は、水面である。
凪の如くに穏やかであれば他者の心をよく映し、漣(さざなみ)が立てば他者の心も歪に揺らす、二面性を持った銀の水面である。
そして神威のココロはこの時、半ば以上が『鬼』に捕り憑かれていた。
他人どころか自分のココロすら見失いかけ、思考の介在しない破戒衝動にその身を委ねかけていた。
しかしその事が偶然にも功を奏し、『彼女』の狂気は神威の精神に投影される事なく、揺れる波間で千々に消え去っていった。
怪我の功名と言おうか、不幸中の幸いとでも言い表そうか。
只中に居る神威には認識できなかったが、それは『偶然』と云う言葉で片付けてしまうにはあまりにも出来過ぎていて、傍目には気味の悪いほど完成されたシナリオだった。
『想像以上に想像通り』
『まるで誰かに踊らされているよう』
戦闘直前に神威の抱いた違和感は、徐々にその輪郭を現しつつあった。